細い通路を足早に歩き、タイミングよく降りてきた無人の小型エレベーターに乗り込むと、スティンはほっと一息ついた。
数日前、100階のプールバーが閉鎖されてから、どこもかしこも紅疹病の話題で持ちきりだ。相手を取っ替え引っ替え、派手に遊んでいた連中はみな恐々とし、病院や保健所には匿名の健康相談が殺到している。それに乗じて、執政府も性犯罪の取り締まりに力を入れており、かなりの常連客が警察に事情聴取されたという。
おまけに、100階のプールバーが閉鎖されたことで、ビリヤードファンが最下階のバルにまで足を伸ばすようになり、昼間は閑散としていたゲーム場も学生や高齢のプレイヤーで賑わうようになった。これが平素なら、誰彼と賭け試合をふっかけて、食券や日用品を手に入れることもできるのだが、執政府の役人が市民の動向に目を光らせている今、何をきっかけに役所に引っ張られるかわからない。
これまで逮捕や尋問などせせら笑ってきたが、いざ身近に迫ると、皮肉や冷笑で誤魔化せるものではないと痛感する。この感染騒ぎが一時のもので終わるのか、それとも市民全員の検診が終わるまで、延々と続くのか、まるで先が読めないだけに彼も気が気でない。
不意にエレベーターが140階で停止し、数人の男が乗り込んでくると、スティンは一瞬、逮捕かと身を固くしたが、水道局の職員らしい。顔を伏せ、彼等の脇をすり抜けるようにしてエレベーターを降りると、フロアの突き当たりの折り返し階段を使って最下階に降りた。
ガル爺さんも、夕べは泥のように眠っていたから、多分大丈夫だと思うが、それにしても一晩、不用心に家を空けたことが今さらのように悔やまれる。
胸騒ぎを覚えながら、早足で自宅に向かうと、突然、馴染みの客に呼び止められた。
「爺さんがバルで暴れてる。早く行った方がいい」まさかの思いで駆けつけると、なんと爺さんが赤子みたいにダイニングホールの床に寝そべり、「毒を盛られた」とわめいているではないか。
「爺さん!」
慌てて駆け寄ると、爺さんは四つん這いで彼の膝にすがり、「毒を盛られた! わしを殺す気だ!」とわめいた。
「何を言ってるんだ、爺さん。毒など入ってない。落ち着けよ」
スティンは爺さんを抱きかかえ、外に連れ出そうとしたが、爺さんは猛烈な力で彼を突き飛ばすと、カウンターに詰め寄り、「この人殺し!」と店主に掴みかかった。
「止めろったら!」
スティンは後ろから爺さんの身体を抱きかかえ、店主から引き離したが、爺さんは猛然と彼の手を振り払うと、再び店主に掴みかかった。爺さんと何度も揉み合いになり、ようやく店の外に連れ出せたが、店頭で二人とも転倒し、スティンも嫌というほど腰や背中を打ち付けた。だが、爺さんはなおも野良犬みたいに、「店主は人殺しだ! お前らも毒を食わされるぞ!」と吠え立てる。
店主は憤然と二人の前に立ちはだかると、「お前ら、二度と顔を見せるな」と厳しい口調で言い放った。
「今まで見て見ぬ振りをしてきたが、もう限界だ。先日から、保健所だの、警察だの、次から次にやって来て質問攻めだ。多少は同情して、気にも懸けてやったが、お前の顔も二度と見たくねえ。気狂いの爺ぃを連れて、さっさと何処かに失せやがれ! 今度姿を見かけたら、警察に通報するからな!」
「待ってくれ。無礼は謝る。どうか俺を追い出さないでくれ」
「ビリヤードがしたけりゃ、よそでやりな。二度とうちに来るな!」
店主は冷たくあしらうと、バタンとドアを閉めた。スティンはしばし茫然自失としていたが、再び爺さんが「毒を盛られた!」とわめき出すと、「大声を出すな! 捕まるぞ!」と爺さんの身体を引き摺るようにしてその場を後にした。
どうにか住まいに帰り着いたものの、爺さんのシャツもズボンもスープでどろどろだ。おまけに下半身からすえた臭いがする。スティンはそのまま爺さんをバスルームに連れて行くと、素っ裸にし、頭からシャワーを浴びせた。爺さんはバスタブの中でコボルト妖怪みたいに背を丸め、ぶつぶつ独り言を言っている。そこまでおかしくなったのかと思うと、悲しさよりも恐怖が先に立ち、もはやここまでと諦めの気持ちが胸に突き上げる。
やがてスティンも汗だくになり、いったん温湯を止めると、爺さんも我に返ったのか、「こりゃあ、いい湯だな!」と顔をほころばせた。
スティンが黙々と背中を流していると、爺さんが不意に彼の方に振り向き、「世話をかける」と謝った。
「何を言ってるんだ、今さら」
「お前を守りたかった」
「もう十分、守ってくれたさ。後は自分で始末をつける。爺さんは何も心配しなくていい」
「いや、そう簡単にはゆくまいて。実はお前の留守中に保健所員がやって来た。ここに若い男が一緒に住んでいるはずだと。いつものように惚けた振りをして、早々に追い返したが、相当に怪しまれている。誰かが告げ口したのかもしれん」
スティンははたと手を止め、「俺は出頭すべきと思うか?」と問うた。
「それよりも逃げろ。一刻も早くここを立ち去り、安全な場所に移るんだ」
「安全な場所って、ここから150キロメートルも離れた山の向こうだぞ。俺も一人で歩ききる自信がない」
「それなら心配はいらん。夕べ設計図を復元して気付いたんだが、西側の基底部に大きな格納庫がある。格納庫というよりは自動車整備場のような造りだ。建設中、大型物資の搬入や作業用車の整備に使っていたんだろう。今も車両が残されているかどうかは定かでないが、完全に空ということはないと思う。燃料、工具、衣類、通信機器や電気機器、運がよければ、小型の電気自動車も手に入るかもしれん。車さえあれば百人力だ。たくさんの物資を積んで、150キロ先よりもっと遠くまで行くこともできる」
「確かなのか」
「後で設計図を見せる。一つ気になるのは、建物内部からドアが開くかどうかだ」
「どういうこと」
「周囲の構造を見る限り、格納庫は内外とも高さ5メートルの鋼製シャッターで仕切られ、厳重なセキュリティロックが施されている。恐らくメインロックを解除して、シャッターを開放するのは不可能だろう。だが、格納庫の左手前に作業員出入り口があって、こいつは単純な片開きのアルミ製フラッシュドアだ。建物の外側から身分証か生体認証で開く仕組みになっている。ドアの厚みも200ミリしかない。電子的に解除するのが無理なら、電動カッターで物理的に開けるかもしれん」
「一旦、タワーの外に出て、外側からドアを破るわけだな」
「タワーは実に奇妙な建物だ。通常のインテリジェントビルのように広々したエントランスホールもなければ、それとわかる正面入り口もない。どこがどう繋がっているのか、素人目にはまったく窺い知れない。かといって何所にも出入り口がないわけではなく、場所によっては施錠も手薄だ。だから、お前も逆に建物の外側からアクセスすれば、旧司令部に到達する可能性がある。もっとも、今必要なのは逃げる為の手立てであって、GEN MATRIXも、メインフレームも後回しだが」
「それだけ分かれば十分だよ。だが、一人で行くことには躊躇いがある。本当に俺一人が逃げ出して構わないのかと」
「どういうことだ」
「ある意味、俺はこの世で設計図の復元方法を知っている唯一の人間だ。俺がいなくなったら、市民の誰一人として設計図を復元することはできないだろう。そうなれば、ここに残された人々は永久にタワーに閉じ込められ、近い将来、物不足、食糧不足で、阿鼻叫喚の地獄絵になる」
「情けは無用だ、スティン。戦火の中、アラルの血族がどうなったか、お前も知らないわけではなかろう? 己が生き延びることだけを考えろ。愚かな民はそれ相応の罰を受ければいい」
「愚かな民って誰のことだよ? 上階には心ばえのいい人もいるし、下階の住人も、ただ下に生まれついたというだけで、皆が皆、卑しいわけじゃない。その人たちまで見捨てるわけにいかないよ」
「善人になっても報われんぞ」
「そうかもしれない。だが俺の考える『解放』はそういう意味じゃない。自分の心に適う者だけ助かって、そうでない者は飢えて死ねというなら、エルメインのスクリーニングと同じだろう」
「同じではない」
「どこがどう違うんだ。フィルタリングの基準が健康か否かの違いであって、人を選別することに変わりないだろう。たとえ俺一人が逃げおおせたとしても、パンデミックや物不足でタワーが地獄絵になれば、俺はきっと一人で逃げたことを後悔するだろう。俺には上階の住人も下階の住人も見捨てることはできない」
スティンが言い切ると、「お前のその優しさは母親譲りかもしれんなぁ」とガルは胸を詰まらせた。
「お前が産声を上げた時、お前の母親はこう言った。『これで人類も救われる』と。どれほど説得しても、絶対に堕胎はしないと言い張り、命をかけてお前を産んだ。いつも図書室に入り浸り、いにしえの夢を見ているような不思議な娘だったが、今にして思えば、あの娘こそ、アラルの不屈の精神と慈愛を体現する乙女だったのかもしれん」
「爺さん……」
「また明日、ゆっくり話そう。わしも疲れた……」
爺さんは湯船の中でうとうとし、スティンは爺さんを担ぎ上げると、手早く身体を拭いて、寝間着を着せ、主寝室のベッドに寝かせた。
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