神の遺伝子と免疫細胞 ~未来の医薬品不足に備えて

    第三節 ゲマトリアンクォーツ (4)

    STORY
    エルメインの目的はただ一つ、ヒトの免疫機能を極限まで高める『神の遺伝子』を手に入れ、未来に不老不死をもたらすことだ。その為にGEN MATRIXの再起動が必要なのだとフロムは主張するが、エルメインの邪心を知るアドナは「あの人に権限を移すことが最善とは思えません」と否定する。

    目次

    神の遺伝子と免疫細胞 ~未来の医薬品不足に備えて

    「エルメインの真の狙いは、生物学的機密でしょうか」

    「そうは思わない。仮にそれが狙いとしても、こんな状況で生物兵器や宇宙実験の機密を手に入れて何になる? あの人の関心はただ一つ、不老不死だよ。病の克服とでも言うべきか。人類の未来を見据えた遺伝子療法だ」

    「それこそ愚の骨頂です。DNAの特性を考えても、不老不死など有り得ません。それはあの人自身が誰よりも知っているはずなのに、なぜそんな馬鹿げた研究に固執し、残り少ない医療資源を注ぎ込むのです」

    フロムはじっとゲマトリアンクォーツを見上げていたが、「神の遺伝子というものがあるそうだ」とぽつりと口にした。

    「神の……遺伝子?」

    「僕も詳しいことは知らないが、人間の免疫機能を極限まで高める、究極の遺伝子だそうだ」

    「馬鹿馬鹿しい。本当にそんなものが存在するなら、抗生剤もワクチンも必要ないじゃないですか」

    「その通りさ。だが、本気でそれを目指していた人たちがいたんだ」

    「どういうことです?」

    「僕の祖父は製薬会社のバイオ医療部門で情報管理に従事していたんだが、当時、そこそこに名の知れた科学雑誌に興味深い記事が掲載されたそうだ。極東の研究所で神の遺伝子が発見されたと。神の遺伝子はヒトの胸腺に作用し、獲得免疫において重要な役割を果たすT細胞に劇的な変化をもたらす。通常、誰の免疫機能も加齢と共に著しく低下するが、神の遺伝子の持ち主は高齢になっても高い免疫機能を維持し、癌化や病原体に打ち克って、*7スーパーセンテナリアンになるそうだ」

    「つまり、神の遺伝子の持ち主は、生涯にわたって活発にT細胞を産生するということですか?」

    「というより、『万能型』と呼ばれる特殊なT細胞を多量に産生するんだ。君も知っての通り、人間の免疫機能には、自然免疫と獲得免疫の二種類がある。自然免疫は、いわゆる白血球――マクロファージや顆粒球(好中球、好酸球、好塩基球)といった免疫細胞が体内に侵入した細菌やウイルスを貪食することにより生体を守る。たとえば、切り傷が化膿しても自然に治癒するのは、白血球が働いて、死滅した細菌と共に体外に排出されるからだ。一方、獲得免疫は、細菌やウイルスなどが体内に侵入すると、マクロファージや樹状細胞から抗原(非自己物質)の情報を受け取ったリンパ球が免疫活性物質を産生して、抗原を攻撃する。リンパ球は、主にBリンパ球(B細胞)とT細胞の二種類があり、骨髄由来のBリンパ球は抗原に合った抗体(免疫グロブリン)を産生して、細菌やウイルスの毒素を中和したり、白血球の働きを助ける役目がある。それに対して、胸腺由来のT細胞はもう少し動きが複雑だ。骨髄由来の前駆細胞が胸腺に取り込まれて分化する過程で、主にヘルパーT細胞とキラーT細胞の二種類が産生される。ヘルパーT細胞はBリンパ球を刺激して抗体を産生する手助けをする一方、強力な細胞傷害性をもつキラーT細胞を活性化する。活性化したキラーT細胞は、細菌やウイルスに感染した細胞や癌化した細胞を直接攻撃して殺滅する。我々が風邪を引いても、いつの間にか治ってしまうのは、こうした免疫機能が正常に働くおかげだ。この力を死ぬまで維持できれば、多くの人が癌や感染症の脅威から守られるだろう。ところがヒトの免疫機能は新生児から思春期にかけてピークを迎え、四十代で半減、七十代には十パーセント近くまで落ち込む。若い人なら数日安静にするだけで快癒する感冒も、高齢者には命取りになるのは、免疫細胞の数も種類も著しく変化して、癌化や病原体に打ち克つ力も失われるからだ。ある意味、ヒトの健康寿命は免疫機能に左右されるといっても過言ではない。たとえば高齢者の主な死因は悪性腫瘍、大血管障害(心筋梗塞・脳梗塞・末梢動脈疾患など)、感染症だが、悪性腫瘍もDNA複製エラーで生じた癌細胞の増殖や転移を免疫機能が抑えきれなくなった結果だし、大血管障害も、動脈硬化が進んだ部位にT細胞が悪い方に作用して細胞死を引き起こすことが原因の一つと言われている。その他の老化現象も、免疫機能が上手く働かず、臓器が慢性的な炎症状態に陥って、徐々に機能低下するのが大きな原因だ。だが、十代二十代の免疫機能を百歳まで維持することができれば、ヒトの寿命は劇的に向上する。実際、スーパーセンテナリアンの血中には、通常少量しか認められないCD4陽性キラーT細胞が高い割合で存在していることが知られているし、特異な機序により、高齢になっても細胞傷害性に富んだT細胞を増殖させる能力を備えているという。あまたの老人が風邪をこじらせて亡くなる時も、スーパーセンテナリアンは特殊な免疫機能でウイルスに打ち克つというわけさ。そこで一部の科学者は、スーパーセンテナリアンの免疫機能に着目し、様々な遺伝子療法を試みてきた。切除不能な悪性腫瘍に対し、患者自身のT細胞を改変して、再び体内に投与する方法。特殊なワクチンを使って老化したT細胞を生体から除去する方法。人工細胞を使って若いT細胞を投与する方法。そんな中、極東の研究所で『神の遺伝子』が発見された。名うての研究者が結集し、機能解析や応用化が進められたが、政情不安の為か研究は中断し、以後ぷっつりだ」

    「研究が中断したのは資金不足ですか? それとも被験者が亡くなったとか」

    「さあね。僕もよく分からない。だが、あの人がゲマトリアンクォーツに執着するところを見ると、この中に研究資料が隠されているのかもしれないな」

    「仮に神の遺伝子が存在するとして、そんな簡単に不老不死が実現するものでしょうか。いくら強力な殺傷能力をもつT細胞を作り出せても、T細胞一つで若返るわけでもないですし、人間、死ぬ時は死ぬんじゃないですか」

    「あの人だって、それぐらい百も承知さ。だが、やらねばならない理由があるから、やるんだよ。人類の未来の為にね」

    「未来ですって?」

    「そうさ。我々もいつかここを出て行く。本当に生き延びたければ、否応でも《隔壁》を開き、大地に降り立たなければならない。その際、最大の脅威となるのは何か。ミクロの病原体だ。細菌、真菌、原虫、ウイルス。これまで当たり前のように治せた感染症が命取りになる。だから神の遺伝子が必要なんだ」

    「つまり、抗生剤やワクチンがなくても、感染症に打ち克つ体質に作り替えるということですか?」

    「まあ、理想はそれに近い。今の我々には多種多様な医薬品を大量生産する設備もなければ、それを作り出す原料もない。いくら原始的な方法でペニシリンやエタノールを作れても、それだけでは対処できない感染症の方が圧倒的に多い。まして我々が《天都》にこもって七十年、ここで生まれ育った世代の自然免疫力は、昔の人々に比べれば赤子同然だ。今となっては、破傷風、赤痢、コレラ、狂犬病のみならず、手指の化膿や食中毒など、ありとあらゆる感染症が脅威となる。それを思えば、遺伝子操作によって不死身の肉体を手に入れようというあの人の考えも、あながち荒唐無稽とは言い切れないんだな」

    「だからといって、受精卵のゲノム編集が許されるわけではないでしょう」

    「だから、GEN MATRIXが必要なんだよ。旧司令部のマスターコンピューターを再起動し、ゲマトリアンクォーツに刻まれたゲノム情報を参照するだけでも可能性は広がる。ゲノム編集の結果を正しくシミュレーションできれば、実験動物や被験者に犠牲を強いることもないからね」

    「だとしても、あの人に権限を移すことが最善とは思えません」

    「それくらい百も承知さ。だが現実問題、人類が再びパンデミックの脅威に晒されたら、君だって考えが変わる。たとえ相手が悪魔でも助けてくれと懇願するようになるさ。僕にとってエルメインはそういう存在だ。浅はかなところもあるが、技術と行動力は群を抜いている。ジュール先生が善人なのは認めるが、いざ自分が死の淵に立たされたら、ジュール先生ではなく、エルメインの診察室に行くだろうね。――さて、話している間に、テストの準備ができたようだ。僕もそろそろ行くよ」

    フロムは白衣の裾を翻すと、技師の方に歩いて行った。

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