頭上で無影灯が点灯すると、アドナは一瞬、眩しさに目を閉じた。だが、すぐにまた大きな眼を開くと、エルメインの顔を真っ直ぐに見据えた。
エルメインは長袖の白いスクラブを身に付け、処置台のすぐ側に立ち、後ろにはいつものようにヘクターが控えている。エルメインはアドナの顔を覗き込むと、おもむろに患者衣の胸元を開き、「安物の絆創膏が貼ってある。ジュール君の手当か。まったく、わたしの大事な患者に何という粗末なことをしてくれるのだ」と溜め息をついた。
「いつ、わたしがあなたの患者になりました?」
「君は生まれた時からわたしの患者だよ。そして、最愛の創造物でもある。日々、慈しみ、能う限りのものを与えてきたわたしの親心が分からないかね」
「だったら、なぜこのように拘束するのです? 胸部の診察なら、椅子に座っても出来るはず。愛すると言いながら、まるで囚人みたいに拘束する理由が分かりません」
アドナの両手首と両足首は幅広の拘束ストラップで処置台に固定され、体幹にも拘束ベルトがかけられている。
「なに、安全対策だよ。この高さから落ちたら、君もひとたまりもないだろう。一からヒトゲノムをデザインしてこしらえた大事な身体だ。丁寧に扱うのは当たり前じゃないか」
エルメインは絆創膏を引っ剥がすと、患者衣の胸元を大きく開き、陶器のように美しい胸板を掌で撫でた。
「美しい。肌色といい、弾力といい、これ以上は望めぬなめらかさだ。お前の身を譲り受けたい者は何人もいたが、お前だけは特別に護ってきた。あまりに早くから快楽に染まると、老いた娼婦のように容色も衰えるからな。そして、その判断は正解だった。大人になっても、これほどの瑞々しさを保つとは。ますます手放すのが惜しくなる」
「あいにく、それが目的なら、わたしに快楽はないよ。あなたがそのようにデザインした。これ以上、わたしの身を穢すなら、この場で舌をかみ切って死んでやる」
「そんなものは必要ない。わたしが欲しいのは唯一つ、胸腺だ。お前のこの胸の奥に秘めた、神の遺伝子だよ」
「神の遺伝子など存在しない。あんたのくだらない妄信が作り上げた、ただの塩基の塊だ」
「妄信などではない。わたしはこの目で見たのだ。娘の体内から取り出した卵子のゲノムにな」
「……」
「その昔、不思議な少女がいた。生まれてからずっと病気らしい病気もせず、町で感染症が猛威を振るった時も、彼女だけはけろりとして、どんな切り傷、擦り傷も、たちどころに治ってしまう。彼女の免疫細胞を移植された患者は、ほとんど抗生剤に頼らず息を吹き返し、重度の悪性腫瘍もたちまち縮小した。まさに神の御業というより他なかった。
少女のことが学会誌に紹介されると、世界中の研究者がDNAのサンプルを手に入れようと躍起になった。わけても価値が高かったのは生殖細胞だ。月に一度排出される黄金の卵子を手に入れる為、億単位の報酬を提示する者もいた。
だが、少女の両親は頑として受け入れず、一部の研究者にだけそれを許した。研究グループは少女から採取した様々な生体試料を詳しく調べ、ついに神の遺伝子を発見した。
神の遺伝子は胸腺に働き、分化能に優れた万能型T細胞を産出する。しかもその能力は生涯にわたって衰えず、細胞の癌化や老化に歯止めをかける。まさに不老不死の霊薬だ。一部の研究者がそれを秘蹟(サクラメント)とし、世間から遠ざけたのは、それこそ人類に対する冒涜だよ。一般に普及すれば、どれだけ多くの人命が救われたか知れないのに。
不運にも少女の肉体は失われたが、それに近い細胞提供者を得ることができた。その者のゲノムに手を加え、作りだしたのがお前だ。ちょいとばかり理想と違ったが、それでも美しく壮健であることに変わりはない。お前のおかげで神の恵みを万人に分け与える手法が分かった。あとは同じ手順を繰り返すだけ、いずれ注射や点滴で手軽に遺伝子を注入できるようになるだろう。
お前が素直に身を差し出せば、そう悪い展開にはならない。まあ、そう悲愴な顔をするな。何も命まで取ろうというわけじゃない。この白い胸からちょいと胸腺を取り出すだけだよ。どうせ誰の胸腺も加齢と共に退縮するんだ。今のうちに取り出したところで何の問題もない」
「自然に退縮するのと人為的に取り出すのでは訳が違う」
「違わないさ。どのみち、お前は天涯孤独で、子をなす力もない。一代限りの命に惜しいも悔しいもなかろう。その分、お前には様々な特典を与えてきた。VIPフロアの優雅な暮らし。食卓に並ぶ数々のご馳走。下階の住人が練り物みたいなビーガンパテを安酒で流し込む時も、お前には肉汁のしたたるようなグリルチキンやラムステーキを食べさせ、栄養をつけてきた。加えてクラシファイドの称号に屋内農園の仕事。まさか自分一人の力で得たと自惚れてはおらぬだろうな。分かったら、人類救済の為にお前の胸腺を差し出せ。むろん、その後もお前の待遇は変わらない。今まで通りVIPフロアで暮らし、好きな仕事も続ければよい。本物の鶏肉や七面鳥も食べ放題だ」
「じゃあ、あなたは最初から……」
「ガチョウと同じだ。たっぷり餌を与えて、胸腺を発達させる。さしずめ人間フォアグラといったところだな」
エルメインが笑うと、ヘクターも顔半分を歪めるようにして笑った。
「お前は黄金のガチョウだ。それも極上のフォアグラだよ。胸腺でなくても、お前を味わいたい者は大勢いる。もっとも、どこで愛を感じるかは、試してみないと分からんがね」
「この色きちがい!」
「だが、お前もそれを望んでいるのだろう? 最下階のハスラーだ。均整の取れた身体に、黒目黒髪のエキゾチックな顔立ち。わたしが何も知らないと思ったか」
「……」
「素直に従えば、悪いようにはしない。二人して協力すれば、彼にも上階の住まいを与えるし、仕事も斡旋する。身体も彼の好みに作り替え、毎晩飽きるほどファックすればいい。このまま誰の愛も知らずに朽ち果てるより、よほど幸せだろう」
「あんたに協力するぐらいなら、わたしも彼も潔く死を選ぶ。胸腺を差し出したところで、恩恵を得るのはVIPの住人だけだ。下階では得体の知れない感染症が続発して、皆が騒然としているのに、それは見て見ぬ振りか」
「それは誤解というものだ。感染症の脅威が身近に迫っているからこそ、お前の胸腺を役立てたいのだよ。ヒトの免疫機能を極限まで高め、未知の病原体にも打ち克つ肉体を手に入れたら、《隔壁》の外に出ても、苛酷な自然環境で生き延びることができる。お前の胸腺を使って、移植用の細胞を市民の数だけ培養し、経皮的に投与すれば、誰もが神の遺伝子の恩恵にあずかることができる。その証拠にわたしを見なさい。お前のおかげで、こんなにも壮健だ。その恵みを万人に分け与えたい、この厚情が分からぬか?」
「分かりたくもないね。市民の長寿を願うなら、VIPの為に確保された医療資源を一般にも開放し、《隔壁》を開く準備を進めることだ。細胞移植だけで市民が長生きするものか」
「だが、安易に外にでれば、もっと大勢が命を落とすことになるぞ。現代の我々には土や草むらでさえ脅威だ。愛する者が、以前なら数個の錠剤で救えた感染症に蝕まれ、肉を腐らせながら死んでいく様を見たいかね。たとえ《隔壁》の外に出ることが叶っても、以前の医療レベルを取り戻すには、少なくとも数十年はかかる。それまで、人はどうやって病を克服するのだ? それこそ一本のアンプル剤をめぐって、血で血を洗う抗争が起きるぞ」
「だが、わたしの胸腺細胞を移植して、万人に効く保証があるのか?」
「すでにVIPで実験済みだ。みな、お前には感謝しているよ。まるでルルドの泉だと。それに目に見える効果はなくても、神の遺伝子を手に入れたというだけで、不老不死になったような気分になる者は少なくない。シャルロットがいい例だ。お前やジュールは認めたくないだろうが、医師とは一つの信仰だよ。言い方一つで痛みも和らぎ、不治の病にも希望の光が差す。ただの抽出液でも不老不死の霊薬のように思い込ませるのが医術の真髄だ。騙された者は不幸か? 決してそうではない。たとえ完治しなくても、あの先生に診てもらえたというだけで、納得して死ぬことができる。病人というのは、理屈よりも奇跡を欲するものなんだよ」
「あんたみたいな医療詐欺師を信じて、我が身を差し出す者こそ哀れだよ。死は誰の上にも等しく訪れる。自分だけは特別と自惚れ、不老不死を求めること自体が傲慢なんだ」
「だが、お前も奇跡を欲しているだろう。自分のなりたい身体になって、好きな男の愛を得る。その願いが叶うなら、魔女の煎じ薬でも口にするはずだ」
「叶わぬ願いを受け入れて、人生を全うするのも立派な奇跡さ。何が何でも、自分だけは生き延びようとするから苦しくなるんだ。過去がどうあろうと、感染症が蔓延し、どうにも手に負えなくなったら、いずれあんたに心酔している信奉者も気が付く。あんたの遺伝子治療の半分はインチキで、呪術の類いだと。その時にはわたしも身を晒すつもりだ。あんたの非人道的な罪を証す、哀れな子羊としてね」
「あまりわたしを怒らせぬ方がいいぞ。今はあの男も生かしているが、わたしも気まぐれでね。それとも愛する男が血を流し、悶え苦しむ様を見たいかね?」
「だが、その前にわたしは死ぬかもしれないよ。死んで腐れば、ただの肉塊だ。細胞の培養も叶わない」
「復讐のつもりか」
「愛だよ。あなたには永久に理解できないだろうが」
「まあ、そんな突っ張りが通用するのも今のうちだ。いずれ泣いて命乞いするようになる」
エルメインが目で合図すると、ヘクターがステンレスの器具トレーから一本の注射器を取り出した。アドナの顔が強ばると、エルメインは彼の髪を優しく撫で、
「さっきも言ったように、お前は黄金のガチョウだ。すぐに殺しはしない。ちょっとしたお仕置きだよ。肉体的には痛みもなく、苦しみもない。その代わり、精神的には相当こたえるだろうがね」
彼は身をよじり、拘束帯を揺すった。
「これこれ。そんなに暴れては、かえって身体を傷つけるではないか。何も怖がることはない。本当に何でもないんだ。ただの男性ホルモンだよ」
アドナが凝然とすると、エルメインは薄笑いを浮かべた。
「どのみち、お前は長く生きられない。だが、適切なホルモン療法を施せば、人並みには生きられる。それより自分の性染色体がXYか、XXか、知りたくないか? 長い間、伏せてきたが、お前の性染色体はXYだ。生物学的には立派な男性( male )だよ。希望と違って、がっかりしたかね。だが心配するな。今からみっちりホルモン療法を行えば、一年も経たずに男の肉体になる。あの男も目を背けるような、毛むくじゃらの筋肉質にな」
ヘクターは彼の左肩に深々と注射針を突き立てると、一気に薬液を注入した。
「なぜ、こんな酷いことを……?」
「一週間の猶予をやろう。自分から手術台に上がり、設計図の復元に協力するなら、お前を女の身体に作り替え、男の命も助ける。だが、裏切ればガチョウと同じだ。お前の胸腺を引きずり出して、男性ホルモンのインプラントを埋め込む。男はバラして多目的ドナーだ。活きのいい成人男性の腎臓と肝臓は鴨肉より価値があるんでな。それが嫌なら、二人で協力しろ。でないと、お前の目の前で男の腹を引き裂くぞ」
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