第三節 ゲマトリアンクォーツ (2)

    STORY
    アドナはゲマトリアンクォーツの前に佇みながら、改めて偉大な指導者であった『十二の頭脳』の死を悼む。ゲマトリアンクォーツもGEN MTARIXも使えない中、果たして病原体は検出できるのか。遺伝子センター所長のフロムはゲマトリアンクォーツの修復を試みる。

    目次

    《十二の頭脳》とゲマトリアンクォーツ

    《十二の頭脳》と遺伝子保存プロジェクト

    アドナはゲマトリアンクォーツの背後に回ると、壁に控えめに掲げられた《十二の頭脳》(Quorum of the Tweleve)のポートレートを興味深く眺めた。

    世界最高の知性と仰ぎ見られた十二人の中には、下垂体性小人症の社会学者もいれば、車椅子の数学者もいる。彼等は高度な知識と技術を有する英才であると同時に、タワーに逃れた人々の心の支えでもあった。

    一人、二人、三人……そして、最後の一人の前まで来ると、いつも特別な思いに捉えられる。十二人の中で最も若く美しいエレナ・マジェフスカヤだ。

    エレナは新進気鋭の遺伝学者で知られ、高名な医学研究者や生命情報科学者(バイオインフォマティシヤン)とチームを組み、悪性疾患や先天性遺伝子障害の治療に取り組んでいた。写真のエレナは絵に描いたようなスラブ系の美女で、科学者というより白鳥姫のような気品だ。

    夫のヴィクトル・マジェフスキーは当代一のシステムエンジニアで、タワーのITシステムの最高管理者でもある。百年に一度の逸材と言われ、学生時代からGEN MATRIXの構築に携わってきた。ここに顔写真は掲載されてないが、きっとエレナとお似合いのスマートな紳士だったに違いない。子供はいたのか、夫婦でどんな夢を語り合っていたのか、聞いてみたいことがたくさんある。

    妻のエレナが《スリーパー》の誤動作で命を落とした時、ショックで自死したと聞いているが、それも胡散臭い話だ。人類の未来を背負ったシステムエンジニアが、いくら妻の死に衝撃を受けたとしても、途中で職務を投げ出して、自ら命を絶ったりするだろうか。高所から飛び降りそうだが、遺体を見た者は誰一人としてなく、遺書も見つかってない。

    病原体の検出は難しい

    あれこれ思い巡らせながら、ポートレートやデータサーバを眺めていると、

    「ゲマトリアンクォーツの前に佇む君の姿を見ていると、進化の究極型という感じだな」

    後ろから遺伝子センター所長のフロムが声をかけた。

    フロムは青い綿麻のシャツにドクターコートをぶっきらぼうに羽織り、足元にはエアークッションの効いた分厚い医療用サンダルを履いて、所長というよりは万年見習い生みたいな風貌だ。七三に分けた亜麻色の髪には白いものが混じっているが、銀縁眼鏡の似合うシャープな顔立ちは学生みたいに若々しく、ここでの仕事もあまりストレスになってないらしい。

    GEN MATRIXが機能不全に陥って以来、遺伝子センターの主な仕事はデータ整理にバイオバンクの管理、農業研究所や病院から持ち込まれる検体の遺伝子検査であり、以前のような最先端の研究開発は行われていない。フロムもそれを自覚してか、現状維持に徹しており、気宇壮大な理想を語ることもない。最高評議員の中でも比較的話しやすいのは、エルメインの怪しげな遺伝子治療から程よく距離を置いているからだろう。

    アドナが軽く会釈すると、

    「君もゲマトリアのテストを見に来たのかい?」

    フロムが親しみのある口調で訊いた。

    「ゲマトリアのテスト?」

    「今後のことを考えて、もう一度、修正プログラムを試してみることにした。上手く適用すれば、正しい塩基配列を読み取れるようになる。エルメインの厳命でね。万一のパンデミックに備えて、何とかしろとのお達しだ。あの人にもあの人の考えがあるんだよ。ジュール先生のような保守的な人とは相容れないだけで」

    だが、アドナはそれには答えず、

    「ジュール先生が原虫の可能性について言及されましたが、どう思われます?」

    と尋ねた。

    「人類が未だ経験したことのない微生物か。まったくジュール先生も突拍子もないことを言い出すものだ。いくら前代未聞の劇症とはいえ、未知の微生物など……」

    「でも、頭ごなしに否定することはできないでしょう」

    「それはそうだが、この半閉鎖型生命圏で、あの少女にだけピンポイント的に感染するなど、にわかに信じがたい」

    「しかし、感染症とはそういうものではないですか。皆が皆、流感にかかるわけではありませんし、耐性も人それぞれです。人喰いアメーバで知られるフォーラーネグレリアのように、大勢が同じ湖で水浴していたにもかかわらず、たまたまその人だけが病原体を取り込み、死に至るケースもあります。あの少女も不運が重って、何かが体内に侵入したのではないですか。健康な大人なら自然免疫で打ち克っただろうに、あの子は好中球減少症であったが為に、未知の微生物が猛烈な勢いで増殖したのです。もしかしたら、その微生物にとって、人類は初めて遭遇する好物だったかもしれません。ヒトからヒトへ感染を繰り返すうち、強烈な毒性を身に付けたことも考えられます」

    「だとしたら、流感より厄介だよ。流感なら病理も対処法も判っているが、未知の病原体となれば、種類を特定するところから始めなければならない。果たして、そんな技量と器材が我々に残されているかどうか」

    「しかし、現在も、臨床検査部では病原体の検出に向けて取り組んでいるのでしょう」

    「未知の病原体となれば、そう簡単にはいかないよ。細菌の場合、検出するには十分な量が必要だし、尿や血液からの分離培養も不可欠だ。検体採取の仕方が悪ければ、他の雑菌が入り込んで、検出が困難になることもあるし、検体の保存状態が悪ければ、検査以前に病原体が死滅することもある。細菌の培養には、ウサギやヒツジの血液を混ぜた特殊な寒天培養やインキュベーター(培養器)を必要とする種類もあるし、その管理も誰にでも出来るわけじゃない。すでに分離培養の手法が確立した細菌ならともかく、未知の細菌、まして原虫ともなれば、培養の段階で躓く可能性もある。それに培養に成功したからといって、即座に病原体が見つかるものでもない。顕微鏡で観察するには、正しい手順で塗抹標本を作製する必要があるし、染色にもコツが要る。また標本作製に成功しても、観察する人に豊富な知識と経験がなければ、病原体とヒトの細胞を見間違えることもある。ただでさえここの臨床検査技師は経験が浅く――症例が少ないから、どうしてもそうなってしまうのだが――遺伝子センターに頼りきりで、もう培養も鏡検も要らないだろうとか、本気で言う奴もいるほどだ。スーパーのバーコードじゃあるまいし、赤い光にかざせば、瞬時に細菌の種類と名前が分かるとでも思っているのかね」

    「遺伝子検査も、未知の微生物となれば、ハードルは高いですからね。DNAを増幅するにはプライマー(鋳型となるDNA)が不可欠ですし、プライマー設計を誤れば、正しい結果は得られません。ただでさえチップやピペットなど、検査用品の不足が取り沙汰されているのに、少女一人の身に起きた原因不明の感染症の為に、そこまでリソースを割けるのか。すでに答えは決まったようなものです」

    「あの女の子には可哀想だが、運が悪かったと思って諦めるしかない。可哀想というなら、死を待つだけの一般病棟の重症患者も同じだからね」

    GEN MATRIXのエラーと再起動

    「しかし、皮肉な話ですね。タワーにはGEN MATRIXという史上最強のサイエンスグリッドのマスターコンピュータがあり、《隔壁》を締め切る以前は、仮想空間でゲノム編集の結果をシミュレーションするほどの機能を誇っていたのに、何故それほどのものが機能不全に陥ったのです?」

    「それが分かれば苦労はないさ。一説によると、《隔壁》を締め切った後、圏内のITシステムを再起動した際、全フロアが停電し、旧司令部のメインフレームに繋がる有線接続が物理的に遮断されたのが原因らしい」

    「再起動ということは、ITシステムの電源を物理的に切断したのですか? それとも電源供給を維持したままのソフトリブート?」

    「僕が聞いた話では、ソフトリブートするつもりが、何かの手違いでハードウェアリブートを引き起こしたらしい。つまり電源喪失だ。圏内の照明も、エレベーターも、水循環システムも、完全な停電に陥り、圏内全体が真っ暗になったと言われている。それも十秒以内で自動復旧したが、GEN MATRIXのマスターコンピュータはおろか、旧司令部のメインフレームにもアクセスできなくなった。設計図が失われたのも、この再起動が原因と言われている。何が起きたか検証しようにも、ログさえ残ってないそうだ」

    「しかし、都市機能の命綱ともいうべきITシステムを、何故そんな不用意に再起動したのでしょう」

    「多分、ITシステムの最高管理者権限を書き替える為だ。《隔壁》を締め切る以前は、ヴィクトル・マジェフスキーの管理下にあった。だが、《隔壁》を締め切った後はエルメインに移行している」

    「それなら、エルメインの誤操作でしょう」

    「そうとも限らないよ。実際に書き替え作業を行ったのは複数のIT技師だ。エルメインにIT室のホストコンピュータは操作できない。エルメインが書き換えを指示して、マニュアル通りに再起動したら、思わぬエラーが生じた。まあ、そんなところだろう」

    「杜撰ですね」

    「その通りさ。全てが行き当たりばったりだ。本当に人類の未来を背負って《隔壁》を締め切る覚悟があったのか。まあ、バラスを見ていると、VIPにも、エルメインにも、そんな深慮遠謀があったとは到底思えないがね」

    フロムがここまで辛辣な物言いをするのも初めてで、アドナがびっくりしたようにフロムの顔を見上げると、フロムは眼鏡の銀縁を指先で押し上げ、「僕にもね、科学者としての誇りはあるんだよ」と自嘲するように言った。

    「僕の父も、その父も、遺伝子保存プロジェクトに携わり、生命情報科学者(バイオインフォマティシヤン)としてGEN MATRIXのデータベース構築に携わってきた。直接、《十二の頭脳》をサポートすることはなかったが、日に日に深刻化する感染爆発を目の当たりにして、自分たちの仕事が人類を救済すると信じて疑わなかった。その功績をかわれて《天都》に上がり、遺伝子センターの仕事を引き継いだが、悪癖を締め切ってからは、エルメインの怪しげな遺伝子治療に駆り出されて、うんざりしてたよ。そう言いたくても、正面から言えないのが雇われ人の辛いところだ。こんな狭い社会で、上に睨まれたら生きていかれない」

    「気持ちは分かります」

    「僕は父や祖父のような高潔の士ではないが、生命情報科学は好きだ。生物をバイナリコード化するというと、多くの人は仰天するが、実際、DNAはソースコードに似たところがある。一点、機械語と異なるのは、DNAは自ら複製し、環境に応じて変異するところだ。AIも自己学習は可能だが、行列(マトリクス)から外れた変異はしない。ところがDNAは自分以外のDNAと融合し、まったく新しい形質を発現させる。それもこれも種が生き延びる為、ただひたすら生きる為だけに自ら変異し、水や大地のわずかな隙間に生命の根を張り巡らせてゆく。ヒトゲノムでさえ、一世代に数十個の塩基変異が生じるというからね。十万年も経てば、もはや異種だよ。手足が退化し、脳幹と眼球だけが異常に発達したカニ人間や、咀嚼力が衰えて、消化管も単純化し、食べ物も丸呑みするアナコンダみたいな生物に進化しても、ちっとも驚かないよ」

    「カニ人間にアナコンダですか」

    「冗談だよ。半分本気のね。まあ、そんなことを予測するのも生命情報科学の醍醐味だ。進化の過程を数百年前まで遡り、原始人から現代人に至るまでのヒトゲノムを解析すれば、十万年後の予測も立つ。GEN MATRIXがあれば、こんな予測もほんの数分でやってのけるんだろうがね。あれこそ生命情報科学の神だ。技術を極めれば、人がいつどんな病気にかかり、何歳まで生きられるか、予測も立つ」

    「しかし、それは人間がもつべき力ではないでしょう」

    「一概にそうとも言い切れないよ。医学や薬学においては役に立つこともある。実験動物の犠牲や治験のトラブルを極力減らせるだけでも大きなメリットだ。僕もね、遺伝学と医学の違いも分からないIT音痴が市長をやってる社会でなければ、もっと学術的に価値のある仕事がしたいんだよ。皺取りや肥満の研究でなくて」

    「それは非常に分かります」

    「ま、エルメインにもまともな頃はあったんだろうよ。だが、いまとなってはこのざまだ。立派な研究者も権力におもねるようになれば、黒いものでも白と言うようになる」

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    DNAとバイナリコード ~全生物のゲノム情報を記録する ⑩アドナは遺伝子センターを訪れ、全生物のゲノム情報が刻まれたゲマトリアンクォーツと向かい合う。サイエンスグリッド GEN MATRIXが解析した膨大なゲノム情報はバイナリデータとして保存されているが、≪隔壁≫を締め切ってから文字変換にエラーをきたし全く読み取れなくなっていた。
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    ゲマトリアンクォーツとアラル語 ~文字化けに秘められた悲劇の歴史 ⑬ゲマトリアンクォーツに刻まれたゲノム情報を読み取れない原因はバイナリコードから正しい英数字に変換できない点にある。読み取り機には古代文字であるアラル語のソースコードが仕込まれ、通常の手法では修復不可能だった。


    執筆に参照した引用・参考文献はこちらです。

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