その頃、スティンは140階の食堂に居た。自分の朝食はガル爺さんにやったので、今朝は食事ぬき。昼の給食も大半の利用者が引く十四時前まで待って、ようやくまともな食事に有り付いたところだ。
スティンはいつものようにボディバッグを背負って食堂に入ると、顔馴染みの職員に若草色の食券を渡し、取り皿を受け取った。
この時間になるとビュッフェサーバーにも残り物しかないが、皿に沢山盛り付けても、誰かに白い目で見られることはない。ビーガンパテも煮豆も、盛れるだけ盛って、ホールの隅の席に腰掛けると、人目が無いのを見澄まして、その半分をプラスチック容器に押し込んだ。そして、残りを野良犬のようにかっこむと、配膳係がビュッフェサーバーを片付ける前に、もう一度、取り皿に取れるだけ取る。配膳係に(またか)という顔をされても気にしない。こっちも生きるのに必死だ。乞食と思われようが、無芸大食とバカにされようが、食える時に食う。それが二十五年にわたる彼の悟りであり、タフネスでもあった。
食事が終わると、出口の側にあるフルーツバスケットからデザートのオレンジを二つ掴み取り、素早くボディバッグに詰めた。それから噴水広場のベンチに腰掛け、オレンジを一つ取り出すと、薄皮に爪を立て、みずみずしい果実を取り出した。房を三つに分け、一つ、二つ頬張ると、懐かしい香りがする。ウサギちゃんが首筋に付けていた柑橘系のパフュームだ。
さっきまで理路整然と社会の展望について語っていたかと思うと、ふっと表情を変え、男をたぶらかすエバみたいに上目遣いで微笑みかける。体格も直線的で、胸もぺたんこなのに、白衣の腰回りは柳みたいにしなやかで、前を気にすることなくサイドレールから身を乗り出す。キューを構える姿もプラナリアみたいにくねくねして、どこに身体の芯があるのかと不思議に感じるほどだ。
(ありゃ本当に男なのか)と愉快に思い出しながら、甘酸っぱいオレンジを頬張っていると、不意に誰かが目の前に立ちはだかった。上階(クラシファイド)の特進クラスに通うドロフェイとクズマだ。どちらも高校二年生で、数学の宿題が面倒と言ってはスティンの所にやって来る。レポートを仕上げる見返りは食券だ。それも若草色ではなく、本物の鶏肉やラム肉が食べられる山吹色の方である。
長身のドロフェイは、強制収容所の労働監督みたいに構えると、「よぉ、テイラー。腹へってんだろ。新しい食い扶持を持ってきてやったぜ」と偉そうに言った。
すると小太りのクズマも隣で格好をつけ、「女学生相手に、やばい事してるんだって? 噂になってるぜ」とニキビ面を歪めた。
「何のこと?」
「食券と引き換えに女学生とやりまくってるって。バレたら、お前、重罪だな」
「何のことか分からない。俺は女学生と個人的に交際したこともなければ、興味もない」
「しらばっくれるなよ」とドロフェイが嘲笑った。
「お前、子守と称して、いろんな女学生の面倒を見てるだろう。その中の何人かがお前とやったと吹聴してる。気持ちのいいことも教えてくれる、極上の家庭教師だと」
「バカを言うな。俺は勉強を見てただけだ」
「何の勉強? 性教育か?」
ドロフェイとクズマがげらげら笑うと、
「でたらめを言うな! 証拠でもあるのか!」
スティンも声を荒らげた。
すると、ドロフェイとクズマは顔を見合わせ、
「訴えたけりゃ、どうぞ」
「悪事がばれて、お前の方がしょっぴかれるだけだぜ」
そして、彼の膝の上に宿題の冊子と山吹色の食券を投げると、
「それ、やっといてくれよな。回答はいつものように指定のアカウントに送信しておいて。パスワードは冊子の裏に書いてるから」
「オレ達、共犯! 毒を食らわば皿までさ!」
ドロフェイとクズマはきゃははと笑いながら立ち去った。
§
スティンは不愉快千万で最下階の住まいに帰り着くと、主寝室のドアを細めに開き、爺さんの様子を確認した。爺さんはベッドでぐっすり眠っており、揺すっても起きそうにない。
スティンは忍び足でキッチンに行くと、昼食の入ったプラスチック容器を冷蔵庫に入れ、コップの水にステビアシロップを溶かして一気に飲み干した。
それにしても本当なのか。ジェシカが自分と性的関係があったように吹聴していたというのは。
前からませたところがあり、彼が来る日はわざと前開きのブラウスを着たり、宿題の答えを聞く振りをして彼の頬に唇を寄せたり、彼も目のやり場に困ることはあった。しかし、子供は子供。そういう年頃と思えば、右から左に流せるし、子供相手に邪心を抱くほど落ちぶれてもない。それにあの母親も他人には言えない事情を抱えて苦労していたのは本当だし、夜遅くまで人工池のベンチに腰掛けて、ぶらぶらしている少女を放っておくわけにもいかないだろう。
そう思って引き受けたことが、かえって徒になりそうで悔やまれる。爺さんに知れたら、「事が成就するまで、周りはみな敵だ。他人を安易に信用するな」と叱られるのだろうが、この社会で誰とも関わらず、自分の事だけ考えて生きていくなど、彼には無理だ。設計図の復元にいそしむのも、もちろん自分自身の為ではあるが、心の何処かでは、それが《隔壁》に風穴を開け、市民の覚醒に繋がることを意識しているからである。
だが、ジェシカが異様な死に方をし、100階のプールバーで性病騒ぎが起きてから、最下階の様子も変わった。これまでは臑に傷もつ者同士、何かと庇い合い、助け合いながら、どうにか暮らしを立ててきたが、今は寄ると触ると感染症の話ばかり。あいつもこいつも病気持ちのような目で隣人の行動を監視し、こそこそと噂し合っている。スティンもいつ誰の裏切りに遭うか分からず、ドロフェイやクズマのような高校生も決して例外ではない。
彼はリビングのテーブルでヘムから譲り受けた十七インチのラップトップPCを開くと、『エゼキエル』の作業フォルダを開き、設計図の復元プログラムを立ち上げた。
復元プログラムは、アラル語の文字変換ツールをヘムが拡張したものだ。作業用ウィンドウに複数の分割ファイルをドラッグ&ドロップすると、自動的にメタデータが読み込まれ、文字変換が始まる。 象形文字のような、宇宙語のような、不思議な形状のアラル文字が、作業ウィンドウの中で恐ろしい速さで大小のラテン文字や数字・記号に置き換えられていく様はいつ見ても爽快だ。こんな時世でなければ、ヘムのような一流のシステムエンジニアになりたかったと思う。
そうして得られた英数字と記号の文字列を、次の行程で立体画像にデコードすると、大部分はワイヤーフレームの所定位置に自動的に収まるが、いくつかは変換エラーで弾かれてしまう。その場合は自分でメタデータを読み解き、エゼキエルのアノテーションを参照しながら、手動で正しい位置に当てはめていく。
あるものは倉庫。あるものは機械室。
六十億に及ぶ塩基のタワーは、まるで骨格標本に肉付けするようにその全貌を現しつつある。
そんな風に、あまりに長い間、エゼキエルのゲノム情報と向き合ってきたせいか、今では色鮮やかなコンピュータグラフィックスのDNAモデルが生き生きと息づく女の肉体に見えたりもする。
GENBOOKは完全匿名なので、エゼキエルが何所で、どんな風に暮らしていたのか、彼には知りようもないが、天に舞い上がるような二重螺旋を見ていると、春の女神のように可憐な女性の姿が瞼に浮かぶ。数ある生命情報データの中で、彼女がゲマトリアンクォーツに刻むべき、永遠のヒトゲノムに選ばれたのも、聡明で、身も心も美しい人だったからに違いない。
「君のDNAは知っているのに、その身体に触れることができないなんてな。設計図が完成したら、姿だけでも見てみたい。瞳。唇。せめて指先だけでも……」
エゼキエルは、さながら彼の天使だ。分割ファイルの位置を示し、設計図の復元を手助けしてくれる。いつの日か、タワーの外に出ることが叶ったら、その時も守護天使のように寄り添い、安住の地に導いてくれるにちがいない。
ほっと溜め息をつき、次の作業に取り掛かろうとした時、ふとドロフェイとクズマの宿題を思い出し、ボディバッグから宿題の冊子を取り出した。(なんで、こんな簡単な行列(マトリクス)の基本演算が分からないんだ)と呆れながら、さらさらと鉛筆を走らせると、ドロフェイの個人アカウントにアクセスし、「あれでエリートだってさ」と彼の友人に話しかけながら回答を送信した。
彼の友人とは、いつもリビングテーブルに置いているペットロボットの『ルル』だ。アドナが所有するものと同型の色違いで、圏内では稀少品とされる黒色である。幼い頃、ヘムから譲り受け、きょうだいみたいに可愛がってきた。アドナのルルと同様、三歳程度の知能しか持ち合わせないので、話し相手にもならないが、数学の答え合わせやデジタル百科事典の検索には非常に役に立つ。
「市民IDがないというだけで、あんなクソガキにも馬鹿にされる」
スティンが悔しさを滲ませると、ルルは同情するようにブルーの目をチカチカさせた。
「俺だって普通に生まれて、いい学校に行ってたら、今頃、ウサギちゃんみたいに、他人に胸を張って語れるような仕事に就いてたさ。ヘムやガル爺さんを恨む気はないが、どうして出生時に役所に相談して、ちゃんと手続きしてくれなかったんだろう。ヘロデ王の時代じゃあるまいし、ベツレヘムの二歳以下の男の子は一人残らず殺せという訳でもないだろう。普通に暮らしたい。こそ泥みたいに他人の目を恐れるのではなく、堂々と名乗りをあげて、社会のど真ん中で生きていきたい」
だが、ルルは何も答えない。ブルーの目をチカチカさせて、スティンの独り言に機械的に反応するだけだ。
「俺だって普通に生まれて、いい学校に行ってたら、今頃、ウサギちゃんみたいに、他人に胸を張って語れるような仕事に就いてたさ。ヘムやガル爺さんを恨む気はないが、どうして出生時に役所に相談して、ちゃんと手続きしてくれなかったんだろう。ヘロデ王の時代じゃあるまいし、ベツレヘムの二歳以下の男の子は一人残らず殺せという訳でもないだろう。普通に暮らしたい。こそ泥みたいに他人の目を恐れるのではなく、堂々と名乗りをあげて、社会のど真ん中で生きていきたい」
だが、ルルは何も答えない。ブルーの目をチカチカさせて、スティンの独り言に機械的に反応するだけだ。
「時々、何もかも投げ出して、滅茶苦茶したくなる。エルメインの眼前に設計図を突きつけて、ザマーミロと中指を立てたり、ビリヤード大会に乗り込んで、クソ生意気な表彰台の常連を片っ端から撃砕したり。さぞかし気分ガいいだろうよ。本当のチャンピオンは俺だと世間に見せつけることができたら……。だが今、自棄を起こして、設計図を無駄にしたくない。だって、俺はあの人からビリヤードを教わった唯一の人間だから。あの人の恩に報いる為にも、最後まで勝負を諦めずにいたいんだ」
あれは八歳になって間もない頃。彼もようやく自身の立場を理解し、言動をコントロールできるようになると、ガル爺さんも100階まで行くことを許してくれた。
初めて主塔のエレベーターに乗り、100階のパラダイス広場を目にした時の興奮は今も忘れない。カラフルなLEDライトの装飾にジャングルみたいなウォーターフォール。甘い匂いの漂うカフェや最下階より一回り大きな外周水路。旅行気分であちこち廻りながら、ふとプールバーに立ち寄った時、目の覚めるようなプレーを目にした。キューを握っていたのは白髪の元チャンピオンで、手も顔も皺だらけにもかかわらず、鬼のような集中力を保ち、自分よりうんと若いプレイヤーを次々に打ち負かしていった。ビリヤードグリーンに散らばった十五個の的球が、まるでニュートン力学の軌跡を描くように次々とコーナーポケットに吸い込まれる様は、まさに神技というより他なかった。
しかし、老師は人にどれほど請われても教えようとせず、スティンもサイドレールに顎を乗っけるようにしてプレーに見入るのが精一杯だった。
だが、九歳を過ぎた頃から、彼はひとりでにコースを読むようになっていた。
「3番をコーナーにポケットするには、手球を70度ぐらいの角度で右斜め前に転がせばいい。キューを撞く時、手球の右端が3番の左端に重なるのをイメージしながら、手球の下側を突くんだ。そうすると、手球が後ろ側に回転して、的球に当たった時、少し後ろに戻るから、続いて4番を落とすのに有利になる」
最初、老師は黙って聞いていたが、そのうち彼に質問するようになり、回答が百発百中になると、「あとは手技だけだな」と初めてキューを持たせてくれた。それから毎日プールバーに通い、キューの構え方、ブリッジの作り方、ショットの種類など、手取り足取り教わった。老師はスティンが十三歳の時に亡くなったが、複雑な生い立ちを察してか、「最後まで勝負を諦めてはいけない」と励ましてくれた。死の間際、老師から譲り受けたビリヤードグローブは一生の御守りだ。他人に侮辱された時も、自暴自棄に陥った時も、老師のグローブが身体の芯から支えてくれた。ビリヤードと老師がなければ、とうに将来を諦め、ガル爺さんにも反抗するだけの浅はかな少年で終わったに違いない。
「ヘムもいつも言ってたな。学べばいつか抜け出せると。子供の頃は何のことか、さっぱり分からなかったが、今ならその意味がはっきりと分かる。設計図を復元するのは骨が折れるが、必死で学んだことがビリヤードでも役に立っている。いつか権利と自由を手に入れて、安住の地を見つけたら、ウサギちゃんみたいに人の役に立つ仕事がしたい。真に社会の要となるような、やり甲斐のある仕事だ」
ルルは彼の高志を励ますように、短い両手をくるくる回した。
「そんでもって、いい女とやりたい。エゼキエルみたいに、とびきり素敵で優しい女性」
「・・・・」
「お前、俺を馬鹿にしてるだろ。だが、俺は人類最後のアダムだぞ。女性を自然に孕ませる力もある。それなのに、あんな……ああ、悪かったよ。女性を年齢で差別するなと言うんだろう。でも、俺だって何度も離れようとしたんだぜ。ところが、こっちが距離を置こうとすると、向こうの方からしなだれかかってくるんだ。この際、言わせてもらうが、アダムがエバの差し出す禁断の実を断れなかったのは、エバが物凄くいい女だったからだ。さしものアダムも、あんなものを見せられては断りきれなかっただろうよ。ヤハウェ神もそれほど人間に禁を破って欲しくなければ、ひがひがの干物みたいな女を作ればよかったのさ。そうすれば、アダムもエバに興味を持たず、一人で黙々と畑を耕して、人類も罪を犯すことはなかったんだ」
「……」
「俺でも時々は誰かと一緒に居たいと思うことがある。ところが理想の女性はDNAモデルで、これぞと思う子は同性なんだ。あーあ。人生最大の悲劇だよ。あれで股の間にぶら下がってなきゃ、結構、俺の好みなんだけどな」
と、その時。
【エバは居ないが、天使なら居るぞ】
突然、ルルが太い男の声で答えた。《ガーディアン》だ。
巷では、ガーディアンは沈黙の行を貫き、直接会話できる人間は稀だと言われているが、なぜか彼のガーディアンはルルを通してよく喋った。
「天使なんて、どこに居るんだ」
スティンが目をぱちくりすると、突然、モニターの画面が切り替わり、セキュリティカメラの映像が映し出された。
場所はVIPフロアの一画だ。七階層の吹き抜けに面したインナーバルコニーにたくさんのフラワーポットが並んでいる。ビオラ、プリムラ、セントポーリア。きれいに咲きそろった花の前に腰を下ろし、せっせと手入れしているのはDNA先生ではないか。それもケーシー白衣ではなく、ベビードールのようなワンピース型ルームウェアを身に付け、どこから見ても女の姿態である。
「なんだよ、これ! お前、まさか盗撮したのか!」
スティンが絶句すると、《ガーディアンの目》はさらにアドナにフォーカスし、鉢植えの花の一つ一つに優しく語りかけるアドナの横顔を大写しにした。スティンはしばしアドナの姿に見入り、
「あいつ、本当に花だの果物だのが好きなんだな。幸せそうな顔をして、見ているこっちまで、ほのぼのした気分になる。しかし、ありゃ本当に男なのか? 声はカウンターテノールみたいだし、肌もつるつるで、髭一本生えてない。どうやったら、あんな男が生まれてくるんだ? ……それとも、本当に病気なのか。だとしたら可哀想だな。だが、エデンの庭師ならお断りだぞ。農業通信のコラムの愛読者だったのは本当だが、それとこれとは話が別だ。男か女か分からない半陰陽のエリートを抱いて寝る趣味はない」
【エリートではなく、天使だ】
「天使だろうが、人格者だろうが、そんなものは俺の人生にとって何の意味もない。お前は機械だから、女の裸に興奮することもなければ、ちょっとした仕草に心がときめくこともないだろう。だが、俺はそうじゃない。ウサギちゃんが心優しいのは認めるが、あそこにズキンとくるには、もうちょい下司な動機が必要なんだ。腰から下は動物だよ、動物!」
【アドナも可哀想に。ケダモノとも知らずに恋をするとは】
「何だって?」
【君には過ぎた友人だと言ったんだ。確かに君は意思も強いし、頭もいい。これからもいろんな困難に立ち向かい、危機を克服するだろう。だが、若さゆえの傲慢もある。ベラに対する君の態度を見れば、五年後、十年後の孤独が窺い知れる】
「どういう意味だよ」
【君はエルメインに打ち克ち、権利と自由を手に入れるだろう。だが、その先にあるものは、だだっ広い荒野だ。いくら腕力に優れても、一人で田畑が耕せるか? 病の時には誰が手当してくれる? 最初は開放感を覚えても、夜には山の冷気と狼の遠吠えに身震いするようになる。その時、ベラを冷たくあしらったことを死ぬほど後悔するぞ】
「だが、最初に誘惑したのはあっちだぞ。興味があったのは本当だが、上手くあしらってくれたら、俺だって深入りすることはなかった。なのに、あっちが一方的にパンツを脱いで、『やるの、やらないの、どっちなの?』とけしかけたんじゃないか。あのシチュエーションで諦めきれる青少年がどこにいる?」
【君の言い分はまるでアダムそのものだな。君のような人間がいるから、人類も悪の誘惑に抗えず、罪に手を染めるのだ。まあいい。君が宿願を果たして野山を越える頃には、わたしの声を聞くこともない。見事、権利と自由を手に入れたら、その後は一人で狼に喰われるがよい】
「黙れ、ガーディアン! 俺は一人でも生き延びる。絶対に!」
【では、君を真摯に思うアドナの気持ちはどうなるのだ? 同性というだけで切り捨てるのか?】
「よせよ。気持ち悪ぃ。男同士でキャンドルディナーを楽しむ趣味はないよ」
【だが、もし彼が本気で君を愛したら、その時も『気持ち悪ぃ』で済ますのか】
「やめろったら! あいつ、男だぜ? 自分でもそう言ってた。第一、俺がその手の青髯を嫌ってるのはお前が一番よく知ってるだろ? たとえ仮定でも、二度とそんな話はするな。これ以上、愛だの恋だの口にするなら、電源を引っこ抜くぞ!」
【電源を切っても、心の糸までは切れないぞ。彼は本気で君の身を案じ、力になろうとしている。それでも気持ち悪いと切り捨てるのか。これは行列の基本演算より難しいぞ】
「本気だったら、どうだってんだ。……おい、ガーディアン、逃げるのか!」
ぷつんと通信が途切れ、モニターの画面が復元ウィンドウに切り替わった。
(ちくしょう)
スティンは舌打ちすると、ルルをソファのクッションの下敷きにし、「二度と俺に話しかけるな」と釘を刺した。
それから気を取り直し、再び復元作業に取りかかろうとした時、今度は通話アプリの呼び出し音が鳴った。ベラだ。億劫ながらも応答すると、
「ウサギちゃんが私の職場に来たわよ」
ベラが面白そうに言った。
「140階の噴水広場ですれ違って、そのまま跡を付けてきたの。ずいぶんあなたにご執心よ。市民IDが存在しないことも突き止めた。気を付けた方がいいわよ」
ベラは首切り役人みたいに警告すると、一方的に通話を切った。
(そんな馬鹿な。先日約束したばかりじゃないか)
信じられない思いで隠しカメラの映像を立ち上げると、バルのゲーム場入り口に仕掛けている隠しカメラに、店のマスターと話し込むアドナの姿が映っている。アドナはマスターに若草色の食券を三十枚ほど手渡し、何かを言付けている。それほどまでに気に懸けてくれているのかと思うと、ありがたく感じるが、個人情報のデータベースを覗き見て、身元を探っているとなれば話は別だ。
スティンは子機として使っている携帯端末を取り出すと、特殊な通話ツールを使って、アドナの職場の個人番号に電話をかけた。
相手がスティンと分かると、アドナは「よかった、どうにかして君と話したいと思ってたんだ」と声を弾ませた。
「俺の市民IDが存在しない話か?」
スティンが怒気を含んだ声で返すと、アドナも押し黙った。
「探るなと言っただろう」
「悪気はなかったんだ。君のことが心配で、危険が迫っていることを知って欲しくて……」
「知ってるよ。君が善意の人で、心底、俺を気に懸けていることも。だが、真相を暴いたところで何がどうなる訳でもない。かえって皆が苦しむだけだ。本気で俺の身を案じているなら、これきりにしてくれないか」
「待って、スティン。君の怒りは百も承知だ。だが、意固地にならずに聞いて欲しい。今、別の感染症が問題になっている。紅疹病だ。あの女の子の交友関係も探られて、『家庭教師のテイラー』が調査の対象に上がっている。自分の恋人はハスラーで、キスの上手な家庭教師だとクラスメートに吹聴してるんだよ。紅疹病でなくても、彼等は今に君を割り出し、保健所か警察に呼び出す。未成年者と性的関係を持ったことが明るみに出れば、訓戒だけで済まないよ」
「俺はやってない! 彼女が勝手に言い触らしただけだ! 友達に自慢したいんだよ。俺とキスしたとか、愛し合ってるとか。女学生の見栄張り合戦に巻き込むのは止めてくれ!」
「見栄だろうが、虚言だろうが、噂は止められない。それに一度引っ張られたら、誰かの弁護なしに無罪を証明するのは難しい。まして君には賭け事の経緯もある。頼むから、スティン、意地を張らずに聞いてくれ。君の味方は大勢いる。事情を知れば、君の身上に同情し、弁護をかって出る人もあるだろう。誰も彼もが敵じゃない。どうか社会の善意も信じて欲しい」
「敵とか味方とかの問題じゃない。これは食うか食われるかの命(タマ)のやり取りなんだよ。誰かに相談して解決することなら、とうの昔にそうしてる!」
「一度も誰にも相談したことがないのに、どうして無理だと分かるんだ? 確かにここはエルメインの専制だけど、一方で法治社会でもある。評議員がエルメインに苦言を呈したからといって、問答無用で処刑されるわけでもないだろう? どうか意地を張らないで。複雑な事情があるなら今のうちに……」
「それで何だよ。俺とファックしたいってか?」
「スティン……」
「俺のことなど何一つ知らないくせに、エリート面して説教するな! 助ける、助けるって、俺はそこまで無力な子供じゃない!」
「待って、スティン。無断で君の身元を探った事は謝る。でも今、感情的になって、救いの手まで突っぱねたら、君の立場はもっと危うくなるよ。わたしのことが嫌なら、法務局の知人を紹介する。やむにやまれぬ事情を話して、筋を通せば、一方的に断罪されることはない。どうか、わたしを信じて。社会の善意まで拒まないで」
「だから、どうしてそこまで俺に拘るんだ? まだ会ったばかりだぞ?」
「それは君のプレーが好きだから……」
「気持ち悪いんだよ、男同士で! 家族でもないのに、好きだの、心配だの、恋人みたいに構うのは止めてくれ!」
スティンは一方的に電話を切ると、「くそっ!」と叫んで、小型端末をソファに投げつけた。
Kindleストア