ガル爺さんの執念と設計図

スティンがT型光ダクトを上って、最下階の居住ユニットに戻ったのは、それから四時間後だ。ベラはあの後、すぐに帰ったらしく、顔も合わせてない。

スティンとベラが地下の侵入に使っている居住ユニットは北翼西の角、機械室のすぐ隣にある。1LDKの小さな居住ユニットで、時々、ボイラーの運転音が鳴り響くことから長年空き家だったが、三ヶ月前からパスカルという五十過ぎの男が住み着くようになった。鼻の曲がった陰気な独り者で、誰にも相手にされず、スティンも気にも留めなかったが、突然このユニットに移り住み、彼等を脅迫するようになった。だが、パスカルは大した野心もなく、ベラが見返りに肉体を提供すると、あっさりこれを受け入れ、二人に手を貸すようになった。二人が捕まれば自分も共犯、面倒に巻き込まれるよりは、ベラの肉体を味わう方が都合がいいからだろう。

スティンが縄梯子を伝って戻ってくると、パスカルはリビングの放光スリット――大人一人がやっと通れるほどの縦穴から光ダクトの内部を覗き込み、「へ、へ、いつもより遅かったな」と唇の端を舐めた。パスカルはすでに用事を済ませたのか、だらしなくズボンのベルトを緩め、強い蒸留酒の臭いを漂わせている。スティンは放光スリットを慎重に塞ぐと、すえた臭いのする寝室の前を足早に通り過ぎ、キッチンで軽く顔を洗った。シャツの袖で水気を拭き取り、浄水器の水で喉を潤していると、「今日のベラはご機嫌斜めだったぜ」とパスカルが淫靡な笑みを浮かべた。

「まあ、十三歳も年の離れたババァが相手じゃ、お前もやる気を無くすだろうが、それにしても、もうちょっと優しくしてやればどうだ。何年も危険な仕事を手助けさせてきたんだろう。もっとも、ベラが欲求不満の時は獣みたいに燃えやがるから、オレには分がいいんだが」

スティンはそれには答えず、キッチンテーブルに置かれたリンゴとオレンジに目を留めると、「これ、もらっていいか」とパスカルに訊いた。

「相変わらず厚かましい野郎だな。食い物を目にしたら、何でももっていきやがる。まあ、いいさ、その体格じゃ、いくら食っても足りないだろう。ビリヤードはどうなんだ。そろそろ落ち目か」

「俺があまりに強いんで、だんだん挑戦する奴が減っている」

「なるほど。強すぎるのも考えものだな。だが、気を付けた方がいい。下階にも口の軽い奴はたくさんいる。皆、共犯意識で庇い合っているが、いつ何がきっかけで口を割るか分からない。お前も、いつまでも続くと思うなよ」

「分かってる」

スティンはリンゴとオレンジをボディバッグに押し込むと、その脇に置かれた野菜チップスを一掴みし、ばりばりと頬張った。食べ残しのサンドイッチにも目を留めたが、それだけはプライドが許さず、パスカルに軽く礼を言うと、足早に立ち去った。

§

いつものように目玉が飛び出るような分厚いフェイク眼鏡をかけ、付け髭をつけて、北西角から主塔、主塔から南棟、南棟から東棟へとわざと遠回りして、北棟の東角まで来ると、金属製の直線階段の真下にある自宅のインターフォンを鳴らした。

合い言葉を囁くと、自動ロックが解除され、スティンは素早くドアの中に入った。

北棟角にある踊り場つき直線階段は、タワーの中でも意味不明な設備の一つだ。144階から始まって、一度も折り返すことなく三階層を上がり、141階で終わる。他のフロアに同様の階段はなく、なぜかその場所だけに取り付けられている、恐らく、設計段階では北棟東角の144階から141階にかけて、吹き抜けのような形で空間利用する予定だったのだろう。だが、八千人の市民が移住することになり、オリジナルのプランは棄却され、居住ユニットを詰めるだけ詰め込んだ。

彼等の住まいは直線階段の踊り場の真下にあり、他の居住ユニットに比べて天井も低く、間取りも一回り小さい。だが、2LDKで、遠目には「大きめの物置部屋」にしか見えないことから、頭のおかしい爺さんと二人で暮らすには都合がいい。長年、誰も使わなかったこともあり、内装はきれいで、採光も十分にある。

スティンはシャワーを浴びて地下の臭気を洗い流すと、パスカルからせしめたリンゴとオレンジを食べ、そっと主寝室のドアを開いた。

薄暗がりに目を凝らすと、床の上で毛布にくるまったまま寝息を立てている爺さんの姿が見える。起こしてベッドに移動しようかとも思ったが、下手に騒がれるのも面倒なので、そっとドアを閉じると、自分の寝室で一眠りした。

ところが二時間もしないうちに「飯はまだか!」と叩き起こされ、スティンも心臓が止まるような思いがした。

「ちゃんと時計を見ろよ、まだ午前四時だぜ」

スティンが寝惚け眼をこすると、爺さんは七十手前とは思えぬほどの剛力でスティンの身体を激しく揺さぶり、「飯だ! 飯を持って来い!」と大声で叫んだ。

「やめろ、爺さん。近所に聞こえる!」

スティンは爺さんを諫めたが、爺さんは白髪頭をぶんぶん振りながら、「このガキ、オレを飢え死にさせる気かぁ!」と悪鬼のごとく喚いた。

「わかった……わかったよ。夕べの残りを温めて持って行くから、自分の部屋で待ってろ!」

スティンが答えると、爺さんはすとんと両手を離し、子供みたいにすたすたと自室に引き返していった。

(……まったく!)

スティンは寝間着のままベッドから這い出すと、キッチンに行き、小さな冷蔵庫の扉を開いた。

冷蔵庫の下段には、夕べの給食の残りものが白いプラスチック容器に入っている。自分の朝食用に取り置きしたものだが、仕方ない。

スティンは白いプレートに残りものを移すと、電子レンジで温めた。

『食券』などという制度が出現したのは三年前。それまでは指定の公共食堂に行けば、誰でもお腹いっぱい食べることができた。

ところが近年、食糧の過不足が顕著になり、生産や供給に支障をきたすようになると、食券制度が導入された。市民IDと食券を紐付ける施策はプライバシーの侵害だと反発も大きかったが、食糧危機を指摘されては異の挟みようがない。ただ、あまりに厳格だと市民も精神的にまいってしまうので、月初めに世帯代表が市民課に赴き、必要な枚数を申請することになった。その際、バルやレストランで外食して、使わなかった食券は返却することが義務づけられているが、律儀に返却する人などない。多くの人が一枚、二枚とため込み、そのまま忘れてしまったりする。ゆえに彼の賭け事も成立するのだが。

だが食券制度のおかげで、市民IDを持たないスティンには絶望的な状況となった。せめてガル爺さんの体調がよければ、舌先三寸で余計に食券をせしめることも出来ただろうが、市民課の窓口で何を言い出すか知れず、とても一人で行かせることはできない。それで半年前からベラに代理を頼み、ガル爺さんの市民ID――これもヘムの手を借りて何度か書き替えているのだが――で入手できる毎月三十枚の食券を二人で分け合いながら、どうにか暮らしを立ててきた。だが、ベラの代理もいつまで通用するか知れず、実態調査が入るのも時間の問題である。ここ数ヶ月はほとんど出歩くこともなく、夜にビリヤードを楽しむくらい。それもあまりに強すぎるので挑戦者も激減し、食糧事情はますます厳しくなっている。この先を考えると、時々、絶望で目の前が真っ暗になるが、これは命(タマ)を懸けたゲームだ。敗北は、すなわち死を意味する。得体の知れない権力者に捕らえられ、闇から闇に葬り去られるぐらいなら、奴らに一泡吹かせ、設計図もアラルの文字変換ツールも、何もかも胸に抱いたまま死にたい。

スティンは弱気を振り払うと、爺さんの食事をトレイにのせて主寝室に運んだ。

爺さんの部屋は寝室というより、もはや機械室だ。

部屋中にタワー型ハードディスクやホームサーバーが置かれ、数種類のコンピュータが常時せわしなく作動している。ハードウェアの密林の中で、ガル爺さんは修行僧のように胡座をかき、じっとモニターの一点を見つめている。

もう何十年もこの姿勢でPC作業を続けてきた為、背中は猿のように丸くなり、顎は前に突き出して、まるでコボルトだ。ここ数年はろくに出歩かないせいで、手足は棒のように痩せ細り、膝もかちかちに固まって、普通に生きているのが不思議なくらいだ。そのくせ妙に体力はあり、時にスティンも床に押し倒すほどの腕力を発揮することがある。おまけに風呂にも入らないので、部屋中にすえた臭いがする。たまに力ずくで部屋から引っ張りだし、浴室で頭からシャワーを浴びせるが、一度や二度、石鹸でこすったぐらいで脂汚れが落ちるはずもなく、近頃は彼の方が病気になりそうだった。

それでも爺さんの根気には恐れ入る。

毎日、30万個近い設計図の分割ファイルをアラル語からラテン文字のテキスト形式に変換、メタデータを解析し、立体画像ファイルにデコードして、タワーのワイヤーフレームに嵌め込んでいく。

幸いヘムが素晴らしい復元プログラムを開発してくれたので、大半の作業は自動化されているが、中には「変換失敗」「未知のID番号」「メタデータの不足、もしくは欠損」といった認識不能エラーで返されるファイルもある。その場合は自分の目でメタデータを読み取り、エゼキエルのゲノムアノテーションと照らし合わせながら、手動で正しい位置に嵌め込む必要がある。

エゼキエルのDNAモデルは、長大な塩基配列を右回りの二重螺旋に可視化したもので、CGで綺麗に色付けされている。各遺伝子にはデータ検索の目印となるID番号が挿入され、設計図復元の手がかりとなる。また、このID番号はゲマトリアンクォーツに保存されている生命情報統合データベースと共通で、遺伝子のみならず、生化学、医学、薬学など、様々な分野のデータベースと連携し、情報検索を高速化する目印にもなっている。

それでも復元作業は体力勝負だ。

分割ファイル一個につき数十から数百メガバイト、文字数にして数百万から数千万(中には億を超えるファイルもある)に及ぶアラル語の文字列を立体画像にデコードするのは時間がかかるし、CPUリソースも食う。また分割ファイルといっても、全てが均等ではなく、五階層の一部を縦方向に切り出した立体図もあれば、一つの部屋を左右に二分したパーツもある。それらを最後には自分の目で確認しなければならない。いかに彼が空間認識能力に優れているからといって、六十億個に分割された巨大建築物のジグソーパズルを一点の間違いもなく組み上げられるわけがなく、保留にしているパーツも相当数ある。

GEN MATRIXならほんの数分でやってのけるのだろうが、あれをブルドーザーに喩えるなら、パーソナルコンピュータは子供のスコップだ。あまりの高負荷にフリーズすることもあれば、些細な操作ミスでデコードに失敗することもある。

毎日、ガル爺さんと鬼のように作業を続けて、あと八千万個。従来のペースで一日あたり40万個のファイルを処理すれば、復元完了まで一年もかからないが、残り少なくなるにつれ、エラーで弾かれるファイルも多くなった。どうやら旧司令部や隠しエレベーターなど、重要施設に関してはわざとエラーを仕掛けて、復元できないよう図っているようだ。

スティンが作業中の爺さんに声をかけると、爺さんは床に胡座をかいたまま、顔だけ振り向き、「もうすぐだ、もうすぐだぞ、スティン。これでエルメインの寝首がかける」と鬼気迫る表情で言った。

「寝首をかく前に爺さんの方が病気でくたばるぞ。ほら、朝飯だ。まだ早いけど、ちゃんと食べよう」

だが、ガル爺さんはスティンが持って来た料理を一瞥すると、「またビーガンパテに揚げたジャガイモか! 鶏肉はないのか、鶏肉は!」と声を荒らげた。

「贅沢を言うなよ、爺さん。誰だって鶏肉なんかめったに口に入らない。屋内農園の養鶏所で鶏が何羽飼えると思うんだ。鶏といえど病気もするし、糞もする。一羽飼育するだけでも大変なんだぞ」

「まったく農園の奴らは怠け者だな! 野菜と大豆ばかり食わせやがって」

「エデンの庭師の悪口は言うな。彼等も必死に頑張ってるんだ。文句を言ったら罰が当たるぞ」

スティンがプレートを差し出すと、ガルはプレートを床の上に置き、犬みたいにがつがつ食べ始めた。

「爺さん。食事の時ぐらい、ちゃんとテーブルを使えよ」

スティンが折りたたみ式の小さな木製テーブルを広げると、爺さんは「ふん!」と鼻先で返事をし、テーブルの上にプレートを置いた。

スティンが子供の時は逆だった。爺さんが復元作業をしている横で、彼がこのテーブルで食事をした。爺さんは140階の公共食堂から一人分の給食を持ち帰ると、彼の為にいつも一口多く料理を取り分けてくれた。人並み以下の暮らしだったが、思いやりはあった。それゆえ彼も人間らしく育ったのだ。

爺さんはあっという間に食事を平らげると、急に正気に戻り、「地下の探索はどうだ。生物研究棟(バイオラボ)の間取りは分かったか?」とかつての上級エンジニアらしい顔付きで訊いた。

生物研究棟は北翼メカニカルフロアの直下、すなわち《隔壁》の外側に設置された生物学的清潔区域だ。メカニカルフロアと生物研究棟の境界は分厚いコンクリート製のフラットスラブ(無梁スラブ)で仕切られ、コンクリート充填式鋼管構造の柱がこれを支えている。

タワーの北翼は日照の影響が少ない為、IT室やバイオバンクをはじめ、超低温、超高圧、強酸、無酸素など、様々な極限環境を作り出す施設が集中している。中でも高度に整備されたエリアが、《隔壁》の直下にある生物研究棟(バイオラボ)だ。ラボラトリというよりは、フロア全体をぶち抜いた高機能生物実験場で、大小様々な研究室の他、外惑星の模擬環境を作り出すチャンバー、実験動物の飼育室、手術室や断層撮影室などが揃っている。

特に清浄性が求められる『生物学的清潔区域』には吊り式の歩行天井パネルが取り付けられ、天井裏には、室内の雑菌や粉塵を取り除く大型フィルターユニット、温度や湿度を一定に保つ空調と加湿器、紫外線とオゾンを用いた殺菌装置、実験動物棟に特化した給水・排水設備など、様々なダクトが縦横に張り巡らされている。またその隙間を縫うように、スチールメッシュの小階段や通路が設置され、天井裏といえど中二階のような強度と空間性である。

わけても精巧に作られているのが、《スリーパー》と呼ばれる冷凍睡眠装置のあるバイオクリーンルームだ。この一帯も設計図が復元できない為、詳細な間取りは分からないが、天井パネルに刻印されたメーカーのロゴマークが、宇宙開発機構や微生物研究所で重用された有名企業の商標であることから、非常にハイレベルな施設であることが窺い知れる。

そして、これが一番のポイントだが、バイオクリーンルームは《十二の頭脳》が絶命する事故が起きた場所だ。十二人は《スリーパー》の実験中、冷凍睡眠装置の誤作動によって低体温症を引き起こし、そのまま息絶えた。その直前に液体窒素が漏れ出す騒ぎがあったらしく、誤作動を起こしたのもその影響だろう。そして、エルメインの説明が本当なら、今も《スリーパー》は将来の再使用に備えて、良好な状態で保たれているはずである。

さらに興味深いのは、3階のIT室と生物研究棟のシステム監視室、そして旧司令部がガイドレール式のカプセル・エレベーターで繋がっているかもしれないことだ。

彼が北翼の隠しエレベーターの存在に気付いたのは二年前だ。

重要施設が集中する北翼は特に復元が難しく、認識不能で返されるファイルも多かったが、粘りに粘って六割まで復元した結果、北翼の外壁寄りに幅4メートル、奥行き2メートルのシャフトが存在するのに気付いた。

シャフトの内部はさらに二つに分かれ、それぞれ両側に径の太いガイドレールが取り付けられている。どちらも3階IT室の突き当たり――恐らくサーバールームの向こうから出発し、一つは旧司令部まで、もう一つは地下の水循環システムの機械室まで達している。 シャフトの形状からガイドレール式エレベーターの昇降路ではないかと推測し、爺さんにも確認したところ、当時普及していた機械室不要のカプセル・エレベーターではないかと結論付けた。カプセル・エレベーターは、巻上機や制御装置を昇降路内に設置することで構造を簡素化したものだ。建物の形状に合わせて自在にデザインできるので、丸型の高層ビルや地形の険しい景勝地にもユニークな形状の展望エレベーターを設置することができる。タワーの場合、シャフトの寸法から考えて、上級管理者だけが利用できる秘密の昇降路だろう。

住民の誰も存在に気付かないのは、他階ではシャフトの壁がお洒落なアクリルパネルで装飾され、フロアを支える支柱の一つにしか見えないからだ。ある階はカラフルなマーブル模様、ある階はステンドグラス風、ある階は液晶TV付きなど、フロア毎に装飾も異なるので、隠しエレベーターのシャフトだと疑う人はない。また汎用設計図には配管・配線シャフトと記載されているので、余程のないことがない限り、アクリルパネルを取り壊し、鉄筋コンクリートの壁に穴を開けてまで内部を確かめることはない。

だが、このシャフトもメカニカルフロアにおいては鉄筋コンクリートが剥き出しで、階下に向かって真っ直ぐ伸びている様子が窺える。ただ周囲を無数のパイプやダクトに取り囲まれている為、容易に近づくことはできず、汎用設計図にも、復元した設計図にも、シャフト内に通じる非常口を見つけることはできなかった。

「この際、エレベーターは諦めて、バイオクリーンルーム一本に絞ってはどうだ」

と爺さんが言った。

「あれもこれも探し回ったところで、無駄に体力を消耗するだけだろう。設計図も大事だが、バイオクリーンルームの真相を解くだけでも大きなインパクトがある。それこそエルメインの虚偽を暴き、現体制をひっくり返すほどのな」

「俺も同じことを考えたさ。だが、バイオクリーンルームといえど、複数のチャンバーで構成されて、天井からは内部の様子がまったく窺い知れない。天井裏の構造はかなり把握できたが、どこに、どんな設備があって、何の研究をしていたのか。どこまでが間仕切りで、どこからが室内通路なのか、天井から確定するのは難しい。設計図も、更衣室やカンファレンスルームなど、重要ではない部屋については復元できたが、冷凍睡眠装置のあるチャンバーやシステム監視室、冷凍睡眠装置にガスや電気を供給する機械室や、被験者の前準備を行う処置室などの間取りはまったく分からない。いっそ一部のパネルを取り外し、室内に降りてやろうかとも思うが、万一、セキュリティシステムに引っ掛かったら面倒なことになる。それに世間の噂通り、害獣と害虫の巣窟なら、パネルを開けた途端、ヘッドライトの光に引かれて、わっと襲いかかってくるからな。将来の再利用に備えて、換気や殺菌設備は今も動作していると思うが、それでも油断は禁物だ。バイオクリーンルームといえど、どこまで隔絶性が保たれているか定かでない。しかし、興味深いものを見つけたよ」

スティンは小型PCのウィンドウを開くと、暗がりで撮影した天井裏の写真を見せた。

「これは二週間前に見つけた水平光ダクトだ。通常の光ダクトに比べて、横幅2・5メートル、高さ1・8メートルとかなり大きい。復元した設計図を見る限り、この光ダクトは、北翼の主廊下を照らすメイン光ダクトで、採光部は外壁側面に突出している。さらにメイン光ダクトはムカデの足みたいに水平ダクトを展開し、主廊下を挟んだ両側の部屋に光を送り込んでいる。南側の事務室、休憩室、物品庫、職員ロッカー。北側の動物飼育室、細胞培養室、器械洗浄室、等々。その中の一つに、内側から蹴破られたような箇所があったんだ」

「詳しく聞かせろ」

暗がりで爺さんの目がらんらんと光った。

「場所的には、主廊下の南側、生物学的清潔区域の外側にあるカンファレンスルームの手前だ。部屋の中央には放光部があり、メイン光ダクトから分岐した水平ダクトを通じて光を採り入れている。ところが、この水平ダクトとメイン光ダクトがT字に交わる部分、つまり繋ぎ目に近いところに作業用出入り口があるんだが、その扉が不自然に閉じられているんだよ。誰かが内側から扉を蹴破ったか、外側からこじ開けた為に変形し、元通りに閉じられなくなったんだろう。水平ダクトの作業用入り口も、天井点検口の開閉式ガラリと同じで、小さな丸ビスで固定されている。大人の脚力なら女性でも蹴破れないことはない。ところが、物凄い力で蹴りつけた為にビス部分が壊れ、光ダクトの鏡面アルミ材も歪んでしまったんだ。もう一度、閉めようにも、完全に締め切ることができず、そのままになっている」

「それは奇妙だな。ただでさえ密閉性が要求される清潔区域で、光ダクトが歪んだまま放置されるなど有り得ないことだ」

「しかも作業用出入り口の周りにインクをこぼしたような黒いシミが幾つかあって、俺には血痕に見えるんだ」

「血痕だと?」

「そうさ。他より清浄が求められる区域に、汚れた靴で出入りする作業員がいると思うか? 不用意に機械油をこぼしたり、コーヒーを飲んだりするだろうか? 俺には誰かが流血しながら光ダクトを内側から蹴破り、歩行天井パネルを伝って、何所かに逃げたような気がしてならないんだ」

「シミの跡は辿ったか?」

「いや。暗がりで、そこまで追うことは出来なかった。体力的に限界だったし、手持ちの道標の蛍光テープも使い果たして、下手すれば奥深くに迷いこむような気がしたから」

蛍光テープは暗がりの天井裏で帰り道を見失わないよう、目印に使っているものだ。備え付けの照明もまったく使えないわけではないが、下手に通電すれば、《隔壁》のセキュリティシステムに感知される恐れがある。そこで倉庫係のベラに業務用の蛍光テープを用立ててもらい、天井パネルの吊り部材や小階段などに少しずつ貼り付け、目印にしていた。だが、手持ちの分も使い果たし、これ以上、奥まで進めば危険というのが彼の判断であった。

「蛍光テープも在庫不足なんだ。これ以上、無断で持ち出せば、ベラに嫌疑がかかる。俺もそこまで彼女に迷惑はかけられない。――なあ、爺さん。時々、思うんだが、今の段階でエルメインに交渉しては駄目かな? 俺一人では無理なら、弁護人を付ける方法もある。もう十分、復元に成功したし、手法を知っているだけでも大したアドバンテージだ。完璧に復元しなくても、こちらに有利な条件を導き出せるような気がするんだが」

「何を弱気なことを言ってる。エルメインを甘く見るな。奴も、奴の支持者も、保身の為なら人を傷つけることも厭わぬ怪物だ。中途半端に設計図を持ち出せば、必ず拷問されて殺される。この世でお前だけが設計図を完全に復元できる、それだけが唯一の勝機なんだよ。その為に、わしはこの二十五年間、寝食も忘れて復元に打ち込んできた。お前だけは決して死なすまいと天地神妙に誓ったからだ」

「爺さん……」

「完全に復元するのが無理なら、せめてバイオクリーンルームの真相だけでも解き明かして、奴の喉元に突きつけろ。奴だけは絶対に許さん。あんなケダモノはこの世に存在すべきじゃない」

爺さんの顔に炎のような憎悪が浮かぶと、スティンも何も言えなくなる。そして一言、聞きたくなるのだ。自分の父親は一体誰なのかと。

「まあ、心配するな」

ガルは心底孫をいたわるように言った。

「エルメインと交渉しなくても、タワーの外に脱出する経路を見つけて、誰にも知られず逃げ出す手もある。残り八千万個の中に、それが含まれていることを祈ろう」

「俺一人で逃げるのかい?」

「ベラと一緒に行けばいい」

「……」

「なんだ、その顔は。他に好きな女でもできたか」

「そんな機会もないよ。ここでは知り合う女性も限られているし。第一、皆嫌がるさ。この楽園を出て、野外でアダムとイブみたいに暮らすなど」

「確かにな。多くの市民にとって、タワーを出ることは死にも等しい。まして若い女など、土に触るのも嫌だと言うだろう。だが、すっかり諦めることもない。何度も言うように、目的は設計図を切り札にエルメインと交渉することだ。身の安全が保証され、一人の市民として生存権を得れば、それだけでも救いになる。その後、奴らがGEN MATRIXやゲマトリアンクォーツをどうしようと、わしらの知ったことじゃない」

「そういう訳にはいかないよ。GEN MATRIXは生命創造のツールだ。誰が使ってもいいものじゃない」

「他の連中のなど放っておけばいい。誰が天下を取ろうと、右に左に流れる烏合の衆だ。強く賢い奴だけが生き延びればいい」

「爺さん……」

「ともあれ、お前とベラだけでも逃げろ。南の補給基地まで150キロだ。毎日20キロも歩けば、一週間足らずで辿り着く。すでにコミュニティは失われても、施設が残っていれば何とかなる。動植物も完全に死滅したわけではなく、原始の時代に逆戻りしただけだからな。さて、わしはもう一仕事するよ。腹ごしらえも済んだことだし」

「それより爺さん、少し休めよ。しまいに身体を壊すぞ」

「わしならとうに壊れておるわ! お前の母親が死んだ日からな!」

ガルがのっそり立ちあがると、スティンはガルの上体を支えてベッドに連れて行き、小さな身体を横たえた。黄ばんだ煎餅布団を掛けると、ガルは電池が切れたように眠りに落ち、ゴオーッツ、ゴオーッツと大きな鼾を立てた。

その寝姿を見るうちに、得も言われぬ悔しさが込み上げたが、彼も自分の部屋に戻ると、自身は空腹に身をよじりながら、ベッドにぱたりと横になった。

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石田 朋子

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