あれから三週間。
これといった動きはなく、周りも平静だ。診療所のスタッフも、業務の合間に詰め所でぺちゃくちゃお喋りしているところを見ると、そこまで深刻な事態でもなさそうだ。
それにしても、アドナはどうしたのだろう。こんな時に虫のいい話だが、彼だけはスティンの身を案じて、警察や執政府に働きかけてくれるという期待がある。だが、いまだ何のアクションもないところを見ると、交渉に失敗したのか、あるいは脅されて身動きがとれないか。まさか、とうに殺害されたわけではあるまい?
スティンは寝返りを打つと、アドナが初めてゲーム場に訪れた時のことを思い返した。
あの夜も、今回も、素知らぬ振りで通り過ぎれば、もっと違った展開があっただろうに、あの眼差しのせいで手元も狂いっぱなしだ。いつから俺はこんなセンチメンタルな人間になったのだろう?
だが、こんな状況に陥っても、少しも後悔してない自分がいる。
不思議な話だが、こうなって初めて、自分の求めていたものが権利でもなく、自由でもなく、社会の居場所だったと痛感する。
アドナと出会わなければ、間抜けな泥棒みたいに捕まって、こんな平静とした気持ちにはなれなかっただろう。お節介と嫌われようと、全力で忠言し、お下げ髪の女の子みたいに慕ってくれたから、彼も自身を振り返り、バイオクリーンルームの秘密を突き止めることができたのだ。
(女の心をもつ男か……)と溜め息をつき、そろそろ寝ようとナイトランプに手を伸ばした時、突然、バタン! とドアが開き、誰かが床に転がり込んだ。驚いて上体を起こすと、相手は全裸で、エビのように背を丸めている。
てっきり診療所の患者と思い、「大丈夫ですか」と声をかけると、相手も恐る恐る顔を上げ、スティンと目が合った。
アドナだ。
しかも口の端から血を流し、頬も腫れ上がっている。
アドナも相手がスティンと分かると、慌てて両手で前を隠し、「見ないで……お願い、見ないで」と床にうずくまった。
「見てない! 何も見なかった。今、そっちに行くから、落ち着いて」
スティンが毛布を片手にベッドを降り、アドナに近寄ろうとすると、「駄目。こっちに来ないで」とアドナが涙声で遮った。
「感染したんだ。あの女の子と同じ病原体だ。君にうつしたくない」
「どういうこと?」
「感染者の血液を輸血した。エルメインに胸腺を渡したくなかったから。おかげで病原体が分かった。血漿と抗体の採取も……」
「ばか! 他人なんか放っておけばいいんだよ! 君以上に大切なものがあるか!」
「駄目だよ……君にうつる……」
だが、スティンは彼の身体を毛布で包むと、優しく背中を抱いた。
「うつるもんか。うつるわけがない。本当にそんな恐ろしい伝染病なら、とうに町中に病者がうろうろしてる。身体の弱い人に発症しやすいんだ。ハグしたぐらいでうつる病気じゃない」
アドナも躊躇いながらもスティンの肩にもたれると、
「とにかくベッドに行こう。顔も拭いて、着替えもしないと」
スティンはアドナの身体を支えて、ベッドに移動した。
ナイトランプの明かりの中で改めてアドナを見ると、顔だけでなく、首筋、肩、背中、あちこちに痣や擦り傷がある。
「その傷は一体どうしたんだ? これは感染じゃなくて、誰かに殴られたんだろう。エルメインの仕業か? それに肩と腰の絆創膏は何だ?」
「男性ホルモンのインプラントを埋められた。徐々に男性ホルモンが吸収されて、男の身体になる。だから、君とは……」
「だから何だよ! 男の身体になっても、君は君だろ! とにかく手当しないと」
スティンはシャワー室の温湯でタオルを絞ると、血の滲んだ口元や背中をきれいに拭ってやった。途中で毛布が滑り落ち、マネキンみたいな胸元や、有るべきものが無い股間が目に入ると、「君は本物の天使なんだな」と呟いた。
「ラファエロだったか、ミケランジェロだったか、君みたいな天使の絵を見たことがあるよ。受難の時に現れ、死をも乗り越える力を授けてくれる。さあ、これで綺麗になった。頬の腫れも、肩の擦り傷も、明日にはきっとよくなってるよ」
アドナが微かに顔をほころばせると、スティンは換えの患者衣を差し出し、「今夜はベッドでゆっくり休め。俺はそこの長椅子で寝るから」と促した。
アドナが患者衣を身につけ、ベッドに横になると、スティンはベッドサイドの丸椅子に腰掛け、「眠れそうか?」と訊いた。
アドナは部屋中を見回し、「ここは病室みたいで、病室じゃないね」と不思議そうに言った。
「どうやら当直室らしい。着替えもあるし、シャワー室もある。今すぐ俺たちをどうこうする気ではなさそうだ」
「でも、どうして……」
「俺にも分からない。ただ一つ確かなのは、連中は何かの機会を窺っているということだ」
「ガル爺さんは? 総合病院に入院していると聞いたけど」
「俺には一切知らされてない。だが無事だと思う。爺さんのPCを起動するには、爺さんの生体認証が必要だから。奴らに俺たちは殺せない。勝機はまだ十分にある」
「でも、どうしてパスカルの所に戻ったんだ? ベラが言ってたよ。君は別の作業用出入り口から外に出る手はずだったと」
「それもいずれ分かる。だから、君も決して諦めるな。勝負は先に諦めた方が負けだ。設計図が俺の手の中にある限り、君にも生き延びるチャンスはある」
アドナが頷くと、スティンも力付けるようにアドナの髪に触れた。
「だけど、不思議だな。会って間もないのに、君のことはずいぶん前から知っているような気がする。きょうだいでも親戚でもないのに」
「ゲノムの夢だよ」
「ゲノムの夢?」
「DNAが記憶してるんだ。自分たちが生きた二十億年の歳月を。わたしと君も、遠い昔、分子生物学的にお互いを補完する間柄だったのかもしれない。『補完分子進化』といって、DNA塩基配列やタンパク質アミノ酸配列において、二つ以上の突然変異が互いに補うことで新しい機能を獲得し、環境に適応する。わたしも君も、この世界を生き延びるには補完的な誰かが必要で、そんな誰かに出会ったら、互いのDNAが呼び合って、結合せずにいられなくなる。君はわたしの求める何かを、わたしは君に足りない何かを、それぞれに持っていて、出会った瞬間にDNAが認識したんだよ。肉体的に結ばれなくても、こうして触れ合い、心と心を通わせることで、生物として新たな機能を得る。現にわたしはこうして生きる意欲を得たし、君の社会に対する気持ちも変わり始めている。それこそ進化だよ。ヒトゲノムを操作して、老化を食い止めたり、どんなウイルスにも打ち克つ免疫機能を手に入れることが進化じゃない」
「進化などしなくても、俺は今の自分に満足してるし、誰かを犠牲にしてまで永遠の命を得たいとも思わない。辛い日々だったが、七十年間、誰一人として解けなかった設計図を復元し、元チャンピオンにも競り勝った。自分で自分を褒めてやりたいぐらいだよ」
「わたしも君のプレーが大好きだ。この世に生まれて、あれほど心がときめいたことはなかった。偶然とはいえ、あの場で世紀の対決を目にしたことは、自分史の中でも最大級の幸運だよ」
「何もかも決着がついたら、また一緒にビリヤードをしよう。君がバンクショットを習得したら、それも立派な進化だな」
アドナの目から涙がこぼれると、スティンも彼の手を握りしめ、
「生きよう。どれほど酷い目に遭っても、最後まで諦めるな。タワーの外にはきっと美しい野原が広がっている。南には仲間もいるだろう。そこで自由と権利を得たら、一緒に土を耕して、花や果物を育てよう」
アドナもスティンの手を握り返すと、「生きるよ。どんな時も決して諦めない」と約束した。
§
夜も更けて、スティンも長椅子に横になると、ほっと一息ついた。
明日は血生臭いことになるだろうが、不思議と気持ちは落ち着いている。勝っても、負けても、全力を尽くしたことに変わりないからだ。
しばらくすると、アドナが「スティン……」と甘い声で呼びかけた。スティンが「何だ?」といつもの口調で答えると、アドナはしばらく黙っていたが、「何でもない」と答えると、毛布を深く被って、寝返りを打った。
スティンも深くシーツを被ると、大きく溜め息をついた。
(明日には酷く殺されるかもしれないのに、何を妙な気分になってるんだ、俺は――)
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