メカニカルフロアと光ダクト
設計図のDNAモデルと分割のルール

ゴトッ。

古い縦型光ダクトの中で金属音がし、下方の水平ダクトと交差するT型接合部の底部から避難用縄梯子がそろそろと降りてきた。長さ10メートル、ロープ径12ミリ、ステップ幅35センチの避難用縄梯子だが、耐久性に優れたビニロンロープを使用し、最下階の居住ユニットから地下のメカニカルフロアに降りるには十分だ。縄梯子の先端がメカニカルフロアの中空に張り巡らされたパネル式吊り棚の足場に到達すると、ヘッドライトの明かりを頼りに二人の侵入者がそろそろと降りてきた。

一人はスティン。もう一人は、アドナがゲーム場で鉢合わせたグラマラスな美女ベラだ。

二人はストレッチ素材の黒いスポーツウェアを身につけ、上腕と足首に蛍光黄緑の反射バンドを付けている。スティンは背中に小型PCの入ったボディバッグを背負い、ベラはくびれた腰に小道具の入ったウェストポーチを巻き付けている。

三十八歳のベラはグラビアの表紙を飾れるほどの美女だが、二十五歳のスティンと並ぶと、どうしても薹が立ったような印象は否めない。自分でも年の差を意識してか、スティンの前では妙にお姉さんぶったり、知恵者のように振る舞ったりする。そのくせ妙に女をアピールするところがあり、近頃はスティンもそれが鼻について、ベラと距離を置くようになっていた。

二人がメカニカルフロアに侵入するのに使っているT型光ダクトは、北西角の外壁に沿って取り付けられた採光用の導管だ。先端の採光部は140階、タワーの外側に突き出た幅90センチの張り出し面にあり、メカニカルフロアまで真っ直ぐに伸びている。さらにその先端はメカニカルフロアの中空を走る水平光ダクトに接合し、垂直に採り入れた光を横方向に分散していた。

二人はいつものように吊り棚足場を50メートルほど先に進むと、大人一人がやっと通れるほどのスチールメッシュ階段を降り、古びたカゴ式業務用エレベーターに乗り込んだ。

七階層を貫く広大な空間には、上下水、給電、換気、化学処理などインフラ設備を中心に、配管、配線、換気ダクトなどが網の目のように張り巡らされ、その隙間をスチールメッシュのキャットウォークや階段が補っている。随所に手摺りや鉄柵も設けられ、普通に歩行する限り転落の心配はないが、それでも照明の消えた広大な空間をヘッドライトと懐中電灯の明かりだけで移動するのは一骨だ。まして彼等の所持する設計図は完成されておらず、場所によっては勘で動かなければならない。

それでも彼等がこの二年間、悪臭に苛まれながらも探索を続けたのは、《隔壁》の外に通じる経路を見つけ出す為だ。《隔壁》といっても厳密には遮断システムの総称であり、どこもかしこも核シェルターのように鉄製扉やシャッターで閉ざされているわけではない。彼等が光ダクトを伝ってメカニカルフロアに行き来するように、圏外に通じる経路は今も幾つか残されている。ただ圏内で共有されている汎用設計図には記載されていないだけで、オリジナルの設計図には明記されている。早い話、執政府が掴まされたのは一般技術者向けの汎用コピーで、かつて旧司令部の上級職員が所有していた正規の設計図には、隠し扉に隠し部屋、隠し金庫や武器庫の間取りに至るまで、詳細に記載されていた。

スチールメッシュの業務用エレベーターがガタゴトと音を立てながら、メカニカルフロアの最下層の床面『LEVEL0』に到着すると、スティンはさっさとカゴから降り、ベラは黙ってスティンの後に続いた。

湿ったコンクリートの床面を歩き、下水処理設備の真下まで来ると、ベラはふーっと息を吐き出し、

「相変わらず嫌な臭い。何度来ても、この悪臭には慣れないわね」

と顔をしかめた。

「仕方ないさ。肥だめのど真ん中だ。八千人分のクソがこの中を循環してる。クソな奴らのクソの臭いが香ばしいほどだ」

「クソ、クソって言わないで! 意識しないようにしてるのに」

「だが、クソはクソだろ。言い方を変えたところで、クソが黄金に変わるわけじゃなし。しかし、いつ見ても壮観だな。上階の居住ユニットから流れてきた人糞がメカニカルフロアの下水処理タンクを通って、一部は肥料、一部は化学物質にリサイクルされる。そして、それを口にした人間のクソが再び下水処理タンクに集められ、肥料と化学物質になり、再び人の口に入る。まったく素晴らしいクソ・システムだ。あまりの香ばしさに目眩がする。人類なんぞ、永遠にクソでも食ってりゃいいんだ」

「あなたの下品な物言いには、もううんざり。やる気が無いなら帰りましょう。私も明日は仕事が早いのよ。あなたみたいに昼過ぎまで呑気に寝ていられる身分じゃないのよ」

「俺の物言いが気に入らないなら、一緒に来なければいい。何が何でも君の助けが必要なわけじゃなし。恩着せがましく手伝われるくらいなら、あと十年かかっても一人でやり遂げた方がいい」

「本気で言ってるの? ジェシカが変死して、皆が怪しんでるのに、あと十年も隠し通せると思ってるの?」

「俺は子守に通ってただけ。何を怪しむことがある」

「その割に、ずいぶん熱心に勉強を見てたじゃないの。あの娘、どう見ても、十二歳の少女ではなく大人の体付きだった。子守なんて誰が信じるの」

「いい加減にしろよ! 俺だって、理性もあれば良心もある。十二歳の少女に手を出すほど恥知らずじゃない!」

スティンが激しい口調で言い返すと、ベラも押し黙り、いつの間にか逞しく成長した幼馴染みをまじまじと見つめた。

初めてスティンを見たのは赤ん坊の時だ。ベラは十三歳で、スティンは生後三ヶ月だった。母親はすでに死んで、祖父のガル爺さんが赤ん坊の世話をしていた。むろん執政府には内緒で、父親が誰かも分からない。そもそも不妊手術が義務づけられたこの《天都》で、自然妊娠すること自体が青天の霹靂だった。

だが、爺さんも、ベラの父親ヘムも、さながら厩(うまや)の嬰児(みどりご)を匿うようにスティンを育て始めた。ベラも少女ながらに事の重大性を理解し、赤ん坊の世話をするようになった。

父親のヘムはIT室の上級アドミニストレータだったが、一人でいることを好み、ガル爺さんだけが話し相手だった。家でも仕事の話をすることはほとんどなく、職場に泊まり込むことも多かったが、父の不貞を疑ったことは一度としてない。母とも仲が良かったし、ベラにとっても良き父親だったからだ。

だが、母はベラが二十歳の時、公共スペースの吹き抜けから転落死し、その三年後、父も奇妙な死に方をした。いつものようにIT室から帰宅し、お腹いっぱい食べた後、「眠い」と言ってリビングのソファに横になり、そのまま息絶えたのだ。痛いとも苦しいとも言わず、まるで時計の針が突然止まるかの如くだった。運び込まれた先で医師が型通りの検死を行い、「急性心不全」と診断したが、ベラはどうにも合点がいかず、今も父は毒殺されたのではないかと疑っている。母の転落死も同様だ。高さ1メートルもある吹き抜けの手摺りを、どうやったら不注意で乗り越えることができるのか、当時現場にいた一人一人に聞いて回りたいぐらいだ。

その後、ベラは上階の暮らしを捨て、住まいを転々としながら、スティンとガル爺さんの生活を助けた。汚臭のする地下探索に辛抱強く付き合うのも、スティンだけが理由ではない。我が身も決して安泰ではないことを強く自覚しているからだ。

そんなベラにとって、スティンの存在は一言では言い表せないほどだ。

この秘密の子供は十歳を過ぎるまで、ひょろりとした、よく泣く少年だった。ベラも宿題の合間にミルクを飲ませたり、オムツを替えたり、一所懸命に尽くしたが、身体も大きくなると、お腹が空いただの、トロピカルパークに行きたいだの、毎日のように駄々をこねては勉学で忙しいベラの手を煩わせた。

だが、十二歳でビリヤードを習得すると、繊細さは鋭さに、勝ち気は向上心に取って代わり、大人も太刀打ちできないビリヤードプレイヤーに成長した。腕利きのコンピュータ整備士だったガル爺さんの血筋なのか、頭も非常によく、学校に行かなくてもデジタル教材であっという間に義務教育を終え、高等課程も数年でマスターした。彼がビリヤードに強いのも、物理や数学に関しては学士レベルの知識を身に付けているからだ。

そんなスティンと初めて肉体関係をもったのは、彼が十八歳の時だ。今ここで妥協したら、後々自分も苦しむことになると頭では分かっていたが、少しばかりの好奇心もあり、好きなようにさせた。それから二度、三度、多い時は一日三度も要求されて、どこまで旺盛なのかと呆れ果てたが、だんだん慣れてくると、意外と彼が長けているのに気が付き、ベラも自分から楽しむようになった。

かといって、スティンと恋人同士だったことは一度もなく、愛慕の欠片もないことはベラ自身が一番よく知っている。裸になれば、不妊手術を受けてないことが一目で分かる為、十三歳も年の離れたベラを性の捌け口にしているだけで、もし美人で、聡明で、彼と秘密を共有できる心優しい女性が現れたら、ベラのことなど顧みもしないに違いない。

そして、近頃は存在すらも気に入らないのか、一緒に地下に降りてもベラの肉体に興味を示すこともなく、探索が終わると、まるでセックスレスの亭主みたいにそそくさと上に戻ってしまう。もう彼とは距離を置き、生活の援助も止めようと考えたりもするが、七年間もセックスの相手をさせられた挙げ句、愛されもせず、感謝もされず、体よく追い払われるのも癪に障る。

そんなベラの胸中を知ってか、近頃のスティンはいっそうよそよそしい。今も彼女から離れて壁際に腰を下ろすと、ボディバッグから小型PCを取り出し、設計図のチェックを始めた。

ベラには詳しいことは分からないが、どうやら北翼の外壁に沿って、3階のIT室から旧司令部に通じるガイドレール式の小型エレベーターが存在するらしい。《隔壁》を締め切る前、トップクラスの管理者が極秘裏に使っていたらしく、圏内で参照される汎用設計図には一切記載されていない。

一通り設計図のチェックが済み、スティンが少し疲れたように目元を擦ると、「あなた、大丈夫?」とベラがお姉さん口調で気遣った。スティンが「ああ」とぶっきらぼうに答えると、ベラは彼の手元を覗き込み、

「まったくガル爺さんは天才ね。六十億個に分割された設計図をここまで復元するなんて。いくら私の父が手を貸したとはいえ、一人で出来ることじゃないわ。あなたもかなり手伝ったでしょうけど、爺さんの執念と集中力には恐れ入るわ」

と素直に感嘆した。

設計図のDNAモデルと分割のルール

スティンが「頭のおかしな爺さん」と称するガル爺さんは、ヘムから受け継いだ数種のプログラムと資料を元に設計図の復元を手掛け、二十五年以上かけて九割近くまで復元した。スティンも十歳の頃から見よう見まねでガル爺さんを手伝うようになり、ここ二年間は自ら地下に潜って、《隔壁》の外に出る経路を探っている。

「だが、旧司令部の間取りや地上0階(グランドフロア)に通じる階段、タワーの主要な出入り口や基底部のエネルギー施設など、肝腎な部分は失われたままだ。圏内に関しても、3階のIT室や4階のバイオバンク、隠しエレベーターなど、重要な設備は復元できない箇所が多い。復元の手がかりとなるメタデータも削除され、ファイル変換もできないからだ」

「だけど、おかしな話ね。市民の中には《隔壁》を締め切る前からタワーで暮らしていた人もいるのに、どうして誰も分からないの? いくら高齢化して、記憶が曖昧といっても、フロアの構造ぐらい知っているでしょうに」

「そうでもないさ。君だって、君の暮らすフロアの間取りや《天都》の構造について聞かれたら、曖昧にしか答えられないだろう。営繕課の職員でさえ、各フロアにいくつ居住ユニットがあり、どの階にどんな設備があるのか、設計図なしに正確に再現するのは不可能だ。日頃、意識しない人間の記憶などそんなものさ。いくら《隔壁》を締め切る前からタワーで暮らしていたからといって、一般職員は基底部の宿泊施設、VIPはVIPフロアに固定され、タワーの隅から隅まで歩き回ることもない。まして一部のクオリファイドしか出入りできなかった旧司令部の細かな間取りなど、誰も知らないし、興味もないさ」

「ね、もう一度、詳しく教えて。私、いまいち復元のルールが理解できないのよ。ヒトゲノム……だっけ? 遺伝子が復元の手がかりになるのよね」

「遺伝子でなくてDNAだ。塩基配列だよ」

「そう、それ。遺伝子とDNAとヒトゲノムの違いがいまいち分からないのよ。前に父から教わったけど、さっぱり……」

「ゲノムは一冊の本に喩えると分かりやすい。たとえば、マウスの生命情報を収録した本があるとする。『DNA』は本を構成するページの並びだ。マウスの外見、身体組織の機能など、生体に関する情報が25億ページにわたって記載されている。ページの並びは、どのマウスでもほとんど変わらない。だから一匹のマウスのDNAを知ることは、他のマウスの生命情報を理解する上で重要な手がかりとなるんだよ。『遺伝子』は、ある形質について、親から子に伝える遺伝情報が記載された領域だ。白いマウスなら、体毛の色や長さ、尻尾や手足の形状について書かれたページが複数存在する。25億ページ中の、どの場所に、どんな情報が記載されているのか、詳しく調べるのがDNA解析(シークエンス)と呼ばれる作業だ。ページの位置と内容が特定できれば、他のマウス本のページと差し替えて、生命情報を書き替えることもできる。黒いマウス本に、白色の形質を伝えるページを差し込んで、黒マウスの両親から白マウスの子供を生み出すみたいにね。また一口に白マウスといっても、身体の大きい個体もいれば、野外より屋内を好む個体もいて、性質も体型もまちまちだ。99パーセント共通のDNAを有しても、個々に生命情報の異なる部分がある。これらを包括して一冊の本に纏めたものが『ゲノム』だ。本のページ数は、最小でも十数万、ヒトの場合、六十億以上に及ぶから、地上のあらゆる生物のゲノム本を読み解くには、GEN MATRIXのような超高速演算装置が必要なんだよ」

「仮想空間で、遺伝子を切ったり、繋いだりする、というやつね」

「まあね。数十億ページというと、途方もない量に感じるが、どの生物も、本を構成するページの種類はAGTCの四つしかない。そしてその大半が、ページの並びも、遺伝情報が記載された場所も共通している。ゆえにテキストを切ったり貼ったりするように、ゲノム編集も可能になるわけだ」

「それと設計図にどんな関係があるの?」

「六十億というと、途方もない量に感じるが、どの生物も本を構成するページの種類はAGCT(U)の四種類しかない。そして、その大半が、ページの並びも、遺伝情報が記載された位置も共通している。ゆえに、テキストを切ったり貼ったりするように、ゲノム編集も可能になるわけだ。DNA解析を中心に、分子生物学と情報科学の相性がいいのは、『本に書かれたテキストを分析・整理・検索する』という点で手法が似通っているからだ。たとえば、ある細菌の塩基配列は『TTGACAT・・』のような文字列で表記されるが、テキストデータを高速処理するノウハウを生かせば、生物をデジタルデータとして保存し、編集することも可能になる。そして、タワーの設計図も、生命情報データと同じ要領でテキスト形式に変換され、暗号化されている。幾何学的発想では絶対に解決できない所以だ」

「つまり、タワーの設計図はゲノムという訳ね」

「まあ、それに近い。設計図は『エゼキエル』という女性のDNAモデルを元に六十億に分割されている。遺伝子保存プロジェクトの中でも最高機密のヒトゲノムだ」

「その人は今も生きているの?」

「分からない。ヒトゲノムに関するGENBOOKは原則匿名だ。女性という以外、何も分からない。『エゼキエル』は被験者となった女性のコードネームで、複数の研究者が解析に携わっている。だが、俺と爺さんが閲覧できるのは、立体化された塩基配列のDNAモデルと遺伝子マップ、位置情報に関するいくつかのアノテーションだけだ。その他のデータは暗号で封印されて、《十二の頭脳》の共有認証でしか開けない。俺たちには、なぜ彼女が研究対象となったのか、どこで、どんな暮らしをしていたのか、一切分からない。ただ一つ確かなのは、彼女が遺伝学的に非常に価値のある研究対象だったということだ」

「だけど、六十億個って凄まじい数ね。いくらDNAモデルが存在するからといって、正確に組み上げるのは至難の業でしょう」

「そうでもないさ。一般に分割ファイルはランダムに思われているが、実際にはAGTCの四種類しかない。つまりDNAの二重螺旋だ。テキスト化されたファイルを立体画像にデコードするのも、ヘムが作成してくれた復元プログラムを使えばワンクリックで自動処理できる。ただPCに恐ろしく負荷がかかるのと、立体画像に復元しても、最終確認は目視する他ないから手間がかかるだけで、作業自体は意外とシンプルなんだよ」

「そんな簡単なことが、なぜ他の技術者には出来ないの?」

「メタデータも、画像データも、ファイルの中身が全てアラル語に置き換わっているからだ。一般の技術者にはメタデータを読み解くことすらできない」

「でも、どうしてそこまでする必要があったのかしら。ゲマトリアにしても、設計図にしても、万一、修復できなかったら一般人にまで被害が及ぶのに」

「それはタワーの本質が軍事施設だからさ。遺伝子保存もそうだが、主要なミッションは宇宙植民を見据えた半閉鎖式空間の確立だ。核戦争やパンデミック、局所噴火といった地球規模の災難からVIPの安全を確保し、人類社会の再建と動植物再生のシナリオをシミュレーションする目的も大きい。いわばタワーは疑似地球環境なんだよ。それは将来、宇宙植民の基本技術となる。そこに軍事が絡んでいるのは、結局、宇宙に進出しても、最大の脅威は武力に変わりないからだ。何かで揉めた時、真っ先に狙われるのは、原子炉であり、通信衛星であり、上下水システムだ。とりわけ清浄な水の確保は生命のみならず、システム維持にとっても重要な課題だ。タワーの設計者が垂直展開に拘ったのも、水循環システムの実験を行う為だと聞いている」

「意味が分からないわ」

「宇宙植民において死活問題となるのは酸素と水の確保だ。酸素は水や二酸化炭素から生成できないこともないが、飲料水や産業用水としての水を確保するのは非常に難しい。惑星表面に存在したとしても、地下や大気中など、地球とはかけ離れた状態にある。一つのモデルケースとして、寒冷な外惑星で大量の水源を得るには、地下数百メートルに存在する氷床に揚水管を到達させ、熱で氷床を溶融する必要がある。さらに液状になった水と土の混合物を中空糸膜のフィルターで濾過し、濾過水だけを地上の浄水施設に吸い上げて、居住エリアにくまなく給水するシステムが不可欠だ。一方、都市部で生じた下水を効率よくリサイクルし、一部は再利用、一部は地下に還元する必要もある。これらを精密にシミュレートするには、実物大の模擬施設を作るのが最適だ。その点、タワーの建設地は最適だった。周りを山に囲まれ、気候は年間を通じて寒冷。近くに清涼な川が流れ、春には大量の雪解け水が地中に染み込む。実際、復元した設計図を見ると、水循環システムの吸水口は分厚い有機物の堆積層をぶち抜いて、地下水脈に深々と突き刺さり、その縦長はゆうに1000メートルを超える。そして、このシステムは良質な水を確保する以外に、凍土の研究にも使われる予定だった。地学や生物学の知見を得るためにね。ところが、生物大量死をきっかけに、タワーの関係者のみならず、家も仕事もなくした避難民まで押し寄せたので、元々の開発者や高額寄付者から不満が噴出したわけさ。そりゃあ、世界最高の軍事機密であり、VIP向けのシェルターでもあるタワーが難民キャンプになったら、大口出資者は面白くないだろうよ。ヘムの話では、あくまで機密を守ろうとするVIPと、下々まで救済しようとする《十二の頭脳》の間で何度も口論になり、やがてはGEN MATRIXの管理権を廻る争いになったらしい。だが、最終的に《十二の頭脳》の手に委ねられたということは、システムアドミニストレータの買収に失敗したからだろう。VIPの有り難い申し出にも首を縦に振らなかった――まあ、そんなところだ」

「つまり自死したヴィクトル・マジェフスキーのこと?」

「多分ね。彼が《十二の頭脳》の側に付かなかったら、タワーはその後も軍事施設として開発が進み、VIPとクラシファイドだけが暮らす夢の聖塔になっていただろう。タワーはそれ自体が天井知らずの情報資産なのさ。そしてVIPの隠し金庫でもある」

「ね、設計図は絶対に完成させなければならないの? 九割復元して、おおよその構造は分かっているなら、強行突破できるんじゃないの?」

軍事施設としてのタワー

「分かってないな。一般にタワーは円柱の超高層ビルと思われているが、厳密には古代バビロンのジッグラト(聖塔)みたいに、床面積の異なる階層が段々に積み重なった円錐台の塔だ。それも一律フラットではなく、あるフロアは三階吹き抜け、あるフロアはロフト式。屋内水耕の実験で、太陽光を建物内部まで効率よく取り入れる為に、一部の床面を傾斜状に設けているフロアもある。それに避難経路はあっても、最上階から地上まで、真っ直ぐ通じる階段やエレベーターはなく、非常時にはシステムAIのガイダンスに従って、救命ポッドかパラシュートで脱出する仕組みだ。だから冗談抜きで、建物内で経路を見失うと、機械室に迷い込み、死に至る危険性もある。上層はともかく、中層から基底部にかけては照明もなく、エレベーターも動かない。君なら正確な間取りも分からない蟻の巣みたいな空間を勘と懐中電灯だけで移動できるか? それでなくても、《隔壁》から下は害獣や害獣の巣窟と言われているんだぜ?」

「そうだったわね……」

「タワーは単なる超高層ビルじゃない。わざと間取りも動線も分かりにくくしている。だから周辺に避難民が押し寄せても、群集がタワーになだれ込むことはなかったんだ。どこに一般の出入り口があるのか、外側からは窺い知れないから」

「なんだか空恐ろしいわね」

「そうさ。俺たちが住んでいるフロアの足元には、得体の知れない世界が広がっている。政府公報など真実の十分の一も伝えてない。というより、彼等だって知らないんだ。肝腎要の設計図が失われ、旧司令部のメインフレームにアクセスすることも叶わなくなったから」

「杜撰ね」

「そうさ。これは綿密に練られた計画じゃない。《十二の頭脳》の死の後、ろくにテストもしないまま、ばたばたと《隔壁》を締め切った。俺が地下を探索するのも、それが理由だ。メカニカルフロアの直下、《隔壁》の真下に全ての謎を解く鍵がある。それさえ手に入れれば、エルメインの命(タマ)を取ったも同然だ。俺は必ずタワーの外に出る。上の奴らと心中するなどまっぴらだ」

スティンが吐き捨てるように言うと、ベラは彼の横顔をまじまじと見つめた。ベラもエルメインの全てを知り尽くしているわけではないが、単なる権力者でないことぐらい、彼女にも理解できる。威勢がいいのは結構だが、本気でエルメインとその支持者に勝てると思っているのだろうか? その点が、真っ直ぐに自分の可能性を信じられるスティンと、それなりに世間を知っているベラの違いでもある。

「ガル爺さんの具合はどうなの?」

「相変わらずさ。むしろひどくなっている。先日も夜中に爺さんに叩き起こされて、飯はまだかとどやされた。今朝もキッチンでわめいて、寝室に連れ戻すのに一苦労だ。その前は、飯に毒を盛られたとバルに怒鳴り込み、調理室にまで乱入しようとした。幸いマスターが心得ているから大事には至らなかったが、今に包丁を持ち出して、人を傷つけるのではないかと本気で心配する」

「医師に診せることはできないの?」

「そんなことをすれば、爺さんの市民IDの書き換えが一発でばれる。身分証偽造、行政ネットワークの不正侵入、すべての罪状で起訴されて、爺さんも俺も死ぬまで刑務所だ」

「いっそのこと法務局に行って、何もかも正直に話せば? 役人も皆が皆、悪人とは限らないし、あなたの場合、情状酌量の余地も十分にある。今のうちに自首すれば、刑も軽くて済むんじゃないの」

「そして、設計図の秘密も話すのか? 話した途端、俺も爺さんも、下手すれば君まで殺されるぞ」

「……」

「俺はエルメインやVIPと直接対峙したことはないが、奴等の狙いがタワーそのものだということぐらい分かる。奴らのゴールは設計図やGEN MATRIXの再起動じゃない。メインフレームを含むITシステムの掌握だ。かつてヴィクトル・マジェフスキーが所轄していたメインフレームの最高管理者権限を手に入れれば、GEN MATRIXはもちろん、隠し金庫も、軍や政府の最高機密も、思いのままに操れる。そして、その先にあるビジョンは何か。ここを新たな王城として再び社会を支配することだ。社会奉仕の名目で市民にツルハシを持たせ、衣食住と引き換えに荒れた土地を開墾させる。その為には、奴隷を健康な状態で一日でも長生きさせるのが肝要だ。GEN MATRIXを使えば、非人道的な人体実験を繰り返さなくても、ヒトゲノム編集を効率よくシミュレーションできる。また家畜や農作物の開発も簡素化されて、より高品質な食物を短期間で量産することができる。奴隷もそこそこ健康で、衣食住が保証されるなら、多少の重労働も厭わないし、むしろ社会奉仕と受け止め、自ら勤勉に働くようになる。そのように政府広報や学校教育で刷り込まれるからだ。ある意味、この社会こそ楽園かもな。疑問さえ抱かなければ、快適な都市で暮らし、誰もが衣食住にありつける」

「でも《特別な人々》の奴隷であることに変わりはないでしょう」

「そのように意識する方は少数さ。現代の奴隷は鎖で繋がれるのではなく、物資と労力の取引で生き道を得る。仕事が生き甲斐と言われたら、誰も取引とは考えず、自ら喜んで労力を捧げるようになる。奴隷を騙す最上の方法は、目的をすり替えることなんだ。タワーも《特別な人々》の高額寄付金で建設された。今、市民が平和に暮らせるのも自分たちのおかげと思っている。そして、市民もそうした人々に擦り寄って、衣食住を得ている。どっちもどっちの共生関係だ。だから、この問題は永久に解決しない。構造が変わることもない。それが嫌ならタワーから出て、一から自力で土地を耕し、岩山の洞窟に暮らせという話さ」

「でも、あなたは出て行くんでしょう」

「虫けらみたいに殺されるよりマシだからな」

「そこまで思うなら、あなたの好きにすればいいわ。遅かれ早かれ、私たちの未来には破滅しかないもの。私の父のように、訳も分からぬまま命を奪われるより、最後まで人間として抗った方が幸せなのかもしれないわね」

ベラが深い溜め息をつくと、スティンもアドナの顔を思い浮かべ、

「こんな時代に希望なんて言葉を口にできる人間は、希代のペテン師か、頭がお花畑の庭師ぐらいさ。優しい気持ちは理解できるが、優しさだけで人は救えない」

と自分に言い聞かせるように言った。

「ところで、ネズミの噂だが、君、まさか天井のスピーカーを踏み抜いた後、そのままにしなかっただろうね」

「何のこと」

「スプリングクランプ方式の天井埋め込み型スピーカーだよ。この前、暗がりに足を取られて転倒しただろう。その時、スピーカーの突出部を踏み抜いて、スピーカー本体が落下した。君は慌てて通風ダクトのアルミテープを引っ剥がし、詰め物みたいなことをしていたが、本当はろくに塞ぎもしなかったんじゃないか」

「でも、天井よ」

「天井でも、あの下はかつて動物飼育ユニットがあった場所だ。《隔壁》を締め切った後、実験用マウスやウサギがどうなったか誰にも分からない。全て処分したのか、それとも放置したままか。中には停電と同時に逃げ出して、勝手に繁殖したのもあるだろう。頭のいいネズミは1メートル以上ジャンプすると言うぜ。まして背の高いキャビネットや吊り下げ式ライトのある実験室なら尚更だ。メカニカルフロアの臭気に引き付けられて、いくらでも入ってくる。まあ、あの時、俺も近くに居たから君一人の責任とは言わないが、それにしても不用心だ。今ばれたら、爺さんやヘムの苦労も水の泡になる」

「不用心というなら、あなたも似たようなものでしょ。上階のエリートと親しく話し込んで、ビリヤードまで教えてた」

「教えたら、どうだってんだ。また小娘みたいに焼き餅か」

「あなたにゲイの気があるとは思わなかったわ。前から相当な好き者だと思ってたけど、相手が可愛いと男も女も見境がないのね。それで、いつやるの? あの子も地下に呼び出すの?」

「いい加減にしろ! 俺は遊びで地下に来てるんじゃない!」

「言っとくけど、ここであなたと関係できるのは私だけよ。いつか気が変わって、もう一度お願いしますと頭を下げられても、私の方は願い下げだから」

「それこそ願ってもないことだ。君の頭には俺の身体を繋ぎ止めることしかない。なんだかんだで協力するのも、それが目当てだろう。本気で俺の身を案じたこともなければ、幸福を願ったこともない。俺の方こそ被食者さ。ニンフォマニアみたいにベタベタしやがって」

「少しは口を慎めばどうなの! 毎日頭のおかしい爺さんに罵られているからといって、私にまで当たり散らさないで!」

「これ以上、君の助けは要らない。ここから先は俺一人でやる」

「一人で出来るもんですか」

「やるさ。俺もいつまでも君のペットじゃない」

スティンは冷然と言い放つと、その場にベラを残して立ち去った。

Kindleストア

SF医療ファンタジー
TOWER

About the author

MOKO

作家・文芸愛好家。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚の小説を手がけています。

章立て

タグ