と、その時。
データ室のドアが開き、数名の技師がオフィス用ワゴンに数種類のコンピューター機器をのせて、がらがらと音を立てながら中に入ってきた。これからゲマトリアのテストが始まるようだ。
「やあ、ご苦労さん。僕もすぐに行くから、セットアップを始めてくれ」
フロムは気さくに声をかけると、アドナを伴って壁際に移動した。
若い技師が光学顕微鏡やタワー型ハードディスク、モニター類をセットアップする様子を横目で見ながら、
「実際のところ、何が原因なんです? ハードウェアの故障? それともソフトウェアフレームのトラブルですか?」
とアドナが訊いた。
「変換プログラムのエンコードエラーだよ。いわゆる文字化けだ。君も知っての通り、読み取り装置《ゲマトリア》にはバイナリデータを英数字に変換する為のプログラムが搭載されている。一般にゲマトリアと言えば、あの機械装置がそうだと思っている人も多いが、厳密には文字コード変換プログラムを指す。実際、読み取り装置自体は単純な作りでね。光学顕微鏡と数種類のハードウェアを組み合わせたものに手持ちのコンピュータを接続するだけだ。操作も簡単で、特殊な設備も必要ない。ただ、この文字コード変換プログラムが実に巧妙でね。数十万から数十億に及ぶ塩基配列を高速で処理する為に独特の文字コードを用いている。ASCIIでもなければ、UTF-8でもない、ゲマトリアンクォーツとGEN MATRIXの為だけに開発された独自のバイト表現だ。まあ、それ自体はさほど驚くことじゃない。地上に存在する文字コードは数百種類に及ぶと言われている。ゲマトリアも独自のバイト表現を用いることで機密性を高めたんだろうな」
「つまりゲマトリアは英数字からなる平文データを暗号化して、ゲマトリアンクォーツに記録しているということですか」
「いやいや、そうじゃない。バイト処理のルールに特異性があるんだ。たとえば、01000001というバイナリコードをASCIIコードで変換すれば『A』。01000111は『G』だ。ところがこの文字符号化のルールを変更して、01000001には『C』、01000111には『U』を返すようにすれば、それだけで意味は違ってくるだろう? ゲマトリアはこのバイト処理のルールを応用した難読化ツールだ。01000001をどう読むのか。その文字対応表がなければ、誰にも読み解くことはできない」
「しかし、文字化けの原因が変換プログラムのバイト処理にあるなら、何らかの方法で修正可能なんじゃないですか?」
「それが実に奇妙なことに、ゲマトリアのソースコードは有り得ない言語で記述されているんだよ」
「有り得ない言語?」
「アラル語だ」
「アラル語といえば、神の言語と呼ばれる古代文字ですね。わたしも何度かデジタル図書で目にしたことがあります。ヘブライ文字に似たユニークな字体で、アラビア語と同じように右から左に綴るんですよね。過去に多くの聖書や伝道記録書がアラル語で記述され、アラル地方を中心にかなりの話者が存在したと聞いています」
「その通り、非常に長い歴史をもつ言語で、近代まで日常的に使われていた。だが、百五十年前、国策で強制的にラテン文字に置き換えられ、公用語も隣国の言語に統一された。その理由について、政府は『情報の国際化に合わせて』と説明したが、隣国の政治的思惑が働いたのは明白だ。いわば文化的侵略だよ。昔からアラル地方は豊富な鉱物資源をめぐって武力衝突が繰り返されてきた。遺伝子保存プロジェクトが始まった頃には、食糧や医薬品不足をめぐる政情不安と相成って激戦地となった。アラル語の話者は片っ端から捕らえられ、裁判もかけられずに処刑された。テロリストや犯罪組織がアラル語の難読性を利用して通信手段に使っていたからだ。命からがら国外に脱出したアラル人は、アラル語で書かれた史料や学術書をデジタルデータ化して持ち出し、アラルの血族間で密かに継承したという話だ」
「アラル人の生き残りは圏内には存在しないのですか?」
「居ても見分けはつかないだろう。彼等の大半はラテン文字を理解するし、英語、ロシア語をはじめ数カ国語を巧みに操ると言われている。見た目も、スラブ系、タタール系、コーカサス系など様々だ。たとえ以前のような迫害はないにしても、自分からアラルの血族だと名乗り出る人間はまずないだろうね」
コーカサス系と聞いて、ふとスティンの顔が脳裏に浮かんだ。(まさかな)と思いながらも、彼の神秘的な瞳が気に掛かる。
「しかし、なぜそんな言語がソースコードに使われているんです?」
「僕が聞いた話では、アラル文字からラテン文字に切り替える際、優れた文字変換ツールが幾つも開発されたらしい。その過程で、いくつかの技術は地下に潜り、暗号通信に使われるようになった。正規軍と賊軍の間で文書の難読化と解読合戦が繰り広げられるうちに、その技術はいっそう高度化し、名うての専門家でも解読できないほど複雑化した。それと同じくらい重視されたのがアラル語の話者だ。バイナリコードの平文化に成功しても、アラル語の話者と翻訳ツールがなければ、簡単な文章さえ理解することはできないからだ。そして、その希少性がゲマトリアに最適だったんだろう。彼等はアラル語の暗号技術に精通した専門家を招き入れ、難読化を仕掛けた。あるいはヴィクトル・マジェフスキー自身がアラルの血族だったことも考えられる。第二国語を母国語のように話せば、誰も気付かないからね」
設計図の分割とアラル語
「設計図はどうです? それもアラル語が絡んでいるのですか?」
「こっちも奇妙な話でね。設計図を構成する立体画像ファイルが全てテキスト形式に変換され、元の立体画像にデコード変換した情報を元に戻すしようにも、まったく対応しないという話だ」
「もしかして、そのテキストもアラル語ですか?」
「そうらしい。僕も直接ファイルを見たことがないので、何とも言えないが、二重にコード変換を仕掛けているそうだ。たとえば、Base64というエンコード方式を使えば、画像ファイルもテキストに変換できる。png形式なら、『data:image/png;base64,iVBORw0KGgoAAAAN・・』みたいに。そして、この文字列にもう一段階、アラル語のコード変換を仕掛けたらどうなるか。もはや解析不能だ。数行の文字列なら解決する手立てもあるだろうが、ファイル数にして六十億個。ファイル一つあたり、数百万から数千万個の文字が記述されたテキストを、アラル語の文字対応表も翻訳ツールも無しにデコードできると思うか? まあ、現存のコンピューティングシステムではまず無理だ。GEN MATRIXでもアラル語を学習させるところから始めなければならない。まさに機械語の数秘術さ」
「何から何まで奇妙な話ですね。でも、巧妙に仕組まれている……」
「そうなるのは当然だ。ゲマトリアンクォーツに刻まれているのはゲノム情報だけじゃない。中には、生物兵器の研究データ、宇宙船内における動植物の遺伝子変異の記録、軍事施設で極秘裏に行われていた人体実験のレポートなども収められている。一般にはDNA解析データと思われているが、それ以外にも機密性の高い生物学的資料が記録されているんだよ。公共データベースとは異なる領域にね」
「エルメインの真の狙いは、生物学的機密でしょうか」
「そうは思わない。仮にそれが狙いとしても、こんな状況で生物兵器や宇宙実験の機密を手に入れて何になる? あの人の関心はただ一つ、不老不死だよ。病の克服とでも言うべきか。人類の未来を見据えた遺伝子療法だ」
「それこそ愚の骨頂です。DNAの特性を考えても、不老不死など有り得ません。それはあの人自身が誰よりも知っているはずなのに、なぜそんな馬鹿げた研究に固執し、残り少ない医療資源を注ぎ込むのです」
フロムはじっとゲマトリアンクォーツを見上げていたが、「神の遺伝子というものがあるそうだ」とぽつりと口にした。
「神の……遺伝子?」
「僕も詳しいことは知らないが、人間の免疫機能を極限まで高める、究極の遺伝子だそうだ」
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