医療と救済
愛する人を助けてこその医療

同じ頃、総合病院の外来は急患でごったがえしだ。感染騒ぎと停電でパニックに陥った市民が「頭が痛い」「胸が苦しい」と押し寄せたからだ。多くは不定愁訴だが、中にはラミアプラズマ感染症や本物の疾患も含まれる恐れがある為、決して油断はできない。

しかし、朝から外来患者が倍増の上に通常業務も重なって、現場はてんてこまいだ。学生も現場に駆り出され、診察介助にあたっている。だが、それでも人手が足りないので、やむおえず医学生も初診に携わることになった。初診といっても、確定診断するのではなく、問診や視診で「感染者」「感染疑い」「それ以外の重症者」「軽症者」の選別を行い、個々に応じた診察室に患者を割り振る役目だ。

新たな体制で診療を始めるにあたって、ジュール医師はTVカメラを通じて医療者全員に訓戒した。

「現在、遺伝子センターも総力を挙げて簡易診断の手法や治療法の開発に当たってくれているが、ラミアプラズマ感染症に関しては、確定診断が難しいのが現状だ。まずは『39度以上の高熱』『貧血』『脾腫』『肝障害』に留意して、感染・非感染の一つの目安としてもらいたい。また尿検査、血液検査、単純X線検査は比較的スムーズに運んでいるが、断層撮影や造影検査など前処置の必要な検査や、特殊な試薬や器械を要するものは、緊急を除いて実施が困難な状況にある。従来の医療体制が通用しない今、頼になるのは己の五感と知識だけだ。患者をよく観察し、自分の目で視て、聴いて、触れて、今現在、身体の中で何が起きているかをリアルに感じることだ。呼吸音、脈拍、皮膚や眼瞼の色、腹部の張り、表層に現れる情報の全てが患者の病状を如実に物語っている。診療は初診が全てだ。最初に疑うか疑わないかで、全てが違ってくる。常に最悪を想定し、自問自答すること。だが、患者の前で決して表に出してはならない。事実は最小限に、だが正確に、誠意をもって伝えることだ」

セスは先輩医について第三診察室で介助にあたっていたが、「息が苦しい」と車椅子で来院した中年の女性患者が、突然、パニックになったようにハァハアと呼吸しだした。先輩医が聴診器をあててみると、明らかに心雑音が聞き取れる。付き添いの老夫は「先月から風邪気味で」と言っていたが、これは呼吸器ではなく循環器系の異常だ。パニックになったのは診察室に入った緊張感からだろう。

「すぐに病棟に運んで。緊急度はそこまで高くないが、優先的に検査と治療が必要だ」

看護士に指示したが、

「それが病棟も満杯なんです。今、事務員に他の診療所の空き部屋を探してもらっていますが、見つかるかどうか」

「なら、処置室に連れて行く。今すぐ手当てしないと、取り返しのつかないことになる」

先輩医はセスに振り返ると、「初診の選別を任せる。診断はしなくていい。割り振るだけだ。重症と軽症を見誤るな」と指示した。

「でも、僕は……」

「お前、医者だろ。重症と軽症の区別ぐらいつくだろう。今すぐ処置の必要な患者だけ報せてくれたらいい。後は俺たちが何とかする」

「はい……」

先輩医が車椅子の患者と処置室に向かうと、セスは額の汗を拭い、次の患者を呼び入れた。六歳の男の子と付き添いの母親だ。六歳にしてはずいぶん小柄で、顔色も冴えないが、苦悶の表情はない。

セスは男の子を診察台に寝かせると、母親から病状を聞いた。

「夕べから熱が出だして、それ以外は特に変わったところもないので、一晩様子を見ていたんです。そうしたら、今朝になって、真っ赤な便が出て、こんなこと生まれて初めてなので、怖くなって……。隣の奥さんが『水を飲んだら、バイ菌がうつって死ぬ』と言ってたんですけど。本当なんですか?」

「今のところ家庭用浄水は無関係です。重症になった方は、みなそれ以前に健康上の問題を抱えていました。まだ詳しいことは分かっていませんが、健康な人が噴水で遊んだり、プールで泳いだりするぐらいでは感染しません。『真っ赤な便』というのは、どんな感じですか? 普通の便に血液が混じっている? それとも赤いゼリー状のものですか」

「ああ、それ! ねっとりした、赤っぽいのが混ざってました」

(まさかアメーバ赤痢? それともラミアプラズマ感染症なのか?)

「熱は最高でどれぐらい出ましたか?」

「三十七度八分です」

「ここ数日、食べたものは?」

「80階の公共食堂の給食だけです。そういえば、三日前に友達の家で手作りのケーキを食べました。誕生会だったんです」

「どんなケーキです?」

「大豆粉のケーキです。でも、その子のママが当日朝に手作りしたと言ってましたから、腐っていたということはないと思います」

「パーティーに来ていた友達に風邪気味の子は?」

「分かりません。そういう子は来ないと思ってました」

「では、風邪気味の子がいた可能性はあるわけですね。他に大きな病気をしたことは?」

「ありません。でも、元々の体力が弱いのか、よく学校で風邪をうつされて帰って来ます」

「そうですか。では、一度、お腹を診てみますね」

母親が男の子の上着をたくし上げて、お腹を出すと、セスはいつもジュール先生がやっていたように、心窩部(みぞおち)、右季肋部(右上腹部)、左季肋部(左上腹部)、右下腹部、左下腹部、臍下部と、順々に触診で確かめた。

男の子はきょとんとした表情でセスの顔を見ていたが、お腹の下の方を触ると「痛い」と身をよじった。

「右側? 左側? どちらが痛い?」

「んー、どっちも。あ、今、痛くない。あ、やっぱり痛い。このへん……」

男の子は両手でお腹をさすって見せるが、どこがどう痛いのか、見当も付かない。

「ちょっと、そんな言い方をしたら、先生が分からないでしょ! 右なの? 左なの? どっちなの?!」

母親が急かすと、男の子は口をへの字に曲げて、「今、痛くない」と答えた。

セスは困惑しながらも、冷静に教科書を思い返した。

本当に胃腸、もしくはその他の臓器に炎症が起きているなら、もっと限局的な痛みが生じるはず。自分でお腹を擦れるぐらいなら、そこまで重症ではないはずだ。次いで、背中、側腹部も触診し、腸音、血流音も聴診する。体躯はまだ熱っぽいが、腸音が亢進気味なくらい。血便が出る理由……他には?

頭の裏側で思い巡らせていると、「僕、入院するの?」と男の子が訊いた。

「それをこれから決めるんだよ」

セスが答えると、

「入院したら、イチゴジュースが飲めなくなる」

男の子がぽつりと言った。

「イチゴジュースを飲ませたんですか?」

セスが母親に尋ねると、

「えっ、飲ませたらダメなんですか? 熱っぽくて、喉が渇くというから、水で薄めて、たくさん飲ませたんです。この子の好物ですし、イチゴなら大丈夫かと……」

「血便というのは、イチゴじゃないでしょうか?」

「えっ、イチゴって、そのまま出てくるんですか?」

「消化機能が弱っている時や、飲み過ぎ食べ過ぎの時は、便がイチゴ果汁で赤っぽくなることはあります」

「えーっ、そうなんですか」

「僕が診た限り、重篤な感染症ではないと思います。今問題になっている感染症は、もっと高い熱がでて、脾臓が腫れたり、皮膚が黒ずんだり、素人目にも分かる激しい症状が現れます。お子さんの場合、お腹も柔らかいですし、熱も高熱というほどではありません。血便が出たのも一度きりですよね。多分、風邪で弱っている時に、イチゴジュースをいつもの倍ほど飲んで、それが出てきたじゃないでしょうか」

「そう言われてみれば、そうかもしれません。イチゴジュースなんて、めったに口にしませんから。夕べは特別で、好きなだけあげていたから、この子も調子にのって、多量に飲み過ぎたのかもしれないですね……」

「とりあえず、いったん帰宅して、再び赤い便が出たり、高熱が出たりするようであれば、すぐに来院して下さい」

母親が納得すると、セスも男の子を起こし、「次にまたお腹が痛くなったら、すぐに診せてね」と声かけし、親子が出て行くと、ふーっと額の汗を拭った。

続いて、次の患者を呼ぼうと診察室のドアを開けたら、「具合の悪い人」が廊下の端までずらりと並んでいる。これだけの患者を、先輩医の指導もなしに、自分一人で判別しなければならないのか。膝ががくがく震え、その場にへたりそうになる。

だが、皆が白衣姿のセスをすがるような目で見つめると、セスも気を取り直し、「次の方、どうぞ」と気丈に声を掛けた。すると、戸口のすぐ側に座っていた高齢の夫婦がよろよろと診察室に入ってきた。どちらも憔悴しきった表情で、どちらが病人か分からない有様だ。

「どうなさいましたか」

セスが尋ねると、夫が妻を指差し、「こいつの具合が悪いんだ」と答え、妻が夫を差し返し、「この人も具合が悪いんです」と言った。

「じゃあ、奥さんから診ましょう。診察台に上がって下さい。今日はどうなさいましたか?」

患者の訴えに一つ一つ耳を傾けながら、前にアドナが言ったことを思い出す。

『今のわたしたちには発展は難しい。だが、技術の継承なら出来る』

病院も、社会も、今はどうにか回っているが、いずれ医薬品も底を尽き、検査も投薬もできなくなるかもしれない。

それでも医師は患者を診なければならない。

何も出来なくても、異常か否か、どう手当てすればいいか、判るのは医師だけだ。たとえ血液検査や断層撮影のデータがなくても、自身の五感である程度の判断はできる。ジュール先生のように「内臓が透けて見える」というレベルまではいかないが、その為の解剖学であり、生理学だ。たとえ高度な医療は不可能になっても、知識と技術を継承することはできる。そして、知識と技術があれば、いつかまた文明を再興し、立派な病院を建設することも出来る。それこそが社会にとって最大の希望ではないか。

患者の胸部に聴診器を当てながら、セスはアドナの行方を思った。

先日からまったく連絡がとれず、VIPフロアの管理人と一緒に様子を見に行ったら、ドアは施錠されておらず、部屋の中は綺麗に片付いていた。ベランダの花は全て屋内農園に移され、今は根菜係のスタッフが世話をしている。『SOYMELIUS』も同僚に引き継ぎ、夏には一期目の収穫が行われる予定だ。こんな大事な時期に一言の伝言もなく行方をくらますなど、考えられないことだ。

もしやエルメインに殺されたのか、あるいは再発したのか、不安は尽きない。

一方、公共放送ジャックや停電騒ぎを見る限り、好きな人と一緒に逃げることが叶ったのではないかという希望もある。

この騒ぎが一段落したら、真っ先にあの二人を探し出したい。

そして再会したら、心から告げるのだ。僕の技術で先輩を幸せにしたいと。愛する人を助けてこその医療と痛感しながら、「次の方、どうぞ。次の方……」とセスは患者に向かい続けた。

一方、ジュールは重症者の集まる病棟詰め所で陣頭指揮を執っている。夕べから一睡もせず、ほとんど休憩もとらず、体力的にも精神的にも限界に近い。だが、今ここで自分が倒れたら、それこそ現場はパニックに陥る。重症者も軽症者も診察室や集中治療室に殺到して、薬の奪い合いになるだろう。神の杖にすがるようにして我が身を支えているが、その頑張りもいつまで持つか。

そして、重症者のベッドは満床で、なおも具合の悪い患者が押し寄せているにもかかわらず、いまだエルメインは自分のメディカルスタッフを応援にも寄越さず、VIPフロアで高みの見物を決め込んでいる。

怒りで総身が震える中、

「先生、わたしたちはどうすればいいのですか」

病棟クラークが不安そうに尋ねた。

だが、ジュールは気を取り直すと、

「大丈夫だ。軽症の者から別階の診療所に移動しよう。ベッドが足りなければ仮眠用ベッドを転用し、保健所や他部署にも応援を頼む」

とやさしい口調で答えた。

「でも、重症者はどうなるのです? モニタリングするにも器材が足りません。点滴スタンドも酸素マスクも、何もかもです」

ぐうっとジュールが胸を詰まらせた時、

「病室なら、ありますよ」

後ろからフロム所長が声をかけた。

「4階南棟の高機能クリニックが空いてます。大小併せて二十室、各部屋に最高の医療機器が備わっています」

「しかし、あそこは……」

「エルメイン先生のご厚意です。既に用意万端ですので、集中治療の必要な方からどうぞ」

ジュールは半信半疑だったが、フロムが二度促すと、

「……わかった。では、ご厚意に甘えて、重症の者から4階の高機能クリニックに移そう」

ジュールも気持ちを切り替え、その場に居合わせたスタッフと協議を始めた。

病院スタッフが移動の準備に取りかかる間、フロムは一足先に4階に上がると、高機能クリニックに足を向けた。

専属スタッフらは廊下や病室を黙々と掃除し、医療機器のセットアップを進めている。特に驚いた様子もなく、淡々と業務を遂行している印象だ。

その続きで、通路の突き当たりにあるエルメインの主診察室――血生臭い事件のあった部屋に足を運ぶと、二人の男性スタッフが「とりあえず元の状態に戻しました」と報告した。

室内を見渡すと、血痕はすべて特殊クリーナーで拭き取られ、シーツも医療器具も新しいものに取り替えられている。

「遺体は納棺したのかい?」

「ええ。別のスタッフが死後処置をして、病死のように装っています」

「それならいい。花もちゃんと入れておけよ。一応、公葬にするから」

「分かってます」

「女性と老人の遺体は?」

「女性は怨恨による殺害、老人は脳内出血による病死で処理しました。セキュリティ室長とも話はついています」

「ワシリィか。まあ、あの人も、自分が責任追及されるよりは隠蔽工作に手を貸すだろうな。ヘクターは?」

「行方不明のままです。シャルロット室長の話によると、あの二人に銃を突きつけられて、どこかに連れ去られたとか」

「逆じゃないのか」

「さあ、僕たちは現場を目にしてないので、なんとも……」

「そうだな。誰も現場を目にしてない。何が起きたかも分からない。それで正解だ。医療用監視システムのデータも消去して、余計な事は口にするな。遺体を発見した経緯だけを伝えればいい」

VIPフロアの住人には、「エルメイン先生が心臓発作で急逝されたので、これまでの遺伝子療法は《生命に直結するもの除き》中止」と伝えている。そのうちバラスが怒鳴り込んでくるだろうが、出来ないものは出来ない。それでいい。それが嫌なら、VIPフロアの住人も表に出て、一般市民と同じ交渉のテーブルに着けばいいのだ。話し合いに加わらない者は存在しないも同じこと。同等に扱う必要はない。

フロムは後を任せると、いったん遺伝子センターに戻り、データ室に足を運んだ。

センター内もばたばたと慌ただしいが、データ室だけは時間が止まったように静まり返っている。ゲマトリアンクォーツも、人間界の騒動などまるで意に介さぬように黒曜石の台座に鎮座し、冷たい輝きを放っている。

それにしても本当なのか。最下階のハスラーがアラル語の文字変換ツールを操り、設計図の大半を復元したという話は――。

エルメインに同席を強要されたIT技師の二人は、惨事の最中に息急き切らせてフロムの執務室に駆け込み、事の詳細を伝えた。

にわかに信じがたい話だが、エルメインならやりそうだ。そして、それが初めてでもないのだろう。

それにも増して驚いたのは、アラル語の話者が圏内に存在したことだ。それも最下階のハスラーだと?

一体、どうやってそれを可能にしたのか、聞いてみたい事が山のようにある。そして、本当にアラル語が解るなら、ここに来て、ゲマトリアの修復に力を貸してくれ!

同じ頃、バラスはエルメインの側近から報告を受け、猛然と遺伝子センターに向かっていた。

(フロムめ! 勝手な真似をしやがって! エルメイン先生の遺伝子療法を中止し、高機能クリニックを一般市民に開放するだと?)

主廊下をドスドスと足音を立てて歩き、馴染みの職員に会釈されても、猛然と無視しながら所長室に向かいかけた時、不意に携帯電話が鳴り響いた。発信者は『エルメイン』となっている。やはりエルメイン先生が亡くなったというのはガセネタだったのか?

「先生、生きておられたのですか!」

バラスが嬉々として電話に応じると、

「今すぐ、標本室に来てくれるかね」

と馴染みの声が言った。

「標本室?」

「そこなら誰にも邪魔されず、ゆっくり話せる」

「なるほど! 分かりました、すぐに伺います」

バラスは踵を返すと、標本室に向かった。

標本室はほとんど利用者もなく、いつも固く閉ざされている。ホルマリン臭のする陰気な部屋だが、謀議には最適だ。

今も情報が錯綜して、何がどうなっているのか、さっぱり把握できないが、ともかくエルメイン先生さえ生きておられるなら、こっちのものだ。生きた化石みたいな医科部長や、学者面した遺伝子センター所長に好きにさせてたまるかと、憤然としながら薄暗い廊下を突き進んだ。

それにしても腹が立つのは、あのオカマ野郎だ。もう用済みなら自分の好きにさせてくれとエルメインに頼んだら、インプラントの埋め込み手術の後、処置室に招かれた。あの小生意気なオカマも、麻酔の効いたウサギみたいにぐったりしていたので、こいつは都合がいいと術衣を剥ぎ取ろうとしたら、突然、激しく抵抗しだして、計画も台無しだ。

(おまけに、ワシの大事なムスコに噛み付きやがって!)

ムカムカしながら標本室の扉を開くと、数個のフットライトがぼんやり灯った。

標本棚にはホルマリン漬けの内臓や寄生虫が所狭しと並び、異様な雰囲気だ。壁に高く掲げられた巨大なヘラジカの頭部と目が合うと、さすがのバラスも首をすくめ、「エルメイン先生、どこですか」とか細い声で訊いた。

だが、誰も答えないどころか、不意にフットライトが消え、標本室は真っ暗になった。何事かと辺りを見渡すと、突然、天井スピーカーから「ガシャーン!」と金属音が鳴り響き、「お願い、許して……」とアドナの懇願する声が聞こえてきた。

「な、なんだ……」

バラスは血相を変えたが、音声は一向に鳴り止む気配がない。

やがてアドナの悲鳴に交じって、自身の怒号や頬を打つ音が聞こえると、誰が盗聴したのかと真っ青になった。

「まさか、ガーディアン……」

バラスは、『ガーディアンはありとあらゆる所に存在して、我々の言動に目を光らせています』というアドナの言葉を思い出し、「お前もあの場に居たというのか?」と顔面蒼白になった。

音声がさらに大きくなり、ヤギやヒツジの泣き叫ぶ声まで聞こえると、「わ……分かった、わたしが悪かった、あいつに謝るから、お願い、許して……」と懇願したが、もう遅い。

バラスは標本室から逃げ出そうとしたが、室内は真っ暗で、何所にドアがあるかも分からない。手探りに進むうち、にゅるりとしたものが手の先に触れ、バラスは「きゃっ」と女のような悲鳴を上げた。慌てて携帯電話のトーチライトを照らすと、ホルマリン漬けの脳や目玉が地獄の亡者のようにこちらを見ている。

バラスは「げえっ」と吐き気をもよおし、支えを求めて暗闇に手を伸ばした。その拍子に標本棚の一つが崩れ落ち、ホルマリン漬けのガラス瓶が大量に床に砕け散った。一歩、二歩と後退るうち、柔らかいものを踏みつけ、バラスは驚いて飛び上がった。その拍子にホルマリン液で足を滑らせ、うつ伏せに倒れ込んだ。ガラスの破片が全身に突き刺さり、喉から、顔から、大量の血が噴き出した。バラスがこの世で最後に見たものは、恨みに目を剥く胎児の標本だった。

一方、パスカルは、ガル爺さんとスティンの住まいに移り住んでご機嫌だ。前の住まいはセキュリティ上の都合から引っ越しを余儀なくされ、その代わり、空き部屋になった彼等の住まいに入居することが叶った。辺鄙な場所だが、内装は綺麗だし、間取りも2LDKで前の住まいより広い。多少の罪悪感はあるが、自分は執政府に協力したのだと思えば当然の報いに感じる。

パスカルはリビングのソファにどっかと腰を下ろすと、「まあ、悪く思うな。お前らの代わりに大事に使わせてもらうぜ」と薄笑いを浮かべた。

ただ一点、気になるのは、ベラも行方不明ということだ。もしや共犯の罪で逮捕されたのかと思うと、多少の憐憫はある。ベラは唯一、好きにできる女であり、女の中でもかなり上等だ。あれほどいい女を再び手に入れるのは、パスカルには到底不可能な話で、それを考えると、やはり最後まで彼等に協力すべきだったかと後悔しないこともない。だが、もはや過ぎた話だ。くよくよするより、酒でも飲んで楽しんだ方がいい。

パスカルはのっそり立ちあがると、冷蔵庫を開け、シードルの瓶を取り出した。バン! と勢いよく扉を閉めた拍子に、一枚の写真がはらりと冷蔵庫の隙間から落ち、パスカルは目を見張った。取り上げてみると、四十過ぎのガル爺さんと黒い瞳の愛らしい女の子が映っている。

「可愛い娘だな。ガル爺さんにこんな娘がいたとは知らなかった」

パスカルは舐め回すように写真を眺め、「へ……へ……一度でいいから、こんな可愛い娘も抱いてみたいもんだ」と舌なめずりした。

と、その時。携帯電話が鳴り、何事かと思うと、見知らぬ相手からの着信だ。不審に感じながらも電話に出ると、「パスカル、あたしよ」と可愛い少女の声がした。

「オレはおめえなんか知らねえぞ」

「あたしはずっと前から知ってるわ。ねえ、パスカル。あたしと一緒に遊びましょう。外に出て、あたしを掴まえて!」

「ほんとかよ、おい……」

パスカルは嬉々として部屋の外に出ると、少女の声に促されるまま踊り場つき直線階段を上がった。それから幾つかの通路を折れ曲がり、俺階段を上がって、140階の通路の突き当たりまで来ると、パスカルはきょろきょろと辺りを見回した。その先は一枚の鉄製ドアで閉ざされ、誰の姿も見当たらない。ドアノブに手を掛け、「なんだ、閉まってるじゃねえか」と激しく揺すると、突然、カチャリとロック解除され、ぎいっとドアが開いた。だが、通路の向こう側は真っ暗で、何も見えない。

「本当にこんな所に居るのかい?」

「ええ、ここに居るわ。あたしも一人ぼっちなの。早く抱いて、温めて」

「へ……へ……待ってな。すぐに抱いてやるからよ」

パスカルは疑いもせず、暗い通路を突き進むと、「どこだ、どこだ」と少女の姿を探した。すると、目の前にもう一つ鉄の扉が立ち塞がり、パスカルは不思議そうに足を止めた。

「本当にこんな所に居るのかい?」

「ええ、この扉の向こうにいるわ。早く、早く。あたしも待ち切れないの!」

「わ、分かった。今行くぜ」

再びカチャリとロック解除する音がして、パスカルは大きくドアを開いた。だが、目の前には何もなく、足元は僅かに張り出し面があるだけだ。

「な、なんだ、ここは……」

状況を確かめる間もなく、パスカルは強風に吹き飛ばされ、紙くずみたいにひらひら舞いながら虚空に消えていった。

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石田 朋子

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