(なんて下品なことを口にするんだろう!)
情けないやら、悔しいやら、一瞬でも心を奪われた自分が馬鹿みたいだ。
目に涙を浮かべて、ずんずん通路を歩いていると、いきなり後ろから腕を掴まれた。
何事かと振り返ると、少女の母親だ。先程とは打って変わって、すがるような表情に、アドナも構えを正し、「どうなさいましたか?」とやさしい口調で尋ねた。
「あなた、病気に詳しいの?」
「専門家ではありませんが、心得はあります」
「だったら、来てちょうだい」
「娘さんがどうかしたのですか」
「夕べから様子がおかしいの」
「それなら一緒に救急外来に行きましょう」
「いいから来てちょうだい」
母親は急かすように彼の腕を引っ張った。
不審に感じながらも、母娘の住まいに戻ると、母親は人目を憚るように玄関ドアを開き、アドナを中に入れた。
住まいは2LDKの一般的な間取りで、廊下の右側に主寝室と子供部屋、左側にキッチンとリビングがある。室内は清潔そのもので、ネズミが荒らした形跡もなければ、日常的に虐待が行われている風でもない。リビングのサイドボードには、母娘のデジタル写真や少女が手作りしたと思われるビーズアートが飾られ、母娘二人の幸せな暮らしが窺える。
そろそろと廊下を進み、子供部屋のドアを細めに開くと、異様な匂いが立ちこめ、アドナは思わず顔を背けた。玄関先に立ち尽くす母親の方を振り返ると、母親は蝋人形のような顔で、アドナに中に入るよう目配せした。
アドナがさらにドアを開くと、花柄のクッションベッドに小柄な少女が横たわっている。白い長袖のネグリジェを身につけているが、顔は土気色、目はおちくぼみ、呼びかけても身動き一つしない。失禁したせいか、腰の辺りに茶色い染みが広がり、異様な臭気を放っている。胸郭もほとんど動いておらず、もはや意識もないようだ。
「いつから、こんなことに……」
「二十時間よ。頭が痛いとベッドに入ってから、たった二十時間でこんな姿に……」
「今すぐ医師に連絡します。総合病院で適切な処置を施しますから、どうかご心配なく」
「処置? 処置って、何をするつもりなの? ここには十分な医薬品もない、骨折しても粗末な添え木を当てるだけ、こんな状況で何ができるというの? きっと執政府に殺されるわ」
「殺すなど、とんでもない! 出来る限りの治療はします。そして、お母さんもすぐに診察を受けて下さい。でないと、あなたも発症する恐れがあります」
アドナは母親を説得すると、直ちに救急外来と保健所に連絡を入れ、指示を仰いだ。
程なく黄色い防護服に身を包んだ救急隊員と保健所員がやって来て、少女を半透明のアイソレーションカプセルに入れて運び出した。救急電動カートがサイレンを鳴らしながら40階の総合病院に向かうと、一帯には立入禁止のバイオハザードテープが張り巡らされ、住まいには大量の消毒液がまかれた。母親は別の医療チームに付き添われて病院に向かい、後にはアドナと保健所員が残された。通報から半時間もかからぬ出来事だった。
近隣も一時騒然としたが、保健所の的確な指示もあり、大きな混乱は起きていない。というより、警戒心から住まいに閉じこもっている印象だ。何にせよ、一刻も早く病因を突き止め、経緯を明らかにする必要がある。万一、ネズミが有害な病原体を媒介したのであれば大変なことになる。
アドナは後のことを保健所員に任せると、主塔のエレベーターホールに向かった。時刻は二十一時を過ぎているが、総合病院に立ち寄り、少しでも情報収集したい。
薄暗い通路を早足で歩き、乗り降り口まで来た時、向こうから怪しげな男が近づいてきた。
牛乳瓶の底みたいな分厚いフェイクメガネをかけ、キューバの葉巻売りみたいな付け髭までつけている。どこの左巻きかと目を凝らしてみれば、さっきのハスラーではないか。まさか本気で仕返しに来たのか。それとも何処かに連れ込んで、襲うつもりなのか。罠にかかったウサギみたいに固まっていると、彼はエレベーターに背を向けるようにして立ち止まり、フェイク眼鏡と付け髭を取り外した。
さっきは暗がりで、彼の顔も遠目にしか見えなかったが、こんな綺麗な顔をしていたのか。冥府の王みたいに高貴な顔立ちに、翳りのある黒い瞳をして、まるで古代の巻物から抜け出たみたいだ。
が、さっきの無礼を許せるはずもなく、アドナがぷいと横を向くと、「さっきは失礼したね」と思いがけなく優しい言葉が返ってきた。
「謝るよ。本心じゃない」
「本心でなくても、人を侮辱するにも程がある。どこを、どうやったら、あんな下品な言葉が口をついて出るんだか。わたしにも心というものがあるんだよ。いくら気に入らないからといって、大勢の前で愚弄するのは止めてほしい」
「ごめんよ」
再びスティンが謝った。
「君があまりに綺麗なので、びっくりしたんだ。どこの空から舞い降りたのかと思った」
すると、アドナもちらと彼の顔を見やり、
「君は外出時、いつもそんな格好を?」
「ああ、これ。今日は俺の誕生日でね。これからパーティーなんだ。仮装大会ってやつさ」
「嘘ばっかり。多分、君の螺旋は左巻きだな。人の倍ほどチミンが多い」
「なに、それ。DNAの話?」
「よく分かったね」
「DNAぐらい、俺でも知ってるさ。DNAとはデオキシリボ核酸の略で、デオキシリボース(糖)、リン酸、塩基からなるヌクレオチドが右巻きの二重螺旋状に多数繋がって構成される。塩基の種類は、A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)の四種類だが、細胞中のリボゾームがタンパク質を合成する時は、DNAの遺伝情報はメッセンジャーRNA(リボ核酸)に転写され、その際、チミンはU(ウラシル)に変換される。タンパク質の設計書となる遺伝コード(コドン)は三つの塩基が一まとめになって構成されるが、基本的に、一つの遺伝コードは一種類のアミノ酸にしか対応しない。遺伝コードは全部で六十四通り存在するが、アミノ酸は二十種類しか存在しないので、多くの場合、複数の遺伝コードが一つのアミノ酸に対応することになる。たとえば、UGUとUGCはシステイン、AUUとAUCとAUAはイソロイシン、という風に。アミノ酸を運ぶのはトランスファーRNAの役目で、リボゾームはメッセンジャーRNAの遺伝コードを元に、運ばれてきたアミノ酸を使ってタンパク質を組み立て、ゴルジ体や小胞体を通して、その他の細胞小器官や細胞膜に輸送される。この仕組みは『セントラルドグマ』と呼ばれ、長年、分子生物学の中心原理とみなされてきたが、現代ではタンパク質に翻訳されないノンコーディングRNA(非翻訳性)の働きも注目され、動態解明が進んでいる。違ってたかな、DNA先生?」
アドナがむっとすると、スティンも可笑しそうに目を細め、
「ADONA。それが君の名前か? ケーシー白衣の胸ポケットに名前が刺繍してある。まるで幼稚園だな」
とアドナの胸元を覗き込んだ。アドナはさっと身をかわすと、
「ところで何の用? 賭けに勝ったんだろう? せしめた食券で食堂にでも行けよ。皆が精魂込めて配給している食券をゲームの景品にするなんて、非常識にもほどがある」
「まあ、そう尖るな。誰かを傷つける為にやってるわけじゃない。ただのゲームだよ。新年会の福引きと同じだ」
「食券と福引きを一緒にするな! 農作物を育てるのは、人一倍骨が折れる仕事なんだよ!」
「そうだろうね。病原菌もいれば、アブラムシもわく。毎日腰をかがめて、枯葉を取り除いたり、子実の成長を観察したり。君たちの苦労なら言われなくても知ってるよ。『職員は日々、ミクロの脅威と戦いながら、市民の糧を得るために全力を尽くしている。さながら生命の樹を守るエデンの庭師のように』」
「それはわたしのフレーズだ。勝手に引用するな」
「もしかして、『エデンの庭師』?」
「よく分かったね」
「政府公報の農業通信に『エデンの庭師』のペンネームでコラムを掲載してる。俺も一年前から愛読しているよ。前半の技術情報はなかなか読み応えがあるが、後半のポエムはまったくいただけない。二言目には、希望、希望、希望、希望。まるで女子高生の作文だ」
「笑いたければ笑えばいいさ。希望こそ命の糧だ。パンだけで人は生きられない」
「そうかね。パンこそ命の糧さ。病める時も、失意の時も、腹一杯食えれば生きる気力も湧く。希望とパンと、どちらが大事と問われたら、俺は迷わずパンと答えるよ。希望なんて霞みたいなものだ。お経みたいに夢だの希望だの唱えても、誰も救われない。ポンコツEOSと同じでね」
「君はEOSを信じないのか?」
「現実的に考えろよ。人間の介在しないシステムが七十年間も問題なく作動し続けると思うか? 観測衛星は永久に軌道を周回しても、演算処理装置やデータサーバはそうじゃない。パーソナルコンピュータでも十年も使い込めば、あちこちにガタがくるんだ。まして電力食いの旧観測システムが、完全に無人の状態で七十年以上も正常に機能するとは思えない。皆、騙されてるのさ。永久に鳴りもしない安全宣言を待ちながら、格子の中の囚人みたいに空の彼方を見上げている。希望とはまさに宵の明星だ。眩しく見えるが、誰の手にも掴めない。まだ屋内農園の方がはるかに救いがある。野菜や果物は確実に命を繋ぐからな」
「たとえそうだとしても、EOSの全てを否定する気にはならないよ」
「どうして」
「希望って、そういうものだから」
スティンは声を立てて笑った。
「無邪気だな。本当は鉄格子の向こうの現実を直視するのが怖いんだろう」
「怖くなんかないさ」
「だったら、なぜ市民に本当のことを教えない? もう十年もすれば、いよいよ物資も尽きて、再び命の選択になると。まあ、君ら上階のエリートは、世界滅亡の時も自分たちだけは助かるつもりだろうから、下階の住人の飢えと恐怖など知ったことじゃないんだろうが、それにしても無責任だ。十年先、二十年先を見越して政務に取り組んでいるとは到底思えない。君ら執政府の役人は、自らの無能無策を『希望』という言葉で誤魔化してるんじゃないか」
「違うよ、スティン。希望ってそんなものじゃない。どれほど辛くても、心から信じられるビジョンのようなものだ。信じることで人は救われるし、生きる気力も湧いてくる」
「それは宗教だろう」
「そうじゃない、スティン。上手く言えないけど、わたしは信じているんだよ。いつか、すべての過ちが贖われて、ここから解放される日も来ると。その時には、正しい人も、弱い人も、等しく《隔壁》を通って大地に還る。太陽の下に差別などなく、誰もが再び地上で生きるチャンスを与えられる。確かに下階の住人のことなど気にも留めない上役がいるのも事実だけど、皆が皆、庶民の暮らしに無関心なわけじゃない。なんとか現状を打破しようと知恵を絞っている人もたくさんいる。君の目に見えないだけだよ、スティン。世の中、そんな間違った人ばかりじゃない」
「君がそう言うなら、心に刻んでおくよ。多分、明日の朝には忘れてると思うけど」
「君って、本当に左巻きだな」
「左に巻いている分、人より物事はよく見えているつもりだ。それより、ジェシカのことをありがとう。実はそのことで礼を言いに来たんだ」
「礼を?」
「さっき病院を手配してくれただろう。あの時、俺も近くに居たんだ。西の飲み屋に行く途中だった」
「君、あの女の子を知っているのか?」
「母親に頼まれて、時々、子守をしていた。家庭教師を兼ねて」
「本職は教師?」
「いや、アルバイトだ。いつもは共用スペースの床磨きをしている。時々、花壇の草取りも」
「ビリヤードは?」
「夜だけだ。生業じゃない」
「でも、見事な腕前だ。大会に出ればいいのに」
「がっつりやるのは苦手でね。気の向く時に、気の合う仲間と、気ままにプレーする方が俺には合っている。それより、ジェシカを助けてくれてありがとう。あの母娘には何度か夕食をご馳走になった。甘い菓子や飲み物も。しばらく顔を合わせてなかったが、病気だったんだな」
「わたしは医師ではないが、治療には全力を尽くすよ」
「信じるよ。君は人一倍、真面目そうだし、口から出任せを言うとも思えない。ジェシカをよろしく。あの母娘は、俺が気兼ねなく付き合える数少ない知り合いの一人だった」
「よかったら、君も見舞いに来ればいい。わたしを通せば、集中治療室の観察室から会話ぐらいできる」
「考えておくよ」
「ところで、あの女の子が140階の人工池でネズミを見たそうなんだが、他にもネズミを見たと言っている人の話を聞いたことはない?」
「さあね。初めて聞いた」
「もし病原体を媒介する害獣や害獣が入り込んだのだとしたら、大変なことになる。何か変わったことを見聞きしたら、すぐに報せて欲しい」
「分かった」
「じゃあ、そろそろ行くよ。これから総合病院に立ち寄って、女の子の様子を確かめたい」
アドナは職場の連絡先を告げると、次に降りてきたキャビンに乗り込んだ。液晶タッチパネルに40階と入力し、スティンに微笑みかけると、
「君は男じゃないだろ」
とスティンが悪戯っぽく笑った。
言い返す間もなくドアが閉まり、エレベーターは速やかに上昇を始めた。スティンの姿もみるみる遠ざかり、胸の高鳴りだけがエレベーターシャフトを駆け抜けてゆく。
アドナは骨を抜かれたようにキャビンにもたれながら、彼の言葉をいつまでも胸に反芻したのだった。
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