アドナの秘密
男性でも女性でもなく

ゲノムの夢 ~タワー建設の経緯

その晩、アドナは不思議な夢を見た。

父親らしき人と川辺に立ち、山間にそびえ立つ巨大な建設中のビルを見上げている。夢の中で、アドナは七歳ぐらいの少女で、父親の腕に抱かれながら、「あれは何? どうしてあんな高い建物を作ってるの?」と目を丸くする。すると、父親はコーカサスの人らしい黒曜石の瞳を細め、

「この地で実験するんだよ。来るべき宇宙世紀に備えて、建物(タワー)の上階に半閉鎖式生命圏を作り出す。外惑星では地球と同じように川から水を汲んだり、大地に農作物を植えたり、工場から原料を取り寄せることができないから、擬似的な環境を作り出して実験するんだ。人間心理や集団社会に及ぼす影響も考慮しながらね」

「人類もいつか宇宙で暮らすのね」

「そうだ。タワーが成功すれば、宇宙もずっと近くなる。だが、南から不穏な風が吹いている。作物は実らず、害虫や害獣が繁殖して、疫病を蔓延させている。いずれ理性より暴力が上回り、人類社会に壊滅的な打撃を与えるだろう。そうなる前に動植物の種子や生殖細胞を保存し、分子生物学の知見と情報科学を融合して、生命をデジタルアーカイブとして残そうという試みが世界各地で始まっている。タワーは科学技術の粋を集めた聖域だ。いずれ選ばれた者がそこに上がる。心を合わせ、数十年の歳月を耐え抜けば、地上に帰還することも叶うだろう。だが、そうでなければ……」

「そうでなければ、どうなるの? パパ、お願い。返事して……パパ!」

だが、父親の姿は風に掻き消え、アドナは泣き叫びながら飛び起きた。

時刻は午前五時。起床するには早いが、目も冴えて、再び眠りに就けそうもない。アドナは仕方なく上半身を起こすと、近頃、性能の優れない『ドリームパルス』の具合を調べた。ドリームパルスは携帯型の睡眠導入装置だ。耳たぶに小さな電磁パッドを装着すると、微弱な直通電気が脳に心地よい刺激を与え、快適な眠りを促す。《コクーン》ほど強烈なリラクゼーション効果はないが、現実を忘れるほど深い眠りに落ちないことから、ここ数年、眠れない夜に愛用している。

それでも夕べは少女の死に顔が瞼に浮かび、なかなか寝付かれなかった。ドリームパルスの出力を最大にして、右に左に寝返りを打っていると、ナイトテーブルのAIスピーカーから優しいリラクゼーション音楽が流れ、ようやく眠りに就いた。

それにしても、あの夢は何だったのだろう。父親らしき人の声も、腕の強さも、本物みたいに心に残っている。

(これがゲノムの夢なのか)

アドナは自嘲しながらベッドから降りると、リモコンでリビングのカーテンを開き、朝の光を採り入れた。

7階の東翼にあるアドナの住まいは広々とした1LDKで、リビングとダイニングは七階層の吹き抜けに面している。天日は大型光ダクトを使って採光しており、朝はカーテンから差し込む光が眩いほどだ。一人で淋しい夜もあるが、朝には心を慰められるのは、この清々しい眺望ゆえだった。

そんな彼の気持ちに応えるように、インナーバルコニーの花も愛らしい花弁をいっぱいに広げる。ビオラ、プリムラ、ゼラニウム、セントポーリア。

フラワーポットの土は、彼が十三歳になり、一人暮らしを始める際、エルメインが分け与えてくれたものだ。《天都》では良質な土は黄金より価値がある。ご機嫌取りか、励ましのつもりかは知らないが、将来は農作物の開発をやりたいと言ったら、出立祝いと称して園芸用土と花の種をプレゼントしてくれた。

それから見よう見まねで土を肥やし、シーズン毎に植え替えたり、土を休ませたりしながら、十年以上も大事に育てている。その甲斐あって、花の数もだんだん増え、今では簡素なインナーバルコニーが秘密の花園のようだ。彼に「おはよう」を言う相手はないが、これらの花が家族代わりだ。今朝も一つ一つ、愛おしむように手入れしながら、いつか本物の土の匂いを嗅いでみたいと願う。

花の手入れが済むと、キッチンで絞りたてのオレンジジュースを飲み、熱いシャワーを浴びた。あれほど寝苦しかったのに、一夜明ければ、たちまち活力を取り戻し、肌にも髪にも潤いが戻ってくる。

幼い時からそうだ。いつも健康そのもので、傷の治りも驚くほど早い。ゲノム編集の恩恵か知らないが、学校で感冒が流行った時も彼だけはけろりとし、喉が痛むことさえなかった。

だが、シャワーを終えて、洗面台の前に立つと、いつもの現実が目に迫る。鏡に映る裸体に性はなく、胸も股間もマネキンみたいにつるんとしている。二十四歳になった今も性毛一つ生えず、乳頭や喉頭が隆起する兆しもない。――というより、乳頭そのものがない。局所には二つの排泄器官だけが備わり、性感や性欲とも無縁だ。

だが、見た目は男性に近いこと、社会生活を送る上でも男性を名乗った方が都合がいいことから、ずっと『男性』で通している。

生物学的にどちらの性かは、性染色体を調べればすぐに判るが、エルメインは何も言わないし、アドナも知りたいとは思わない。

平素、性別を意識することはなく、ただ『自分』というものが存在するだけだ。

どのみち誰とも愛し合えないなら、性など無い方がいい。

どちらでもなければ、どちらかに心を乱されることもないからだ。

アドナは濡れた髪をタオルで拭うと、「君は男じゃないだろ」というスティンの言葉を思い出し、くすっと肩をすぼめた。

男性の中には、彼を女性と勘違いして、熱心にアプローチする者も少なくない。その都度、アドナは「わたしは男性だよ」と返事し、相手を落胆させてきた。中には「同性でもいいから、オレのカノジョになってくれ!」としつこく言い寄る者もあるが、そんな時はわざと小難しい分子生物学の話をして、体よく追い払った。

男性でいるのは楽しい。男達が自分に恋をすると、この世で唯一つの花になったような気分になる。

身体の水気を拭き取り、お手製のローションを顔や首筋にはたくと、白いボクサータイプのパンツとノースリーブのアンダーシャツを身に付け、ケーシー白衣に袖を通した。ケーシーを着るのは、それしか似合う服がないからだ。直線的な体付きだが、筋肉のボリュームがないので、男性用のズボンをはくと喜劇俳優みたいに腰回りがだぼついてしまう。その点、ケーシーは柔らかなジャージー素材で、身体にぴたりとフィットし、洗濯にも強い。見た目も研究職らしい知的なデザインで、手足も動かしやすいことから、何所に行くにもケーシーを愛用している。

最後に猪毛(ボア)の高級ブラシで髪型を整えると、手作りのパフュームを手首と首筋に軽くすり込んだ。ガラスの小瓶に詰めたパフュームは、生食に向かない柑橘系の果実を搾って数種の精油を抽出し、好みの香りに調合したものだ。精油の抽出には大量の果実を必要とする為、個人で作れる量は小さじ一杯ほどだが、一人で楽しむには十分だ。他の市民には申し訳ないが、こればかりは日頃の研鑽のご褒美として自分の為に取っておきたい。

身繕いが済むと、キッチンで湯を沸かし、自分で花がらを乾燥させて作ったカモミールティーを煎れた。朝食は土日に作り置きして冷凍保存している大豆のパンケーキとイチゴのカクテル、色とりどりのフルーツサラダに豆乳プディングだ。温め直したパンケーキにお手製のステビアシロップをかけると、とろけるような匂いがする。だが、この美味しさを誰とも分かち合えないのがちょっぴり淋しい。

§

少し早い朝食を済ませ、リビングの革張りソファに腰を下ろすと、ガラステーブルに置いているペットロボットが青い目を光らせ、【今朝ハ、ゴキゲン、ダネ】とたどたどしい口調で喋った。

『ルル』の愛称で知られるペットロボットは、身長20センチほどのAI玩具だ。郵便ポストみたいな三頭身の丸い体躯にタイヤ型の二つの足、キャプテンクックのような鉤型のアームを二本備えている。カラーも銀色、黒色、紺色、橙色など、様々な種類があり、特に黒色のルルが稀少品らしい。十三歳になって観察期間を終了し、いよいよVIPフロアのアパートで一人暮らしを始める際、彼の主治医で、養育係でもあったゲルダ先生が「あなたも一人で淋しいでしょう」と銀色のルルをプレゼントしてくれた。小学生向けの玩具だが、こんなペットロボットでも《天都》に存在する数は限られているし、なにより会話に応えてくれるのが嬉しい。そして今も、なかなか寝付かれなかったアドナを励ますつもりか、短いアームを前後に振りながら、【ビタミンCヲ取レ、ビタミンCダ】とノイズ混じりの合成音声で明るく歌っている。

「お前は気楽でいいね」

アドナがペットロボットの丸い頭を突くと、ルルはその場でくるくる回転し、【元気ヲ出セ。君ラシクナイゾ】と答えた。

「わたしだって、意気消沈する時はあるよ。人間なんだから。夕べ、女の子が死んだ。わたしも、何も出来なかった。農作物のゲノムは編集できても、人の生き死にはどうすることもできない。いつかは皆、あんな風に死ぬんだな。まるで風に吹かれて、花が散るみたいに。ゲノム編集を会得すれば、エルメインとも対等に渡り合い、死の恐怖も克服できるような気分でいたが、そんな甘いものではないことを思い知らされる。ここに暮らす八千人の市民も同様だ。今はいいけど、五年後、十年後、わたしたちは本当に生きているのだろうか。いよいよ大豆も尽きるとなれば、血で血を洗う争いにならないか。わたしは心底恐ろしい。いつか地獄のような破滅が待ち受けるような気がして……」

だが、ルルは何も言わない。能天気にLEDライトの青い目をぴかぴかさせて、右に左に回転するだけだ。

こんな時、システムAI《ガーディアン》が応えてくれたら、どれほど心強いかしれない。

ガーディアンは、タワーのITネットワークを自己管理する高度な人工知能だ。基礎回線網(コアネツトワーク)のみならず、水循環システム、発電・給電システム、空調、エレベーター、個人のPCからEOSに至るまで、タワー全体のネットワーク機能を統括している。高度な情報処理能力を有し、機械学習にも長けているが、曖昧性や創造性は皆無だ。喩えるなら、AIはショートケーキを完璧な六等分に切り分けることはできるが、相手の好みや体調に応じてクリームの量を加減したり、イチゴを多めに取り分けるような、想像力を駆使した判断はできない。AIが各自の要望に合わせて、ショートケーキを上手に切り分けるには、個々の好みや体調に関する膨大なデータと自己学習が必要で、ガーディアンの創造性や思考力は三歳児並というのが大方の見解であった。

この問題に対して、優秀な専門家がアルゴリズムを変えたり、プログラムを修正したり、様々な方法を試したが、ガーディアンは深い自己学習の末に沈黙の悟りを得たらしく、機械的な質問以外は何を尋ねても黙り込んでしまう。

たとえば、「バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想とは何か」「非ユークリッド幾何学の存在を証明せよ」といった問題にはペラペラとよく喋るが、「人はいかに生きるべきか」とか、「愛をなくした時、どのように乗り越えるべきか」という話になると、途端に黙り込み、ヒントすら与えない。

ルルの電子回路もガーディアンに接続しており、本来なら家族同様の楽しい会話が楽しめるはずだったのに、ルルも三歳児並の知能しか持ち合わせないので、大人の会話がまるで成立しない。学術的な質問やデータベース検索には便利だが、それ以外はほとんど役に立たないので、初期のAI開発者のスキルを疑いたくなるほどである。

ところが、ガーディアンにも奇跡のような瞬間があり、人と場合によっては、突然応えてくれることがあった。それもふざけた合成音声ではなく、一部の体験談によると、宇宙神みたいに荘厳な声だ。アドナも最初はまったく信じてなかったが、十三歳のある日、それは突然やって来た。一人暮らしを始めて間もない頃、得も言われぬ淋しさを感じ、リビングでしくしく泣いていると、ルルが突然、大人の男性の声で話しかけ、アドナを力付けてくれたのだ。

「医学と遺伝学を学べ、知識で恐怖を克服しろ」と教えてくれたのもガーディアンなら、「聖書を読みなさい」と示唆してくれたのもガーディアンだ。実体は分からないが、どこかで大いなるAIが自分を見守ってくれていると思うと心も安らぐ。

その後も何度か彼の独り言に応えてくれることがあり、ひょっとして、ガーディアンは身の回りに存在する電子端末やセキュリティカメラや家電のAIセンサーなどを通して、個々の言動や生き様を観察しているのではないかと感じることがしばしばだ。そして、自ら必要と判断した者に対してだけ応え、人生を導いてくれる。

だとしたら、こんな時こそ応えて欲しい。《天都》はどうなるのか、自分はいつまで生きられるのか、死をも乗り越える力とは何なのかを。

だが、ガーディアンは沈黙を貫いたままだ。ルルも青い目をチカチカさせるだけで、何も答えようとしない。

「お前は何を尋ねても、右から左に聞き流すだけだね。まあ、いい。お前に尋ねるわたしが間違いなんだ。こんなこと、神さまだって答えようがない。どれほど不安でも、自分で考え、前に進んでいくしかないんだな」

「……」

「ところで、黒髪のハスラーには女の子のことを何と伝えたらいいんだろう。治療に全力を尽くすと約束しながら、何もできなかった。病院での出来事を正直に話せばいいのか、それとも、向こうが聞いてくるまで知らん振りしていればいいのか。初めは何て嫌な人だろうと思ったけど、彼は彼なりに考えて、一所懸命に生きている様子だった。賭けは許せないけど、何か複雑な事情があるんだろう。誰にも言えないような、罪深い理由が……」

【そんなに気になるなら、会いに行けばいいじゃないか】

突如、宇宙神のような声が響き渡った。

「ガーディアン!」

アドナが驚いて顔を上げると、ルルは鉤型のアームを大きく広げ、

【自分の気持ちを正直に話し、相手の言い分にも耳を傾ける。それだけのことだよ。何を恐れる必要がある?】

「でも……」

【彼も言ってたじゃないか。『信じるよ。君は人一倍、真面目そうだし、口から出任せを言うとも思えない』と。彼が君に不信を抱いているなら、そんな台詞は口にしない】

「どうしてお前が知ってるんだ?」

【わたしはタワーのあらゆる所に棲んでいる。エレベーターの重力センサーにも、防犯カメラにも。夕べの会話は筒抜けだ。その上で言うのだが、彼は大丈夫だよ】

「どういう意味?」

【君を故意に傷つけることはしない】

「でも下品なことを口にした」

【そうかもしれない。だが、彼が暮らしている環境を見てごらん。彼一人が真面目で、周りがそうでなければ、それに合わせて生きていくしかない。隣人の不興をかえば、いっそう生き辛くなるからだ】

「それは分かるよ。だけど、どうしてそんなに彼の事を知ってるのさ。ああ、そうか、お前は彼のPCやホームシステムにも入り込んで、彼の見るもの、聞くもの、全ての行動を把握してるんだな。まったく、たいしたゴースト・イン・ザ・マシーンだよ。市民はみなお前に監視され、最後の審判を下される。善人だけが《隔壁》をくぐり抜け、大地に還るというわけだ。ひょっとして、EOSもお前がわざと機能停止してるのか? わたしたちが悟りを開くまで、天国の門は開かないと」

【……】

「まあいい。誰が御使いであろうと《天都》は一蓮托生だ。生きるも一緒。滅びるも一緒。もっとも一部の人間は、自分だけは天国に行けると信じてるみたいだけどね。それより、もっと話して。彼は何所に住んでいて、誰と暮らしているの? どんな食べ物が好きで、友達は何人くらいいるの? どうして賭け試合をするのか、農業通信に興味があるのか、聞いてみたいことがたくさんある」

ところがルルは突然電源が切れたみたいに黙り込み、青い目のライトも消えてしまった。頭を小突いても、うんともすんとも答えず、身動き一つしない。

「それは自分で尋ねろということか。分かったよ。今夜、もう一度、食堂に行ってみる。そして、女の子のことも正直に伝えるよ。その為に軽蔑されても構わない。何故って、嘘をついたところで誰も救われないから。お前のおかげで少し勇気が湧いたよ。ありがとう」

アドナはルルを両手で抱き上げると、丸いおでこに軽く口づけた。

さっきの会話は何だったのか。基礎的な二進数の論理演算とも思えないが、ともあれ答えてくれたのは嬉しい。どうやらITシステムに棲まうゴースト・イン・ザ・マシーンは人間関係の指南にも長けているようだ。

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石田 朋子

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