作家は裁判官になってはいけない ~相手が何ものであれ理解すること

カエルの王様と囚われの姫
記事について

創作の要はユニークなキャラクターです。人間として、どれだけ共感できるかで、作品の面白さが決まります。
善か悪かの二択ではなく、洞察と理解によって、作品に厚みが生まれます。
作家は裁判官になるべきではない理由について解説しています。

目次 🏃

作家は裁判官ではない

プロット VS キャラ立ち ~キャラとの一体化が説得力になる

一般に、『物語』と言うと、ストーリーを差しますが、読み手はストーリー以前に人間に惹かれるものです。

物語に厚みをもたせるのは、凝ったシナリオではなく、ユニークなキャラクターなんですね。

『ユニークなキャラクター』と言っても、「言動が面白い」とか「変な特技がある」みたいなギャグ漫画ではなく、人間的に非常に特異、かつリアリティのある存在です。

たとえば、ドストエフスキーの名作『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは殺人者ですし、江戸川乱歩の名作『人間椅子』の椅子職人も、今風に言えば、フェチの極みです。

しかし、どちらも、文学史に残るキャラクターとして語り継がれ、今なお多くの読者を魅了し続けています。

ラスコーリニコフは殺人者といえど、その動機は現代人にも当てはまるところがあるし、椅子職人の変態っぷりも、どこか人間的で、愛嬌さえ感じます。

それは作者が、彼らの人間としての弱さや異様さを全身で理解しているからです。

裁判官ではなく、同じ彼岸に立つ者として描いているから、ストーリーも感動的だし、椅子職人も『愛すべき変態』としての地位を確立しているんですね。

文学の役割は、人間を理解し、受け入れることです。

文学と自己啓発の違い ~詩を役立てる心とは 寺山修司『人生処方詩集』』にも書いているように、文学においては、殺人者も、娼婦も、変態も、同じ人間として命を与えられ、生き生きと輝きます。

それぞれの弱さ、愚かさ、醜さを正面から見詰め、断罪するのではなく、理解するから、読者も心を打たれ、共感するのです。

作家は裁判官ではありません。

社会的に断罪するなら、それはルポライターであり、新聞記者の仕事です。

作家は、人が忌諱するような部分にもスポットライトを当て、人間とは何か、社会はどうあるべきか、ということを読者に語りかけます。

作家だけは、この世の規範を超えて、悪の中にも一理を見出すことができます。

それは心をもった生き物の、どうしようもない「性(さが)」みたいなものです。

作家はそれを炙り出し、如実に描きます。

読む人によっては、納得いかないこともあるでしょう。

見たくない! と目を背ける人もあるかもしれません。

それでも、作家はトーチを照らして、病む人の心の深層へと降りて行きます。

誰も見ようとしないし、伝える術もないからです。

だから、作家が探求者となり、理解不能な心の闇にも一筋の光を照らす必要があるのです。

そうすれば、善と悪、二つの答えしか存在しない世界に、第三の眼差しが生まれ、理解の幅が広がります。

それまで裁くことしか知らなかった人にも新たな視点が与えら、他人の心の襞に分け入る想像力が育まれます。

その想像力を、世間では「思いやり」と言います。

世の中が裁判官だらけになれば、人間にとっての救いはなくなります。

文学は、人と人を繋ぐ橋渡しであり、人間をありのままに描くのが仕事です。

そこには善も悪もなく、ただ『人間』という生き物が存在するのみです。

いい作家とは、人間の理解者であり、誰よりも深く愛する人です。

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