神様の手違いとアドナの恋
男性の身体に女性の心が入ってしまった

次の夜。

スティンは南翼のバルに足を運ぶと、いつものようにゲーム場に見張りを立てて、ビリヤード台の準備を始めた。

十日ぶりにスティンが賭けに興じるとあって、ゲーム場には既に三十名を超える見物客が集まっている。予定時間の五分前になると、カウンターテーブルには見物料代わりの若草色の食券が何十枚も積み上がり、スティンもほっと胸を撫で下ろした。

以前は連日のようにゲームに興じたものだが、それも三日おきになり、五日おきになり、とうとう一週間経っても挑戦者が現れなくなった。彼があまりに強すぎて、賭け試合としての面白みがなくなったからだ。

それだけに今日の昼過ぎ、バルのオーナーを通じて賭け試合の申し込みがあった時には、どれほど安堵したことか。勝負の行方より、食券の方が気になる現状はつくづく情けないが、怒りと屈辱はかえって生きるエネルギーになる。何が何でもここから抜け出して、明るい陽の下で堂々と生きたい、という思いがふつふつと湧いてくる。

だが、約束の時間になっても対戦相手は現れず、半時間も過ぎると、さすがにスティンも気になって何度も壁時計を見上げた。

相手は上階のクラシファイドで、スコア7500、ビリヤード歴三十年のベテランと聞いているが、いくら名の知れた達人でも三十分の遅刻は非常識ではないか。もしや地下に潜った犯罪者を炙り出す為の罠ではないかと思うと、言い知れぬ不安が胸をよぎる。

こんな事なら素直にウサギちゃんの言うことを聞いて、助けを求めればよかったかとも思うが、何を今さらだ。ここまで来たら最後まで一人で戦うしかない。これまでも、何度も何度も追い詰められて、その都度、形勢逆転してきた。そして今度も俺が勝つ、絶対に勝ってみせる、と自分に言い聞かせ、再び壁時計を見上げた時、カチャリとゲーム場のドアが開く音がして、対戦相手が入ってきた。

(ふざけやがって!)と罵声を浴びせようとしたその瞬間、相手の顔を見てのけぞった。なんと巻き毛のキューピットだ。丸い童顔に綿菓子みたいな金色の髪をして、胸元には食糧がどっさり入った布袋を抱えている。

「おい、ミルクバーは三軒先だぜ」

「何か勘違いしてんじゃねえか」

見物客が口々に囃し立てると、スティンも構えを崩し、

「悪いが、ここはビリヤード教室じゃない。お子ちゃまは上階のゲーム場に行ってくれないか」

と嘲った。

ところが、巻き毛のキューピットは臆することなくスティンの前に歩み出ると、「医学生のセスです」と片手を差し出した。

「中年のベテランプレイヤーだと聞いていた」

「そうです。あなたに対戦を申し込んだのは僕の父です。でも、急用ができたので、僕がピンチヒッターとして来ました」

「そいつはルール違反だぞ」

「ルールなんて、賭け事をする時点でルール違反じゃないですか」

セスが悪びれもせず答えると、周りもどっと笑い、スティンもむっと顔をしかめた。だが、セスは構わず、食糧の入った布袋をカウンターテーブルに置くと、

「乾燥ビーガンパテが一キログラム。調理用の大豆の粉が三キログラム。キュウリ十本。トマト十個。アボカド十個。ここまで運ぶのはなかなか大変でしたが、これが賭けの景品です。食糧そのものなら問題ないでしょう」

「おい、お前……」

「さて、どんなゲームにします? ナインボール? スヌーカー? 賭けを楽しむなら、ワンポケットも面白そうですね」

「ふざけんな! ワンポケットなんか、やってられるか!」

「どうして? ワンポケットほどスリリングなゲームはありませんよ。十五個の的球を使って、最初に八個以上を自分のコーナーポケットにポケットした方が勝ち。通常は三ラック先取か、五ラック先取した方が勝者ですが、手早く勝負をつけるなら一ラックでどうでしょう? それなら短時間で済みますよ」

「短時間って、どういう意味だよ」

「僕も夜遅くまで遊んでいられません。明日も授業が早いんです」

周囲から再び笑いが起きると、スティンもかーっと頭に血を上らせた。

「だったら、十分で済ませてやる。どうせ、お前もそれぐらいしか持たないだろ」

「ハンデは結構です。そちらから、お先にどうぞ」

セスは余裕の笑みを浮かべた。

(この野郎!)

頭の天辺から火柱が立ちそうになるのを必死に堪えながら、スティンも老師に譲り受けたビリヤードグローブをはめた。

ワンポケットはナインボールやスヌーカーと異なり、力業で勝負がつくものではない。チェスのように、いかに相手の戦略を攪乱し、先に八個の的球を自分のコーナーポケットに先取するかだ。技術においても、集中力でも、こんな年下の巻き毛に負けたたら大恥だ。

「コーナーポケットはお前の好きな方を選べ」

スティンが言うと、セスは「どちらにしましょうかねぇ」とわざとらしく呟きながら、ビリヤード台を半周し、スティンの隣に並んだ。そして、コーナーポケットの左右を決める振りをしながら、「DNA先生が心配しています。どうか連絡を」とスティンの耳元で囁いた。

スティンは驚いたようにセスの顔を見返したが、セスは左側のコーナーポケットに決めると、素早くキューを構え、最初のブレイクショットを放った。十五個の的球は打ち上げ花火のように放射状に広がり、早々と最初の一つがコーナーポケットに落ちた。「おおーっ!」と周りから歓声が上がると、セスは軽く肩をすぼめ、「ちょっと力が入り過ぎました」と照れ笑いした。

(何がちょっとだ、完璧にコントロールしてやがるくせに!)

セスが再びキューを構えると、スティンも険しい表情でセスの手元を見つめ、単なる学生のお遊びではないことを悟った。誰に習ったのかは知らないが、相当前から訓練を積んでいる。

次のショットが予想に反して深い角度で跳ね返り、的球から外れると、(こいつ、わざと捻りをかけやがった)と歯ぎしりした。おまけにDNA先生のことまで持ち出して、一体、どういう魂胆なのか。それとも、あいつがけしかけたのかと、カッカしながら頭の裏側で思い巡らせていると、「あなたの番ですよ」とセスが声をかけ、スティンもはっと我に返った。慌ててキューを構えたが、まるで狙いが定まらない。素人みたいにもたもたしていると、またもセスが独り言を言った。

「天使も交通事故に遭うんですね。大事な羽根が傷つかなければいいですが」

「ごちゃごちゃ、うるさいぞ!」

「すみません」

スティンは再びビリヤードグリーンに向かったが、手元は狂ったままだ。キューの先端は撞点(どうてん)より僅かに左にずれ、手球は狙った的球の脇をすり抜けて、サイドレールの手前で停止した。

(外した! こんな簡単なキスショット!)

すると、見物客も「お前、何やってんだ」「こんな坊やに気圧されてるぞ」と騒ぎだし、スティンも手の平に汗を滲ませた。

それからは地獄のゲームだ。ことごとくショットが外れ、球筋が荒れる。先に八個――たった八個が、なぜポケットに入らない?

悪戦苦闘の末、ようやくスティンが八つ目の的球を自分のコーナーポケットに入れると、セスはあっさり負けを認め、「さすがですね」と手を差し出した。だが、スティンはその手をじっと見つめたまま動かない。本当に自分が勝ったのか、それとも勝ちを譲られたのか。何にせよ、こんなゲームは勝利のうちに入らない。

「食糧は要らない」

スティンが突っぱねると、セスも頭を振った。

「いいえ、もらって下さい。賭けですから」

「何が賭けだ。賭けに見せかけたお節介だろ!」

「どうしてお節介だと思うんです? 僕は誰かに頼まれたわけでもなければ、勝ちを譲ったわけでもありません。食券より食糧の方が受け取りやすいと思ったから、そうしたまでです。お節介としか思えないのは、あなたが誰かに拘っているからでしょう。今後もビリヤードを楽しみたければ、ルール遵守でいきましょう。意地を張らずに上手く立ち回れば、それほど悪い結果にはならないと思います。それから、あなたが先日負かした元チャンピオンは、僕の父のビリヤード仲間なんです。そして、僕の師匠でもある。決してあなたを陥れるつもりで賭けを仕掛けたわけではありません」

セスはスティンと見物客に一礼すると、足早に立ち去った。

「おい、待てよ、キューピット!」

外周回廊でスティンがセスを呼び止めた。セスはゆっくり振り向くと、「少し話しませんか?」と窓際のベンチを指差した。

ほのかなLEDライトが照らす中、スティンはセスの隣にぎこちなく腰を下ろすと、「お前、どういうつもりだ」と問い質した。

「あなたも気付いておられるんでしょう」

「何のこと」

「DNA先生です。普通の男性とはちょっと違っていること」

「お前、あいつの何だ? いきなりやって来て、連絡がどうとか、天使がどうとか! いいか、俺はれっきとした理由があって、あいつと距離を置いているんだ。泣き落としで俺の気が変わると思ったら大間違いだぞ」

「僕にはあなたの戸惑いが手に取るように分かります。僕も同じ戸惑いを経験しましたから」

「戸惑い?」

「僕が初めて先輩に出会ったのは十一歳の時です。白百合みたいな顔に優美な微笑を浮かべて、遠くに姿を見かけるだけで胸がときめいたものです。本人は『男性』と言い張るけど、僕には到底信じられなくて、僕の気持ちをはぐらかす為に冗談を言っているのではないかと疑ったほどです。だけど、一年経ち、二年経ち、三年経っても先輩の体付きがまったく変わらないのを見て、本当に男性なのだと実感しました。今も慕う気持ちに変わりはありませんが」

「それで、実際はどうなんだ? 男なのか、女なのか」

「生物学的には男性だと思います。でも、神さまの手違いで、女性の心が入ってしまった」

「神さまの……手違い」

「だって、そうとしか言いようがないでしょう。先輩は性的に倒錯しているわけでもなければ、人格障害でもありません。あれが普通なんです。持って生まれた身体の性と心の性が違っているだけで、人間としては立派な方です。だけど訳あって、女性でいることを止めてしまったのだと思います」

「俺にはさっぱり分からない。『女性でいることを止める』って、どういう意味だよ」

「女性だと生き辛いという意味です。僕が思うに、かなり早い時期に性的に辛い体験をされたのではないでしょうか。普通の女の子でも、性的に嫌な思いをすると、女性性を拒否して、髪をショートにしたり、ズボンばかりはいたり、女性を連想させるものを自分の中から一切排除することがあります。先輩もそれと同じです。心のどこかでは、自分が女性だと意識していると思います。でも、女性だと都合が悪いから、自分は男だと言い聞かせ、男性として生きようとしているのです」

「あいつがそうだという証拠でもあるのか」

「証拠が有るとか無いとかの話ではなく、想像力の問題です。あなたも初めて会った時、違和感を覚えたでしょう。体つきは男性で、本人も男性を自称するけど、どこか物の感じ方や仕草が女性的で、自分と同じ男性とは到底思えない。それで時々、レディのように接すると、本当の先輩自身が顔を出すんです。それがまた妙に色っぽい」

「だったら、お前が彼氏になってやれよ!!」

「ダメですよ。先輩、僕なんか眼中にないですから」

「聞いているこっちが倒錯しそうだ。それで俺にどうしろと?」

「先輩のこと、気持ち悪いなんて思わないで欲しいんです。先輩だって、決して趣味で男になったり、女になったりしているわけではありません。心の葛藤や性的トラウマなど、いろんな理由があって、本当の自分を出せないんだと思います。あるいは自覚したくないのかもしれません。だけど、あなたに出会って、心のバランスが崩れてしまった」

「でも、生物学的には男だろ? だったら男だ。それ以上のものでも、それ以下のものでもない」

「ですから、中身は女性なんですって」

「女、女と言うなよ! 俺が混乱するだろうが!」

「あー、本気で好きになるのが怖いんですね。分かります」

「おい、お前! いい加減にしろ! 俺が言いたいのはな……」

「どうか理解してあげて下さい。違和感を覚えているのは、僕やあなただけではありません。先輩の周りにいる人、みな同じです。でも、何かに気付いても、気付かぬ振りをするのが優しさでしょう。あなただって、そういう優しさに救われて、今まで生きてきたはずですよ。気持ち悪いとか、男同士では付き合えないとか、そんな風に切り捨てないで欲しいんです」

「確かに『気持ち悪い』は言い過ぎた。俺も頭に血が上ってた」

「僕も詳しいことは分かりませんが、先輩が医学で言うところの正常と違っているのは確かです。今は健康でも、将来的に深刻な問題を引き起こすかもしれません。だからといって、いきなり本人の肩を掴まえて、ああしろ、こうしろと、指図するものでもないです。こういう問題は、本人が自覚して、自ら治療に参加する意思を明確にする過程が非常に重要ですから」

「あいつ……死ぬのか?」

「僕には何とも言えません。ただ一つ確かなのは、先輩は限られた命を精一杯生きようと努力されていることです。あなたにはお節介に感じるかもしれませんが、先輩は一人の人間として、あなたに手を差し伸べ、不運な境遇から救い出したいと願っておられます。先輩にとって、天上から見えるものは、みな慈愛の対象なんですよ」

「知ってるよ。エデンの庭師だ。自宅でも、花やら草やら、いっぱい育ててる」

「なぜ、あなたが知ってるんですか?」

「それは、まあ……面容を見れば分かるじゃないか。コラムの後半はまるでポエムだし、瞳もきらきらして、頭の中までお花畑って感じだぞ」

「でも、頭の中までお花畑の人がいるから、この世に美しいものが存在するんでしょう。そうでなければ、今頃、グリーンエリアも荒れ果てて、外周水路も泥だらけですよ」

「だからといって、男女のようには付き合えないよ。いい人だとは思うが、好きだの何だの言われても、俺には答えようがない」

「そんなこと、あなたに言われるまでもなく、本人が一番よく分かっていると思います。それでもあなたを助けたいんですよ。自分がそうであるように、あなたも不運な境遇で藻掻いているのが分かるからでしょう」

「あいつに同情される覚えはないよ」

「同情ではありません。現実社会の理不尽に対する悔しさです。先輩は、あなたがビリヤード大会の決勝に進出して、堂々と優勝カップを手にする姿が見たいんですよ。そして、それが理不尽に対する勝利でもある。上階のエリートだからといって、皆が皆、美味しい鶏肉に舌鼓を打って、それで満足しているわけではありません。僕だって、日に日に医療資源が失われ、検査も投薬も満足にできない現状に怒りと悔しさを噛みしめています。僕に執政府を動かすほどの力があれば、今頃、《隔壁》を蹴破って、市民全員をタワーの外に連れ出していますよ」

「……」

「別に男女の間柄でなくても、愛を返す方法はいくらでもあるでしょう。先輩も今は動揺されてますけど、元々、聡明な方ですから、気持ちが落ち着けば、あなたとも上手に距離が取れるような気がします。ともあれ、また気が向いたら、連絡してあげて下さい。先輩に直接連絡するのは気が引けるなら、僕を通してでも。あなたも他人には言えない事情を抱えて苦しんでおられるのかもしれませんが、世の中、四角四面に裁きを下す人間ばかりではありません。事情が分かれば、あなたも許されると思います。何もかも落ち着いたら、また一緒にプレーしましょう。元チャンピオンが、もう一度、あなたと対戦したいと言ってましたよ」

スティンの顔が微かにほころぶと、セスは改めてゲームの御礼を言い、足早に立ち去った。

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石田 朋子

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