アドナとスティンの語らい
生きている世界は違っても、君を助けたい

その夜、アドナは再び最下階に向かった。

フロアの様子は夕べと同じだが、自ずと早足になるのは、会いたい人がそこに居るからだろうか。

夕べとは異なるルートを辿り、看板が立てかけられたバルの前まで来ると、ほっと一息ついた。

おすすめメニューも夕べと同じ。

【ビーガンパテと揚げたジャガイモ。チェリートマトのサラダ】

ひょっとして、毎日そうなのか?

店内に入り、そっとアーチ型ドアを開くと、今夜は閑散として、ピンボールの効果音だけが鳴り響いている。ゲームテーブルで七並べに興じる高齢男性のグループの脇を通り抜け、L字型ホールの奥を覗くと、スティンともう二人、四十過ぎの男性がのんびり玉突きを楽しんでいた。

一人は笑いながら相手のミスショットをおちょくり、もう一人は「もう一回、もう一回」とキューを構えながら、やり直しを請うている。スティンはカウンターテーブルに軽くもたれながら、二人のやり取りを温かい眼差しで見つめていた。

結局、おまけのショットも仕損じ、「お前の番だぞ」と一人がスティンに促すと、スティンはサイドレールに並んだ二つの的球を立て続けにバンクショットでポケットし、あっさりゲームを終えた。

「お前、もうちょっと手加減しろよ、カットボール*8だぜ」

一人が鼻の穴を膨らませると、もう一人も天井を仰ぎ、「てんで勝負にならねえ」と嘆いた。

スティンが「もう一回、プレーする?」と尋ねると、彼等は揃って首を振り、「それより、例のブレイクショットを見せろよ」とリクエストした。スティンは「今日は不調なんだ」と自嘲しながらも、菱形のラックに九つの的球を並べると、ワンショットでスーパートリックを決めた。白い手球に弾かれた九つの的球は、打ち上げ花火のように四方八方に広がり、四隅のコーナーポケットとサイドポケットに次々に吸い込まれていった。

男性二人が口笛を鳴らすと、スティンも顔を上げ、間仕切り壁の向こうから見守るアドナに目を留めた。

「やあ、ウサギちゃん」

「お邪魔だった?」

「そんなことはない」

スティンは菱形のラックに九つの的球を並べると、再びキューを構え、神の軌跡を描くように手球を撞いた。今度はわざと四つの的球をビリヤードグリーンに残し、白い手球をアーチのように転がすブーメランマッセ。その次は、一度のショットで二つの的球を立て続けにポケットするキャノンショット。最後は鋭いバンクショットで決めると、アドナもうっとりと彼の手元を見つめた。

二人の男性もすっかり堪能したように自前のキューをバッグに直すと、「俺たちは帰るよ。またな、スティン」とチップ代わりの食券をカウンターテーブルに置き、足早に立ち去った。

スティンは夕べと同じように食券をジーンズの後ろポケットにねじ込むと、「夕べは二度も失礼した」と謝った。

「『君は男じゃないだろ』と言ったけど、れっきとした男性だった。農業研究所のオフィシャルサイトを見たよ。君のプロフィールや論文も。正真正銘の男性なんだな」

「男だったら、どうだっていうのさ」

「女だったら、食事に誘おうと思ってた」

「……!」

「俺、男勝りな女の子が精一杯突っ張らかしてるのが好きなんだ。ペチャパイの筋肉質でもいいかと思ってた。でも、れっきとした男性だった。非常に残念だ」

「男性だったら、一緒に食事しないわけ?!」

「男同士で飯を食っても、面白くも何ともないだろう。男がキャンドルディナーに誘うのは、その先を期待するからだ。でも、君が相手じゃ、何の発展もない。――なんだよ、その顔。俺、君を傷つけるようなことを言ったか?」

「傷つくさ。わたしと話しても、何の発展もないと言いたいんだろう?」

「じゃあ、君は俺とハッテンしたいのか?」

「当たり前じゃないか。君とはいろいろ話したいことがある。下階のこと、女の子のこと、社会の展望とか、いろいろ」

「ああ、その発展ね。それなら俺も大歓迎だよ。よかったら、一緒にシードルでも飲まないか。今夜は俺がご馳走するよ」

「じゃあ、シードルではなく、クワスを」

アドナが小さく答えると、スティンは自らダイニングホールに赴き、タンブラーグラスにクワスを二杯持って来た。二人はカウンターテーブルに腰をかけると、軽くグラスの縁をかち合わせ、ほろ苦いクワスを味わった。

「それで、今夜は何の用? こんな時間も食糧調査か。君も仕事熱心だな」

スティンがアドナのケーシーを揶揄するように言うと、

「女の子のことで報告を……」

アドナは苦しそうに切り出した。

「どうせろくな治療もせずに、合成ガスをかがせて安楽死させたんだろう。ヤハウェ神は男(アダム)の鼻に生命の息を吹きこんだらしいが、ここじゃ、命を奪う為に合成ガスをかがせる。それで遺骸はどうしたんだ。ダスターシュートからポイ、か?」

「あの……」

「まあ、仕方ない。ここじゃ火葬も土葬もできないからな。むしろ遺体を切り刻んで、畑の肥料にする方がオカルトだ。まだ人形みたいに遺体袋に詰められて、ダスターシュートから投棄された方がましだろうよ」

「そういう言い方は止めろよ。君の友達だろう」

「俺の口が悪いのは生まれつきだ。それが嫌なら話さなければいい」

「屁理屈を言うなよ。君はその場を繕う為に、心にもないことを平気で言う。夕べも、今日も、本音は別にあるくせに、他人に悟らせまいとしてる。それが君の処世術にしても、言っていいことと悪いことがあるよ」

「今度は何だ。精神分析か」

「本気で心配するからだよ。今度のことで保健所は女の子の身辺調査を進めている。ヒトを介して未知の感染症が広がる恐れがあるからだ。あの母娘と知り合いなら、君もいつか調査の対象になる。もし組織的に違法行為に手を染めているなら、これを機会に止めた方がいい。いつ、どんな理由で逮捕されるか分からない」

「そりゃあ、有り難い話だな。拘置所に入れば三食昼寝付きだ。外周水路の排水口に手を突っ込んで、ぬめりを取る必要もなければ、公衆トイレで他人の糞尿の後始末をすることもない。下階で汚物処理を請け負っている連中は、みな諸手を挙げて万歳するぜ」

「スティン。どうか茶化さずに聞いてくれ。君には想像しがたいだろうが、ここは民主主義であって民主主義じゃない。VIPフロアには得体の知れない住人が何十人と居て、下階の住人には想像もつかないような暮らしをしている。栄耀栄華の為なら、他人の命を奪うことも厭わないような人達だ。エルメインでさえ彼等の傀儡に過ぎない。そんな人達に目を付けられたら、君もどんな酷い仕打ちをされるか分からないよ」

「こいつは驚いた! 衣食住の保証された楽園みたいな社会に、そんな裏の顔があったとはね。それで君もVIPの囲い者なのか? 普段は男のなりで農業に従事しているが、VIPフロアに戻れば金銀財宝を身に付けて、酒池肉林の毎日だ。ここに来るのも、俺を籠絡して、下階の秘密を探ろうという腹だろう。だとしたら、とんだエデンの蛇だな」

「スティン!」

「あれこれ心配してくれるのは嬉しいが、今のところ生活には困ってないし、悩みというほどのものもない。のんびり下町のハスラー人生を楽しんでるよ。ここに来れば、誰かしら声をかけてくれるしな」

「嘘ばっかり。夕べの君は真剣だった。のんびり生きている人間の顔付きじゃない」

「俺はプレイヤーだぞ! 勝ってナンボの勝負師だ。元チャンピオンだろうが、小学生だろうが、全力で叩き潰すのが当たり前だろう。ここ一番の時に、にやにやしながらキューを構える馬鹿がどこにいる?」

「それほど人生を懸けているなら、何故、こんな所でこそこそ賭け事なんかしてる? 堂々と大会に出て、チャンピオンカップを手にすればいい。そして、それが君の本当の望みだろう? こんな所で元チャンピオンを負かしたところで、一瞬、自尊心が満たされるだけ、誰に評価されることもない。わたしには君が下町のハスラー人生で満足しているようには到底思えない。そして、それを叶えるだけの実力もある。なぜなんだ、スティン? 今だって、君の顔付きは真剣そのものだ。へらへらしながら日常をやり過ごしている人間の表情じゃない」

「君もよくよくお節介だな。他人の内面に踏み込むのがそんなに楽しいか? たとえ君の分析通りとしても、現実は何一つ変わらない。他人の心理をあれこれ分析して、悦に入りたいだけなら、俺に構うのは止めてくれ」

「君の身の上を心配するからだよ。今のままでは、いつか嫌疑をかけられて、刑務所に繋がれる。たかが食券と思っているかもしれないが、執政府は法を犯した者には容赦ない。重い軽いの問題ではなく、布令に背くこと自体が罪なんだ。まして君のように何でも茶化して、わざと他人の神経を逆撫でするような人間は、嫌というほど締め上げられて、家族や友人にまで嫌疑が及ぶ。自分から憎しみの種を蒔いてどうするんだ。ただの軽犯罪も茨の道になるよ」

「俺には俺の事情がある。俺が選んでそうしているんだから、余計な節介はするな」

「でも、悔しくないのかい?」

「なあ、夕べ出会ったばかりで、なぜ、そうまで俺の人生に踏み込もうとする? それも食糧調査のうちか? それとも他に理由があるのか?」

「それは多分……君のプレーに心惹かれたからだよ」

アドナは口ごもるように答えた。

「わたしも時々、大会の中継を目にするが、君ほど的確にコースを読み、手球をコントロールできるプレイヤーは他にない。まるで一瞬で無数の軌跡を描くコンピュータみたい。その中から世界で唯一、勝利に導く神の方程式を導きだし、超絶技巧で勝利する。君のプレーを見ていると、まるでビリヤードグリーンが数学の方眼紙みたいだ。思うに、君は恐ろしく頭がいいし、ビリヤード以外にもいろんな物事に長けている。推算、計測、分析、構築。もしかして趣味で物理学の未解決問題でも解いている? 超対称性とか、宇宙のインフレーションとか。そんな雰囲気だ」

「それは過大評価というものだ。俺は寝て食うだけの穀潰しだし、取り柄といえばビリヤードだけ。本当にそんな才能があるなら、今頃、役所で偉そうにふんぞりかえってる」

「嘘ばっかり。寝て食うだけの穀潰しが、どうしてすらすらとセントラルドグマについて答えたり、農業通信の隅々まで目を通したりするんだ? 食糧管理委員会のメンバーでも、『エデンの庭師』のコラムまでいちいち目を通したりしない。まして空で引用するなど、日頃、君が高い関心をもって社会問題と向き合っている証しだろう。こんな風に言ったら悪いけど、さっき君と一緒にプレーしてた人たち、とてもセントラルドグマや農業通信に通じてるようには見えないよ」

「だったら、どうだと言うんだ。セントラルドグマが人生で知るべき全てなのか? 君はずいぶん狭い世間に生きてるんだな。確かにあの人たちはセントラルドグマに興味もなければ、農業通信など読みもしないだろう。だが、ショットのやり直しをお願いしていた人は、体調の悪い知人に代わって何度も公衆トイレの清掃を引き受けていたし、もう一人は腕のいい調理師だ。公共食堂でも人一倍誠実で、俺も何度か夕食をご馳走になった。自分がセントラルドグマを理解しているからといって、あの人たちより上等だの下等だの考えたこともないよ。そんなことを忠告しに来るのなら、ここには二度と来ない方がいい。そんな忠告を聞かされても誰も喜ばないし、かえって自分が惨めに感じるだけだ。君はVIPフロアのレストランでグリルチキンを食べるのが似合ってる。物見遊山で下階の暮らしを覗きに来なくても、自分にふさわしい場所で人生を楽しめばいい」

「ごめん……」とアドナは目を伏せた。

「わたしも最下階まで降りたのは夕べが初めてなんだ。いろいろ事情があって、学業を終えるまで自由に外を出歩くことも叶わなかった。つい最近のことなんだよ。最高評議会で発言したり、食糧管理委員会で活動できるようになったのは。そして夕べ、初めて最下階に降りて、カップルや家族連れが楽しそうに食事しているのを目にして、とても幸せそうに感じた。それまで、わたしは下階の住人など見たこともなかったし、狭い家屋で不味いものを食べているというイメージしかなかったからだ。でも、実際には、VIPフロアの住人より生き生きして、人生を楽しんでいるように感じる。人間にとって本当の幸福は何かと問われたら、一緒に食事をする人が居ることだと思うくらいに。君もどんな事情があるのか知らないが、こそこそ賭け事をしなくても、毎日お腹いっぱい食べて、笑顔で過ごせる暮らしをして欲しい。ビリヤード大会に出られない理由も生まれ育ちのせいなら、わたしが手助けするよ。市民課にも知り合いはいるし、食糧管理委員のメンバーも良心的だ」

スティンはじっと彼の言い分に耳を傾けていたが、

「なあ、ウサギちゃん。人間なんて、幸か不幸か、簡単にカテゴライズできるものじゃないだろう。惨めな日もあれば、今日みたいに隣人に喜んでもらえる時もある。そりゃあ、俺の生まれついた場所は最下階で、ビリヤード大会に名乗りも上げられない底辺だけど、君に同情される覚えはないよ。それは他の住人も同じだろう。一見、君の言葉は優しいが、ある人にとっては屈辱だ。君にそんなつもりはなくても、はるか高みから見下ろされているように感じる。だが仕方ない。俺と君では生きている世界が違うんだ。分かり合える方がどうかしてる」

アドナが決まり悪そうに俯くと、スティンは「それじゃあ、俺も君に一つ質問していいか?」とアドナの横顔を覗き込んだ。

「なぜ君は夕べも今日もケーシーを着てる? いくら職業意識の塊でも、ゲーム場にまでケーシーを著てくる奴はない。それとも華奢な体付きにコンプレックスでもあるのかな? 毎日、自家製プロテインを飲んでるとか。俺とハッテンしたいんだろ? だったら包み隠さず話せ」

スティンがふざけて彼の身体を抱き寄せると、アドナは「やめて!」とその手を払いのけ、真っ赤な顔でぶるぶる肩を震わせた。

「ほらね、君だって不幸を抱えている。ちょっと身体に触れられただけで、生娘みたいに大騒ぎだ。医者でなくても、君が心と身体に問題を抱えてることぐらい一目で分かる。そもそも君の声――こんなこと、口にしていいのかどうか分からないが――成人男性の声とは到底思えない。肌も女みたいにつるつるで、髭を剃ったこともなければ、ニキビができたこともない。それも個性なのかもしれないが、俺が君の身内なら、一も二もなく病院に連れて行くぞ」

「……」

「君にも人に言えない事情があるんだろう。でも、それを人に話したところで何の救いにもならないことも知っている。かといって毎日不幸というわけではなく、辛い時もあれば、仕事に生き甲斐を感じる時もある。そして、それが人生と受け止めて、精一杯生きてる。俺の人生に口出しをするなというのは、そういうことだ。精神分析したところで、今すぐ俺の生まれ育ちが変わるわけじゃない」

「だけど、スティン、君の置かれた境遇と、わたしの心身の問題はまったく別の話だよ。わたしの不幸は薬や手術で解決できるかもしれないが、君の場合は社会的に制裁される。万一、あの女の子との関係を疑われて、セキュリティ室に連行されたら、君の家族はもちろん、出生前まで遡って根掘り葉掘り聞かれるよ。わたしを相手に軽口ではぐらかすような訳にいかないから」

「それも分かった上でやっている。その上で言うんだ。俺の事情に首を突っ込むなと」

「それでも君を助けたい。目の前で人ひとりが破滅するかもしれないと分かって、黙って見ている人間がどこにいる? わたしはクラシファイドの資格もあるし、エルメインに直言できる立場にもある。たとえ君が違法行為を重ねてきたとしても、情状酌量の余地があれば減刑も可能だ。何の後ろ盾もないより、支援は一つでもあった方がいい。上階にも心ある人はいる。この現状を打破しようと、《隔壁》を開くことも検討しているほどだ」

「《隔壁》を?」

スティンの目が初めて大きく見開いた。

すると、アドナも大きく頷き、

「《隔壁》といっても核シェルターのような鋼鉄の殻じゃない。電子錠を操作すれば解除できる扉もあるし、鉄製の鍵を化学的に爆破することも可能だ。外の様子が全く分からないから、不用意に開けるわけにいかないだけで、誰もが手をこまねいて見ているだけじゃないんだよ」

「なるほど。上は上で権力闘争、現状に不満を抱く者が反撃のチャンスを窺っているわけだ。だが、外に出ようが、《天都》に留まろうが、支配層の顔ぶれが入れ替わるだけで、下階の者には何の意味もない。自由を得たところで、次は鍬や鋤を持たされて、社会の為に畑を耕せと命じられるだけだ。解放感に浮かれ騒ぐのも最初の三ヶ月だけ、その後にはいつもの現実が待っている。永久に固定された階層社会というやつさ」

「半分は君の言う通りかもしれない。でも、人は人によって癒やされるものだし、わたしも優しい友人や上役のおかげで社会の善性を信じることができる。うんざりする事もあるけど、社会によって生かされているのも本当だし、周りの人を幸せにするだけでも、人として生まれてきた甲斐があるよ。現に隣人とビリヤードを楽しむ君はとても素敵に見えたし、たとえ手加減したにせよ、隣人もとても楽しそうだった。そんな小さな社会もそっくり否定してしまうのかい? たとえ君が人並み以上に賢くて、勝負事にも長けているとしても、この社会で誰の助けもなしに生きていけるはずがない。あの母娘も何らかの形で君の暮らしを援助していたんだろう。だから、君も無関心でいられず、現場で指示を出していたわたしの後を追って来たんだ」

「……」

「わたしは君を責める気はないし、君の救世主になれるとも思わない。ただ不正に手を染めなくても、安心して暮らせるよう手助けしたいだけだ。だから、スティン、正直に話してくれないか。食券のことだけでも」

「君に話せばどうなるんだ?」

「わたしは食糧管理委員会の一員だし、他課とも交流がある。何かの手違いで必要な食券が得られないなら、データ管理者に問い合わせて一から登録し直すし、病気やその他の理由で通常の給食が摂取できないなら、医療者と相談して治療食を手配する。君が思うほど面倒な問題じゃないよ、スティン。賭け事に興じたり、虚偽申請する方がよほど重大だ」

スティンはじっと口をつぐんでいたが、「頭のおかしい爺さんがいる」と呟いた。

「それは認知症みたいなもの? あるいは血管系の病気とか?」

「さっき食べたばかりなのに、何も食べさせてもらえなかったと俺に当たったり、給食に毒を盛られたとわめいたりする。時々、言動がおかしいんだ。半年前から、ずっと」

「それで食券が余計に必要なのか」

「まあ、そんなところだ」

「それならお安い御用だよ。お爺さんを医師に診せて診断書をもらい、福祉支援の手続きをすればいい。お爺さんが過って食券を破棄しても、事情を説明すればすぐに再発行してもらえるし、栄養状態が悪ければ治療も受けられる。認知症も専門医に診せれば改善するかもしれないし、重症なら長期入院も可能だ。そうだ、この問題に詳しい医師を紹介するよ。遺伝子センターに特別に検査を依頼してもいい。お祖父さんの体調がよくなれば、君もきっと気の持ち方が変わる」

「有り難い話だな」

「誰にでも幸せになる権利はある。何所にどんな風に生まれつこうと、君だってこの社会の一員じゃないか」

だが、スティンは壁の一点を凝視したまま、何も答えない。

「じゃあ、いつか気が変わったら……わたしのことを信じる気になったら……」

「心には留めておく。だが、あまり期待はしないで欲しい。それから、もう一つ。大事な約束だ。ここで話す分には構わないが、俺のことをあれこれ詮索しないで欲しい。何所に誰と住んでいるのか、昼間は何をしているのか、決して悪事に手を染めているわけではないが、俺にとって君は政府寄りの人間だ。いつ事情が変わって面倒に巻き込まれるか分からない。時が来るまで、君の方からあれこれ詮索しないで欲しい」

「わたしは君を売ったりしないよ」

「そうかもしれない。だが約束して欲しい。これからも、ここで会って話したいなら」

「……分かった」

アドナが頷くと、スティンも軽く息をつき、

「それより、一緒にビリヤードをやらないか? 今なら誰も居ないし、ゆっくりプレーできる」

「わたしと……?」

「他に誰か居るか?」

「でも、一度も経験がないんだ」

「だったら教えてやるよ。ナインボールぐらい、すぐに覚えられる」

スティンは椅子から降りると、壁に立てかけられたスペアのキューをアドナに手渡した。

アドナがおずおず受け取ると、スティンはビリヤードグリーンに左手を突き、

「いいか。まずショットの基本となるブリッジを作る。中指の第二関節に親指を添えて、その親指の先に人差し指を付ける。こんな風に指でリングを作るんだ。そして、その中にキューを通す。他の指はしっかり広げてテーブルに置き、キューがぶれないように固定するんだ」

と手本を見せた。アドナもその隣に左手を置き、スティンのブリッジを真似てみる。

「そうじゃない、親指をテーブルにくっつけるんじゃなくて、中指に添えるんだよ。こんな風に……」

スティンの手がアドナの手に触れると、アドナはびくっと身を固くした。

「なんだよ。男に触られるのは気持ち悪いってか?」

「いや……こういうのに馴れてなくて……」

「俺だって慣れてないさ。人に教えるのは初めてだ」

「本当に……?」

「本当だよ」

「……じゃあ、続きを教えて。キューはどんな風に構えるんだ?」

「肘は軽く曲げて、振り子の要領で前後に動かす。次に手球をしっかり見て、真ん中を狙う。手球は決して気まぐれにコースを変えたりしない。どんな時も物理の法則に従う。だから、ショットを打つ前に動きをイメージするんだ。まずは真っ直ぐ撞いてみよう。自分とキューと手球を一つの線に描き、肘を直角に保ったまま、振り子の要領で真っ直ぐにキューを振り出す……」

言葉通り、アドナは真っ直ぐ腕を振り出したが、キューの先端は手球から大きく反れて、人生最初のショットは空振りに終わった。

「お見事……」

スティンが苦笑すると、アドナも肩をすぼめ、

「ビリヤードなんて、生まれて初めて。棒で突いて球を転がすぐらいに思ってたけど、見た目よりずいぶん難しいね」

と顔を赤らめた。

「俺も最初同じことを思ったよ。玉突きぐらい、三日で覚えると。ところが、キューの先端に全然かすりもしない。それでむきになって練習した。朝から晩まで一日も欠かさず。ほら、俺の気が変わらないうちに、もう一回。いいか、しっかり頭でイメージするんだ。そして、キューと手球と一体になる……」

アドナは深く息を吸い込むと、スティンの言葉通り、キューと手球と一体になるのをイメージし、静かに腕を振り出した。今度は手球の真ん中にキューの先端が当たり、手球は真っ直ぐ前方に転がった。だが、的球までは程遠い。

「いいぞ、その調子。的球に当てるには、球の軌跡をしっかりイメージするんだ。質量、方向、加速、全ては理論通りに動く」

呼吸を整え、スティンの視線に合わせて、キューを振り出すと、今度は手球がイメージ通りに転がり、的球の中央にヒットした。

アドナが「やった!」と満面を輝かせると、スティンも頬を緩め、「次も頑張れ」と励ました。

それから何度も基本のショットを練習し、確実に手球を転がせるようになると、アドナの表情も和らいだ。

肩を寄せ、息を弾ませながら、ようやくう九番の的球がポケットすると、「全部、落ちたね!」とアドナは顔をほころばせ、スティンも目を細めた。

「これから時々、練習に来ればいい。水曜日のこの時間なら、割と空いてる」

「君はいつ来るの?」

「君が連絡をくれたら、俺も都合する」

「連絡法は?」

「そうだな……店主に言付けて……」

スティンが秘密の暗号を口にしかけた時、突然、間仕切り壁の向こうからグラマラスな美女が現れた。ウェーブの効いた栗色の髪をワンレングスに流し、挑むような黒い瞳をして、スティンより随分年上に見える。顔立ちもレースクイーンのように華やかだが、寂れた旅館の女将さんみたいにツンツンして、恋人という雰囲気ではなさそうだ。

女性はアドナを一瞥すると、スティンに向かって、「仕事はどうしたの?」とトゲのある口調で言った。

「セックスするのが仕事かよ」

スティンが鼻先で笑うと、女性はかーっと頭に血を上らせ、

「いい加減にしてちょうだい! わたしは真剣に言ってるのよ! いつもいつも人の神経を逆撫ですることばかり! 最初にやらせろと床に頭を擦り付けるようにして懇願したのは、そっちでしょう」

アドナはどぎまぎしながら、二人の顔を交互に見つめていたが、女性が再び刺すような視線を寄越すと、アドナはビリヤード台にそっとキューを置き、「あの……わたしはもう行くよ。ビリヤード、教えてくれてありがとう」と胸が締め付けられるような思いでその場を後にした。

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About the author

MOKO

作家・文芸愛好家。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚の小説を手がけています。

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