いやな臭いのリザヴェータ
『臭い』に関する江川卓訳と原卓也訳の違い
ポーランドに移住して間もない頃、誰に教えられなくても、ひとりでに理解した言葉の一つに、「śmierdzi (シュメルジィ)」がある。(原型はśmierdzieć)
英語で言うところの smelly(臭い)
皆が、臭いものを指す時に、眉間に皺を寄せ、あるいは顔半分を歪めて、「シュメ~ルジィ~」と言うので、辞書を引かなくても、生ゴミみたいに臭いものを「シュメルジィ」と言うんだなと理解した次第。
そして、『カラマーゾフの兄弟』を読み、「いやな臭いのリザヴェータ」から生まれた息子がスメルジャコフというのを知った時、妙に感動して、何度もその箇所で立ち止まった。
何日も風呂に入ってない人の汗臭さが、こちらまで臭ってきそうなシュメルジィ。
いやな臭いどころか、めちゃくちゃ臭かっただろうことは、想像に難くない。
名作カラマーゾフの兄弟の中でも、異常に際立っているのが、『いやな臭いのリザヴェータ』なのだ。
ちなみに、原卓也先生の訳文では、「リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」である。
それをわざわざ、「いやな臭いのリザヴェータ」と訳した江川先生のセンスがけっこう好きだ。
ちなみに、第二節の出だしも、江川訳と原卓也訳では随分違う。
実を言うと、この事件の裏には、かねがねグリゴーリィが抱いていたある不快な、けがらわしい疑惑を決定的に裏書きするような、ある特別の事情があって、それが彼にはげしいショックを与えたのだった。
このリザヴェータという娘はひどく背が低かった。『二アルシン(約140センチ)』とちょっぴりだったからねえ』とは、彼女の死後、町の信心深い老婆たちの多くがしんみりと述懐した言葉である。
二十歳を迎えた彼女の顔は、大ぶりで血色がよく、いかにも健康そうだったが、まぎれもない白痴の相を呈していた。
目つきはおだやかではあったが、妙にすわって、薄気味悪かった。
夏も冬も変わらず、素足に麻のシャツ一枚という姿で歩きまわっていた。
これには、グリゴーリィのかねていだいていた不快な、いまわしい疑惑を決定的なものにして、深い衝撃を与えた、ある特別な事情があった。
このリザヴェータ・スメルジャーシチャヤというのは、死後この町の信心深い老婆たちの多くが目をうるませて回想したとおり、『140センチそこそこ』しかない、非常に小柄な娘だった。
二十歳の娘らしい、健康そうな、幅の広い、血色のいい顔は、完全に白痴の顔だったし、眼差しは柔和でこそあったが、少しも動かず、不快だった。
一生の間、夏も冬も、粗末な麻の肌着一つに、はだしで通していた。
『カラマーゾフの兄弟』江川卓訳をお探しの方へ(原卓也訳との比較あり)でも書いているように、私がカラマーゾフの迷宮に迷い込んだのも、原卓也先生の、あまりにストレートな物言いに付いていけなくなったからです。
正直、原先生の訳文は、きつい・・。「少しも動かず、不快だった」とか;
あと、リザヴェータ・スメルジャーシチャヤを「いやな臭いのリザヴェータ」と訳したのは、江川先生のアイデアの勝利です。
ぱっとイメージが掴めるんですよね。
だから、ドストエフスキー苦手な人、カラマーゾフは敷居が高い人は、江川訳から入った方が分かりやすいんですよ。
聖痴愚(ユロージヴイ)とは何か
俗物・堅物・色物ぞろいのカラマーゾフの兄弟の中で、なぜ、『いやな臭いのリザヴェータ』が登場するのか。
それを解く鍵は、ひとえに『聖痴愚』という設定にある。
聖痴愚とは、江川氏の注釈によると、(466P)
新約コリント前書第四章十節に「われらは桐生とによりて愚かなる者なり(ユロード)」とあるのが典拠とされている。
六世紀ごろからビザンチン教会ではこの聖痴愚(ユロージヴイ)の存在が記録されているが、これがとくに数多く現れたのは中世露西亜(14-16世紀以降)であって、彼等は民衆の苦しみと悲嘆のいつわらざる表現者となることができた。時代が降ると、教会によっt恵美止められる「偽ユーロジィ」も排出し、奇矯の振舞で明日を集めようとするが、他方、いくぶん神がかった狂人や白痴をこの名で呼ぶようにもなった。
スメルジャコフの母親「いやな臭いのリザエーダ」もその一人で、女性の場合には語尾が「ユロージヴァヤ」と変化する
英語の綴りで『yurodivy』。
普通に考えれば、上記のような存在は、人々に忌み嫌われ、邪険にされようものだが、この町の人々はそうではなかった。
(両親をなくし、後ろ盾となる知事も去ってしまうと) 彼女は、町の信心深い人たちから、みなし子としていっそういつくしまれるようになった。事実、彼女は例外なくみなから愛されていたようで、男の子たちでさえ彼女をからかったり、いじめたりすることがなかった。この町の男の子たち、とりわけ学校の生徒たちときたら、手のつけられない腕白ぞろいだったのだが、見知らぬ家へ勝手に入って行っても、だれひとり彼女を追い出そうとする者はなく、それどころか、だれもがやさしくいたわって、小銭などを恵んでやるのだった。
ところで小銭をもらうと彼女はそれをすぐに教会や監獄へ持って行って、そこの喜捨箱に入れてしまうのだった。 <中略>
自分はといえば、黒パンと水以外には何も食べようとしなかった。
よく大きな店などに立ち寄って、坐りこむことがあり、手近に高価な品々や現金がころがっているのだが、店の主人のほうではいっこうに彼女に対して警戒の気持ちなど起さない。彼女の前にたとえ数千ルーブリの金を置き忘れたとしても、一カペイカだって持って行く気づかいのないことをよく知っていたからである。 (124P)
『人間』というと、ケチで、強欲で、愛情もお金も出し渋るところがあるが、一方で、義心や慈悲を持ち合わせ、何かの時にはびっくりするほど義援金が集まったりする。
「人間は近づきすぎると愛せない」という言葉にもあるように、自分の身内には冷たいが、自分と直接関わり合いのない存在には心が痛むものなのだろう。
いやな臭いのリザヴェータも、町の人々の同情を集めていた。
不思議な話だが、人間には、隣人を忌み嫌うと同時に、崇高な感情も持ち合わせているのだ。
ところで、慈愛と優しさの違いは何だろう。
優しさは、他人の痛みや苦しみに対する想像力の上に働くのに対し、慈愛は、無条件。相手が何ものであれ、人が人に対して、理屈抜きに寄せる憐憫の情と思う。
慈愛の方が、優しさより、いっそう深く、厳しいものではないだろうか。
この町の人々も、日々の暮らしを立てるのに精一杯だったろうに、リザヴェータには施し、邪険にすることはなかった。
恐らく、そんな人でさえ、自分の身内には容赦なかったりするのだが、自分の日常からかけ離れた存在であるリザヴェータに対しては憐れみを感じ、何かと面倒を見ていたのが人間の不思議であり、ある意味、利己的な一面でもあると思う。
一方、フョードルをはじめとする、飲んだくれの旦那衆は、無防備に寝そべるリザヴェータに対して、破廉恥な思いを抱く。
ふと、旦那衆の一行は、編垣のかたわらのいらくさや山ごぼうの茂みに眠っているリザヴェータに目をとめた。一杯機嫌の旦那衆はげらげら笑いながら彼女を取りかこんで、およそ猥褻きわまる冗談をきそいあった。
と、ひとりの若旦那が、口にするさえけがらわしいような、まったく突拍子もない質問をふいと思いついた。
「だれでもかまわないが、このけだものを女として扱えるやつはいないものかね。いま、この場かぎりでもいいんだが……」
一同は、いかにもけがわらしいといった思い入れで、それは不可能だと断定した。
ところが、たまたまこの一団にフョードルが居合わせ、さっそく前にしゃしゃり出ると、むろん女として扱える、いや、一種独特の微妙な味わいがあって、こたえられないくらいだ、云々、とやったのである。
とんだ、ゲテモノ食い、イカモノ食いであえる。
本当に冗談のつもりだったのだろうが、その後、リザヴェータが妊娠したから、さあ大変。
皆の嫌疑は一斉にフョードルに向けられ、フョードルもむきになって否定する。
そうこうするうち、リザヴェータは産み月を迎え、いよいよ陣痛が始まると、何を思ったか、フョードルの裏庭に姿を現し、グリゴーリィとマルファの助けを借りて、男の子を産み落としたのである。
この事について、江川氏は、『謎とき カラマーゾフの兄弟』で、次のように推測する。
イワンに言われるとおり、完全に「コニャックに飲まれてしまった」フョードルが、露骨きわまりない好色譚を語って聞かせるとき、リザヴェータのことは何もふれなかった点である。
「おれにとってはな、これまでの一生涯を考えても、まずい女というものはなかったもんだ……どんな女にも、ほかの女にはけっして見つからないような、えい畜生、すてきにおもしろいところがあるものなんだ。おれにとっちゃ醜女(ぶす)なんてものは存在しない。それが女でありさえすりゃ、それだけでも、ことの半分はつくされているんだ……<中略>」
話がここまでくれば、当然、いやな臭いのリザヴェーダを抱いたときの希有の体験が語られる順番のはずだが、フョードルはそのことをおくびにも出そうとしない。ということは、その稀有の体験そのものが存在しなかったことを示しているように思われる。だいいち、「白痴女」のリザヴェータでは、フョードルの手管をもってしても、反応はいまひとつであったに相違ない。
するとリザヴェータを妊娠させたのはいったいだれだろうか。「九月の暖かい夜」から「五月のかなり暖かい夜」までという基幹は、九月をごく初旬のことを仮定し、五月を木近くと仮定すれば、いくぶん早産のようだが、なんとか辻褄は合う。してみると犯人は、やはり同じ頃に町を徘徊して、三人に追いはぎを働いたという「ねじ釘のカルプ」以外にないように思えてくる。
ここで冗談めかした語源学を紹介しておくと、「カルプ」はギリシャ語の「カルポス」に由来しており、「果実」の意味である。「ねじ釘」は、言うまでもなく、らせん状の溝をもった釘である。だとすると、「ねじ釘のカルプ」、直訳すると「ねじ釘をもったカルプ」とは、らせん運動をする尾部をもった果実、すなわち「精子」のことではないか、と勘繰られるわけだ。
むろん、これは冗談だが、ドストエフスキーがそういう冗談をテキストに仕込んでおかなかった、という保証もない」
いや、本気で、そう考えておられませんか、江川先生・・(*^_^*)
しかし、これほど屈辱的な噂を立てられても、リザヴェータを追い立てるどころか、自分も一緒になって笑い話にしていたフョードルも、なかなかの大人物である。
それもまた哀れなリザヴェータに対する慈愛といえば慈愛だし、自分から遠く離れた存在には無条件の愛情を注ぐことができる点でも、人間のある側面を物語る、興味深いエピソードだ。
真相がどうあれ、リザヴェータは男性と交わり、男の子=スメルジャコフを産んだ。
いわば、彼の身体の中には、慈愛と卑俗という、人間の二つの側面が塗り込められており、それは終生、彼という人間を支配することになる。
人並み以上の知性をもちながら、自分の出生に対する屈折した思いが、殺人鬼というモンスターを生み出した。
町の人が、遠い存在のリザヴェータには優しく、身内にはあからさまだったように。
次の節で、ドミートリイが「ここでは悪魔と神が戦っている。で、その戦場は――人間の心なんだ」と言うように、リザヴェータに対する二つの相反する出来事が人間社会そのものと言えるのではないだろうか。