「だめだ、だめだ! こんな検体採取の仕方で遺伝子の検出などできるわけがない!」
遺伝子センターの検体受付でフロム所長が声を荒らげた。
「便培養の容器を何時間も室温で放置した挙げ句、嫌気ポーターの容器を傾けて、内部の炭酸ガスを逃すとは。容器の底のインジケーターが変色してるじゃないか。こんなものを持って来られても、誰にも、どうすることもできない。君たちは遺伝子センターを便利屋か何かと勘違いしてるんじゃないか!」
若い臨床検査技師はしょぼんと項垂れながらも、
「しかし、すぐに検体を届けたくても、エレベーターが混み合って身動きが取れないんです。各階で停止して、その度に待たされるし、僕たちが検体ボックスを持っているのに気付くと、『病気をうつす気か、降りろ!』と怒鳴る人もいて……」
「馬鹿馬鹿しい。だったら、主塔のエレベーターの一つを医療用に確保すればいいじゃないか」
「それもジュール先生が申請されたのですが、執政府からまだ許可が下りないのです」
「なんと愚かな。こんな初歩的な施策も取れないのか! もういい、君たちは下に降りて、先輩のアシストでもしてろ。遺伝子センターにあれもこれも持って来られても、一から十まで対応できるわけがない。食中毒の起炎菌ぐらい、自分たちで分離培養して、顕微鏡を覗いて判定しろ! DNA解析すれば、何でも分かると思うな!」
臨床検査技師がとぼとぼ帰路に就くと、「まったく!」とフロムは鼻の穴を広げた。
この一週間、40階の総合病院に限らず、他階の診療所にも具合の悪い患者が押しかけ、医療スタッフも対応に追われている。未だ病原体が検出できないこともあり、現場の緊張もひとしおだ。誰が本物の感染症で、誰がそうでないのか、判断も難しく、中には診断に疑問を抱き、何度も病院を訪れる人もいる。臨床検査部も奮闘しているが、肝腎な感染症の病原体が検出できない為、早期診断も難しく、誤った情報を参照して、ミスもどんどん増えているのが現状だ。
フロムのやり取りを傍で見ていた別の男性職員も、「だんだんスキルが落ちていきますね」と溜め息をついた。
「でも、彼等の言い分にも一理ありますよ。元々、症例が少ない上に、検体を採取する為の滅菌面貌や滅菌試験管、血液培養用ボトルなども在庫が尽きかけています。どの検体を優先して、どのように保存するかという話になると、経験も必要ですから」
「だからといって、何でもかんでも遺伝子センターに持ち込めば解るというものではないだろう。ピペットチップやマイクロチューブ、その他の試薬もいつまで在庫が持つか分からないのに。こんな調子では、感冒でも《天都》は滅びるぞ」
フロムが大仰に言うと、「そんな感じですね」と男性職員も肩をすぼめた。
「ともかく、次に問い合わせが来たら、本当に急を要するもの以外は受け付けないと断ってくれ」
「ですから、その『急を要するもの』という判断もつかないほど現場は混乱してるんですよ」
男性職員が庇うと、フロムもやりきれないように溜め息をついた。
と、その時。
内線電話が鳴り響き、フロムが応答すると、アドナだった。
「やあ、君か。しばらく顔を見てないが、どうしたんだ? ああ、君がゲノム編集した大豆だね。そういうことなら協力するよ。え?検査処置室で話したい? それほどの機密なのか? まあ、いいけどさ」
フロムは何の気なしに答えると、アドナと話す為に検査処置室に向かった。
程なく、ドアをノックする音がして、アドナが顔を見せた。鼻から顎先まで、すっぽりマスクで覆い、検査用の透明なゴーグルまで付けている。それに今日はケーシー白衣ではなく、水色のスクラブを着て、いつもとずいぶん雰囲気が違う。
「君がマスクとは珍しいな。どこか具合でも悪いのか?」
フロムが構えると、アドナは突然がちゃりとドアを施錠した。
「何の真似だ?」
フロムが眉をひそめると、アドナはおもむろにマスクを取り外し、「感染した」と口腔内の点状出血を見せた。舌先と口蓋に赤い斑点が現れ、片方の眼球まで赤い。
フロムも思わず後ずさり、「どこで感染した?」と唇をわななかせた。
「三人目の妊婦から血液をいただいた。血液型が同じでね。万一の時には供血者になると申し出たら、快く交差適合試験に応じてくれた」
「まさか妊婦の血液を自分に輸血したのか」
「輸血というほどの量でもない。10㎖ほどだ。よほど病原体の量が多かったのか、こんなに早く発症するとは思わなかった」
「だが、どうして……」
「本当に神の遺伝子なるものが存在するなら、わたしは抗生剤がなくても自然に治癒するはずだ。神の遺伝子は胸腺に働いて万能型T細胞を作りだし、非自己性物質に対して強力な殺滅能力をもつキラーT細胞を量産するんだろう。ならば短時間で抗体も作られて、少女やスネークのように重症化もしないはず。上手くいけば血清製剤も作れる」
「馬鹿なことを。まだ病原体も検出してないのに」
「あなたはわたしのヒトゲノムを知っている。遺伝子の位置も、機能も、何もかも。わたしの血液を調べて、わたしと異なる塩基配列をもつ病原体を見つけ出すぐらい、訳ないはずだ」
「しかし……」
「エルメインに胸腺を引きずり出されるぐらいなら、万人に生き血を捧げる方を選ぶ。未知の病原体に感染したとなれば、さしものエルメインも諦めるだろう。あなただって、この結末を知っていたはずだ。知っていながら、エルメインのゲノム編集に手を貸した」
「わたしは何も知らなかった! 本当だ! まだ学生だったんだ。……まさかヒトゲノムを一からデザインするなど、夢にも思わなかった……」
「嘘をつくな。エルメインの指示なら、次に何が起きるか察しがつくだろう。黙って見ていたのは、あなたにも野心があったからだ。本当に悪いと思うなら、何年もエルメインの実験に協力などしない」
「復讐のつもりか」
「あなたに復讐したところで誰も救われない。それより早く検査を始めてくれないか。わたしも高熱で死にそうなんだ……」
アドナが壁際にくずおれると、フロムも思わず駆け寄り、電動式処置台に寝かせた。
「四十度はあるな。僕一人では到底無理だ。他のスタッフを呼んでもいいか」
「どうぞ」
フロムはすぐさま内線をかけると、手の空いたスタッフを召集した。
§
にわかに廊下が騒がしくなり、数人のメディカルスタッフが医療カートやバイタルチェックモニターなどを検査処置室に運び込んだ。処置台は壁際に寄せて、感染防止用のビニールカーテンで厳重に囲い、消毒液や手袋も準備する。次いで生化学検査用の採血を行い、アドナの胸元や指先にバイタルチェックのセンサーを取り付けた。その間にも全身が震え、手足の筋肉が引き攣るような痛みに襲われる。だが急性期なら、赤血球に寄生した病原体も検出しやすくなる。これで治療の目処が立つなら易いものだ。エルメインに胸腺を引きずり出されるより、よほど充足感がある。
半時間後、フロムが遺伝子検査の為に二度目の採血を試みた。特殊な血清スピッツに彼の血液を採取しながら、「ここに来たのは正解だ。すぐラボラトリに持ち込める」とアドナの思い付きに感嘆した。
「この検査処置室も、元々は遺伝子治療が必要な重症患者の為に使われるはずだった。なのにエルメインがVIPの為に専有して、本当に必要な患者を下階に追いやった。南翼の高機能クリニックもそうだ。今まで大きな問題もなく、それはそれと諦めてきたが、やっと目が覚めた。貴重な医療資源をVIPの為に確保するなど、明らかに間違っている。今他の病気で苦しんでいる者も、三階の高機能クリニックに移すべきだ。なんだって皺取りの皮下注射の為に高度な医療設備の整った診察室を明け渡さなければならないんだ」
「これからはジュール先生や総合病院のスタッフを助けてあげて欲しい」
「全力を尽くすよ」
フロムは厳しい表情で採血を終えると、急ぎ足でラボラトリに向かった。
§
四時間後、フロムから連絡を受けたセスが白衣姿で検査処置室を訪れた。
セスはガウンとマスクを身に付け、ベッドサイドの丸椅子に腰かけると、「あの人の居場所が分かりましたよ」と告げた。
アドナの目が大きく見開くと、セスもアドナを力付けるように頷いた。
「あの人は90階の診療所にいます。『テイラー』という患者名で入院し、病名は紅疹病疑い。突き当たりの個室に隔離され、医療スタッフも詳しいプロフィールは知りません。様子観察ということで、バイタルチェックだけ続けているそうです。僕の同窓の看護士も『擬陽性の患者さん』ぐらいの認識でした。食事や着替えも提供されて、病室ではTVも視聴できるそうです」
「そう……」
「ただ一日何時間かはモニター越しに取り調べが続いているようです。あの人も少し疲れているのか、ここ数日はあまり食欲もないそうです。でも、一週間以上、入院措置だけで、特に法的な手続きも進んでないところを見ると、駆け引きしているのかもしれませんね」
「駆け引き?」
「逮捕を逆手に取って、逆に人権侵害を訴えているのです。光ダクトを使って、違法にメカニカルフロアに降りていたのは本当にしても、性病疑いで診療所の一室に軟禁するなど、有り得ない話です。そもそも『テイラー』という偽名で強制入院させること自体が不自然でしょう。警察はスタッフに対して『医療上の措置』と説明しているそうですが、誰が見ても不当です」
「病気のお祖父さんは?」
「総合病院の個室に入院中です。あちらは本当に健康上の問題があって、今、投薬治療中です。軽度の貧血に腎障害、足腰も曲がって、相当無理されたみたいですね。ジュール先生が毎日訪室しておられますが、『ふん!』と横を向いたまま、ほとんど口もきかないそうです。でも、ジュール先生のことは気に入ってるみたいで、回診時間になると、ちゃんとベッドに入って、患者らしく寝ているそうです」
「それならよかった。執政府もまさか病気の高齢者を相手に酷い仕打ちはしないだろう」
「総合病院の病室に居る限り、安全です。でも、それ以外のことは一切分かりません。どこもかしこも感染症騒ぎで、圏内の雰囲気も一変しました。みな外出を控え、水回りの清掃ボランティアも拒否する人が続出しています。水が汚染源という噂もねじ曲げられて、噴水に近寄っただけで病気になるとか、シャワーも浴びない方がいいとか、いろんな情報が飛び交って、混乱しています。執政府も、何が病原体で、どのような経路で感染するのか、確たるデータを有してない為、説明もしどろもどろで、『当分、公共用水との接触は避けて下さい』みたいな曖昧なことしか言えないんですね。でも、公共用水といえば飲用水もそうだし、調理場の水もそうです。一体、どこまでが安全で、どこからが危険なのか、明確なガイドラインがないので、みな困惑しているのです。今では単なる食べ過ぎなのに『感染した』と大騒ぎする人もいて、医療スタッフも疲労困憊です。でも、一番怖いのは、こうした騒ぎに紛れて、本物の感染者を見落とすことです。今のところ、飛沫や接触を介したヒトーヒト感染は確認されてないので、医療スタッフも冷静に対処していますが、市民にしてみたら恐怖でしょう。何が原因で、どこから侵入するのかも分からないのですから」
「でも、今度こそ検出できるかもしれないよ。病原体の正体さえ分かれば、ある程度はコントロールできる。感染経路を徹底的に絶てばいいんだから」
「でも、水が経路なら、制御するのは難しいでしょう。その水を何所から汲み上げて、どこをどう循環しているのか、僕たちには全容が分かりませんから」
「いずれ分かるよ。わたしたちは一人の救い主を得たのだから」
「あの人が設計図を復元したというのは本当なんですか?」
「完全ではないが、手順は理解している。なんとか彼を解放して、PCを取り戻したいが、エルメインが睨みを利かせているからね。どうすればいいのか分からない」
「でも、意外とチャンスはそこにあるんじゃないですか。だって、あの人だけが唯一、設計図を復元できるんでしょう。だとしたら下手に命は奪えないし、この事実が市民に知れたら、皆、口を揃えて『彼に設計図を復元させろ』と要求するでしょう。そうなれば、万軍の味方を得たも同然です。今まで何もしてこなかった執政府に反論の余地はありません」
「そうなるよう祈るよ」
「だから、先輩も負けないで。きっとよくなって下さい。何もかも落ち着いたら、また一緒にビリヤードをしましょう。グリルチキンのキャンドルディナーに、先輩の手作りケーキのお茶会。あの人もきっと喜ぶと思います」
あの楽しい一夜が夢のように思い出され、アドナは胸を詰まらせた。
「セス……今まで黙ってたけど、わたしはね……」
「何も言わなくていいです。先輩が言いたくない事は、言わなくていいんです。僕は自分の目に映る先輩が好きだし、周りもきっと同じ想いだと思います。いつか、あの人も先輩の優しさを分かってくれると思います」
アドナの目に涙が浮かび、ふっと表情が変わると、セスも慈しむように微笑みかけ、「僕、そろそろ行きますね。また様子を見に来ます」と病院の持ち場に戻った。
それと入れ替わるように、別のメディカルスタッフが大人の背丈ほどある採血装置を運び入れ、フロムがビニールシートの中を覗き込んだ。
「今のうちに血漿と血小板成分を採取させて欲しい。循環血液量の4%ほどだ。本来、高熱や溶血のある患者には行わないんだが、研究の為だ」
「どうぞ、お好きなように」
アドナが左腕を差し出すと、メディカルスタッフが彼の肘の内側を消毒し、採血用の針を深々と突き立てた。採血チューブに赤い血液が流れ出し、成分採血装置に到達すると、遠心分離機によって、血漿と血小板成分だけがそれぞれの専用パックに収まり、残りの血球は体内に戻される。病原体が赤血球に寄生し、破壊しながら増殖しているせいか、軽度の溶血が見られ、本来、黄色い透明な液体である血漿成分がほのかに赤く染まっている。赤血球に含まれる赤色の色素、ヘモグロビンが血漿中に染み出しているからだ。このまま溶血が加速し、DIC(播種性血管内凝固症候群)を引き起こせば、あの少女と同じように数日のうちに絶命するだろう。だが、神の遺伝子なるものが本当に存在するならば、こうしている間にも万能型T細胞が活発に働き、病原体の増殖を抑えて、ついには打ち克つはずである。
彼の瞼に美しいDNAの二重螺旋が浮かび、人類の命運を懸けて自ら検査台に上がった少女の胸中を思った。そして、少女の願いは時を超えて、自分のDNAにも刻まれているような気がした。
§
そうして一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日目の朝になると、身体もうんと楽になり、熱も三十七度台まで下がった。一通りの検査を終えた後、実験的に投与した抗生剤が効果を奏したのか、あるいは本当に神の遺伝子なるものが存在するのか、自分でも分からない。
ただ一つ確かなのは、今朝からひどく空腹で、下痢も吐き気も収まったということだ。
午後になり、職員が差し入れてくれたポタージュスープを口にしていると、フロムが来室し、「見つけたぞ」と弾むような声で言った。
「赤血球内寄生原虫ラミアプラズマの一種だ。マラリア原虫の親戚だよ」
「親戚?」
「そう。ラミアプラズマは、原生生物界の門の一つ、アピコンプレクサ類の一種で、二十世紀には存在が確認されている。哺乳動物の赤血球に寄生する単細胞真核生物で、通常は家畜に感染するが、人間に対して日和見感染を起こす種類もいる。臨床的には、ウシにもヒトにも感染する多型バベシアが有名だ。こいつは免疫不全のヒトに感染し、爆発的な増殖による寄生虫血症を引き起こすことでも知られる。だが、君の赤血球中に存在するラミアプラズマは、共用遺伝子データベースに登録されている種類とは異なる。つまり、未発見種だ。ラミアプラズマ原虫といえば、《隔壁》を締め切る以前は6000種以上、未発見のものは、既存種の100倍から1000倍は存在すると言われているから、もしかしたら、こいつは現代のラミアプラズマ原虫のように媒介生物( ベクター )を必要としないか、新しい中間宿主を見つけたのかもしれないな」
「新しい中間宿主?」
「そうだ。ラミアプラズマが地球上に出現したのは、5・5億年から6億年前と言われている。その間に様々な変異を遂げて、寄生性を持つに至った。彼等の生物史には、古生代があり、中生代があり、白亜紀の終わりに恐竜が絶滅して四大文明が誕生するまで、さらに6600万年もの歳月が経っている。その間、ずっと、この微生物がダニを中間寄主とし、ヒトの体内に侵入して増殖する生活環を持っていたと思うか? 哺乳類が誕生する以前は爬虫類や両生類、陸上に動植物が出現する以前は水中動物、様々に宿主を変え、自身も進化してきたと考えられる。それこそ赤血球に寄生するようになったのは、ほんの数万年前かもしれない。我々の生活圏とはまったく無縁だった種が《天都》に取り込まれたとしたら、我々の想像をはるかに超える事態が起きても不思議はない」
「もしかしたら、《隔壁》を締め切る以前から、我々の生活圏に入り込んでいたかもしれませんね」
「そうだな。タワーと関連施設を建設する為に、山一つ、あるいはそれ以上の土を掘り返し、原生林を切り倒している。その間、凍土や氷床、あるいは地中深く眠っていたものが我々の世界に入り込んだ可能性は十分に有り得る。では、なぜ最近になって病原性を持つに至ったのか。生息環境の違い、寄主の変化による遺伝子の突然変異、あるいは単純に個体数が増えて、感染しやすくなったとも考えられる。今のところ『水』に注目しているが、土壌や節足動物の可能性も考えなければならないよ。外周回廊のプランターには外部から持ち込んだ用土を使っているし、水生植物の生えている人工池や噴水は微生物も繁殖しやすい。いくらポンプで水を環流させて、フィルターで汚れを取っているからといって、無菌状態ではないからね」
「しかし、外周水路やその他の雑用水を完全に止めてしまうことはできません。水が循環しなければ、植物の生育を妨げますし、腐敗すれば、事態はいっそう深刻です。屋内農園の農作物も例外ではありません」
「それは分かりすぎるほどに分かっている。今度の検査を通して病原体の生態が分かれば、いずれ制御方法を見出し、被害を最小限に食い止めることが出来ると思う。不幸中の幸いは、今のところ大規模な集団感染に至ってない点だ。脾腫や溶血性貧血など、特徴的な症状を呈しているのは、元々、健康上の問題がある人だからね」
「顕微鏡下で形態を確認できそうですか?」
「真核生物なら核染色で検出できるだろう。どれぐらいの大きさかは分からないが、形状を確認するだけなら、既存の光学顕微鏡か蛍光顕微鏡で対応可能だ。ラミアプラズマに関しては、獣医学の分野で科学的知見が充実しているからね。試行錯誤になるだろうが、決して悲観はしてない」
「確定診断は出来そうですか?」
「遺伝子検査と一般的な血液検査、通常の診察で、かなり正確な診断はできると思う。順序で言えば、39度以上の高熱と悪寒戦慄を発症した人に対し、脾腫、貧血、肝障害など、赤血球内寄生を思わせる症状がないか確認し、血液検査を行う。そこで著しい赤血球減少や血小板減少、肝機能の悪化が認められたら、遺伝子検査で末梢血液中に君と同じラミアプラズマDNAが存在しないか確認する。このラインを明確にすれば、少なくともパニックは防げるだろう」
「そうですか……」
「発症から重症化までの経緯を君がつぶさにメモした功績も大きい。一般の患者さんは、どうしても医療者とは観察のポイントがずれるからね。ともかく、これから忙しくなるよ。これぞ本懐という気分だ。何とかゲノム解析をやり遂げて、種の特定や治療法の確立に繋げたい」
「そう願っています」
一通り説明を終えると、フロムは席を立ちかけたが、ふと思い出したように「エルメインから一度だけ問い合わせがあったよ」と打ち明けた。
「君の症状と神の遺伝子について尋ねられたが、神の遺伝子など存在しないと答えておいた」
アドナが目を丸くすると、フロムは微苦笑を浮かべ、
「胸部CTを見る限り、君の胸腺が標準より大きく、ほとんど退縮も見られないのは本当だ。針生検か胸腔鏡で直に組織を調べてみないと分からないが、もしかしたら思春期以前の質と機能を保っているのかもしれないな。それに君の末梢血液のT細胞やB細胞を調べてみたら、けっこうな重症にもかかわらず、まるで十歳の子供みたいだ。通常、思春期を過ぎれば、胸腺も退縮を始めて、リンパ球の組成も変わってくるんだが、君のはまるでピーターパンだ。生体時計を止めたみたいに活力を維持している。このまま高い機能を維持すれば、百歳どころか、百三十歳ぐらいまで生きるんじゃないか」
「でも、エルメインには長生きしないと言われましたよ」
「性ホルモンが不足しているからだ。これまでは運よく生きられたが、この先はどうなるか分からない。人間の身体はオーケストラと同じ、免疫細胞だけで健康を維持できるわけではないからね。君によく似た症例で、低ゴナドトロピン性性腺機能低下症、いわゆる『カルマン症候群』があるが、あれはX染色体上にある遺伝子異常が原因で、治療法も確立されている。だが、君の場合、エルメインがゲノム編集しているから、同じようにはいかないだろう。わざと遺伝子を欠損させたのか、それとも別の遺伝子を継ぎ足したのか。それでも適切なホルモン療法を施せば、今からでも第二次性徴が発現して、普通の男性として長生きできるかもしれないよ」
「……そうですか」
アドナは目を閉じ、フロムに礼を言った。
それは新しい人生の始まりかもしれないが、自分という人間の終わりでもある。身体が変化すれば、胸の痛みも過ぎ去るのだろうが、それはそれで切ない。
今、スティンはどうしているのか。
早く良くなって、彼を助けたい。
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