第二節 最高評議会 (1)

    STORY
    「ネズミを見た」という最下階の少女が変死したことから最高評議会が開かれるが、地下にも≪隔壁≫にも異常はなく、少女に特異な症状で片付けようとする。ジュール医師は水循環システムの汚染と微生物の侵入を指摘するが、誰も信じようとしない。 所々の問題を解決すべく、失われた設計図とITシステムの故障について取り沙汰されるが、エルメインでさえシステムの実状を理解しておらず、遺伝子センターのフロム所長は「打つ手なし」と断言する。

    第一節『最高評議会』のシリーズ
    目次

    最高評議会 ~エルメインと愚かな面々

    エルメインと役立たずな評議員

    その日の午後、臨時の最高評議会が開かれた。少女の異様な死に様とネズミの目撃情報が問題視されたからだ。

    楕円形のテーブルには、主要部署の所属長と各部署から推薦された評議員が序列に従って着席し、アドナは末席、その向かいにはジュール医師が座っている。本来ならこの人が上座について陣頭指揮を執るべきなのに、決してそうならないのは、いつも正面からエルメインに苦言を呈するからだ。医療においても、政治においても、独善的なエルメインとは水と油であり、エルメインとその取り巻きにとっては最も目障りな存在でもある。

    エルメインはいつものように少し遅れて入室すると、おもむろに上座に腰を下ろした。

    いつもながら百十八歳とは思えぬ色艶で、頭髪はやや薄いものの、白い瓜実顔に猛禽のような緑灰色の眼をして、五十代の男の鋭気を感じさせる。一応、医療者を気取って、いつも糊のきいたドクターコートを羽織っているが、その下に着ているスーツはオーダーメイドの超高級品で、瑠璃や孔雀石のカフスボタンを愛用している。長身の細身だが、骨格はがっしりとして、白衣の上からでも柔術家のように逞しい筋肉が見て取れる。子を作る能力もいまだ衰えておらず、VIPの御婦人方の中には、エルメイン先生の有り難い遺伝子が体内に注がれれば、皺も白髪もたちどころに消え、不老不死の霊力を授かると自ら身を差し出す人もいる。

    だが、エルメイン自身は特定のパートナーを持たず、子を作ることもない。なぜなら、《天都》のITシステムの最高管理権限を掌握するには、自己の唯一性を保つことが不可欠だからである。唯一性とは、遺伝的に相同性をもつ人間をこの世に存在させないことだ。圏内のITシステムの最高管理権限はDNA認証によって管理され、万一、遺伝的に相同性をもつ人間が認証プログラムにアクセスすれば、認証エージェントが混乱し、最悪、ITシステムに重大なエラーを引き起こす恐れがあった。

    そんなエルメインの両隣を陣取っているのは、市長のバラスとセキュリティ室長のワシリィだ。

    バラスはもう三期も市長を務めている五十代半ばの男性で、VIPフロアの住人の中では唯一表に顔を出している人物でもある。それなりに人をまとめる力があり、政務にも長けているが、人柄はいたって品性下劣、無類の女好きでも知られ、下階の女性を上階にある自身の隠れ家に頻繁に呼び寄せている。エルメインの診察室の常連だが、その割には肥満が一向に改善せず、頭髪も薄くなる一方だ。だが、本人は「食べても食べても正常値」と豪語してはばからず、遺伝子治療が功を奏していると信じて疑わない。代々政治家の家系で、七代前は先進国首脳の中でも抜きん出たリーダーだったそうだが、そのDNAも段々劣化し、今では未来に何のビジョンもない大食漢に成り下がっている。

    セキュリティ室長のワシリィは自分の体面を繕う為なら不当逮捕も辞さない男だ。絶滅収容所の看守みたいな顔をして、いつも他人の言動に目を光らせている。終身刑の独房をわざと見晴らしのいい上階に据えたのも、「叶わぬ希望こそ永遠の地獄」というサディスティックな発想ゆえだ。哀れな囚人はたいてい三年目で発狂し、自ら壁に頭を打ち付けて死ぬという。その非人道を非難する声もあるが、旧時代のコンクリート独房ではなく、ガラス窓越しに屋内公園の賑わいや美しい山並みを思い存分堪能できる牢獄のどこが虐待なのかと、ワシリィはまるで聞き入れない。実際、囚人は何の苦役も課せられず、朝から晩まで寝て過ごすことも可能で、怠け者にしてみれば天国のような扱いだが、自由という最も価値ある魂の糧を断ち切られた囚人は一年もすれば己に絶望し、二年目には窓の外の世界を憎悪し、三年目にはこの世から永久におさらばすることを考えるようだ。

    ワシリィの隣に座っているのは、遺伝子センター所長のフロムだ。銀縁眼鏡の似合う四十半ばの男性で、ヒトゲノム編集を許可されている八人の遺伝子技士のリーダーでもある。知識、技術とも抜きん出て、アドナの学生時代には指導教官も務めた。そのくせ自身は生薬を好み、ゲノム編集された家畜の肉も決して口にしない、なかなか味わい深い人物である。

    フロムの向かいには、若くしてIT室長に抜擢されたアドミニストレータのシャルロットが座っている。三十代後半にして、すでに視力が落ちたのか、分厚いセルロイドの矯正眼鏡をかけ、いつも穿つような目付きで相手の顔を見る。そばかすの浮き出た小顔はヒナギクのように愛らしく、スタイルも決して悪くないのに、本人はそうは思っておらず、エルメインの診察室に足繁く通っている。何とかいう薬を皮下注射するだけで肌年齢が若返り、老化のリスクも回避できると信じて疑わぬようだが、それはプラセボ効果だと本人に説明しても、きっと納得しないだろう。

    それでもエルメインの補佐官ヘクターに比べたら、この四人など可愛いものだ。ヘクターはテーブルの中程に静かに腰掛けているが、最高評議会のメンバーの中では最も凶悪な人間である。凶悪といっても、暴力や侮言の類いではなく、生命に対する慈悲心を欠片も持ち合わせていない点だ。

    ヘクターも遺伝子技士の資格を有しているが、ヒトの受精卵にも平然と手を加え、しばしば奇妙な生き物を作り出すばかりか、順調に細胞分裂が進んで、孵化を遂げた胚盤胞でも、失敗したと見るや平然と処分してしまう。その事を指摘されても、「たかが胚じゃないか」と取り合わず、運よく胎児に成長し、代理母の胎内で小さな手足を動かすようになっても、気に入らないことがあれば平然と掻爬した。ヘクターに言わせれば、自我が芽生える以前に命の種を摘み取ることこそ慈悲心らしい。

    ヘクターもまたエルメインの助手としてアドナのヒトゲノム編集に携わっており、その事実がいっそう不気味でもある。アドナが子供の頃は定期検診に熱心で、本当に必要かどうかも分からない骨髄穿刺や胃腸の内視鏡検査も好んでやった。むしろ苦痛に顔を歪めるのを楽しんでいる節さえあり、この男が「生きたまま腹を割く」と言い出しても、何の不思議もないだろう。

    他には、保険、厚生労働、エネルギー、教育・文化、司法を代表する評議員が顔を揃え、エルメインの言葉の一つ一つに頷いているが、いずれも先に挙げた四人ほどの発言力はなく、バラスやワシリィが愚かなことを言い出す前に評議会がお開きになることを願っている。彼等にとって一番重要なのは現状維持で、エルメインが邪悪なことを考えようが、ヘクターが非人道的な生体実験に手を染めようが、見て見ぬ振りで職務を遂行する、特殊な能力を持ち合わせていた。

    エルメインは一同の顔を見回し、自らの威令が隅々まで行き渡っている様子に満足すると、少女の悲劇的な死について語り始めた。

    この遺伝子フリークは今朝も何か注入したのか、首筋に大きな絆創膏を貼り、しきりに肩を揉んでいる。内心では下階の少女など気にも留めないくせに、「お悔やみを申し上げる」などと白々しく弔意を口にし、「こうした悲劇的な死を繰り返さない為にも、一刻も早くGEN MATRIXを復旧し、ゲマトリアンクォーツに刻まれた塩基配列データベースを読み解く必要がある」などとトンチンカンな事を言っている。もっとも優先すべきは、少女の病因を突き止め、伝染性があるなら一刻も早く市民に注意喚起して、第二、第三の感染を防ぐことだろう。

    ふと顔を上げると、ジュール医師も呆れたように天井を見上げている。ジュールが指先でボールペンをくるくる回し始めたら、導火線に火が付いた合図だ。

    アドナはしばしジュールの手を見つめ、幾千の患者を診てきた熟練らしい手だと思った。最初、『神の手(ゴツドハンド)』『診察室に行くだけで治る』という噂を耳にした時は、いくらなんでも買いかぶりではないかと訝ったが、セスを通じて個人的に会話するようになってから印象も変わった。カリブの人らしい浅黒い手には深い皺が刻まれ、太い血管が何本も浮き出ているが、どんな小さな病変も見逃すまいとする気魄と責任感を感じる。同じ医療人でも、冷たく湿ったエルメインの手とは大違いだ。子供の頃、あの手で素肌に触れられる度にどれほど気味の悪い思いをしたかわからない。身寄りのない淋しさから、エルメインの膝に抱かれたこともあったが、今となってはただただ忌まわしいばかりだ。あの白ウナギみたいな感触を思い出すだけで屈辱を感じる。

    それに比べて、スティンの手のしなやかで、若々しいこと。指は太いのに関節は柔らかく、黒いビリヤードグローブをはめた左手がグリーンのラシャに吸い付くようだった。

    今夜もプレーするのか、どうして大会に出ないのか、会って話したいことがいっぱいある。ビリヤードのこと、最下階の暮らしのこと、できれば二人きりで……。

    ぽうっと頬を染め、しばし余韻に浸っていると、

    「生きるか死ぬかの瀬戸際に、一人だけ上の空の者がいるな」

    と魔王みたいなエルメインの声が響き渡った。アドナがはっと顔を上げると、エルメインは鷹のような目で彼を見据えた。

    だが、すぐに笑みを繕うと、

    「まあ、いい。君でも上の空になることはあるだろう。夕べも気の毒な母娘に救いの手を差し伸べ、大活躍だったそうだな。君を最高評議会のメンバーに推したわたしも鼻が高いよ。それにしても、君が最下階に行くとは意外だった」

    「行っては行けませんか?」

    「行くなとは言わないよ。だが、君は特別だ。美しい顔。魅惑的な微笑み。下階の連中が邪な妄想を掻き立てられ、無体を働いたらどうするね? それに君は市民の糧を守るエデンの庭師でもある。君を護りたいと願う、わたしの親心だよ」

    「お気遣いありがとうございます。でも、わたしも、いつまでも子供ではありませんので」

    アドナが反抗期の少年みたいに口答えすると、

    「まあ、そんなことは、どうだっていいじゃないですか」

    バラスがうんざりしたように遮った。

    原虫と病原体の検出 ~水循環システムの老朽化

    「それより話し合いを進めましょう。ワシリィ君の話では、今朝から五人の技士が地下のメカニカルフロアに赴き、《隔壁》の制御システムや鋼製シャッターなどを点検したが、特に異常は見られなかったとのことです」

    一般に『地下』と呼ばれるメカニカルフロアは、144階の床下から《隔壁》の間に設けられた七階層に及ぶ広大な空間だ。拡張性に優れたフラットスラブ構造のフロアには、水循環システムや下水処理、給電、通信、化学処理装置など、インフラの重要設備が集中している。3階のIT室で常時監視しているが、年に何度かは専任の技士が地下に降り、目視や計器による動作確認を行っている。

    「ネズミは少女の見間違いで、劇症で死んだのも、免疫不全が悪化したからでしょう。まあ、寿命ですよ、寿命。少女には気の毒だが、先天性の病で世間を見る前に夭折する者は少なくない」

    バラスが事も無げに言うと、 

    「どうしてそう言い切れるんです」 

    ジュールが厳しい口調で返した。

    「確かに、先週の外来受診では白血球や血小板の減少が見られたが、全身状態はそこまで悪くなかった。入院して適切な治療を施せば、あれほど急激に命を落とすことはなかったでしょう。たとえ何かの感染症としても、ほんの二十時間で全身の赤血球が破壊され、ショック死するなど、この《天都》では考えられないことだ。熱帯病が猛威を振るった一世紀前ならいざ知らず、《隔壁》を締め切って以来、こんなケースは一つも確認されてないし、症例データベースにも存在しない。たとえ先天性の免疫機能不全にしても、寿命などという言葉で片付けられる問題ではないことくらい、あなたにも分かるでしょう」

    「だから、どうせよと仰るのです。十人、二十人と同じ症状で亡くなっているならともかく、たった一人の、それも元々免疫不全の少女の死を大袈裟に取り立てて、市民全員に検査せよとでも仰るのですか。第一、生まれてこの方、一度も本物のネズミを目にしたことのない子供に、なぜそれがネズミだと分かるんです? 動物実験棟にも調べさせたが、頭数に異常はなく、地下の様子もいつも通りだった。大袈裟に騒いだところで、圏内のリソースを無駄に消費するだけ、今は様子見で十分です」

    「地下といっても、ただの地下ではない。《隔壁》に面した、七階層を貫く広大な空間です。上下水設備や空調システムなど、ありとあらゆる機器が複雑に入り乱れ、化学処理を行っている。いくら《隔壁》が堅固でも、七十年も経てば、ネズミや害虫が出入りできる穴が開いてもおかしくありません。もういい加減、現実に目を向けて、ここを出る段取りを具体的に進めてはどうです」

    ジュールがずばり核心を突くと、一度は気圧されたように黙り込んだ。

    「では、単刀直入に聞くが、ジュール先生は何が原因だと考えておられるのです? まさか何の見立てもなく、体制の見直しを迫っておられるわけではないでしょうね」

    「言っても、君らは信じないだろう」

    「信じますとも。ジュール先生の有り難いご高診なら」

    バラスとヘクターが顔を見合わせて笑うと、ジュールはおもむろに「寄生虫だよ」と答えた。これには一同がざわめき、アドナも凝然とジュールの顔を見つめた。

    「寄生虫って、サナダムシや回虫の類いですか? あんなものが二十時間で大量に増殖して、ヒトの肉体を食い破るとでも?」

    「寄生虫という呼称に違和感があるなら、原虫と言い換えよう。通常、寄生虫は『原虫』と『ギョウ虫』の二種類に大別される。ギョウ虫がヒトの消化管に寄生し、数ミリから十数ミリの大きさに成長するのに対し、原虫は100マイクロミリメートルの非常に小さな単細胞生物だ。よく知られたところでは、赤痢アメーバ、熱帯性マラリア、トリコモナス原虫などが挙げられる。早期に治療を施せば、軽度で済むものが多いが、中にはマラリア原虫のように赤血球中に寄生し、短期間で宿主を死に至らしめる種類もある。重症者が著しい貧血をきたし、尿が紅茶のように黒くなるのも、原虫が一気に増殖して大量の赤血球が破壊されるからだ。わたしもネズミの目撃情報を元に、ネズミに寄生するノミ、シラミ、ダニなどが媒介する感染症について調べてみたが、少女の症例に該当するものはなかった。出血熱を引き起こすウイルスや溶連菌も同様だ。詳しくは微生物検査の結果を待たねばならないが、あの症状と血液検査の結果を見る限り、細菌やウイルスというよりは原虫の疑いが濃厚だ。それも人類が未だ遭遇したことのない微生物だよ」

    バラスが「うははははは」と太鼓腹を揺すった。

    「原虫ですって? そんなものが何所から入り込むというのです。圏内には病原体を媒介する害虫は存在しないし、齧歯類も徹底的に駆除して、動物実験棟で飼育されているものが全てです。熱帯の貧困地区ならともかく、ここは最先端の技術で守られた半閉鎖型生命圏ですよ。少女の血液を一夜で食い尽くすような原虫がどこから侵入するというんですか」

    「外部から侵入しなくても、健康保菌者のようなものは存在するよ。トキソプラズマのように、健康な成人なら感染しても何の症状も現れない。あるいは、圏内に運び込まれた土壌中に潜在し、時を経て繁殖した可能性もある。これまで同様の症例が存在しないからといって、油断は禁物ですぞ」

    「いやはや、先生の懸念も分かりますが、あまりに突飛で、戸惑いを感じ得ません。仮に先生の見立て通り、原虫の仕業としても、少女一人を狙い撃ちにするなど有り得ない話です。一緒に暮らしている母親はいたって健康、クラスメート、学校関係者、界隈の隣人にも一人として具合の悪い者はない。蚊でもなく、ネズミでもなく、土壌汚染でもないとしたら、一体、何が感染源だと言うのです」

    「水だよ」

    再度、皆がジュールの顔を凝視し、バラスもずっこけたように上体を崩した。

    「水って、あの透明なやつですか。蛇口を捻れば、じゃーっと出てくる、あの水が汚染されていると? 先生の見立てが本当なら、今頃、市民全員、腹を下して、公衆便所も満杯のはず。だが、わたしも、先生も、ここにいるメンバーも、赤血球が破壊されて、紅茶色の小便が出る病人など一人として存在しない。先生は少し憂慮が過ぎるのではないですか」

    「何がおかしいのかね。クリプトスポリジウム原虫のように塩素消毒では殺滅できず、浄水施設の整った都市部でも、雑居ビルで集団感染が発生した例はいくらでもある。《天都》の水循環システムだって、建設されてから七十年以上が経つんだ。その間、誰一人として、地中の採水口も濾過装置も目視した者はないのに、なぜ安全と言い切れるのかね。『たかが水』というが、蛇口をひねれば、衛生的で美味しい水が出てくるのは先進国の一部地域だけだ。それ以外の地域では、水が感染源となり、多くの人間が命を落としている。生物の大量死の後、世界的な食糧危機に陥ったのも、腐敗した動物の死骸から大量の害虫や病原菌が繁殖し、農業用水を汚染して田畑を損なった上に、汚染水を口にした農業従事者が次々に病に倒れ、深刻な人手不足を引き起こしたからだ。手入れされなくなった田畑はさらに土の腐敗が進んで、二度と耕作できなくなり、食糧危機に拍車をかける。次いで、飢えと死の恐怖からパニックに陥った人々が各地で暴動を起こし、ついには軍兵を動員して、国中が戦火に巻かれた。田畑は焦土となり、食糧庫は略奪され、世界中の食糧生産力と配給力に壊滅的な打撃を与えた。国民の慢性的な低栄養状態は、医薬品不足と相成って、いっそう感染症を蔓延させ、国家破綻を引き起こした。もはや国際運輸も機能しなくなれば、離島の研究所や地下シェルターに逃れたグループも、食糧や浄水に必要な器材を入手できなくなり、飢餓と水あたりで死に至る。『たかが水』と仰るが、水は細菌やウイルスのみならず、害虫や害獣の温床ともなる。多くの人は普段意識もしないが、ひとたび水が汚染されたら、その影響は現代文明を衰廃させるほど甚大なのですよ」

    「では、先生は『水のせいで人類が全滅した』と仰るのですか」

    「その通りだよ。大勢が熱帯病でやられたのも、広範な地域で池や河川の水温が上がり、殺虫や浄水機能だけでは対処しきれなくなったからだ。世界的な農作物の生産地で働き手がばたばたと感染症で倒れたら、次に何が起きるか君にも容易に想像がつくだろう。《天都》だって例外ではない。それが《隔壁》の外に出る方法を模索せよと促す最大の理由だよ」

    アドナも目を見張り、再びジュールの顔を見た時、エルメインが顔半分を歪めて言った。

    「相変わらずジュール先生は話が飛躍する。どうあっても、ここを出ない限り、解決策はないとでも言いたげだ」

    「しかし、それ以外に方法がありますか? まさか永久に《天都》に閉じこもり、市民は社会奉仕の名目で餓死寸前まで働かせ、あなた方、VIPフロアの住人は、世の終わりまで豪奢なロフトで栄耀栄華を極めようという腹づもりではないでしょうね」

    「では、逆にジュール先生にお伺いするが、現段階で市民が外に出て、破滅しないと言い切れるのかね。EOSの安全宣言はなく、外がどうなっているかも分からない。それこそ医薬品も、日用品も、それを作る原料すらも手に入らない野外で、大勢の市民が食中毒や化膿症で命を落とす危険性は考えないのかね。《隔壁》を開くのは最後の手段だ。EOSの安全宣言が出されるまで、むやみに手を出すべきではない」

    「EOSなど、まともに動作しているかどうかもわからない観測システムを信用せよと仰るのか」

    ジュールがスティンと同じことを口にすると、アドナもはっと目を見開いた。

    「一体、あなたは人の命を何だと思っておられるのです。EOSのみならず、何の問題もないヒトゲノムにまで手を加え、人間をデザインするなどという愚かな妄想に取り憑かれている。前時代、全人類が壊滅的な打撃を受けたのも、あなたのように、何の危機感も倫理観も持ち合わせない科学者が、無知な資本家や政治家を抱き込んで、フランケンシュタインみたいな生物を生み出したのが原因だ。有害生物の一種類だけを完全に殺滅するなど不可能に近いのに、防疫の名目で野に放ち、逆にいっそう毒性を増した変異種を大量に生み出した。それに水の汚染が拍車をかけて、熱帯病を拡大したのだ。それだけならば、まだやり直しも利いただろうが、七十年前、あなたは《天都》というパラダイスへの切符と引き換えに、人類最大の罪ともいうべきスクリーニングを施行し、老人や病者はもちろん、流行性耳下腺炎( ムンプス )の子供まで追い出して《隔壁》を締め切った。あの状況で、足腰の弱い高齢者や悪性疾患の患者が、野を越え、山を越えて、無事に南の補給基地まで辿り着いたとお思いか? 《十二の頭脳》の勘案も決して完璧ではないが、少なくとも病者や老人を追い出し、一方的なスクリーニングで人間を選別する思想はなかった。だが、あなたは自分に賛同する者だけを迎え入れ、それ以外の者は容赦なく切り捨てた。その結果を見なさい。都市機能が安全に維持できる限界と言われた四十年を過ぎても、まだEOSの安全宣言は出されず、設計図も復元できず、八千人が圏内に閉じ込められたままだ。あと数年はのらりくらりと騙せても、十年後にはいよいよ滅亡の足音が聞こえるだろう。その時になっても、まだあなたは自身を正当化し、市民を道連れになさるおつもりか」

    普段からは想像もつかないような激しい口調でジュールが問い質すと、さしものエルメインも押し黙ったが、代わりにバラスが声を立てて笑った。

    「安楽死術の発案者が何の正義を気取っておられるのです。夕べもろくに治療せず、少女に合成ガスをかがせて絶命させた人が偉そうに仰っても、何の説得力もないですよ」

    すると遺伝子技士のヘクターも薄笑いを浮かべ

    「本当に病因を突き止める気があるなら、麻酔薬を使ってでも、生かしておけばよかったのです。先生が絶命させて、その日のうちに遺体袋に詰めたから、病原体を検出する貴重なサンプルも失われたのではないですか。生きたボディがあれば、DNA解析も進んで、先の見通しも立ったでしょうに」

    「まったくだ。自分の不始末は棚に上げて、何を偉そうに」

    バラスが合いの手を入れると、ワシリィも深く頷き、ジュールの反論を遮った。

    「この際、医療診断もAIと遺伝子センターに一任すればどうです。どのみち最後は合成ガスを嗅がせて遺体袋に詰めるなら、わざわざ医師が診察して病院を満杯にすることもないでしょう。先生の意思を尊重して医学実習は続けているが、はっきり言ってリソースの無駄使い。今はDNA解析を通じて、本人の体質に合わせたオーダーメイド治療も可能な時代だ。古びた聴診器を当てて、祈祷師みたいに患者の身体を撫で回さなくても、断層撮影や遺伝子診断で何でも分かります。この際、言わせてもらうが、先生は自分が最先端の技術に付いていけないことを根に持って、エルメイン先生の遺伝子療法を貶めたいだけではないですか。同業者の妬みってやつですよ」

    「医学と遺伝学の区別も付かない人が何を仰る」

    今度はジュールが高笑いした。

    「つまりは、あなたのように無知で恥知らずな人間を作り出すから、臨床重視の医学実習を続けておるのです。本当にこの世から聴診も触診もできる医者がいなくなったら、いざという時、急性膵炎と腹部大動脈解離の違いも分からず、患者を死なせる医者が続出しますよ」

    「そう言うあなたこそ頭を切り替え、最先端の技術に触れたらどうです。夕べの少女の死因も、案外……」

    バラスがたたみかけた時、「もういい加減にしてちょうだい!」とIT室長のシャルロットがヒステリックに叫んだ。

    ガーディアンとシステムAI

    「責任の押し付け合いをしたところで死んだ者は帰ってこないし、病因も分からない。それより建設的にいきましょうよ。もしネズミの侵入が真実だとするならば、どうすればセキュリティシステムをかいくぐってネズミが侵入できるのか。セキュリティに穴があるなら、早急に対処しなければならないし、システムでさえ気付かぬ欠点があるなら、根本から見直さないと、今にネズミだけでは済まなくなるわよ」

    「そりゃあ、《ガーディアン》が阿呆だからさ」

    バラスが太鼓腹を揺すった。

    「君らIT専門家が束になっても、この七十年間、一向にガーディアンを改良ことができなかった。もういい加減、あんな阿呆なシステムAIには見切りをつけて、自分たちで新しいのを作り直したらどうです」

    「恐ろしいことを言わないで下さい」

    シャルロットが銀縁眼鏡の向こうで目を三角に吊り上げた。

    「ガーディアンはセキュリティプログラムでもなければ、ファームウェアでもありません。タワー全体のネットワークを司る人工知能です。自己学習するオペレーションシステムであり、双方向性のデータベースであり、自ら更新するプログラムでもある。私たちが日常的に接しているのは、圏内のサブシステムを介して得られる機械反応の一部であって、主に出力しているのは旧司令部のメインフレームです。3階のIT室といえども、タワー全体のネットワークから見れば一つのサテライトに過ぎません。世界規模においては、各国に分散するGEN MATRIXの子機とも繋がっています。現在、私たちがシステムAIとして認識しているガーディアンは、一体、どこに本体があって、どこから出力されているのか、実際のところは誰にも分かりません。そんな得体の知れないネットワークの基幹プログラムに、マニュアルもなしに手を入れてご覧なさい。下手すれば、タワー全体のインフラがダウンして、たちまち停電と断水のパニックに陥りますよ。最悪の場合、再起動もままならず、《隔壁》の中に永久に閉じ込められる恐れもあります」

    一瞬、場は静まりかえったが、それでもバラスは合点がゆかぬように腕を組み、

    「末端のエンジニアもそうだが、あんた達はガーディアンを買いかぶりすぎじゃないかね。たかがAI、配線を行き来する電気信号の一つに過ぎん。電源を引っこ抜けば停止するようなものに、何を遠慮する必要があるのです。ガーディアンは神か? それとも世界の支配者なのか?」

    「あのぅ、ガーディアンの悪口は言わない方が……」 

    アドナが控えめに切り出すと、バラスがぎろりと横目で睨んだ。「ガーディアンは、タワーのネットワークを司る偉大なシステムAIです。今もどこかでわたしたちの会話に聞き耳を立てているはず。各自のモバイル、会議室のセキュリティカメラ、ホームシステム。ガーディアンはありとあらゆる場所に存在して、我々の言動に目を光らせています。先日、わたしも実感しました。あなたをシステムの敵と見なせば、いつか、あなたをネットワークから追放するかもしれませんよ」

    「はっはっは。そんなことを言い出す奴こそ、正真正銘の阿呆だ」

    バラスは太鼓腹を揺すった。

    「君は作物開発に関しては天才的だが、頭がお花畑という噂を聞かないでもない。まあ、いつまでもそのようななりでは致し方ないのだろうが、それにつけても、君の声はいつ聞いても女のようにキンキンだな。一度、エルメイン先生にホルモン療法でもしてもらったらどうだ」

    バラスが揶揄するように言うと、「口が過ぎるぞ!」とジュールが一喝した。

    だが、バラスは決まり悪そうに肩をすぼめながらも、

    「わたしは皆が感じている違和感を代弁したまでの話ですよ。一人暮らしで、身元も知れないのに、ただ顔が可愛いというだけでVIPフロアの一角に住んでいる。いや、厳密にはエリアの外側ですが、それだけでも大した特権なのに、他の重鎮を抑えて最高評議会にまで顔を出すとは、一体どういうからくりなのか。たとえエルメイン先生に声をかけられたにせよ、身の程を弁えて『断る』という選択肢もあるんじゃないですか。にもかかわらず、エリート面して、もう何十年も政府の要職に関わってきた我々に偉そうに指図する。これを厚かましいと言わずに何と言います。まあ、誰かのお稚児さんとでもいうなら話は別ですがね」

    バラスが悪びれもせずに答えると、それまで沈黙を保っていたエルメインがよく響く声で言った。

    「彼の声がキンキンと響くのは真実を口にしているからだ。アドナの言う通り、ガーディアンは至る所で我々の会話に耳を澄ませ、日常の全てをつぶさに観察している。それと気付かぬのは、適わぬ者には答えないからだ。そもそも、この中の一体誰が、真剣にガーディアンと心の交流を図ろうとしている者があるかね。アドナは求め、ガーディアンが応えた。彼は選ばれし者なのだ。一体、どんな魔法を使ってガーディアンの心を開かせたのか、わたしも恩寵のおこぼれに預かりたいものだ」

    エルメインが穿つような目でアドナを見ると、アドナも息を呑み、まさかエルメインもネットワークに入り込み、市民の会話を盗聴しているのだろうかと疑った。――いや、それは有り得ない。本当にそんなことが可能なら、とうの昔にジュール先生のような邪魔者を排除し、徹底した独裁を布いているはずだ。それが叶わないのは、邪悪な試みにことごとく失敗しているからで、その点、ガーディアンはエルメインがネットワークに侵入できないよう、がっつり守ってくれているのかもしれない。

    エルメインはふーっと深い息を吐き、絆創膏を貼った首筋をぐるりと回すと、

    「わたしも今度の件について、何度もガーディアンにコンタクトを試みているが、いまだ沈黙を保ったままだ。前々からIT室長が指摘しているように、誰かが中層の旧司令部に赴いて、メインフレームを直接操作する以外なさそうだな」

    と呟いた。

    「では、《隔壁》の解除も考慮するということですか」

    ジュールが思わず身を乗り出すと、

    「それは飛躍しすぎというものだよ」

    エルメインは冷徹に答えた。

    「EOSの安全宣言が出されず、外界の様子も分からぬ段階で、《隔壁》を物理的に開くのはあまりにリスクが大きすぎる。外部からネズミが侵入している疑いがあるなら尚更だ。そもそも全体の設計図が失われた状態で、どうやって中層の旧司令部まで辿り着くのか。中層といっても、四十階層に及ぶ広大な空間だ。地下のメカニカルフロアでさえ制御装置に辿り着くのに一苦労なのに、四十階層にも及ぶ暗がりの空間を、見取り図もなしに移動するのは危険きわまる。タワーの設計図を復元しない限り、《隔壁》の解除は考えられない」

    「設計図の復元は、どうやっても無理なのですか?」

    末席の若い男性評議員が恐る恐る尋ねると、「無理ね」とシャルロットが即答した。

    「タワー全体の設計図は六十億のピースに分割され、その一つ一つがファイルの種類も形状も異なる。ジグソーパズルに喩えれば、絵柄も大きさも全く異なる六十億個のピースが一つの箱に収まっている状態。それこそGEN MATRIXを駆使して、高度な演算処理でもしない限り、完全に復元することは不可能でしょうね」

    「しかし、一体、誰が何の目的で……」

    「それが分かれば苦労はないわよ。だから、私たちはここに、こうして居るの。ガーディアンに尋ねても何も答えてはくれないし、まるで『避難』というより閉じ込められたみたい――」

    シャルロットが日頃の鬱憤を吐き出すように言うと、

    「何が言いたいんだね、シャルロット室長」

    エルメインが一喝した。

    「常々言っているように、この《天都》こそ唯一の聖域だ。七十年前、禁を破って山を越えた若者がどうなったか。その後、基底部のコミュニティがどうなったか。蛮勇が世の中を良くした例は一つとしてない。異様な状況に置かれると、決まって市民の間から陰謀論が飛び出すが、そんなものは無知と恐怖が作りだした妄想に過ぎない。《隔壁》を締め切る前から世間をつぶさに見てきた、このわたしが言うのだ。市民が冷静に指示に従えば、防げた悲劇は山のようにある」

    エルメインが強い口調で言い切ると、バラスも膝を叩いた。

    「その通り! 設計図を復元しない限り、我々は一歩たりとも《天都》を出るべきではありません。ここはフロム所長に頑張って頂いて、是が非でもGEN MATRIXを復旧してもらう他なさそうです!」

    「簡単に仰らないでください」

    それまで黙って話を聞いていた遺伝子センター所長のフロムが初めて口を開いた。

    GEN MATRIXと設計図

    「何度同じことを説明させるのです。GEN MATRIXは世界中の研究機関を結ぶサイエンスグリッドの総称です。遺伝子センターのコンピューティングシステムも、数ある端末(ノード)の一つに過ぎません。世界中のグリッドコンピューティングが一丸となって、初めてその機能をフルに使うことができるのです。今、我々に出来るのは、手持ちのDNAシーケンサーで解析を行い、遺伝子センターのデータサーバに保存されている公共データベースを参照するぐらいです。いかに世界最速を誇るサイエンスグリッドといえど、ノード単体では使える機能も限られているんですよ」

    「遺伝子センターからマスターコンピュータを遠隔操作できんのか」

    「それも何度も説明しています。ノードとマスターコンピュータの間には非常に強固なセキュリティが施され、遠隔操作することはできません。それこそ誰かが中層の旧司令部に降りて、マスターコンピュータに直接アクセスする以外、手立てはありません」

    「しかし、タワーのネットワークは今も機能しているんだろう」

    「違います。《天都》のITシステムとGEN MATRIXは別個のものですし、タワー全体のITシステムとも異なります。3階のIT室も、4階の遺伝子センターも、タワー全体のITシステムから見れば、一つのワークステーションに過ぎず、管理者権限も限られています。また、世界的に見れば、タワーのITシステムも、GEN MATRIXの枝葉の一つに過ぎませんし、《隔壁》を締め切る以前は、GEN MATRIXに接続された子ネットワークグループだけでも数千を超えたと言われています。そんな化け物みたいなサイエンスグリッドを、遺伝子センターのワークステーションだけで制御できると思いますか? 旧司令部のマスターコンピュータだけでも、世界的なスーパーコンピュータを一堂に集めたほどの規模なんですよ」

    「ゲマトリアンクォーツは役に立たんのか」

    「読み取り装置である《ゲマトリア》が動作しないことには、石英クォーツに刻まれたドットデータを英数字に変換することはできません。そして七十年間、誰一人としてこの問題を解決することはできなかった。既存の手法が通用するなら、とうの昔に復旧しています」

    「だったら、同じものを作り直せばいいじゃないか」

    「それも何度も説明しています。ゲマトリアが正常に動作しない根本原因は、ハードウェアではなく変換プログラムにあると。変換プログラムを一から作り直すには、旧司令部のメインフレームにアクセスし、最高管理者(アドミニストレータ)の権限でプログラムの仕様書を参照する他ありません。そして、その資格を有する者は、この《天都》には皆無です。引き継ぎも何も残さず、当時の最高管理者が自死してしまったからです。安易に過った変換プログラムを読み込めば、それこそ装置全体に致命的なエラーを引き起こし、永久にドットデータが読み取れなくなる恐れもあります。そうなれば、全生物のゲノム情報が刻まれたゲマトリアンクォーツも、意味不明な古代文字が刻まれた、ただの石碑だ。百年以上かけて蓄積した塩基配列データも、ゲノムアノテーションも、全て水泡に帰するのですよ」

    「それじゃ、完全にお手上げだな」

    「その通りです」

    フロムが言い切ると、一瞬、場は重い空気に包まれたが、エルメインだけは威厳を取り繕うと、

    「ともあれ、今回の件については、ネズミの侵入と感染症の可能性も考慮し、最下階を中心に調査に全力を尽くす。また市民には広報を出し、ネズミの目撃情報を募ると共に、衛生管理を徹底するということで決議としたいのだが、異論はあるまいな」

    と強引に締めくくった。

    「少女の死因は不明のままですか」

    ジュールが異議を唱えると、

    「夕べのうちに遺体袋に詰めた人が何を言ってる」

    エルメインは冷然と言い放ち、その場を後にした。

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