楽園 ~無数の花に生まれ変わって、永遠に生きたい

    第三章 楽園 ~ガーディアン(3)

    STORY
    ガーディアンの導きにより、アドナとスティンはついにタワーの外に出る。そこで目にしたものは……

    目次

    脱出に向けて ~第七倉庫

    その頃、アドナとスティンはカプセル・エレベーターの中で身を寄せ、ドア上方のインジケーター・ランプがどんどん下階に向かうのを固唾を呑んで見守っている。

    ここから先の展開は想像も付かないが、今日までの自分とガーディアンを信じて、真の楽園を目指すだけだ。幾多の苦難を経て、ようやくここまで辿り着いた達成感が徐々に胸に広がりつつある。

    そうして、ようやくエレベーターが旧司令部に到着すると、二人は顔を見合わせ、

    「いよいよだな」

    「うん」

    と息を弾ませてキャビンを降りた。

    そこは3階と同じように他から隔絶された小さなエレベーターホールで、右と左の両側に全く同じ型の鋼製ドアがある。スティンが向かって右側のドアを開けようとすると、「そっちはメインフレームだよ!」とアドナが叫んだ。

    「ガーディアンとの約束だ。開けない方がいい」

    「そうだった……忘れてた」

    スティンは冗談とも本気ともつかぬ口調で答えた。

    「でも見たかったな。どんな様子なんだろう」

    「いつか君にもその資格が与えられるよ。こんなに頑張ったんだから」

    だが、スティンはまだ名残惜しそうに立ち尽くし、ドア一枚で隔てられた向こうの世界に思い巡らせている。

    「だが、本当にこの先はメインフレームなのかな」

    「どういうこと」

    「扉を開けたら、そこは宇宙だったりして」

    「そんな雰囲気だね」

    二人は今一度、顔を見合わせると、左側のドアを開き、東翼の北東角の第七倉庫に向かった。

    通路は真っ暗だが、ガーディアンが誘導してくれているのか、所々、フットライトが灯っている。それを手がかりに真っ直ぐ突き進むと、北翼の外周回廊に合流した。そこからは自然な窓明かりを頼りに東翼に進めばいい。

    それにしても、中層まで降りるだけで、これほど景色が異なるとは。いつも足元に見下ろしていた山々が今はジオラマのように目前に迫り、手を伸ばせば、すぐそこに届きそうだ。針葉樹も一本一本が際立つようで、地上(ゴール)までもう少しという実感が湧いてくる。

    二人は急ぎ足で外周回廊を進むと、北東角にある第七倉庫に行き着いた。両開きのドアに施錠はなく、部署名を記したメタルプレートが掛かっているだけである。

    中に入ると自動的に室内灯が灯り、二人は驚いたように周りを見回した。そこは倉庫というより山岳部隊の武器庫だ。100平米はある室内に、キャンプ用品はもちろん、衣類、携帯食、固形燃料、ナイフや小型銃器まで揃っている。

    「とりあえず二週間分の装備をして、ここを出よう。あとは運次第だ。ガーディアンの言葉が本当なら、それほど厳しい道程じゃない」

    「頑張るよ。決して弱音なんか吐かない」

    「じゃあ、君は食糧と衣類を揃えて。俺は寝袋と小道具を見繕う」

    二人はアウトドアの衣類に着替えると、二手に分かれて物品を選んだ。壁際のカンファレンステーブルにキャンプ用品を積み上げながら、アドナはこれまでにない高揚感を覚える。

    たとえこの身は男性になっても、スティンを思う気持ちに変わりはない。あるいは身体が変化することで、憧れも友情に変わるかもしれない。他のコミュニティに合流すれば、身体に埋め込まれたインプラントを取り出すことも叶うだろう。訳あって生み出された命だ。息ある限り、希望を失わずに生きたい。

    一通り物品が揃うと、二人は高機能衣類やユニークなアウトドア用品、長期保存の宇宙食などに目を丸くした。

    「ねえ、見て。零下四十度にも耐える防寒インナージャケットだって。宇宙服と同じ素材で出来てるらしいよ。これなら零下の夜も平気だね」

    「こんな綿菓子みたいな宇宙食が一袋で500キロカロリーもあるのか。コーンポタージュ味にストロベリーシェイク味だって。こっちのプロテインバーは一本で800キロカロリー。調子に乗って食べてたら、逆に肥満で動けなくなりそうだ」

    「この浄水ストローも便利そうだよ。雨水でも、沢の水でも、何でも飲用可能にしてくれる」

    「このモバイル太陽発電装置も凄い。『月面でも充電可能』だって。本当かよ」

    まるで遠足にでも出かけるような気分で大小のバックパックに物品を詰め、高カロリー、高栄養の宇宙食で腹ごしらえをすると、アドナはスティンの左手に抗炎症剤の軟膏を塗布し、固定器具を付け直した。それから自身にも抗生剤を自己注射し、ハンディタイプの計測器でバイタルサインをチェックした。フロムが指定した抗生剤とは若干種類が異なるが、効果があると信じたい。

    アドナはスティンがバックパックを背負うのを手伝うと、「いよいよ外に出られるね」とスティンの顔を見上げた。

    「きっとどこかに仲間はいる。俺たちが最後の人類なんてことは絶対にない。地上0階(グランドフロア)の格納庫か、産業道路の休憩所で車が手に入ることを祈ろう」

    アドナは深く頷くと、スティンに寄り添うようにして第七倉庫を出た。

    永遠の楽園を目指して

    くちづけ

    そして、いよいよ20階。非常用エレベーターが基底部の最上階に到着すると、二人は揃ってエレベーターを降り、窓越しの絶景に息を呑んだ。

    地面は手が届かんばかりに近く、樹木の一本一本が模型のように細密に見える。決して夢ではなく、すぐそこに本物の大地が開けているのだ。アドナとスティンは顔を見合わせると、天にも昇るような気持ちで非常口に急いだ。

    二人が辿り着いたのは、20平米ほどの脱出用スペースだ。ウォールラックには脱出用パラシュートがずらりと並び、インストラクションのビデオが視聴できる埋め込み型モニターも設置されている。

    脱出口は高さ120センチ、横幅80センチの内側片開き窓で、窓の下には飛行機のタラップのような四段階の手摺り付きスチール階段が取り付けられている。パラシュートを装着したらステップを上がり、窓に背を向けて最上段に腰を下ろす。準備が整ったら、一つ目のレバーを引いて最初のバルーンを膨らませ、屋外に飛び出したら、直ちに二つ目のレバーを引いて補助のバルーンを膨らませる。万一、トラブルが発生しても、緊急用の紐を引けば予備のバルーンが膨らみ、パラセーリングのように安全に着地できる設計だ。

    「これなら君でも出来る。バックパックは俺が担いでいくから、君はビデオの通りにパラシュートを装着しろ」

    「『俺が担いでいく』って、どういうこと?」

    「俺はライトフォールの非常階段で行く」

    「待って。君が非常階段で行くなら、わたしも一緒に行く」

    「駄目だ。君はパラシュートで降りろ。二人で非常階段を下りるのは危険だ」

    「君一人だって危険だろ! 手に怪我してるのに、どうやって身体を支えるのさ。第一、建物の構造も分からないのに」

    「俺は毎日、エゼキエルのDNAモデルと向き合って、自分でタワーの設計図を復元したんだぜ? 内部のおおよその構造ぐらい、ガーディアンに聞かなくても分かる。それにあのフットライトを見ただろう? ガーディアンはまだ俺たちを見ている。途中で位置を見失っても、助けてくれるような気がする。それに怪我をしてるのは左手だ。建物の構造を考えれば、非常階段もライトフォールに沿って右回りの螺旋になっている。だったら階段を下りる時、手摺りは右側だ。どのみち俺は左側のレバーを引くことができないし、誰かがバックパックを担がなければ、荷物を持ち出すことはできない。二人ともパラシュートで脱出するのは無理なんだよ」

    「だったら、バックパックを一つに減らせばいい」

    「馬鹿を言うな! 休憩所で食糧が手に入るとは限らないんだぞ! 頼むから、君はパラシュートで行ってくれ。その方がはるかに安全だし、君が無事なら、俺の身に何かあった時、タワーに戻って助けを呼びに行くことができる」

    「いや……君と離れたくない」

    「何を言ってる。二人とも無事に降りれば、これからずっと一緒じゃないか。今だけだ、アドナ。頼むから言うことを聞いてくれ」

    「分かった……」

    アドナはスティンのバックパックに自身のバックパックを取り付けると、パラシュートの一つを取り出し、インストラクションを見ながら安全ベルトを装着した。

    と、その時。

    ドン! という音がして、スティンが壁にもたれた。

    「……スティン?」

    スティンは信じられないような表情で何度か目を瞬いたが、「いや、大丈夫だ」と目元を擦ると、窓際に歩み寄った。

    「窓を開けるぞ」

    開閉用ハンドルを回して、そろそろとガラス窓を開けると、強い風が吹き込み、一瞬、二人は目を細めた。だが、ガラス窓は強力な油圧式ドアクローザーで支えられ、風で吹き飛ばされることはない。スティンは窓を全開にして、アームストッパーで固定すると、アドナを階段の最上段に座らせた。やがて風に慣れ、気持ちも落ち着くと、二人は恐る恐る窓から身を乗り出し、果てしない大地を眺めた。

    「土の匂いがする。新鮮な緑の香りも」

    アドナが感嘆すると、

    「本当だ。大地って、本当に広いんだな」

    スティンも生まれ変わるような気持ちで山の向こうを見やった。

    「いいか。無事に着地したら、パラシュートは取り外して、真っ直ぐ西に向かえ。夕陽に向かって歩けば決して迷うことはない。西側面の中程まで行けば、大きな格納庫がある。建設時、物資の搬入出に使っていた作業用スペースだ。駐車場と繋がっているから、君も一目で分かるはずだ。そこで落ち合おう」

    「スティン……」

    「心配するな。きっと無事に辿り着ける。俺たち、力を合わせて、ここまで来たんじゃないか。だから大丈夫だ」

    「……スティン……」

    「ステファンだよ。俺の本当の名前はステファンだ。母が息を引き取る前、名付けてくれた」

    「ステファン……」

    「俺が一つ目のレバーを引くから、外に飛び出したら、迷わず二つ目のレバーを引け。どんな時も俺の目だけを見てろ。決して横を見たり、下を向いたりするな。俺の目だけ見てるんだぞ。分かったな」

    スティンが一つ目のレバーに手を掛けると、

    「アラル人の青年の話を覚えてる?」

    とっさにアドナが口にした。

    「君のプレーが好きだと言ったけど、そうじゃない。わたしは……わたしは……」

    「知ってるよ」

    スティンが微苦笑を浮かべると、アドナの目から涙がこぼれ落ちた。

    「君のその気持ちに俺はどう応えればいいんだろうな。ずっと一緒に居れば、俺の気も変わったかもしれないが、どうやらその時間も無さそうだ。生きて、アドナ。それだけが俺の願いだ」

    スティンはアドナに口づけ、アドナも夢中でキスを返した。

    永遠とも思える一瞬。

    胸の奥からほとばしるように熱い口づけを交わすと、スティンは一つ目のレバーを引き下げた。勢いよくパラシュートが開き、身体が空中に飛び出すと、アドナは直ぐさま二つ目のレバーを引いた。補助のパラシュートが大輪の花のように広がり、落下スピードが緩むと、アドナは大小三つのパラシュートに守られながら、ふわりふわりと大地に降りていった。

    その間もアドナはじっとスティンの目を見つめ、スティンもアドナを見守っている。だんだんスティンの姿が遠ざかり、顔も見えなくなっても、アドナはひたすら彼の立つ窓際だけを見つめ、祈るような気持ちで彼の無事を願った。

    楽園の光

    かなり風に流されながらも無事に大地に降り立つと、アドナはパラシュートを取り外し、辺りを見回した。太陽が出ているのに暗く感じるのは、完全に建物の陰に入っているからだろう。タワーを改めて地上から見上げると、それはもう超高層ビルなどというものではない、技術の粋を尽くした科学宮殿であり、国力を誇示する要塞であり、宇宙世紀を渇望する夢の跡のようでもある。また設計図では巨大な四角錐台に見えた基底部も、実際には大小様々な矩形の施設が取り囲み、さながら古代の王城のようだ。しかも、これらの建築物には、一目でそれと分かるエントランスもなく、装飾もなく、窓もはるか上方に嵌め込み式の長方形のガラス窓が等間隔に並んでいるだけである。ガーディアンは本当に正規の設計図を見せてくれたのか疑いたくなるほどだが、指示に従って、とうとうタワーの外に出ることが叶ったのだ。この先も信じて、歩みを進めるしかない。

    アドナはぶるっと身震いし、インナージャケットのファスナーを喉元まで閉めた。夕暮れのせいか、ずいぶん寒く感じる。生まれてこの方、空調の効いた屋内で過ごしてきたからだろう。これから風雨や霜、降雪も経験するのかと思うと、改めて自然の厳しさを痛感するが、自ら選んだ道だ。後戻りはない。それに今は地上を歩く道連れもいる。きっと南の補給地まで辿り着けると自ら励ましながら、西に向かって歩き始めた。

    それにしても、周りは恐ろしいほど静まりかえり、ゴミ一つ落ちていない。《隔壁》を締め切った時は三万人近い避難民がキャンプで暮らしていたそうだが、南の補給基地に移動する際、きっちり清掃までして立ち去ったというのだろうか。それとも時々、誰かが戻っては後片付けをしていたのだろうか。手がかりとなるものは何一つ残されておらず、きれいに片付いているのがかえって不気味なほどである。

    だとしても、この土の軟らかさはどうだろう。たっぷりと水気を含み、一足ごとに身体が沈み込むようだ。しかも一面に草が生い茂り、屋内農園とは比べものにならないほど青々としている。

    時間的には夜だが、太陽はまだ峰の上の方にあり、日没まで三時間はありそうだ。早くスティンに会いたい。息せき切らせてタワーの北側を突っ切り、ようやく西側の北角まで来ると、標識のある大きな駐車場が目に入った。格納庫もこの続きにあるのだろう。アドナははやる胸を押さえながら、足を進めた。

    と、その時。

    草むらに二匹のオオカミを認めた。一匹は見張り、もう一匹は草の間に顔を突っ込み、何かの匂いを嗅いでいる。アドナはその場に立ちすくんだが、オオカミは人間に慣れてないのか、アドナの姿に気付くと、一目散に針葉樹林の方に走り去っていった。だが、草むらの陰にバックパックのようなものが目に入ると、アドナは慄然とし、恐る恐る歩み寄った。

    スティンだ。

    バックパックを背負ったまま、上半身を少し横に向けるようにして、うつ伏せに倒れている。

    「スティン!」

    慌てて駆け寄ると、外傷はないが、呼吸が完全に停止している。

    「スティン! しっかりして、スティン!」

    何度も呼びかけ、肩を叩くが、スティンは麻酔がかかったように身動き一つしない。

    「そんな馬鹿な……スティン! スティン!」

    大声で叫ぶうち、アドナはシャルロットがクリーナークロスにたっぷり液体を染み込ませ、スティンに手渡したことを思い出した。

    『だって、私のせいにされたら困るもの』

    シャルロット! あの毒婦!

    脱出口でスティンがよろめいた時、気付くべきだった。

    「ああ……何てことを! ちくしょう! スティン、お願い、目を醒まして。スティン……スティン……!」

    呼べど叫べど、スティンは目を醒まさず、呼吸も戻ってこない。その間にも身体はどんどん冷えて、肌も土気色になっていく。

    「いやだ……わたしを置いていくな。お願いだから一人にしないで。スティン! ……スティン!」

    彼の身体に取りすがるうち、アドナは彼の右手に薄紫の花が握られているのに気が付いた。この近くに咲いていたのだろう。まだ新しく、甘い匂いがする。アドナは花を手に取ると、まだ生きているみたいに優しい彼の横顔に触れ、彼の口づけが勢いでも戯れでもないことを悟った。

    そうして、泣いて、泣いて、涙も涸れた頃、アドナは激しい悪寒に襲われ、ガタガタと身体を震わせた。まるで全身の筋肉が引き攣れ、関節も砕けそうに苦しい。バックパックから防寒用のアルミ製サバイバルシートを取り出し、全身に巻き付けるが、それでも寒気は収まらず、頭も割れるように痛い。やがて激しい嘔気に襲われ、胃の中のものを吐き出すと、少し血液が混じっている。

    (そうか――)とアドナは納得した。

    ガーディアン。お前は知っていたんだな。スティンが神経毒を盛られたことも、わたしが治りきっていないことも。だからあの時、言ったのだ。「永遠の楽園を目指せ」と。

    ふと耳を澄ますと、遠くでオオカミの鳴き声がする。一匹……二匹……仲間を呼んでいるのか、薄闇をつんざくように激しく吠え立てる。

    アドナはぶるっと身震いすると、涙を拭いて、後ろを振り返った。

    この冷たい土の上にスティンを一人置いてタワーに戻る気もないし、一人で150キロメートルの道程を踏破できるとも思わない。日ごと男の身体に成り果て、オオカミに引き裂かれるぐらいなら、いっそ……。

    アドナは登山用ナイフでスティンの肩に食い込んだバックパックのショルダーを切断すると、中身をばらして遠くに投げた。それからスティンの髪を綺麗に梳くと、身体をサバイバルシートでしっかり包んだ。

    ふと見上げると、燃えるような夕陽がタワーを照らしている。

    あれは生命の樹への道を遮るケルビムの剣の炎。

    だが、わたしたちはその炎を越えて、永遠の楽園に辿り着く。

    昔、わたしたちが住んでいた処(ところ)――飢えも苦しみもない本物のエデンに。

    それにしても、ガーディアンとは何ものだったのか。本当にシステムAIなのか。それとも、別の場所からわたしたちを監視する何かが存在するのだろうか。タワーを壮大な社会実験として。

    そうして、今一度、後ろを振り返ると、この世からとうに打ち捨てられたようなタワーが天空にそびえ立つ。懸命に生きる若者をあっけなく死に追いやり、他人の生き血を啜りながら、なお永遠の支配を願う《特別な人々》を頂点として。

    命を弄ぶ者たちよ。永遠に呪われろ。

    ケルビムの炎の剣で刺し貫かれ、地獄の業火で二度焼かれるといい。

    だけども、セス。ジュール先生。義に生きる人々にはどうか道を開き、その行路を明るく照らして欲しい。地上に再び人の世が栄え、幸福で満たされるように。

    アドナはメディカルバッグから筋弛緩剤のアンプルを取り出すと、注射器に薬液を吸い上げ、スティンの傍らにそっと身を横たえた。

    土の匂い。緑の風。

    ここでは全てが自然に与えられ、人が養分液をやることもなければ、細かに室温を調整することもない。春になれば自然に芽吹き、秋には豊かに実を結ぶ。屋内農園に比べれば、この大地こそ本物の楽園だ。そして、彼と一つの塵になり、無数の花に生まれ変わって、永遠に生きていきたい。

    アドナはスティンの亡骸にぴったり寄り添うと、左手を強く握りしめ、青く浮き出た橈骨静脈に注射針を挿し込んだ。そして、全ての薬液を注入すると、静かに目を閉じ、夕陽の向こうに広がる楽園を思い描いた。

    そこには黄金の木の実が生い茂り、スティンも、ガル爺さんも、ベラも、二度と飢えに苦しむことはない。食べたい時に食べ、眠りたい時に眠り、いつまでも安らかに暮らすことができる。

    そして、時々はスティンと口づけを交わし、優しい木の下で愛し合う。本当のわたし――DNAの記憶に、神に創られし肉体をまとって。

    本当にそんな楽園があるかどうかは分からない。

    分からないけど、信じていたい。

    希望って、そういうものだから。

    (了)

    前のエピソード
    医療と救済 ~愛する人を助けてこその医療 ㊲ITシステムの再起動で領内が停電したことからパニックになった市民が病院に押しかせる。ジュール医師は懸命に対応するが、体力も限界だ。そこにフロムがやって来て、上階の高機能病棟が空いていることを告げる。


    執筆に参照した引用・参考文献はこちらです。

    目次
    閉じる