スネークと紅疹病
第二の感染症

「先輩……先輩!」

セスの呼びかけに、アドナがはっと顔を上げると、ステビアシロップがシフォンケーキのプレートから溢れそうになっている。

慌ててシロップポットをテーブルに置くと、

「先輩、本当に大丈夫ですか? 先日から様子がおかしいですよ」

と今度はセスがアドナを気遣った。

だが、アドナは軽く頭を振ると、「いろいろあって、少し疲れてるだけ。何でもないんだ」とその場を取り繕った。

この三日間、瞼に浮かぶのはスティンのことばかり。仕事をしていても、ベッドに横になっても、彼の言葉の一つ一つ、一挙手一投足が思い出され、胸が苦しくなる。

そして、あの女性は何ものなのか。ずいぶん深い関係のようだが、年も離れているし、心から愛し合っている風でもない。

それに「セックスするのが仕事」とはどういう意味なのか。まさか『複雑な事情』とは情夫のことなのか。いや、それは有り得ない。どれほど落ちぶれても、自分の性と引き換えに暮らしを立てるような人には見えない。

だとしても、彼があの女性と肉体的に結ばれ、ずいぶん長い時間を一緒に過ごしてきたのは事実だ。その点、アドナはどれほど親しくなっても、それ以上発展することはない。知性や優しさなど、男女の結びつきの前には何の意味もないと思い知らされる。

親しいだけで十分なのに、この淋しさは何だろう。

突然、自分という人間が空疎なものに感じられてならない……。

そんなアドナの様子を気遣って、今日はセスがトロピカルパークのランチに誘ってくれた。

トロピカルパークは南翼の20階から27階にかけて作られた吹き抜けの屋内公園だ。高さ20メートルの火山と人工滝を中心に亜熱帯のようなグリーンが繁り、火山の周りにはアクリル樹脂の空中回廊や流水プールが張り巡らされている。見晴らしのよい場所にはカフェやレストラン、図書室やフィットネスクラブなどが入居し、市民の憩いの場となっている。

アドナのお気に入りは滝壺の側にあるカントリー風カフェだ。日中、ウッドデッキのオープンテラスから人工滝を見上げると、水しぶきが七色に輝いて見える。夜には南国のスコールを模した音と光のパフォーマンスが繰り広げられ、色とりどりのレーザー光線が空中回廊や流水プールに乱反射する様は、光のシャワーが降り注ぐ如くだ。

セスはアドナの為に見晴らしのいい席を予約し、ラムステーキとアジア風の野菜サラダ、デザートにはシフォンケーキにパパイアアイスクリームを添えたものをご馳走してくれた。ステーキは本物のラム肉だ。どうやって入手したのか、セスは何も言わないが、多分、保健所の副所長である父親のコネだろう。アドナもここ数年は、庶民の食卓に合わせて自分もビーガンパテを口にするようになり、鶏肉も年に数えるほどしか食べないが、やはり本物の獣肉は言葉にできないほど美味しい。ここ数日の心労で、どこか青ざめたような頬にたちまち赤みが差すと、セスは自分のラム肉を取り分け、「たくさん食べて、元気になって下さいね」と励ました。こういう気遣いはセスの方が格段に上手い。同窓生のガールフレンドと良好な関係を築いている理由も大きいだろう。

だが、美味しい肉料理を味わっても、「男同士で飯を食っても、何の発展もない」というスティンの言葉が思い出されると、せっかく上を向いた気持ちも切り花みたいにしおれてしまう。確かにセスと差し向かいで食事をしたところで、それ以上、何がどうなるわけでもない。

「ほら、先輩はまた上の空。ちっとも大丈夫じゃないですよ」

セスが苦笑すると、アドナもはっと顔を上げ、決まり悪そうに目を伏せた。

アドナはシロップでぺしゃんこになったシフォンケーキをフォークで崩すと、「医療面で新しい動きはあったかい?」といつもの先輩らしい口調で訊ねた。

「今日は難しい話はよしましょう。あれこれ抱え込んでも、かえって辛くなるだけですよ」

「そうかもしれない。でも、わたしは意外と戦闘型でね。不調の時は、むしろ難しい課題と向かい合った方が闘志が湧く。何か新事実があったなら、気兼ねなく教えて欲しい」

すると、セスも半ば呆れながらも、「実は夕べ、奇妙な病人が運ばれてきたんです」と声を潜めた。

「深夜、四十半ばの男性が四十度の高熱に見舞われ、友人に付き添われて救急外来を受診しました。前から少し風邪気味だったけど、夜遊びで体調がすぐれないのはいつものことだから、さほど気にも留めず、時々《コクーン》でリラックスしながら何とかやり過ごしていたそうです。ところが夕べになって突然発熱し、立って歩けないほどの悪寒戦慄に見舞われた為、友人に助けを求め、救急カートで運ばれてきました。一晩、解熱剤と点滴で様子を見て、今朝、少し落ち着きましたが、診察した医師が男性の外性器にしこりがあるのに気付き、医療データベースと照らし合わせたところ、紅疹病の疑いが濃厚だと」

「紅疹病だって?」

「そうです。少なくとも《天都》には存在しないと言われる性病です」

紅疹病は世界三大性病の一つだ。中世以前からその存在は知られており、抗生剤が大量生産される以前は、生きながらに肉の腐る死病と恐れられていた。病原菌に感染すると、数週間の潜伏期間を経て、病原菌の侵入経路となった口腔や陰部に膿疱が現れ、次いで、発熱、倦怠感、関節痛といった全身症状が出る。その際、皮膚に紅い点状の発疹を伴うことから『紅疹病』と呼ばれるようになった。さらに病気が進行すると、皮膚が破れ、骨や筋肉に腫瘤が生じ、ついには脳や脊髄など神経系が侵されて死に至る。幸い病原菌とされるT型螺旋菌はアオカビ由来の抗生剤に弱く、初期に適切な治療を施せば快方に向かうことから、近代では患者数も激減し、《隔壁》を締め切ってからは一例も報告されていない。なぜなら、入領時のスクリーニングで擬陽性の患者も含めて除外されているからだ。

「しかし、発病する人はなくても、健康保菌者は存在したかもしれません。体内にT型螺旋菌を保有しても発症しない人たちです」

セスは語気を強めた。

「いわゆる不顕性感染だね」

「そうです。体内に存在する細菌量が少量なら、自覚症状もなく、抗原抗体検査も陰性で、本人も医療関係者もまったく気付きません。あるいは初期症状を口内炎か湿疹ぐらいに考え、放置した人もあったでしょう。タワーに避難民が押し寄せた時も、医薬品不足で治療を中断し、定期検査も受けず、そのまま隣人と性的関係をもって、無思慮に感染を拡げてしまったケースもあると思います。そして、無症状保菌者は、入領時のスクリーニング検査にも引っ掛からず、そのまま《天都》に上がってしまった。そして、度重なる性交渉の連鎖により、夕べの男性患者まで感染が及んだのです」

「しかし、今頃になって顕在化するのも奇妙だな」

「そうでもないですよ。T型螺旋菌は潜伏期間の長い細菌です。発症しなければ、宿主の体内に潜んだまま何年も生息し、その間に性行為を通じて次の寄主に感染することもあります。一人の宿主から広がった感染が、十年二十年と経ってから免疫力の落ちた患者の体内で異常に増殖し、発症に至っても何の不思議もありません」

「男性はどんな人?」

「42階の住人です。100階のプールバーの常連で、毎晩のように通っているとか」

「プールバー……」

「界隈ではかなり名の知れた人物だそうです。筋金入りの好色漢で、自他とも認める同性愛者。派手に遊び回っているらしく、あだ名は《スネーク》とか」

「では、他にも保菌者が存在する可能性は高そうだね」

「そうですね。男性が最初で最後の一人とは思えません。T型螺旋菌は常に宿主を必要としますから、他にも保菌者は存在すると考えるのが妥当でしょう。ただ、この螺旋菌は保菌者と近くで話したり、身体に触れたりする程度では感染せず、粘膜と粘膜を擦り合わせるような濃厚接触が不可欠です。他に保菌者が存在するとすれば、男性の性的パートナーでしょうね」

「じゃあ、あの少女とは無関係だろうね」

「そこですよ、問題は。彼女の症状は断じて紅疹病ではありません。また死に至るほどの重症なら、一週間前の外来受診でそれと分かる病変が認められたはずです。それより気になるのは、少女と男性に共通する脾腫と肝機能障害です。女の子も昏睡状態で運ばれてきた時は、脾腫の増大が認められましたし、最後には紅茶色の尿が出て、血液検査でも肝細胞障害や胆汁系酵素の値も著しく上昇していました。一方、男性にも軽度の脾腫と肝機能障害が認められ、ジュール先生は女の子との共通性を疑っておられるのです」

「血液検査はどうなんだ? 確か、紅疹病の場合、二種類の抗体検査があったはず」

「脂質抗原をプローブとして用いる抗体検査法と、T型螺旋菌に特異的な抗体特異抗体検出法ですね。前者はカルジオリピンと呼ばれる物質を用いて、T型螺旋菌に破壊された組織の産生する『自己抗体反応』を調べる検査ですが、その他の自己抗体にも反応してしまう為、膠原病や肝障害、麻疹や風疹といった感染症でも陽性を呈することがあります。『生物学的偽陽性』と言われるものです。もう一方の抗体検査は、T型螺旋菌の存在を示唆することから確定診断の目安となりますが、こちらは感染後、血液中に十分な抗体が産生されてからでないと陽性にならない為、感染初期の段階ではあまり参考になりません。スネークの場合、脂質抗原の反応は陽性(プラス)で、特異抗体検出法は陰性(マイナス)であることから、紅疹病の可能性も考えられますが、現時点で確定診断を下すには不十分です。もしかしたら、ジュール先生の仰るように、未知の微生物による細胞攻撃が陽性反応として現れている可能性もありますから」

「となると、外性器のしこりも、単純ヘルペスやベーチェット病みたいなもの――という可能性もあるね」

「そうですね。外性器のしこりがどんどん悪化して、紅疹病とは違った経緯を辿るか、あるいは数ヶ月後に手足のバラ疹やリンパ節の腫脹といった典型的な紅疹病の病変を呈するか。もう少し様子を見ないと分かりません」

「T型螺旋菌の分離検出は? 光学顕微鏡で検鏡できないか? あるいはPCR法で同定も可能だろう?」

「それが大腸菌や黄色ブドウ球菌を分離培養するようにはいかないんですよ。宿主から引き離せば、数時間で死滅するような細菌ですし、いまだに試験管内での培養に成功した例はありません。たとえ潰瘍や粘膜病変から生検検体を採取したとしても、顕微鏡検査に適した塗抹標本(プレパラート)を作製するには熟練のスキルが必要です。DNAシーケンサーを使ったPCR法も、検体採取や保存の条件によっては偽陰性を呈することがありますし、特にT型螺旋菌は扱いが難しいですから、早期感染の段階で正確にターゲット遺伝子を同定することができるのか。ただでさえ初めての症例なのに、日頃、遺伝子センターに頼り切りで、病理検査用の標本作製や鏡検の訓練を受ける機会も激減している中、どこまで確定診断に近づけるかは疑問です。にもかかわらず、執政府は女の子の死とスネークの紅疹病を結びつけ、プールバーの摘発に乗り出そうとしているんですよ」

「摘発?」

「スネークが足繁く通っていた100階のプールバーは、表向きはお洒落なナイトクラブですが、同性愛者のハッテン場としても有名なんです」

「ハッテン……」

「事情通の間では『ソドムの市』と言われています。同性愛者だけでなく、いろんな欲望をもった人が入り乱れ、性的なパートナーを求める人の社交場になっているんですよ。交友だけならいいですが、中には嫌がる相手に性行為を強要したり、猥褻動画を撮影する人もいて、前から問題になっているんです」

「それと少女と何の関係があるんだい?」

「そのプールバーは、昼間は少年少女を相手にビリヤード教室を開いているんです。そちらは大人の遊びとは全く無関係で、有志が主催する同好会なのですが、あの女の子も熱心に通っていたそうなんです。恋人がハスラーだからと」

「ハスラーだって?」

「ええ、ハスラーです。金目のものを賭けて勝負するビリヤード・プレイヤーです。僕の周りにも何人かいます」

「だが、彼女はまだ十二歳だろう?」

「十二歳といっても、ほとんど十三歳に近いですし、あの年齢だと、それなりに性的体験のある子はいますよ。僕のガールフレンドは十三歳でファーストキスを体験したと言ってましたし」

「そんなに早いもの?」

「そりゃあ、十二歳で初潮が始まる女の子もいますし、男子も、発毛や声変わりなど、目に見えて第二次性徴が現れる子もいます。僕もその頃には異性に興味がありましたし、身長もぐんと伸びて、大人の男になる実感がありました。その頃に最初の性的体験をしても不思議はありません」

「恋人のハスラーはどんな人?」

「クラスメートの話では、『黒い瞳がエキゾチックで、キスの上手な家庭教師』だそうです」

「……!!」

「どうかなさいましたか?」

「それ、本当なのか……?」

「さあ。十二歳の自慢話ですから、誇張もあるでしょうけど、子守を兼ねた若い男性の家庭教師がしょっちゅう訪れていたのは事実です」

「もしそれが本当なら、その人はどうなるんだ……?」

「事実なら淫行ですよね。まして性病をうつしたとなれば社会問題です」

アドナは絶句し、複雑な事情とはそのことなのかと椅子から転げ落ちそうになった。

「先輩、本当に大丈夫ですか?」

「いや、大丈夫、平気だよ。十二歳という年齢に衝撃を受けただけで……」

「確かに十二歳は衝撃ですね。僕でも初体験は二十歳ですから」

「♂♀◎★ !」

「僕、言いませんでしたか?」

「知らないよ、そんなこと! 知りたくもない!」

アドナがぷいと横を向くと、

「恋におちる瞬間って、まさにDNAの叫びですね」

セスが微笑を浮かべた。

「DNAの叫び?」

「ええ。おかしな喩えですけど、異性を好きになるということは、突き詰めれば、そういうことじゃないですか。大人の男女であれば、その先には必ずDNAの融合があります。これぞと思うDNAに出会ったら、強く求めずにいないのです。そんな衝動も含めて『恋』というんじゃないでしょうか」

アドナはまじまじとセスの顔を見つめた。世話し甲斐のある弟が、今は大人の男に見える。

「そんな仮説、研究テーマにもなりやしないよ」

「ええ、そうかもしれません。でも、素敵な異性に出会った時のときめきって、DNAのシグナルだと思うんです。人間は心をもつ生き物ですが、それも突き詰めれば大脳の電気信号でしょう。そして、大脳の器質や働きを司るのはDNAです。ある意味、心とはDNAそのものといっても過言ではありません。そして、個々のDNAは常に進化を目指し、それを補完する別のDNAを探し求めています。だから自分に合ったDNAに出会うと、全身が震えて、すぐにも交わりたい欲求に駆られるのです」

「じゃあ、同性はどうなるんだ? それもDNAが求めるのか? 同性同士でも愛し合う人はたくさんいる。それもDNAが望んだ結果なのか? 君の理論に基づけば、同性同士の恋愛など有り得ないはずだ。でも、同性同士で心惹かれて、時には性行為をもつこともある。その現象はどう説明するんだ?」

アドナがむきになって反論すると、セスは微苦笑を浮かべた。

「もしかして、それが原因ですか」

「何のこと」

「時々、感じるんです。先輩は心と身体が別なんじゃないかって。あの……決して馬鹿にしているわけではないです。そういう人も少なくないですし、先輩もそうなのかなと。僕はちっとも気になりませんが」

「それはわたしに失礼だよ」

「そうですね。すみません……」

「女っぽく見えるのは顔形のせいだよ。でも、わたしは男性だ。本当に男性なんだよ」

アドナが切実な口調で返すと、セスも決まり悪そうに俯いた。

やがて午後二時を告げるチャイムが鳴ると、互いに新しい情報が入ったらすぐに連絡することを約束して席を立った。

Kindleストア

SF医療ファンタジー
TOWER

About the author

石田 朋子

章立て

タグ