《このシステムは六十秒後に自動的に再起動します。中止する場合は、管理者コードを入力して下さい》
「どういうことだ?」
エルメインが白目を剥くと、
「ITシステムが再起動するみたいです」
技師が他人事みたいに答えた。
「そんなことは分かっている! 何が起きてるのかと訊いてるんだ!」
「ですから、圏内のITシステムが再起動を……」
「どけっ!」
エルメインは技師を突き飛ばすと、自らワーキングチェアに腰掛け、ラップトップと向かい合った。
何度も、何度も、自身の管理者コードを入力し、Enterキーを押すが、再起動の動きは止まらない。生体認証装置を接続し、指紋、音声、虹彩、ありとあらゆる方法を試すが、《認証エラーです。正しい管理者コードを入力して下さい》を繰り返すだけだ。
「そんな馬鹿な……有り得ない」
エルメインは猛然とスティンに歩み寄ると、襟首を掴んだ。
「貴様、何をした!」
「それはこっちの台詞だよ。あんたの方こそ、俺の母親に何をした? 二十六年前の出来事だ。長い間、下手人は謎だったが、今やっと判った。もっとも遺伝学的に相同性があるからといって、死んでも父親とは呼びたくないがな」
「でたらめを言うな!」
「でたらめじゃないさ。卵管結紮も完璧じゃない。男が不妊手術をしてなければ、数パーセントの確率で妊娠することがある。あんたが年端もゆかぬ少女に暴行した時、俺の母親は排卵していた。奇跡的なタイミングで妊娠したんだよ。まるで聖なる乙女みたいに。それに気付いた爺さんはヘムに相談し、ヘムも俺のDNAがITシステムの管理者権限を混乱させると見込んで、このプログラムを仕掛けた。あんたが重度のIT音痴で、簡単なプログラムのセットアップさえ他人任せにしていた事実を逆手に取ってな」
「貴様……」
「自分で不幸の種を蒔いておいて、被害者面すんなよ。じきにショーが始まるぜ。《天都》始まって以来の特大エンターテイメントだ」
再びソースコードが動き出し、再起動が始まると、にわかに室内の照明が点灯し、空調も再開した。市民には一時的な停電にしか見えないが、ITシステムの最高管理者権限はスティンに移行し、圏内の公共モニターに一斉にルルの顔が大写しになった。
「ミンナ、アツマレー!! タノシイショーガ、ハジマルヨーッ!」
圏内は騒然とし、市民も公共モニターに釘付けになった。
次いで画像が一転し、医療施設の内部が映し出された。
映像は薄暗く、カメラの視点もネズミのように床すれすれだが、床に散乱したガラス片や医療器具、倒れたままのスタンドライトやガラスの割れた医療用キャビネットなど、異様な状況がはっきりと見て取れる。
「なんだ、これ……」
「もしかして、生物実験棟(バイオラボ)?」
さらにルルが前進すると、バイオクリーンルームの二基の制御装置がモニターに大写しになった。そこには六台の《スリーパー》が放射状に連結され、《十二の頭脳》の実験の痕跡を窺わせる。
一台、二台、三台、四台……だが、十一台しかない。
「《スリーパー》は十二台あるはずだぜ」
「もう一台は、何所へ行ったんだ!?」
明らかに一台の《スリーパー》が取り外され、室外に持ち去られている。
人々は「どういうことだ?」と騒ぎだし、通説との違いに目を見張った。将来の再利用に備えて最良の形で保存されているというのは嘘だったのか。
エルメインは慌ててラップトップの天板を閉じたが、もう遅い。映像は何度もループで再生され、証拠の録画を始めた人もいる。
「まあ、そういうことだよ、エルメイン。バイオクリーンルームの様子は、市民に伝えられた悲話とは大きく異なってる。暴力沙汰があったのは誰の目にも明らかだ。さあ、白状しろよ。ヴィクトル・マジェフスキーはどうなった? エレナ・マジェフスカヤの遺体(ボディ)は何所に消えた?」
「お前もくだらんフェイク動画を作る」
「フェイクじゃないさ、本物だ。その証拠にな、俺はヴィクトル・マジェフスキーの遺体を見つけたんだ。可哀想にシステム監視室に閉じ込められて、そのまま息を引き取った」
「嘘を言うな」
「嘘じゃないさ。なんなら動画の続きを再生するか。哀れなヴィクトル・マジェフスキーの遺体がばっちり映ってるぞ」
「動画など撮れるわけがない」
「なぜ、そう言い切れる? おかしいと思うのは、ヴィクトルの遺体の状況を知っているからだろう。飛び降り自殺など真っ赤な嘘だ。お前が手に掛けたんだ。GEN MATRIXを独占する為に」
エルメインはアドナを羽交い締めにすると、部屋の中央に引き摺り、懐に隠し持っていた小銃を彼のこめかみに突きつけた。
「盗撮の返礼だ。こいつが脳みそをぶちまける様をしかと見届けるがいい」
エルメインが引き金に深々と指をかけ、今度こそアドナも覚悟したように目を閉じた時、突然、診察室のドアが開き、「そこまでよ!」と女の声が響き渡った。
「ベラ!」
スティンとアドナが同時に声を上げると、ベラは旧式のボウガンを構え、壁際でフリーズする二人の技師に直ちに退室するよう命じた。二人がばたばたと立ち去ると、今度はエルメインの二人の助手にボウガンを向け、
「死にたくなければ、出てお行き。あんたも、そこのあんたも! それから、そこのドラキュラみたいなお医者さん、あんたもよ。今すぐスティンから離れて! 妙な真似をすれば、あんたの頭がぱっくり二つに割れるわよ」
ヘクターが小馬鹿にしたように笑うと、ベラは容赦なく引き金を引いた。小指の太さほどある鉄の矢はヘクターの脇をかすめて、深々と壁に突き刺さった。
「本気よ」
するとヘクターも両手を挙げ、カニのように横ばいしながら退室した。
ベラは後ろ手で診察室を施錠すると、改めてエルメインにボウガンを向けた。
「あんたの負けよ、エルメイン。圏内は大騒ぎ、ここで二人を殺して、何食わぬ顔で表に出て行っても、もはや市民はあなたを許しはしないわよ」
「それはどうかな。あれがバイオクリーンルームの映像だと、どうやって証明するつもりだ」
「そんなことは簡単よ。実際にバイオクリーンルームに行けばいいの。市民課に本物の設計図のデータを渡したわ。営繕課にも、水道局にも。私たちが侵入に使った経路も設計図に記しておいた。今頃、有志が地下に降りて、バイオクリーンルームに向かっているはず。パネル式歩行天井を取り外し、実際を目にすれば、あの映像がフェイクじゃないことぐらい、すぐに分かるわ。もうお芝居は終わり。いずれ何所からか、マジェフスキー夫妻の遺体が出てきて、あんたの栄誉も地に落ちる。その上に殺人を重ねて、何の得になるというの」
「わたしを撃てば、こいつも死ぬぞ」
エルメインがアドナのこめかみに銃口を押しつけると、
「お好きなように」
ベラは平然と返した。
「その人は私にとって恋敵も同然。あんたの手で始末してくれたら、手間が省けるわ」
ぐうっとエルメインの顔が歪み、銃口がぶれると、アドナはとっさにエルメインのみぞおちに肘鉄を食らわせ、床を這うようにしてエルメインから逃れた。次の瞬間、ベラの放った矢はエルメインの胸の真ん中を深々と貫き、エルメインは声も立てずに絶命した。
エルメインがどさりと床に倒れると、アドナはスティンに駆け寄り、急いで右肘の正中静脈から点滴の針を抜き取った。両手両足の拘束を解き、スティンがどうにか上体を起こすと、「スティン! スティン……!」と彼の身体をかき抱いた。スティンもまたアドナの背中を軽く抱くと、「大丈夫か」と優しく尋ねた。
その様をベラは呆然と見つめていたが、ベラもまたスティンに歩み寄ると、「ひどくやられたわね。早く手当てしないと……」と目を潤ませた。
「わたしが薬と固定具を取ってくるよ。隣が医療用の倉庫なんだ」
アドナが気を利かせて倉庫に赴き、スチールワゴンに必要な物品をのせて戻ってくると、ベラは母親みたいに彼の顔を拭い、持参したアイソトニック飲料をかいがいしく飲ませていた。
「彼の左手、治りそう?」
ベラが不安げに尋ねると、アドナは紫色に腫れ上がった彼の左手を注意深く観察し、
「今すぐ医師に診せた方がいいけど、ここは部外者は入れないし、エルメインの死体もある。取り急ぎ固定して、事態が落ち着くまで様子を見よう。誰が誰に通報し、どんな人がやって来るか分からないから」
「そうね……」
アドナは持参した固定具で彼の左手を保護すると、三角巾で前腕を吊し、肩に消炎鎮痛剤の筋肉注射をうった。
「でも、どうしてここが分かったんです? この診察室は汎用設計図にも詳しく記載されてないのに」
「本物の設計図を見たの」とベラが答えた。
「爺さんが最後に私のオンラインストレージに立体画像をシェアしてくれたのよ。公共モニターにルルの映像が流れたら、直ちに市民課に提出して、バイオクリーンルームに行くよう要請しろと。それに並行して、携帯端末の専用アプリでスティンのラップトップをモニタリングしていたら、起動した場所と時刻が特定できたので、迷わず侵入できた次第。前から三階南翼は倉庫係の仕事でしょっちゅう訪れていたし、高機能クリニックの周辺だけ警備が厳重だから、多分、ここにエルメインの主診察室があるんだろうと予想はしていたわ。遺伝子センターやバイオバンクにも近接してるしね。ここに入れたのは、停電騒ぎのせいよ。領内全体が騒然として、こんなフロアの片隅、誰も気に留めないわ」
「そうですか。そんな大騒ぎに……」
「それに五人目の患者が出たの。今度は幼児ですって。子持ち世帯がパニックに陥って、病院の待合室に長い行列を作っているわ」
「感染経路は水ですか?」
「私も詳しくは知らないけど、幼児ならその線は濃厚でしょうね。外周水路や噴水で遊ぶのが好きだから」
「それなら一刻も早く水循環システムの全容を解明し、場合によっては、《隔壁》を開く必要があるかもしれません。設計図は全て復元できたのですか?」
「いいえ、九割どまりよ。旧司令部の間取りは今も分からないし、外への経路も途切れ途切れ。ただ3階のIT室の間取りが完全に分かったのは幸運だったわ。最後の最後までガル爺さんが頑張ってくれた。私も必死に探したけど、ついに見つからなくて……」
「だが、エルメインは死んだ。後のことは、多分、気にしてない」
スティンが悲しみを押し殺すように言うと、ベラも涙ぐみ、
「そうね……わたしたち……いえ、多くの命を奪った悪魔みたいな男は死んだ。それで十分報われるわね……」
と感無量でスティンに抱きついた。
スティンも彼女の背中を優しく抱くと、「君も両親の仇がとれたな。今まで本当にありがとう」と心から礼を言った。
そうして、スティンの手当が済み、アドナも自分の耳たぶの傷を軟膏で塞ぐと、「次はどうする?」とスティンに訊いた。
「IT室に行こう。爺さんの復元した設計図に間違いがなければ、隠しエレベーターで旧司令部に下りられる。昔、ヴィクトル・マジェフスキーが使っていた専用エレベーターだ」
スティンが立ち上がると、アドナも頷き、彼の上体を支えた。ベラはその様をじっと見つめていたが、「私も一緒に連れて行ってくれる?」と切り出した。
「年取った女に居場所がないのは分かってる。でも、私も一緒に連れて行って欲しいの。あなただって、その手で南の補給基地まで辿り着くのは無理でしょう。私ならあなた達を手伝える。力仕事もできるし、料理や洗濯も。だから一緒に連れて行って。決してあなた達の邪魔はしないから」
日頃の意地もプライドもかなぐり捨てて懇願すると、「置いて行ったりしないよ」とスティンは即答した。
「今まで一緒に頑張ってきたんだ。俺はそこまで薄情じゃない」
アドナも頷き、
「タワーを出るなら、もう少し医薬品が要る。わたしが準備するから、君とベラはラップトップの用意をして」
再び医療用倉庫に足を運ぶと、携帯用医療バッグに、ガーゼ、繃帯、絆創膏、メス、剪刀、針付き縫合糸、消毒液などを詰めた。次いで、VIP専用の薬品棚のガラスを叩き割り、スティンの治療に役立ちそうな消炎鎮痛剤や止血剤、抗生剤も揃えた。
それから、医療用モルヒネと致死量の筋弛緩剤――。
全ての準備が整うと、スティンとアドナは新しい患者衣に着替え、アドナは医療用バッグ、ベラはスティンのラップトップ、スティンはベラが持参した工具入りのウェストベルトを腰に巻き付けて、3階のIT室に向かった。
南翼の外周回廊を通り抜け、小型エレベーターに乗り込もうとした時
「今、話し声がしなかった?」
とベラが立ち止まった。
「駄目だ、ベラ! 立ち止まるな!」
スティンは制したが、ベラは物音が気になるように近くの小部屋に近づいた。入り口ドアが微かに開き、中からぼそぼそと話し声がする。
「誰か通報してるみたい。私たちのことかしら……」
ベラが壁際に身を寄せ、そっと中を覗き込んだ時、プシュっと弾けるような音がして、ベラがその場に倒れた。眉間に穴が開き、みるみる血だまりが広がる。するとドアの向こうから小型エアガンを手にしたヘクターが現れ、「このクソ女」と心臓にもう一発、撃ち込んだ。
「やめろ!」
スティンが叫ぶと、ヘクターは二人に銃を向けたまま、血だまりの中からラップトップを拾い上げた。
「勝利したつもりのようだが、詰めが甘すぎるぞ。悪の枢機卿はエルメイン一人と思ったか」
アドナとスティンが茫然と立ち尽くしていると、
「この女も自分で言ってたじゃないか。年取った女に居場所はないと。お前らの会話は医療用監視システムで筒抜けだ。女がボウガンで撃ったのも記録に残っている。どのみち、お前らに楽園などありはしない。運よく生き延びても、幾多の罪状で裁かれ、死ぬまで刑務所だ。それでも女には救いだろうよ。目の前で好きな男が出来損ないのオカマといちゃつく姿を見るぐらいなら、あっさり死んだ方が幸福というものだ」
ヘクターがベラの顔を蹴りつけると、「あんたには人の心がないのか!」とスティンが叫んだ。
「罪深いのはお前の方だよ。どれだけ多くの人がエルメイン先生の施術に命を救われてきたと思うんだ」
「VIPだけだろ」
「そんなことはない。圏内に暮らす市民の多くが、エルメイン先生のゲノム編集の恩恵を受けている。大病もせず、元気で長生きなのはエルメイン先生のおかげだよ」
「それは違うよ、ヘクター」
アドナが否定した。
「市民が健康なのは良質な食事と生活習慣のおかげだ。タワーに移ってから、市民の食生活は動物性から植物性に変わり、ジャンクフードを口にすることもなくなった。衣食住を保証され、あくせく働く必要もないから、心身ともに安定し、病気にもかかりにくくなったんだよ。ゲノム編集のおかげじゃない」
「お前の見立てなど、どうでもよい。二人とも、両手を頭の上に置いて、言われた通りにしろ。IT室に行って最高管理者権限を修正し、旧司令部への経路を開くんだ」
「……」
「さっさとしろ!」
ヘクターがエアガンで追い立てると、スティンは両手を頭の上に置いて小型エレベーターに乗り込み、アドナも黙って従った。
スティンのラップトップから、ぽたぽたとベラの血が滴り、異様な臭気に吐きそうになる。アドナが真っ青な顔で壁にもたれかかると、ヘクターは勝ち誇ったようにエアガンを突きつけ、「今度こそ運が尽きたな。どのみちお前は今日死ぬ運命なんだ」とサディスティックな笑みを浮かべた。
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