ガーディアンの告白
『神の遺伝子』をもつ娘とマーテルRNA

アドナとスティンを乗せたエレベーターがシステム監視室に到着すると、二人は顔を見合わせ、真っ暗な室内にそろそろと踏み出した。まだ幾つかのコンピュータ機器は通電しているのか、ハードウェアのステータスランプやコンソールのバックライトが星のように点滅している。

スティンがLEDライトを灯し、マルチモニターに面した扇形のメインコンソールを注意深く照らした時、アドナが「あっ」と小さく叫んだ。

メインコンソールの座席の近くに、誰かがうつ伏せで倒れている。まるで何かを手に取ろうとするように、右腕をいっぱいに伸ばして。

「ヴィクトルだ」

スティンがつぶやくと、

「ヴィクトル・マジェフスキー?」

とアドナも声を震わせた。

「そうだ。バイオクリーンルームで深手を負った後、必死の思いでここに辿り着き、遠隔操作でGEN MATRIXの接続を断ち切った。設計図の分解も、ゲマトリアのエラーも、彼の仕掛けだ」

恐る恐る近づいて見ると、ヴィクトルの亡骸は空調の行き届いた室内で完全に乾燥し、思ったよりきれいな状態で保存されている。衣類に染みついた血の跡から、左の脇腹を鋭利な刃物で刺され、失血死したことが窺える。ヴィクトルの血は、メインコンソールの座席やその足元にも広がり、最後の力を振り絞ってトラップを仕掛けた様子がありありと目に浮かんだ。

アドナはヴィクトルの右手の先に視線を走らせると、壁際の長椅子に赤い膝掛けが置かれているのに気が付いた。手に取って見ると、深紅の綿地に色とりどりの織り糸が縫い込まれ、オリエンタル風の美しい花模様が描かれている。

「アラルの織物だ。前にデジタルアーカイブで目にしたことがある。アラル地方に伝わる有名な伝統工芸品だよ」

「ヴィクトルはアラルの血族だったんだろうか?」

「あるいは、近縁の誰かがそうだったのかもしれない」

「ここに名前が縫い込んである。Elena(エレナ)。遺伝学者のエレナ・マジェフスカヤのことだね。いよいよ最期の時が迫ると、奥さんの温もりを感じようと織物に手を伸ばしたけど、途中で力尽きたんだ。可哀想に。誰にも発見されることなく、七十年を一人ぼっちで過ごした」

「こうなることも覚悟の上で、ヴィクトルはシステム監視室に逃がれた。そして、トラップを仕掛けた後、誰にも告げずにドアを内側から締め切ったんだ。そうでなければ、とうにエルメインが遺体を回収して証拠隠滅を図っている。GEN MATRIXがエルメインの手に渡るよりは、ここで一人死ぬことを選んだんだ」

アドナはヴィクトルの亡骸にエレナの織物をかけると、

「いずれ《隔壁》が解放されて、誰かがここを訪れたら、きっと丁重に葬ってくれる。エレナの亡骸は行方不明だけど、いつまでも天国で一緒だ」

と夫妻の為に祈りを捧げた。

§

と、その時。

室内照明が灯り、【よくやったぞ、スティン。アドナもだ】と天井スピーカーから宇宙神のような男声が響き渡った。

「ガーディアン!」

二人は揃って声を上げると、驚いたように互いの顔を見合わせた。

「君もガーディアンと話せるのか?」

「毎日じゃないけど、何度か話したことがあるよ。君と出会った次の日も、ガーディアンはわたしに話しかけ、君にもう一度会いに行くよう促した」

【いつ二人を引き合わせようか考えていたが、偶然に機会が訪れ、たちまち意気投合した。これもDNAの力なのか】

「では、あなたは最初から……」

「奇跡を成すには二つの力が必要だ。愛と勇気。アドナの優しさがスティンの心を動かし、スティンの勇気がアドナを救った。どちらを欠いても、この結末はなかっただろう。その為のシナリオを巧妙に描いたつもりだったが、思わぬ運命の石が転がった。少女の虚言だ」

「ネズミの話ですね?」

【そうだ。ジュール医師も気付いていたが、あの少女には昔から虚言癖がある。テストで満点を取った、VIPと知り合いになった、素敵な家庭教師とキスをした。ネズミの話も、セスがネズミのアニメを見せたから、面白半分に口にしたまでだ。まさかそれをセスが真に受けるとは思わなかった。それを耳にした君も本気でネズミ探しに繰り出し、この展開になった。人の世の不思議だな。人間の真摯な想いは神のシナリオを超える】

「これからわたしたちはどうすればいいのです?」

【それより自分が何ものか知りたくないか?】

「わたしの両親を、あなたは知っているのですか?」

【たとえエルメインが魔術師でも、塵から人間を作るわけにはゆくまい。これを機会に話してやろう。あの日何があったのか。そして、わたしたちの娘アディールがどうなったかを】

再び、照明が落ち、室内中央に設置されたガラス製の円柱に光が灯った。円柱の直径は80センチ、大人の腰の高さほどあり、表面は特殊な黒色ガラスで覆われている。円柱の縁に取り付けられた十二個の投影機がトーチライトのように中空を照らすと、天井の投影機からさらに光が差し込み、暗闇に鮮やかなホログラムが浮かび上がった。

エレナ・マジェフスカヤ。

遺伝子センターの写真より、もっと若い頃のポートレートだ。

「君によく似ている」

スティンが呟くと、ガーディアンがおもむろに語り始めた。

§

生物の大量死が相次ぎ、伝染病とそれに伴う食糧不足が深刻化した頃、遺伝学者だったエレナは世界の名だたる研究者とチームを組んで、抗ウイルス剤の開発に取り組んでいた。

そんなエレナのもとにエルメイン――当時は、ドクター・グルジエフと名乗っていた――から電話がかかってきたのは、娘アディールが十六歳の時だ。

アディールは幼い頃から非常に丈夫で、エレナも遺伝学者として強い関心を寄せていた。

エレナは世界的に有名な長寿村の血筋で、エレナの母親も、祖母も、曾祖母も、大半が百十歳を超えるスーパーセンテナリアンだった。長寿村の秘密は学界の注目を集め、長い間、研究対象とされてきたが、誰一人としてその謎を解き明かすことはできなかった。エレナも、自身のルーツやアディールの特殊な体質に科学的興味を持ちながらも、あえて研究対象としなかったのは、愛娘を危険に巻き込みたくなかったからだ。

だが、疫病が蔓延し、医薬品不足が叫ばれるようになると、エレナは社会的使命感から長寿村に赴き、村人のDNAサンプルを集め、長寿のメカニズムを詳しく調べた。その過程で、自身のルーツが、二世紀前、百五十歳まで生きたと言われる伝説の女性『グランドマザー』の直系の子孫であることを突き止めた。もっともグランドマザーの年齢は、アラル地方が近代化し、個人情報管理がIT化される以前のものだから、本当に百五十歳まで生きたかどうか定かではない。だが死ぬ間際まで一世紀以上前のことを鮮明に記憶していたそうだから、スーパーセンテナリアンの中でも特別に長寿だったことは間違いない。

エレナの曾祖母は若い頃、古臭い村の慣習に嫌気が差して北米に渡り、現地の男性と結婚したことから、エレナの代にはアラルの血も薄れてしまったが、グランドマザーのマターナルRNAはエレナの中にもしっかり受け継がれていたのだろう。それはアディールの体内でさらなる進化を遂げ、驚異的な免疫機能を発現するに至った。それが神の遺伝子だ。エレナは他の科学者と共同で解析に打ち込み、研究成果を『エゼキエル』というコードネームのGENBOOKに纏めた。その大要は極東の科学雑誌でも紹介され、エレナの研究チームは政府機関からいっそうの経済的支援を得ることができた。

だが、その為に、ドクター・グルジエフに目を付けられたのだ。

出会った頃、グルジエフは礼儀を弁えた理知的な紳士だった。わたしもエレナもグルジエフの卓見に感銘を受け、娘のアディールも紹介した。神の遺伝子について共同研究する話も持ち上がり、わたしたちもすっかり信用して、情報交換するようになっていた。

最初の出会いから半年後、わたしたちはグルジエフからクリスマスパーティーの招待状を受け取った。

当時、グルジエフは、針葉樹林に囲まれた湖の小島に自身の住まいと研究施設を構え、学者のみならず、世界的著名人と活発に交流していた。遺伝子研究を行う傍ら、女優やスポーツ選手、大物政治家らに美容術や筋肉強化術を施し、資金源としていた。中には、科学的に効果が証明されていない施術もあったが、巧みな話術とカリスマ性に支えられ、一部から絶大な支持を得ていた。それについて何の疑念も抱かなかったわけではないが、研究費集めのパフォーマンスと割り切り、それよりは他国の識者と意見交換するのを楽しみに訪れることにしたのだ。

だが、パーティーの三日前、突然、某国の大統領から連絡があり、タワーのITシステム構築について意見を聞きたいと申し出があった。クリスマス前なのに奇異に感じたが、世界的危機を前に各国の関係者が不眠不休で働いていたのも本当だから、わたしとエレナは予定を変更して大統領官邸に赴くことに決め、アディールだけを先にグルジエフの所に行かせることにした。映画スターを交えての華やかな晩産会を楽しみにしていたからだ。

グルジエフの邸宅を訪れたアディールは、TVでしかお目にかかれない有名女優やスポーツ選手を紹介されて興奮していたよ。豪奢な居室や夜会ドレスも用意され、少女には過ぎたもてなしだった。

ただ場所的に携帯電話が通じず、こちらから連絡を取るにも取り次ぎが必要という点で、まったく警戒しなかったわけではない。秘書の女性に何度も連絡を取り、動画や写真も送ってもらった。アディールも憧れの映画スターとダンスを踊ったと上機嫌だったし、わたしたちもそれ以上は追及せず、クリスマスのサプライズとして割り切ることにしたのだ。

翌日、アディールはグルジエフの診察室を訪れた。診察といっても簡単な問診だけだ。保護者の同伴なしに娘の身体に触れたり、検体を採取しないという約束だったから、グルジエフも遵守してくれると思っていた。

だが、診察の途中で、アディールは気分が悪くなり、気が付くと自室の寝台に寝かされていた。秘書の女性に尋ねたら、昼食の食前酒に酔ったのだろうという話だった。

だが、どうにも下腹部に違和感を覚えるので、グルジエフに問い質そうと広い邸内を探し回っていたら、同じ年頃の少女に声を掛けられた。彼女も美しく着飾っていたので、てっきり招待客の一人と思っていたら、もう二年もここに軟禁されている難民の娘だった。

グルジエフは地下組織と結託し、身寄りのない少女をこの島に閉じ込めて、むりやり妊娠させたり、治験の実験台にしたり、裕福な顧客にあてがって、大金を手にしていたのだ。

少女はアディールに「逃げろ」と忠告し、ここから唯一、海外に電話をかけられる固定電話の在り処を教えた。

日が暮れると、アディールは必死の思いで研究施設に忍び込み、事務室の固定電話からわたしたちに救いを求めた。その後、自室に戻ろうとしたが、警備員がアディールを軟禁中の少女と勘違いし、軍用犬をけしかけて追ってきた。

恐れおののいたアディールは、桟橋に繋いであった手漕ぎボートに飛び乗り、湖岸を目指したが、夜闇と冬の強風が娘の手元を狂わせたのだろう。わたしたちが警察隊を引き連れて到着した時、湖畔には砕けたボートの残骸だけが漂着していた。この湖は岩礁が多く、船も決まった航路しか走らないという。警察も必死に捜索してくれたが、アディールの遺体はついに見つからなかった。

グルジエフは数々の非人道的罪で起訴され、研究施設は閉鎖、研究資料も取り上げられ、医師や学会員の資格も剥奪された。留置所に送られ、これで法の裁きが下されると思ったが、グルジエフは独房で不審死を遂げ、起訴事実の大半が未解決に終わった。

だが、グルジエフは死んでいなかった。

有力者の手を借りて独房から抜け出し、顔と名前を変えて、エルメインとして生まれ変わった。かつてのコネクションを利用してタワー計画の要人に近づき、《十二の頭脳》に不満を抱く者を籠絡して、冷凍睡眠装置の事故を画策したのだ。

あの日、《十二の頭脳》は、十回目のテストを行う予定だった。既に手順は確立し、安全性も100パーセントに近い。これなら四十年の睡眠にも耐えられると、皆が期待を寄せた最後のテストだった。わたしは妻を励まし、自らの手で《スリーパー》を閉めると、システム監視室で行程を見守った。

だが、テスト開始から間もなく、わたしは旧司令部から呼び出しを受け、専用エレベーターに乗り込んだ。だが、途中でエレベーターが停止し、キャビンの中に閉じ込められた。

その間、生物実験棟では「液体窒素が漏れ出した」とレッドライトが点灯し、スタッフは一部の技師を除いて全員が下階に避難した。もちろんフェイクだ。わたしが緊急時の手順でエレベーターを復旧し、システム監視室に戻った時には全てが終わっていた。《十二の頭脳》は低体温症で死亡し、エレナの《スリーパー》は何処かに持ち去られていた。その日、テストに携わった者の中に裏切り者がいたのだ。

わたしは現場に残っていた者と揉み合いになり、わざと医療用キャビネットやモニターを壊して回った。医療機器が不自然に破損すれば、《スリーパー》の事故では済まされないからだ。だが、エルメインも巧妙だ。汚染を理由に、直ちに清潔区域を閉鎖し、立入禁止にした。そして、早々に《隔壁》を締め切り、あらゆる証拠を隠滅したのだ。エレナの棺に背格好の似た別の女性の遺体を納めて――。

§

「では、設計図の分解も、《ゲマトリア》のエラーも、あなたが仕掛けたのですね?」

【そうだ。アラルの暗号術を利用することを提案したのは、妻のエレナと同胞の数学者だ。数学者は文字変換コードの開発者でもある。それをヘムが受け継いだ次第だ】

「ヘムはその数学者の血族なのか?」

スティンが身を乗り出すと、

【そうではない】

とガーディアンは否定した。

【わたしがヘムを選んだのは、それにふさわしい逸材だったからだ。ヘムの父親は某国の情報部で暗号解析に携わり、ヘム自身も優秀な訓練生だった。だが、戦況が悪化すると、両親に別れを告げ、国外に単身脱出した。その後、支援者の養子となり、新たな身分を得て、国際機関の情報技術者養成学校で学んだ。≪天領≫に上がれたのは、《十二の頭脳》に選ばれた百名の少年少女の一人だったからだ。《十二の頭脳》の信任も厚く、ゆくゆくはわたしの後継者として、GEN MATRIXを主とするタワーのITシステムを管理するはずだった。途中でボグダンに見破られ、毒殺されたのは残念だが、仕事をガルとお前に引き継いで、見事にやり遂げてくれた】

「だが、ベラは救えなかった……」

【ベラは誤った相手に肉欲を抱いてしまった。平凡な男と愛を育むより、息子みたいな男との快楽を選んだのだ。だが、最後には言えただろう。『わたしも一緒に連れて行って』と。最初からそう言っておれば、君との関係も違っていただろうに、ずっと意地を張り通した。そして、君もベラのそうした懊悩を知りながら、冷たくあしらった。それについて、君は贖罪の気持ちを大事にすることだ。開き直れば、良心の呵責は歪んだ形で人間を蝕む。エルメインと同じだ。アディールを死に追いやった男は、罪を悔いる代わりに、もう一度、アディールを再生するなどという愚かな妄想に取り憑かれた。初めて出会った時から、あの男はアディールの美貌の虜となり、薬物を使って生殖細胞を採取したばかりでなく、卑劣な手段で純潔を汚した。逮捕時、アディールのDNAサンプルも、研究資料も、何もかも没収されて、それでも諦めきれないあの男は、エレナのボディを手に入れ、睡眠状態のまま卵子を取り出すことを画策したのだ】

「《スリーパー》ごと奪い取ったんですね」

【エレナは睡眠状態のまま、何十年も生かされた。薬を使って強制的に排卵を促し、毎月のように採卵しては、ゲノム編集の実験に使った。時にはVIPの精子と受精させ、ドナー用のベビーを作ることもあった。だが、エルメインの最大の野望は、アディールを再生し、神の遺伝子を手に入れることだ。エルメインはバイオバンクに匿名で凍結保存されていたわたしの精子をDNA配列から特定し、エレナの卵子と受精させて、ゲノム編集を繰り返した。その過程で作り出されたのがアドナだ。たくさんのきょうだいが代理母の胎内で死んだのに、お前だけは奇跡のように生き延びた。あるいは女児の拘りを捨てて、XY染色体を使ったのが功を奏したのかもしれん】

「でも、女児でなくてよかったのです。もし女の子として生まれていたら、神の遺伝子だけで済まなかったでしょう」

【エルメインが性的捕食者(プレデター)に成り果てたのは、少年時代、病的な容姿を女性に蔑まれた恨みからだ。大人になり、力を得ると、奴は怨念を加速させ、少女に手を掛けるようになった。たくさんのきょうだいが産声を上げることもなく、代理母の胎内で失われたのは、神の思し召しだったのかもしれぬな。が、そもそも、ゲノムを操作して一人の人間を再生しようなどという考えが誤りなのだ。たとえ親と同じ遺伝子を受け継いでも、アディールはこの世にたった一人の存在だ。わたしとエレナが心から愛し合って生まれた。アディールがまだエレナのお腹にいた頃、エレナは毎日のようにお腹の子に語りかけ、食事や運動に気を遣っていたよ。民間伝承の発酵乳を飲んだり、マタニティヨガに通ったり、長寿村から安産の護符を取り寄せたり。『新進気鋭の遺伝学者である君が民間療法や天使の守護を信じるのかい?』と苦笑するほどにね。だからアディールも健やかに育ったのだ。元々の神の遺伝子に母の愛が降り注ぎ、奇跡のような免疫機能を発現した。塩基配列を真似たところで同じ娘を作り出せるわけがない。遺伝子はあくまで遺伝子、親の形質を伝える情報(ソース)に過ぎない。人を育てるのは環境だ。愛なくば、どんな優良な遺伝子も健全には育たない】

「その通りです。遺伝子は遺伝子。タンパク質を作る為の仕様書に過ぎません。人も動植物も、どのように育つかは後天的条件によります。まして心まで同じものが再現できるはずがない」

【だが、君のゲノムは記憶しているようだよ】

「何のことです?」

【アディールだよ。十六歳の夏、エレナと一緒に長寿村を訪れた時、お前はアラル人の青年に恋をして、結局、打ち明けられずに終わった。あの時、告白していたら、何もかも違っていただろうに】

アドナが目をぱちくりすると、「機会は一生に一度きりだよ」とガーディアンは付け足した。

「ところで、GEN MATRIXはどうなるんだ? あなたが再起動してくれるのか?」

スティンが訊ねると、

【それは出来ない】

とガーディアンは即答した。

【並の人間には制御不能なシステムだ。君らにはまだ早すぎる】

「でも、圏内でパニックが起きています。GEN MATRIXがあれば、どれほど救いになるかしれません」

アドナも懇願したが、ガーディアンの答えは変わらなかった。

【ジュール医師は診療を投げ出したかね? フロムは茫然と立ち尽くすだけか? そうではないだろう。GEN MATRIXが無ければ、無いなりに知恵を働かせ、危機に立ち向かっているではないか。GEN MATRIXといえども、単なる計算機に過ぎない。肝腎なのは目的だ。誰が何の為に使うのか、確固たる理念を欠いて再起動しても、人はその怪しい魔力に捉えられ、すぐにまた過つのが目に見えている。いつの日か、知勇に優れた指導者が旧司令部に赴き、GEN MATRIXやゲマトリアの設計書や仕様書を読み解くことが出来たら、その時には修復も叶うだろう。その為の経路をスティンは開いた。あとは彼等次第だ】

「市民を助ける気はないのですか?」

【市民を助けるのは市民自身だ。市民自身が立ち上がらずして、この先、どうやって社会を立て直すのだ? わたしは待っているのだよ。市民が現実に目覚め、自らの手で《隔壁》を開くのを】

「でも……」

【それより、ここを出て、南の補給基地に向かいなさい。他のコミュティと連絡がつけば、応援を呼ぶことも可能だ】

「南の補給基地はどうなっているのです?」

【《隔壁》を締め切った後、補給基地に辿り着いた人々は、さらに小さなグループに分かれて、西に向かった。そこから先のことは分からない。だが、南の補給基地まで行けば、物資の残りも手に入るし、通信機器も使える。ここで皆で途方に暮れるより、助かる可能性は広がる】

「でも、どうやって……」

ホログラムが切り替わり、広大な針葉樹林の向こうに続く一本の舗装道路が映し出された。

【南の補給基地に向かう産業道路だ。片側一車線の緩やかな車道で、真っ直ぐ補給基地の貨物ターミナルに続いている。全長150キロメートル。多少の勾配はあるが、決して悪路ではない。水が欲しければ、道路沿いに沢もあるし、所々、石清水も湧いている。30キロメートルおきに休憩所を兼ねた監視小屋もあるから、ソファベッドでゆっくり身体を休めることもできる。運がよければ燃料や保存食も手に入るだろう】

「これなら行けそうだ」とスティンが答えた。「150キロというから、どんな険しい山道かと想像してた」

「でも、ここからどうやって脱出すればいいのです?」

アドナが尋ねると、【東翼北角の非常用エレベーターを使うといい】とガーディアンは答えた。

【君達の為に一時的に通電してやろう。システム監視室のエレベーターで旧司令部に下りたら、左手の扉を開き、外周回路を真っ直ぐ東翼に向かって第七倉庫に行くのだ。そこで衣類や寝袋、保存食や燃料など、旅に必要な物は全て手に入る。準備が整ったら、東翼北角の非常用エレベーターで十二階まで降り、そこから脱出用パラシュートを使うといい。操作は簡単だ】

「どうして非常用エレベーターで地上0階(グランドフロア)まで降りられないのです?」

【それは機密だ。君たちには教えられない】

ガーディアンがなおも冷徹な態度を貫くと、スティンは身を乗り出すようにして懇願した。

「最後に頼みがある。一度でいいから、完全な設計図を見せてくれないか。俺と爺さんとヘムと三人がかりでここまでやって来た。このまま一度も完成図を目にすることなく終わるのは嫌だ。どうか一度でいいから、俺の目の前で復元して欲しい」

【いいだろう。だが、その前に約束だ。見せるのは一度きり、そして、目にしたものを決して他言してはならない。これは単なる設計図ではなく、世界の真理に通じる機密だからだ】

「約束する」

スティンが確言すると、再びホログラムが切り替わり、未完成の設計図が現れた。所々抜け落ちた、モザイクみたいな立体図は、彼とガル爺さんがん二十数年かけて必死で作り上げた。

【設計図を表示するには《十二の頭脳》の生体認証が不可欠だ。だが一つだけ、別の方法がある。アドナ――君の体内に流れる血――エレナのマターナルRNAだよ】

「マターナルRNA……」

「君はエレナのマターナルRNAを受け継いでいる。アラルの長寿村で脈々と受け継がれてきた神の遺伝子の母体だ。メインコンソールの右端に生体認証用の装置がある。そこに君の血を一滴垂らせ。それで設計図は完成する」

ぽうっと右端の生体認証用装置に光が灯り、検体採取用の小さなガラスシャーレが自動的に繰り出された。

「多分、ここに血液を垂らすんだ。メディカルボックスに穿刺針がある。消毒綿や綿棒も」

スティンに促され、左手の人差し指を穿刺針で突くと、赤い血液が珠のように指先に滲んだ。指の腹を強く絞り、血液をガラスシャーレに落とすと、自動的に解析器に取り込まれ、分析が始まった。小型モニターに解析グラフが表示され、その下方に確定した塩基配列の文字が次々に映し出される。AUGGCUCGCUGGAGC……。

解析が終わると、一瞬、室内の明かりが消え、ホログラムも失われた。だが、次の瞬間、ホログラムの投影機から強い光が差し、六十億個のピースが中空を舞った。二人が息をつく間もなく、六十億個のピースは二重鎖の螺旋を描くように組み上がり、一瞬にして高さ2メートルの見事な立体図が完成した。

外観、ワイヤーフレーム、各階の間取り、配管・設備図……。

設計図は次々に切り替わりながら、中空をゆっくり回転し、その全貌を二人の前に現した。

「これがタワー。なんて美しい。でも、どこか恐ろしい……」

アドナは陶然と設計図を見上げ、スティンもその偉容に目を見張った。

それはさながら天空にそびえ立つ螺旋の塔だ。巨大な四角錐台の基底部に、床面積の異なる柱状の階層が段々に積み上がり、長大なジッグラト・スタイルの円錐台を形成している。

外観は一般に知られる形状とほぼ同じだが、《天都》から下の内部構造は蟻の巣のように複雑で、歪みもせず、傾きもせず、均衡を保っているのが不思議なくらいだ。スティンも「縦方向に展開した宇宙基地」という認識はあったが、これほど奇怪な作りとは思わず、一体、誰が何の為にこれほど巨大な建築物を企図したのか、首を捻りたくなるほどである。

「そうか……爺さんが言っていた、『東翼北角の非常用エレベーターで十二階まで降りる』というのは、すなわち基底部のトップだ。外付けの非常階段が存在しないのは、外部からの侵入を遮る為だろう。恐らく、本物の非常階段はライトフォールに沿って設けられ、地下の防災トンネルを通って建物の外に脱出できるよう、設計されている」

【その通り。タワーは何人の侵入も許さない唯一無二の聖域だ。そして、永遠に繰り返される未完の世界でもある。さあ、行きなさい。君たちにはその資格がある。タワーを出て、永遠の楽園を目指すのだ】

「それは他のコミュニティですか?」

アドナが訊ねると、

【行けば分かる】

とガーディアンは答えた。

【最後に一つ。エレベーターで旧司令部に下りたら、決して右側の扉を開けてはならない。そこから先はメインフレームだ。君たちの場所ではない】

二人が約束すると、ホログラムも消え、室内照明が灯った。

「短い夢でも見てたみたい……」

アドナが嘆息すると、スティンも目を瞬いた。

「まったくだ。ガーディアンがあそこまで知り尽くしているとは思わなかった」

「ガーディアンはヴィクトルなの?」

「それも分からない。だが、ヴィクトルが設計に関わったのは確かだ。ともかく下に降りよう。ぐずぐずしていたら日が暮れる」

アドナは頷くと、今一度、ヴィクトルの亡骸に跪き、さよならを告げた。パパ、ママと呼んでいいのか分からないが、これだけは言える。大きな苦痛も味わったが、この人たちのDNAを受け継いで生まれてきてよかったのだと。これから身体がどのように変化するのか、アドナには想像もつかないが、一人でも分かってくれる人がある限り、胸を張って生きてゆける。

スティンがそっと彼の肩に手を置くと、アドナも立ち上がり、一緒にエレベーターに乗った。

そして、旧司令部へ。

いよいよ終わりの始まりだ。

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About the author

MOKO

作家・文芸愛好家。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚の小説を手がけています。

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