ジュール医師の診察 ~大事なのはどう生きたいか

記事について

㉔ 第三の感染症が発生し、アドナは自らの運命に恐怖して気を失う。アドナを診察したジュール医師は心と体の性が一致してないことを示唆し、大事なのはどう生きたいかだと諭す。

目次 🏃

第三の感染症 ~妊婦の急変

二日後。

アドナは農業研究所のオフィスに顔を出すと、いつもの倍ほどデスクワークをこなし、研究開発ブースのスタッフにも多くの引き継ぎを行った。SOYMELIUSも順調に育っているのに、なぜ今頃、このような引き継ぎを行うのか、スタッフも怪訝な顔付きだったが、自身の宿命を悟った今、安穏とも構えておれない。エルメインが何を仕掛けてくるかは分からないが、人類社会の未来の為に、これだけは確実に残したい。

それに、セスからスティンとの一戦を聞き及んだ理由も大きい。一体、どんな言葉で説き伏せたのか、「いずれ向こうの方から連絡があると思います」とセスは励ました。今さら許してもらおうとは思わないが、彼が少しでも考えを変えて、良い方に向かってくれたら嬉しい。

午前中の業務が一段落すると、アドナは40階の総合病院を訪れた。セスに胸部のガーゼ交換をしてもらう為だ。マネキンみたいな胸元を見られるのは辛いが、必死に隠したところで誰が救われるわけでもない。スティンと同じで、いっそ何もかも打ち明けて、助けを求める方が、自分にとっても周りにとっても救いになるような気がする。

そうして主塔のメインエレベーターを降り、総合病院の一般受付に向かったところ、外来の奥が妙に騒がしい。複数のメディカルスタッフが救急カートを押して、ばたばたと処置室に駆け込み、廊下で順番待ちしている患者も不安な表情で顔を見合わせている。

もしや第三の患者が発生したのではないかと不安が胸をよぎった時、セスから電話がかかってきた。

「今度は妊婦です」とセスが言った。「今朝早く、『お腹が痛い』と産科外来に来られて、切迫早産ではなさそうだから、準備室で様子を見ていたのですが、半時間前、激しい便意を催して、トイレに駆け込んだら、血液の混じった下痢便が出たと。妊婦は流産と勘違いして、トイレの個室にパニックに陥り、今、処置室に運び込んで、ショック症状の応急手当をしているところです。命に別状はなさそうですが、先日より微熱が続いて、消化器官に異常があるのは本当です。もう少し落ち着いたら、病棟に移して、本格的に検査と治療を開始する予定です」

「妊婦も紅疹病疑い?」

「ジュール先生は別の感染症を疑っておられます。肝障害や脾腫を引き起こす、正体不明の方です」

「感染経路は?」

「夫の話では、140階から最下階にかけての外周水路の清掃を担当していたそうです」

「また『水』か」

「そうです。ともかく、後でゆっくり話しましょう。手が空いたら、僕の方から電話します」

こうなるとアドナもガーゼ交換どころではなく、妊婦の容態が気にかかる。もし妊婦があの少女のように悪化したら、お腹の子も絶命するのは必至だからだ。

その時、処置室の扉が大きく開き、妊婦の移動寝台が運び出された。妊婦は酸素マスクを付けているが、「赤ちゃんを助けて……お願い……」と泣き叫んでいる。一瞬、アドナと目が合い、アドナは胸を突かれたように壁に寄りかかった。

アドナの脳裏に再び『神の遺伝子』が浮かび、目のない少女や四肢の欠損した奇怪な姿がぐるぐる駆け巡った。

彼等も研究所の実験動物と同じだ。皮を剥がれ、内臓を取り出され、モノみたいに死んでいく。そして、自分も同じことをウサギやマウスにしなかったか。自分だけは罪を犯さなかったと言い切れるだろうか。

ジュール医師の診察室にて

ジュール医師の診察

今こそ、その血を償えと、無数の実験動物が闇の底で叫ぶ。

エルメインが彼のDNAに手を伸ばし、遺伝子を繋ぎかえて、玩具のように弄ぶ姿が瞼に浮かぶと、アドナは気を失い、ふと気が付くと、診察台に寝かされていた。傍らには診療用エプロンを着けたセスが居て、ワーキングデスクではジュール医師がカタカタと電子カルテを作成している。

慌てて身体を起こそうとすると、セスがそっと肩を押さえ、「もう少し横になっていた方がいいですよ」と彼の動きを制した。

胸元を探ると、ケーシー白衣のボタンが外され、ファスナーも全開になっている。呼吸音を聴くために大きく前開きにしたのだろう。

アドナが身をよじり、苦しそうに溜め息をつくと、ジュールが椅子から立ちあがり、「一時的な脳貧血だよ。バイタルサインに異常はないから、少し休めば気分も落ち着く」と説明した。

そろそろと胸元を探り、ガーゼの代わりに新しい大型絆創膏が貼られているのに気付くと、「出血などしていませんでしたか?」と不安そうに訊いた。

「いや、穿刺したところは大丈夫だよ。まだ軽く発赤しているが、炎症というほどではない。しかし、何の為に胸腺の生検など……これもエルメインの指示かね?」

「わたしには分かりません。でも、突然呼び出されて検査をされるのはいつものことです」

「呆れたものだ。患者に何の説明もなく生検とは。前時代なら訴訟ものだぞ」

ジュールは冗談ぽく言ったが、アドナは笑う気力もなく、「訳の分からないことばかりです……」と目を潤ませた。

「よかったら、話を聞くよ」

ジュールが促すと、セスも察したように診察用のエプロンを外し、「それじゃあ、僕は教室に戻ります。また後日、ゆっくり話しましょう」とすみやかに退室した。

セスが行ってしまうと、アドナは改めてジュール医師に向き直り、「三人目の感染者はどうですか?」と尋ねた。

「やれやれ。自分も具合が悪い時に、まだ他人の心配かね? セスが心配していたよ。そんなに気張らなくても、君の努力はみな理解していると。もっと気楽に生きればどうかね。君一人が世界を背負っているわけじゃないんだよ」

「だとしても、この問題に無関心でいることはできません。いずれ我々はここを出て行くことになる。その時、医薬品不足と感染症が最大の脅威になることは先生も御存知でしょう。今はそれぞれが自分の役割について考える時です」

「そんなこと意識しなくても、皆、存在するだけで、何かしら役に立っているものだよ。赤ん坊なんて、そこに寝ているだけで周りを幸せにしてるじゃないか。君は既に屋内農園で立派な仕事をしている。それには何の意味もないのかね?」

「しかし……」

「他人の為に命を懸けようなどと思ってはいけないよ。人が自分自身を慈しむことは、他人を愛するのと同じくらい尊いことだ。本当に人々を幸せにしたいと願うなら、まずは君自身が幸せにならないと」

「では、せめて何が起きているのか教えて下さい。わたしにも出来ることがあるかもしれません」

「やれやれ。君を堕落させるのは、エデンの蛇でも難しそうだ。問題と向き合うことで気力が湧くなら、それも一つの薬ではあるかな」

ジュールは前置きした上で、言葉を続けた。

第三の感染症 ~感染源は『水』?

「三人目の感染者は二十八歳の女性。妊娠中期で、これまでに目立った既往症はない。現在、二十四週目で、胎児の推定体重は約600グラム。平均値よりも大きめだが、胎外に取り出すのはかなりのリスクを伴う。あと二週間待てば、生存の可能性もぐっと高まるが、それまで母親の方が持つかどうか」

「かなり悪いのですか?」

「彼女の場合、けいれん性の腹痛と下痢・嘔吐、軽度の貧血と脾腫が主症状だ。しかし、他の感染症でも似たような症状は呈するからね。あの少女やプールバーの男性と同じかどうかは、もう少し様子を見ないと分からないが、気になるのは、妊婦健診で全く異常が認められなかったことだ。理由は二つある。一つは、軽度の貧血も妊娠特有の現象と見過ごされたこと。二つ目は、かなり以前から脾腫が生じていたが、妊娠による腹部不快感や悪阻に紛れて、まったく気付かなかったことだ。主治医の誤診とは言わないが、相手が妊婦となれば、どうしても意識は子宮内の胎児に集中する。超音波検査でも、特に主訴がなければ、わざわざ肝臓や脾臓まで調べたりしないだろう。わたしも簡単にデータに目を通しただけで、確かなことは言えないが、彼女もずいぶん以前に感染し、無症状キャリアのまま過ごしてきたのではないか」

「男性のT型螺旋菌と同じですね。一度寄生したら、体内にずっと潜んで、宿主が弱った時に一気に増殖する。そして、彼女も『水』に関係している」

「彼女は二十歳の時からボランティアで外周水路の清掃を請け負い、二十八歳で妊娠してからも、体力維持の為、週に三度は水路をデッキブラシで磨いたり、落ち葉を拾ったり、軽作業を続けてきたそうだ」

「一度、各用水について、メタゲノム解析を試みてはどうでしょう。広範な微生物コミュニティから未知の微生物を検出するには膨大な計算機資源を必要としますが、時間をかければ、遺伝子センターの設備でも対応できます。何ヶ月かかっても水質を徹底的に調べ、本当の意味で安全が確認できるまで、公共の水場も閉鎖すべきです」

「それも一手だな。だが、感染経路が『水』というのも一つの仮定であって、病理はおろか病原体さえ分からない。もし我々の見立てが完全に違っていたら、そうこうする間にもどんどん拡大していく。もし四人目の感染者が出たら――そして、その人が既往歴のない健常者であったら――あとは時間との闘いだよ。我々の手持ちのカードも限られている」

「感染者から血清を作ることはできませんか?」

「血清療法のことかね。確かに破傷風やジフテリア、エボラ出血熱等で抗血清製剤が作られた歴史はあるが、このケースにも通用するかどうか」

「でも、可能性はありますね」

「可能性はあったとしても、ヒトの血清を使って抗血清剤を作るのは、ヤギやウサギで実験するような訳にいかないよ」

アドナはしばし口を閉ざしていたが、妊婦の必死の眼差しを思い浮かべると、「神の遺伝子というものがあるそうです……」と切り出した。

アドナの苦悩 ~鏡の中の女の子

「神の遺伝子だって?」

ジュール医師が驚いたように聞き返すと、アドナは自分がエルメインのゲノム編集によって生を受けたこと、多くの仲間が実験用シャーレや代理母の胎内で失われたこと、彼は生き延びたが、生まれた時から性器が存在しないことを、ぽつりぽつりと口にした。

ジュールはじっと彼の話に耳を傾けていたが、

「恐ろしいことだ。――実に恐ろしい。まだヒトの遺伝子の全てが解明されたわけでもないのに、受精卵のヒトゲノムを一からデザインするとは……」

と怒りに身を震わせた。

「先生。わたしは大丈夫ですか?」

「今ここで精密検査はできないが、触診や聴診である程度のことは分かる。臓器のしこり、リンパ節の腫れ、脈拍の乱れや下肢のむくみ。呪術と馬鹿にする者もあるが、医学の基本中の基本じゃないか。目の前で呼吸困難で苦しむ患者に、断層撮影の準備が整うまで待てというのかね。動脈に触れれば、少なくとも脈拍の異常は分かるし、採血などしなくても、目に見えて分かる異常もある」

アドナがそろそろとケーシー白衣の裾をたくし上げると、「上は脱いだ方がいい。君が嫌でなければ」とジュールが促した。

アドナは上半身を起こすと、恥に震えるような思いで上着とノースリーブのアンダーシャツを取った。

マネキンみたいな無乳頭の胸板を目にすると、微かにジュールの表情が動いたが、「それじゃあ、眼瞼の色から診てみようね」と声をかけると、アドナの両頬に手を伸ばし、軽く下の瞼を開いた。

「眼瞼の貧血はないし、黄疸も見られない。健康な人の眼そのものだよ」

それから首筋のリンパ節、肋骨の打診、呼吸音の聴診。

次は寝台に横になって、みぞおちの触診、右膊部から左下腹部にかけての触診――。

熟練の医師らしい、温かな手で診察されるうち、アドナの脳裏に診察室での忌まわしい出来事が浮かんだ。

あれは十二歳の誕生日。

ゲルダ先生の留守中、ちょっとした出来心でワードローブを覗くと、色とりどりのドレスやスカートに目を奪われた。試しに一着、花柄のワンピースを胸に当ててみると、春の妖精みたいに愛らしい女の子が鏡に映っている。それこそ本当の自分のように感じ、次から次に試してみると、不思議なほど心と身体にフィットする。

その後、衣装を取っ替えひっかえ、時の経つのも忘れてファッションショーを楽しんでいると、思いのほか早くゲルダ先生が帰宅し、ドレッサーの前で口紅を引く彼の姿に呆然とした。だが、ゲルダ先生はきつく叱ることもなく、黙って彼の身体を抱きしめてくれた。

ところが、その話は矢よりも早くエルメインに伝わり、翌日、エルメインの診察室に呼び出された。それも通常の診察室ではなく、婦人用の診察台がある部屋だ。

エルメインは彼に衣類を脱ぎ、診察台に上がるよう指示すると、彼の両足を大きく広げて、足台パッドに固定した。それから胸や太腿を撫で回し、それこそ会陰に鼻先が触れそうなほど股間に顔を近づけ、直腸に指を挿入したり、恥骨の上をこりこり揉んだり、尿道口を指先で押し広げたり。それは診察というより、ただの性癖としか思えず、あまりの恥辱にたまりかねて「やめろ!」と叫んだら、「やっぱり男なのか」とエルメインは素っ頓狂な返事をし、ようやく彼を診察台から解放した。

だが、その後も、「自慰をしたことがあるか」「女性の裸に興味はないのか」等々、思い出すのも穢らわしい質問を浴びせ、挙げ句に彼を精神科医に診せようとしたので、彼は診察を拒否して、何日も自室に閉じこもった。

心配したゲルダ先生が可愛いベルベットのワンピースをプレゼントしてくれたが、彼はそれをハサミで切り刻むと、もう二度と女の子の服に憧れたりしないと心の底から誓った。

それでもあの日、鏡の中に見た女の子の姿が忘れられない。

さくらんぼの唇に、薔薇のような頬をして、幸せそうに笑っていた――。

肉体と心の性 ~アドナの苦悩と恋煩い

一通り診察が終わると、アドナは着衣を整え、ワーキングデスクの前でジュールと向かい合った。

ジュールはかたかたとキーボードを打ちながら、

「一通り診察してみたが、内臓にもどこにも異常は見られない。脈拍や血圧も正常だし、今のところ大きな問題はなさそうだよ」

とやさしい口調で言った。

「そうですか……」

「エルメインがどんなゲノム編集を施したのかは知らないが、君は立派な大人だし、一人の市民として生きていく権利もある。恐らく、君のもっとも大事な部分は身体の奥深くに潜んでいるのだろう。上手く発現しなかっただけで、適切なホルモン療法を施せば快方に向かう可能性はあるし、形成手術をすれば、見た目と自我を近づけることはできる。だが一番肝腎なのは、君がどう生きたいかだよ。それはホルモン療法や形成手術以前の問題だ」

「先生……」

「セスも心配していたよ。君に必要なのは仕事ではなく、心と身体のケアだと。十代二十代は若さで誤魔化せても、四十にもなれば体力も落ちるし、外見も変わる。まして君に親きょうだいは無く、エルメインの寵愛もいつまで続くか分からない。いつか孤独と寂寥に苛まれるぐらいなら、今のうちにしっかり問題と向き合い、自分を大切にした方がいい。君の若さなら叶う夢もたくさんあるはずだ」

「他人に『気持ち悪い』と言われても、ですか?」

「そんな意地の悪いことを言う人があるのかね」

ジュールが目を剥くと、アドナは最下階で出会ったハスラーのことを話し、あれからずっと心が苦しいのだと打ち明けた。

「これまで男でもなく、女でもなく、性を超越するようにして生きてきました。だけど、彼に出会ってから、何もかもが虚しく感じられ、仕事をしていても、食事をしていても、手が止まってしまいます。自分がとても空疎なものに思えて、何の為に生きているのか、分からなくなるんです。わたしにはやり甲斐のある仕事もあり、職場の信任も厚いです。だけど、日に日に膨らむ子実とは裏腹に、わたし自身は盛りを過ぎた花柄みたいに萎れてしまう。頑張ろう、忘れようとすればするほど胸が苦しくなって、大豆のことも、農園も、どうでもいいような気持ちにすらなります。――ねえ、先生。心だけでは駄目なんですか? 男同士では、優しさや思いやりなど、何の意味もないのでしょうか? もう男として生きていく自信もなくなりました。毎朝、鏡で自分の姿を見る度に、悲しくて、淋しくて、いっそ死んでしまいたいぐらいです……」

ジュールはふむふむとアドナの告白に耳を傾けていたが、静かにペンを置くと、「それは重症だな」と呟いた。

「人類がかかる最も深刻にして厄介な病だ。治療法もなければワクチンもない。現代の医学ではどうすることもできない熱病の一種だよ」

「先生、それは何という病気ですか? 隠さずに教えて下さい!!」

「恋煩いだよ」

アドナがどーんと椅子から転げ落ちそうになると、ジュールは「ははは」と明るく笑った。

「好きなら好きでいいじゃないか。若い人が恋をして、その人と一緒に生きたいと願う。それこそ社会にとって最大の希望だよ」

「でも、彼は同性で、何の発展もないんですよ? 男同士で恋をして、どんな希望があるというんです?」

「《スネーク》は男同士で恋をしてるよ。今日も知り合いの男性が見舞いに来てた。それはそれで幸せそうだがね」

「……」

身体を心の性に合わせて

「では、逆に聞くが、君が女性ではないと否定する根拠は何だね? 誰かにそう言われた? それとも、自分は絶対にそうではないと言い切れる何かがあるのかね」

「男性として生きるのに、根拠が必要なんですか?」

「だから、そう考えること自体に無理があるんだよ。わたしは男性だが、朝目覚める度に、『よし、今日も男として生きるぞ』なんて自分に言い聞かせたりしないよ。なぜって、自分が男性なのは紛れもない事実だからだ。だが、君は『男として生きる』と自分に言い聞かせなければ男になれないのだろう。それは演技の人生だよ」

「でも、わたしは女性ではありません。女性になりたいと思ったこともない。男性の方が幸せなんです。彼に対しても、いい男友達でいたい。この気持ちは友情です」

「君の言い分はもっともだ。男同士の友情に失恋は存在しないからね」

アドナははっと胸をつかれ、決まり悪そうに俯いた。

ジュールはそんなアドナの顔を優しく見つめ、

「自分の心身の問題と恋の行方をごっちゃにしてはいけないよ。友達でいたいから男でいる、彼が望むなら女になる、そういう問題ではないだろう?」

「じゃあ、どうすればいいんです?」

「相手の人柄にもよりけりだが、まずは自分に正直になることだ。自分で自分を偽りながら、どうして他人と信頼関係が築けるかね? 舞台の演技がどれほど美しくても、人が恋するのは素顔の方だ。どうせ愛されるなら、本当の自分の方がいいだろう? まずは自分を知らないと。恋も、治療も、それからだよ」

アドナの目に涙が浮かんだ。

「長い間、自分を抑圧してきたのだろう。今度のことはショックだろうが、長い目で見れば、より大きな幸せを掴むチャンスかもしれないよ。この際、何としても彼の愛を得ようとする気持ちは忘れなさい。それよりも、自分がどう生きたいか、その一点に気持ちを集中することだ。今は彼に夢中だが、いざ付き合ってみたら、人の痛みも苦しみも、まるで理解しない子供みたいな男だと分かるかもしれない。そんな男の為に一世一代の形成手術に踏み切ったものの、一緒に居ても何の幸福も感じないようでは本末転倒だろう。それよりは自分自身を知って、この先、どう生きたいかをしっかりイメージすることだ。その過程で男性ともじっくり話し合い、愛が芽生えれば万々歳。そうでなければ諦める。だとしても、君が魅力的な人なら、次から次に求愛者が現れるのではないかな」

「みなに気持ち悪いと思われませんか?」

「どう心を尽くしても、言う人は言うさ。だが、君の願いは大勢にちやほやされることではなく、一人に深く愛されることだろう。周りが君をどう思うか、わたしにも分からないが、少なくともこれだけは言える。セスとわたしは君の味方だし、他の医療者に聞いても、きっと同じことを言うだろう。君が心の底から助けを求めれば、手を差し伸べてくれる人はそこかしこにいるはずだ」

ジュールがペーパーを差し出すと、アドナは子供みたいに洟をかんだ。

「遺伝子治療も、ホルモン療法も、本来、君のような人を手助けする為に開発されたものだ。だが、一部の虚栄心が本質を歪め、過った形で世間に伝わってしまった。今、手元にある医薬品や医療器具も限られているが、君が本当にそれを望むなら、全力を尽くすよ」

ジュールが力強く励ますと、アドナは礼を言って席を立った。診察室を出る頃には、雲間に一条の光が差すように感じ、なぜこの人が『診察室のキリスト』『神の手(ゴツドハンド)』と慕われるのか、分かるような気がした。

<<前のエピソード次のエピソード >>

Notes of Life

最初から日の当たる場所で歩き始める人はいない。 皆に理解されながら物事を始める人も。 始める時は、いつも一人。 考えるのも、一人。 行うのも、一人。 だからこそ達成の悦びもひとしおなのです。

この記事を書いた人

MOKOのアバター MOKO 著者

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚のSF小説を手がけています。看護師として医療機関に勤務後、東欧に移住。石田朋子。
amazon著者ページ https://amzn.to/3btlNeX

TOP
目次 🏃
閉じる