命の選別 ~こんな狭い社会でも人が人を理解し、愛し合うのは難しい

    第一章 GEN MATRIX ~エデンの庭師(6)

    STORY
    アドナは少女を見舞うため病院を訪れるが、医科部長のジュール医師は安楽死もやむなしとする。治療薬はVIPの為に確保され、最下階の少女には止血剤さえ施されないのだ。アドナは命の選別だと憤るが、≪天領≫に閉じ込められ、物不足にあえぐ市民に、他の選択肢はなかった。
    ジュールは、エルメインによって非人道的なスクリーニングが行われた過去を振り返り、≪天領≫にいるのはみな罪人の子孫だと説く。

    目次

    少女の治療と命の選別

    診察室のキリスト ~ジュール医師との語らい

    エレベーターが40階に到着すると、アドナは気持ちを切り替え、総合病院の集中治療室に足を運んだ。

    少女は感染防止用のビニールカーテンで覆われたベッドに横たわり、バイタルモニターのビープ音だけが鳴り響いている。これほどの重症にもかかわらず、投薬は点滴一本だけ。もはや少女の顔に血の気はなく、心停止するのも時間の問題だ。

    アドナが観察室の窓越しに固唾を呑んで見守っていると、カンファレンスを終えたジュール医師が後ろから声をかけた。

    ジュールは今年五十九歳になる医科診療部の部長で、セスの指導医でもある。薄茶色の目をした長身の紳士で、責任感も強く、長年、最高評議会のメンバーを務めている。個人的にはセスを通して半年前から親しく言葉を交わすようになった。上にも下にも茶坊主みたいな役員が多い中、ジュールだけは砂漠の族長みたいに毅然とし、時にはエルメインを圧倒することもある。その度に周りははらはらし、いつか不当に処されるのではないかと案じるが、さすがのエルメインも一般患者から絶大な信頼を得る医師を罷免することはできないらしく、ジュールに何を言われても、蚊に刺されたライオンみたいにむず痒い顔をするだけだ。

    だが、今日のジュール医師の表情はいつになく険しい。日頃『診察室のキリスト』『神の手(ゴツドハンド)』と仰ぎ見られる医師の姿とは対照的に、激しい憤りすら感じる。

    瀕死の少女を前にして、アドナは救いの言葉を期待したが、ジュールの口から漏れたのは「今夜にも安楽死だな」という衝撃の一言だった。

    合成ガスを使った安楽死術は、回復する見込みのない患者や、自ら希望した者に施される医療行為で、十年ほど前から当たり前のように行われている。患者の苦痛を最小限にとどめ、限られた医療資源を節約する為にはやむなしとの考えからだ。そして、アドナも致し方ないことと受け止めてきてが、実際に十二歳の少女を合法的に死に至らしめる場面を目にすれば考えも変わる。本当にそれしか手立てがないのか、何か根本的に間違っているのではないか、胸を掴んで問い質したいほどだ。

    命の選別と安楽死 ~薬はVIPの為に確保され

    「しかし、まだ治療を始めたばかりではないですか」

    「あれが治療と思うかね。点滴の中身もただのブドウ糖だ。止血剤もステロイド剤もVIPの為に確保され、下階の名も無き少女にはビタミン剤さえ使われない。死が目に見えている病者に治療は不要だと」

    「それは命の選別ではないですか」

    「その通りさ。良識ある者はみな理解している。だが、この様を見なさい。我々に何が出来る? せめて安らかに逝かせるのが精一杯だ。道義を叫んだところで、薬が湧いて出てくるわけでもない。君には信じがたいかもしれないが、これが現実だ。これほど急速に衰退するとは思わなかった。二十年前にはまだ明るい見通しもあったのだが」

    「しかし、農園の収穫力は十分にありますし、水循環システムや物資のリサイクルもあと十年はもつと言われています。あと十年あれば、壊滅的な未来に備えて、十分に手が打てるのではないですか」

    「そう言い続けて、この十年何もしなかった。そして、次の十年も何もしないだろう。本気で改革する気があるなら、とうにこの現状を打破しているよ。何かあっても掛け声ばかり、心底から問題を解決する気など皆無だ。この調子で次の十年もやり過ごせば、その後には確実に破滅がやって来る。もっとも上の連中は、自分だけは助かるつもりでいるようだがね」

    「それで病因は何ですか? 好中球減少症で、免疫不全の傾向があったと聞いています」

    「それはあくまで引き金だ。ほんの一週間で、ここまで著しい溶血性貧血と肝脾腫、消化管出血を主とする多臓器不全をきたすのは感染症以外に考えられない。だが、ただの日和見感染とも思えない。『肝臓で一気に増殖し、血液中に侵出して、赤血球を破壊する微小な何か』といえば、答えは一つしかないよ。ただそれを確定するには時間がかかるがね」

    「でも、母親はまったくの無症状だそうですね」

    「尿検査や血液検査など、一通り検査はしたが、母親は健康そのものだ。母子関係も良好、虐待の形跡もなく、毒物を使ったとも思えない。唯一気になるのは、あのよそよそしい態度だ。普通、娘に免疫不全の傾向があれば、親の方から積極的に治療に参加するものだが、あの母親は妙にさばさばして、まるで他人事だ。心理的な防衛機制から、逆に鈍感になっているのかもしれないが」

    「分かります。わたしも奇異な印象を受けました。父親はないのですか?」

    「子供が幼少時に離婚して、完全に縁を切っているので、連絡は取らないで欲しいと言っている。家庭内暴力でもあったのか、理由は窺い知れないがね」

    「複雑ですね」

    こんな狭い社会でも人が人を理解し、愛し合うのは難しい

    「こんな狭い社会でも、人が人を理解し、愛し合うのは難しい。君やセスは特別だよ。多くの人は、隣人はおろか、社会に対する関心さえ失いつつある。そんな中で真っ当なことを唱えても嘲笑されるのが関の山。いつからこんな世の中になったのか、茶化して、無視して、それで終わりだ。それでいて自分からは絶対に責任を取ろうとしない」

    「旧約聖書にもありますね。「『私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました』。人はみな生まれながらに原罪を負っていると」

    「『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように』。ダヴィデの詩編51だな。罪人というなら、ここに残ったものはみな罪人の子孫だ。《隔壁》を締め切る時も、上と下とで大論争になり、『せめて病気の老母を入院させて、最期ぐらい人間らしく死なせて欲しい』という、わたしの母の必死の願いも退けられた。死が間近に迫っている者に貴重な医療資源は使えないと。祖母は子供たちの将来を思って、自ら命を絶った。わたしの母が二十代の時の話だ」

    「……それは知りませんでした」

    「母は優秀な内科医で、上層部に請われて《天都》に上がったが、本当は地上のキャンプに留まり、最後まで取り残された人々の診療に全力を尽くしたかったらしい。だから、いつも言っていた。エルメインに賛同して上がった者はみな罪人だと。だが、その気持ちを責めることはできない。死は誰にとっても恐ろしいものだから」

    「地上に残された人々はどうなったのですか」

    「本当のところは誰にも分からない。《隔壁》を締め切ってすぐに連絡が途絶えたからだ。南の補給基地に向かったか、あるいは別の場所に移ったか。何にせよ、年寄りや病人を連れての険しい道程だったに違いない」

    アドナの脳裏に、打ち捨てられた病者や高齢者がレミングのように身を寄せながら、山を越え、川を渡り、安住の地を求めて、ひたすら南に向かう光景が浮かんだ。飢えと寒さに泣き叫ぶ幼子もいれば、辛い旅路に耐えきれず命を落とした人もあっただろう。一方、《天都》に上がった者の子孫も死と破滅の瀬戸際にいる。去っても、残っても、どこにも楽園はなく、人類は永遠に地上をさすらっているかのようだ。

    そして、午前零時。

    少女の母親が観察室から見守る中、フェイスマスクから合成ガスが送られ、少女は眠るように息を引き取った。人生と呼ぶにはあまりに儚く、あっけない最期であった。

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