ガル爺さんの告白
アラルの血族とスティンの出生の秘密

だが翌日、アドナが耳にしたのは、スティンが逮捕されたという報せだった。

スティンはパスカルという男のリビングルームで複数の警官に取り押さえられ、そのまま連行された。それ以外の情報は一切なく、警察に問い合わせても、何も教えてもらえない。

もしかしたら、ジェシカの母親が弁護に立ってくれるのではないかと期待して、住まいを訪ねてみたが、玄関ドアは固く閉ざされ、近所に尋ねても、ここ数日、姿を見てないという。

まさかスティン一人に責任をなすりつけて、自分は雲隠れするつもりなのか。怒りが火柱のように立ったが、死が怖いのは誰しものことだ。あの母親を責めたところで、スティンが釈放されるわけではない。

ともかく彼の祖父を保護せねばと東翼の住まいに向かった時、黒いパンツ姿で足早に行くベラに出くわした。

「一体、何があったんですか?」

アドナが恐る恐る尋ねると、

「こっちが聞きたいわよ! まったく、何てこと! あれほどパスカルの所には行くなと言ったのに!」

「パスカルって、誰ですか?」

「あなたには関係ないことよ」

「夕べ、スティンから、お祖父さんを保護して欲しいと頼まれました。設計図のことも。ある人の塩基配列を元に六十億個に分割されているそうですね。もしもの時はお祖父さんから文字変換ツールと復元プログラムを譲り受け、一緒に作業を継続して欲しいと頼まれました」

ベラは驚いたように目を見開くと、「……分かったわ。一緒に行きましょ」と渋々承諾した。

二人は無言で通路を突っ切ると、北東角の階段下にあるスティンの住まいを訪れた。ベラが自前の解錠ツールでロックを開くと、アドナも素早く中に入った。

スティンとガル爺さんの住まいは狭いながらも温もりに満ち、身を寄せ合うようにして生きてきた様子がひしひしと感じられる。

だが今は、キッチンもリビングもきれいに片付き、二度と帰らぬかのようだ。

次いでスティンの部屋を覗くと、簡素なワーキングデスクに十七インチのラップトップPCと膨大なノート、分子生物学や生命情報科学に関する資料がうずたかく積み上げられている。またラップトップの天板には擦り切れたビリヤードグローブが置かれ、彼の無念が胸に迫るようだった。

「ガル爺さんの部屋に行きましょう。爺さんがまだここに居るということは、スティンが駆け引きしている証しだから」

「駆け引き?」

「逆に彼等を脅しているのよ。不当に尋問すれば、権利侵害を訴え、重大な秘密をばらすと。多分、パスカルの住まいから生物研究棟の天井裏に忍び込み、エルメインの脳天に風穴が開くような事実を掴んだのだと思うわ。形勢逆転するまで沈黙を貫くつもりよ」

「生物研究棟には一体何が……」

「バイオクリーンルームよ。全ての始まりの場所。多分、スティンは自分が逃げることより、悪事の証拠を掴むことを優先したのね。あなた、スティンに何か話した?」

アドナが口ごもると、ベラも溜め息をつき、

「もういいわ。あなたに当たったところで、スティンが釈放されるわけじゃなし。それより爺さんを保護しなければ。あなた、爺さんを連れて、信頼の置ける機関に匿ってくれる?」

「病院に連れて行くのが一番だと思います。そこで要治療の診断書をもらい、医師の管理下におけば、警察も迂闊に手出しできません」

「そうね。よろしく頼むわ。果たして爺さんがおとなしくあなたに従うかどうか分からないけど」

ベラが主寝室のドアを軽くノックし、細めにドアを開くと、一瞬、異様な臭気が立ちこめ、アドナも思わず顔を背けた。次いで目を凝らすと、薄暗がりの中、痩せこけた老人がまるでコボルトのように床に胡座をかき、何台ものPCと向かい合っている。

「爺さん。もう終わりよ。既に知ってるんでしょう。スティンが逮捕されたこと」

だが、ガル爺さんは微動だにせず、無言でキーボードを叩いている。

「爺さん。かくれんぼは終わったの。鬼はそこまで来てるのよ。今すぐ、この人と一緒に病院に行ってちょうだい。医師の診断書をもらい、医療者の立ち会いなしには取り調べもできないようにするのよ。エルメインと一対一にならなければ勝機も掴めるし、時間稼ぎもできる。今、私たちが賢く振る舞わなければ、スティンは本当に殺されてしまう。お爺さんも意地を張るのは止めて、生き残ることを第一に考えるのよ」

だが、爺さんは「うるさいわ!」と一喝するだけで、振り返ろうともしない。口の中で「奴ら、死んでも許さん」と呪詛のように繰り返し、気が狂ったように入力作業を続けている。

「爺さん、怒らないで聞いてちょうだい。スティンを救う方法は一つしかない。正当な裁判に持ち込んで、情状酌量してもらうのよ。あの日の出来事を多勢が知れば、エルメインも追い詰められ、スティンの処遇も変わる」

「その通りです」とアドナも強調した。「もはや裁きの場で真実を語るより他ありません。この際、表に出て、一緒にエルメインの不正を暴きませんか?」

ガルは白衣姿のアドナに気付くと、「何だこいつは! 執政府の役人を連れてきたのか!」と怒鳴りつけた。

「スティンの友人よ。屋内農園で働いている」

「友人だと? そんなものは要らん! 知らない奴の前で、ぺらぺら喋れるか!」

「爺さん。この人なら大丈夫よ」

「なぜ、そんなことが分かる?」

「彼を愛しているから」

爺さんはアドナの顔を一瞥すると、「けっ!」と舌打ちし、ようやく構えを崩した。

スティンはガル爺さんの傍らに跪くと、

「話して頂けますか? スティンやあなたの身の上に何が起きたのか。場合によっては、こちらが有利になる可能性もあります」

と真摯な表情で願い出た。

「……信用できんな」

「では、こう言えばいいですか。わたしはエルメインのゲノム編集によって作られました。それ以外にも、あの人の非人道的な罪について証言することができます」

アドナが白衣の胸元を開いて見せたると、「何てこった」とガル爺さんも正気に戻り、「あれはわしの娘ララが十四歳になって間もない頃だ……」と語り始めた。

ララは不思議な娘でな。同じ年頃の少女がゲームや動画に夢中になっている時も、一人図書室に入り浸り、古文書や歴史書を飽くことなく眺めているような娘だった。

あれの母親――つまり、わしの女房が宗教史の専門家で、とりわけ古典言語に精通していた影響だろう。ララも母親から様々な古典言語を教わり、とりわけアラル語に興味をもつようになった。

アラル語は、何千年も昔、異教徒と虐げられてきた人々が教典をを伝え、一族の結束を図る為に伝承した言葉だ。学のない者でも理解できるよう、文字は簡素化され、数字や記号(シンボル)に置き換えることもあった。愛と救済、恐怖と災い、祈りと信者、誰某の血族――。

ララの母親も賢い人だったが、病には勝てず、ララが十歳の時に悪性貧血で亡くなった。だから余計でアラル語への思い入れが強いのだ。アラル語独特の語感が、娘の耳には子守唄のように胸に響いたのだろう。娘は一人で熱心に学び、十四歳になる頃には古文書を読み解くほどの語学力を身に付けた。そして、それが災いしたのだ。

ある日、娘は学校の授業でデジタルライブラリを訪れ、古代言語の講義を受けた。マルチモニターにはエジプトの象形文字やロゼッタストーンの碑文、いまだ起源が明らかにされていないメソポタミアのくさび形文字やヒッタイト帝国の言語など、失われた古代言語の写真が次々に映し出され、最後にアラル語が紹介されると、娘は教師に向かって言った。

『先生、アラル語は古代言語ではありません。百五十年前まで日常的に使われていた言葉です』。

そして、画面に映し出された碑文をすらすら読み解き、その場に居合わせた者を驚かせた。

だが、その出来事が学校新聞で取り上げられた為に、娘の運命も変わった。記事にした学生たちは、昔、アラルの血族が悲惨な運命をたどった事実に何の関心もなかったのだろう。

記事はエルメインの目に留まり、娘はエルメインの私室に呼び出された。

そこで何があったかは聞かなくても分かる。

その日を境に、娘は心神喪失し、口もきけなくなった。

わしは何度も関係者に働きかけ、真相究明を訴えたが、誰の協力も得られぬどころか、些細なミスで責任を問われ、IT部の要職を解かれた。

それから二ヶ月後だ。娘が妊娠しているのに気付いたのは。

わしはもう、どうしていいか分からず、娘にも堕胎をすすめたが、娘は頑として聞かなかった。少女ながらも母になった自覚が娘を奮い立たせたのだろう。娘は次第に己を取り戻し、『この子が人類を救う』と腹の子を慈しむようになった。そして、あの日の恐ろしい出来事について、少しずつ語り始めた。

娘はエルメインの私室で数人の男に取り囲まれ、アラル語で書かれたソースコードやテキストファイルを見せられた。そして、その内容を読み解き、ラテン文字に変換するよう強要された。

だが、そこに記述されたメタデータを目にして、単なるお絵かきソフトの類いでないことを理解したのだろう。娘は協力を拒み、男たちは娘に暴力を振るった。十四歳の少女に口にするのもおぞましい蛮行を繰り返し、永遠の沈黙を約束させたのだ。

わしは直ちにベラの父親に相談し、わしらが為すべきことについて話し合った。ヘムは政府寄りの上級アドミニストレータだったが、自分がアラルの血族であることも、わしら夫婦にだけは教えてくれていた。ここでは唯一の親友であり、同胞でもあった。

ヘムは何とかこの難局を乗り越え、救世の策とする方法はないか模索し始めた。そんな最中だ。ガーディアンがヘムに語りかけるようになったのは。ガーディアンは設計図を復元するヒントを教え、手引きとしてエゼキエルのGENBOOKの一部を与えた。それらを元にヘムが独自に開発したのが、わしらの使っている復元プログラムだ。その後もヘムはガーディアンの助けを借りて、設計図の復元を急ぐと共に、わしらが今後も生活できるよう、市民情報データベースを書き替え、様々な援助をしてくれた。だが、その動きも察知されて、スティンが十歳の時、不審死を遂げた。それも覚悟の上で、わしらを守ってくれたのだ――。

「一体、アラルの血族とは何ですか? 単なる話者とも思えません」

「アラルの民俗は独特でな。古来より、迫害、搾取、差別など、様々な歴史的悲劇を経験してきたことから、自分の血族を非常に大事にする。親きょうだい、伯父やいとこ、義理家族など、血族で結束し、血の繋がりのない者は迂闊に信用しない。国策でアラル文字がラテン文字に置き換えられ、公用語が隣国の言語に統一された時も、アラル語の文化や歴史が受け継がれたのは、こうした縁故主義と、何が何でも自国の文化を守るという強い意思があったからだ。文字変換コードを使った難読化や暗号通信技術が発達したのも、アラルの文化を後世に継承したい先人の知恵だが、その一部は地下に潜り、資金洗浄やテロ計画などに悪用されるようになった。アラル人も二極化し、同族を敵視するようになった。アラル語の話者は、正規軍や捜査機関に協力して、アラル語で書かれた通信文を読み取り、文字変換ツールの開発に知恵を貸すからだ。《隔壁》を締め切る前、一部地域でアラル語の話者が虐殺されたのも、敵対勢力よりは、自らの利権を守ろうとする同胞による蛮行が圧倒多数なんだよ。暗号としての価値を高めるためにな」

「エルメインもアラルの血族ですか?」

「そうは思わない。奴にアラル語を読み解く力があれば、GEN MATRIXもゲマトリアンクォーツも、とうの昔に奴の手に落ちている。恐らく非族ではないか。非族というのは、悪しき行いによって血族から追放された者だ。追放者は二度と同胞の食卓に招かれることはなく、先祖からアラル語を学ぶ機会も無い」

「だとしたら、アラルの血族には深い憎しみを抱いているでしょうね」

「サラブレッドになり損ねた者の怨念だ。自らの権力を誇示し、同胞に復讐する。だが、奴の悪運もあと十年は持つまい。死は誰の上にも平等に訪れる。奴だけが神の裁きを逃れられるわけがない」

「死は誰の上にも平等――」

「そうだ。娘にも、ヘムにも、そして、わしにも死は確実に訪れる。虐げられた者にとって、死だけが真の意味で平等だ。どんな野心も、死を超えて存続することはなく、いつかは肉体と共に地上から滅び去る。後々まで語り継がれるのは名も無き人々の善行だ。愛によって生まれたものだけが時代を超えて永遠に続く。娘が苦しまずに死んだのは、せめてもの救いだ。スティンを産んだ後、失血性ショックで眠るように息を引き取った。一日がかりの難産だったが、我が子を胸に抱いた娘の顔は、母になった悦びに輝いていた」

「スティンはお母さんの事を知っているのですか?」

「一切、話してない。自分から話す気もない。君なら言えるかね? 自分の母親が十四歳で、暴行されて身ごもったなど。薄々、勘付いてはいるようだが、これからも話す気はないし、聞かれても答える気ない」

「気持ちは分かります。しかし、ヘムが上級アドミニストレータなら、たとえ偽造でも市民IDを付与することは出来たのではないですか?」

「そう簡単ではない。あんたも知っての通り、市民IDは人工授精の記録に紐付けられている。それを改竄しようと思えば、何代にも遡って架空の市民を創作しなければならない。だが、そこまですると、ばれる確率の方が高い。それならいっそID無しで過ごして、エルメインが死ぬのを待つ方が良策ではないかと考えた。まさかエルメインがあれほど長生きするとは思わなかった」

「その通りです。どんな幻術を使っているのか、死にそうで死なない」

「せめて奴がなければ、もっと違う方策が取れたのだが、ここまで問題を引き摺ってしまった。だが、もう暗黒の日々も終わりだ。設計図もあらかた復元し、奴の虚偽を暴く証拠も掴んだ。後は仕掛けるだけだ。スティンが負けを装えば、奴は必ずこのトラップに嵌まる」

「お祖父さん……」

「さあ、行ってくれ!」

ガル爺さんは再び背を向けると、カタカタと作業を再開した。鬼気迫る姿にアドナも何も言えず、そっとその場を離れると、ベラも後に続いて、静かにドアを閉めた。

「あなたは、これからどうするのですか?」

アドナが尋ねると、ベラは「さあね」と冷めた口調で答えた。

「ここに留まって爺さんの面倒を見たいけど、二人一緒に居れば共倒れするのがおちだし、かといって、これという方策もないから、当分、身を隠すわ。其処彼処に空き家はあるから」

「でも、どうやって?」

「それは業務秘密よ。長年倉庫係をしていると、いろんなものが手に入るの。空き巣に便利な小道具も。あなたこそ、どうするの。大層な身の上みたいだけど」

「お祖父さんの用事が終わるまで、ここで待っています。保護するとスティンに約束しましたから」

「あなたも拘束されるかもしれないわよ」

「覚悟の上です」

「彼と一緒に死ぬつもり? そんなにあの男が好きなの? 何度も言うようだけど、一生待っても、彼はあなたを抱いたりしないわよ」

「それも知っています」

「だったら、私ももう何も言わない。逃げようと、捕まろうと、あなたの好きにすればいいわ。でも、尋問されても、私の名前は絶対に出さないでね。まだ早死にしたくないから」

「分かっています」

ベラは溜め息をつくと、その場を立ち去りかけたが、ふと思い出したように足を止めた。

「一つだけ忠告しておくわ。神経毒には気を付けた方がいいわよ。わたしの父も、多分、それで亡くなったから」

「神経毒?」

「それと分からぬように相手の皮膚に刷り込むの。猛烈な眠気に襲われた時には、もう手遅れ。やがて中枢神経が麻痺して心停止をきたす。アラルの秘薬よ。邪魔者を片付けるのに都合がいいの。どうやって皮膚に刷り込むのか、私も詳しくは知らないけど」

「あなたもアラル語が読めるのですか?」

「父は私に何も教えなかった。爺さんの娘みたいに、うっかり口にすれば命を取られることを知っていたからよ。もはや圏内に存在するアラル語の話者はスティンと爺さんだけ。あの二人が他界すれば、実質、アラル語は失われるでしょうね」

それからどれくらい時間が経ったか。

アドナも少し疲れて、ソファのアームに頭をもたせかけた時、ドンドン! と乱暴に玄関ドアを叩く音がした。アドナが飛び起きる間もなく、電子錠が強引に開かれ、どやどやと数名の警官が中に入ってきた。その中には、アドナの知った顔もあった。セキュリティ室長のワシリィだ。

ワシリィは彼の姿に気付くと、口の端を歪め、

「これはこれは。エデンの別嬪さん! 思いがけない所で、思いがけない人物に出くわした。もしや君も100階のプールバーの常連なのか?」

「事実誤認だ。プールバーなど行ったこともない」

「へえ、そうかい。その割には、随分この一件に熱心だという噂だが」

「当たり前だ。次々に重症者が運ばれてくるのに、他人事でいられるわけがない」

「それにしても、君があの男と知り合いとは思わなかった。ここに居るのも訳があるのか?」

「病気のお祖父さんがいる。仕事が一段落したら、病院に連れて行くつもりだ」

「病気でなくて、仮病だろ」

ワシリィが部下に目配せすると、彼等は乱暴に主寝室に押し入り、床に座り込んでいるガル爺さんの腕を掴んだ。

「く、臭ぇ……!」

「立てよ、爺い! 仮病を使うな!」

部屋の奥から罵声が聞こえると、アドナは主寝室に駆け寄り、「乱暴するな! 高齢者だぞ!」と止めに入ったが、逆にワシリィに羽交い締めにされた。

「そこまでだ、別嬪さん。あんたもお呼びだよ。エルメイン先生が診察室でお待ち兼ねだ」

ガル爺さんが両手両足を拘束され、穀物袋のようにポリスカーに押し込められると、アドナはワシリィに「離せ」と命じた。

「あんたに拘束されなくても、自分から歩いて行くさ。何度も通った悲しみの道だ。いつか同じ場所に行けるなら、死など怖くない」

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石田 朋子

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