最下階のハスラー
アドナとスティンの出会い

最下階の少女 ~ジェシカと母親

アドナは踵を返すと、狭い通路を南に向かって歩き、少女とその母親が住む居住ユニット『2483』を探した。

セスの話では、少女の名前はジェシカという。中階の公立学校に通う優等生で、年齢は十二歳と十ヶ月。離婚歴のある若い母親と二人暮らしだ。

幼少時より好中球減少症(好中球は白血球の一種で、体内に侵入した細菌や真菌を貪食する)を指摘され、基準値と異常値の間を行ったり来たりしていたが、「風邪を引きやすい」「口内炎にかかりやすい」といった易感染性以外、特に問題は見られない為、年に一度の血液検査だけで経過観察中だった。ところが、先週より体調不良を訴え、学校医の勧めで一般外来を受診したところ、頭痛、腹痛、三十七度六分の発熱に加え、血液検査にて白血球や血小板の減少、肝機能に若干の異常値が認められた為、入院して精密検査をするよう勧められた。

ところが、娘も母親もそれきり来院せず、母親に連絡を入れても留守録のみで何の返答もない。虐待や事件性も疑い、明日にも学校の担任が家庭訪問する予定だが、いまだ母親と連絡が取れず、日時も未定という。そんなところにアドナが出掛けていって、かえって事態をこじらせないか、若干の懸念はあるが、ネズミの話となれば、母親も態度を変えるかもしれない。

あれこれ思い巡らせながら、『2483』のナンバープレートのかかった白いスチールドアのインターホンを鳴らすと、程なく鍵の開く音がした。

中から顔を出したのは、少女の母親らしき三十半ばの女性だ。切れ長の黒い瞳に、額から鼻先まですらりと伸びたギリシャ鼻をして、遠目にも際立つような美しさである。だが、今は目も落ちくぼみ、肌はくすんで、老婆のように険しい顔付きだ。

アドナが自分の役職と訪問の動機を告げると、母親はさっと気色ばみ、「ジェシカなら居ないわ」とつっけんどんに答えた。

「では、いつお目にかかれますか?」

「ジェシカは誰とも話さない。内気な子なの。まして執政府の役人など」

「役人ではありません。農業研究者です。農園管理の立場から、娘さんに質問を」

「でも、セキュリティに関わる話でしょう」

「セキュリティには違いありませんが、警察の取り調べとは異なります。万一、娘さんの話が本当で、外部からネズミが侵入したのなら、農作物や食糧庫に重大な問題を引き起こす恐れがあります。決してあなた方を拘留する訳ではありませんし、まして罪に問うわけでもありません。ただネズミの真偽を確かめ、本当ならば、一刻も早く手を打ちたいだけです」

「小学生の作り話よ。あの年頃の子は、幽霊だの、魔法だの、ありもしないものを自分の目で見たかのように話して聞かせるのが好きなのよ。ネズミなんて私は知らないし、ジェシカも知らない。本当に何も知らないのよ」

「そうですか……」

「本当にそんなものが存在するなら、私の方から連絡するわ。先日も、隣の奥さんが床下で変な物音がすると大騒ぎして、メンテナンスの人が来たけど、何も無かったもの。最近、多いのよ。おかしな事を言い出す人や、挙動不審な人。みな《コクーン》のやり過ぎじゃないの。現実と幻の区別がつかなくなって、白昼夢に浸ってるの。ともかく帰って。執政府の役人が訪ねてきたと知れたら、近所にどんな噂を立てられるか分からない」

「でも、隣の方も、何かを見聞きされたのでしょう?」

「あなたもしつこいわね。知らないと言ったら知らないの。何度聞かれても答えは同じ。『知・ら・な・い』、それが全てよ」

若い母親が乱暴に返すと、アドナも面食らったが、

「では、何か異変に気付いたら、すぐに報せて下さい。わたしは最高評議会の一員ですし、他では頼れない問題も、わたしなら力になれるかもしれません」

自分の連絡先を記したメモを手渡すと、少女の住まいを後にした。

§

どうも釈然としない。

母親が何か隠しているのは明らかだし、本当に小学生の作り話なら、あんなに尖ることもないだろう。セキュリティを気にしていたが、違法行為でもしているのだろうか。あるいは子供の虐待……。

もやもやしながら再び通路を歩き始めた時、突然、隣のドアが開き、小柄な中年男性が顔を出した。「隣の奥さん」の話を思い出し、アドナが呼び止めると、男性は彼の白衣姿を見るなり、「オレは何もしてねえぜ!」と両手を挙げた。

「警察の捜査ではありません。ネズミについて調べているところです」

「ネズミ?」

「先日、140階の人工池でネズミを見たという目撃情報がありました。あなたの奥さまも『床下で変な物音がする』とメンテナンスを呼ばれたそうですね」

「ああ、あれな。何でもなかった。うちの女房は神経質なんだ。ちょいとリビングの照明が落ちただけで、人類滅亡みたいな騒ぎ方をする」

「他に変わったことはありませんか? 台所の食べ物を食い荒らされたとか、体調の悪い人が増えたとか」

「いつも通りだよ。気になるなら南のバルで聞いてみろよ。ここらの住人はしょっちゅう出入りしている。ボードゲームやピンボールのできる明るい店だ」

「ありがとう」

アドナが食堂に行きかけると、「ちょっと待て」と男性が呼び止めた。

「何かを目にしても、絶対に口出しするなよ」

「どういう意味です」

「言葉どおりだ。じゃあな」

男が足早に立ち去ると、アドナは怪訝な面持ちで南翼に向かった。

『バル』は私的な飲食を楽しむ為の食事処だ。市民には三度の給食とデザートの他、社会貢献度に合わせてポイントも付与され、衣料や日用品と交換することができる。バルの飲食もその一つで、給食以外に自分の好きな料理や飲み物を注文することができる。

通路を真っ直ぐ突き進むと、フロアを四つに区画する主通路と外周回廊の交わる角に『BAR』の黒板が目に入った。黒板上部には大きな矢印が取り付けられ、古風なチョークアートでメニューが記されている。本日のおすすめは『ビーガンパテと揚げたジャガイモ、レタスとチェリートマトのサラダ』。またその下方に控えめな文字で『GRA(ゲーム)』と書かれ、どうやらゲーム場を併設した食事処らしい。

入り口はスモークガラスの開き戸で、東欧風のダイニングルームが奥の方まで見渡せる。十個のカウンター席に、四人がけのボックス席が五つ。古びた感じだが、橙色の間接照明が美しく、夕食を楽しむ人々で賑わっている。

(最下階にこんな食事処があったのか)と不思議な思いでドアを開くと、カウンター席のカップルとボックス席の親子連れが一瞬ぎょっとした表情でアドナの白衣姿を見た。だが、アドナが優しく会釈すると、皆も安心したように頬を緩め、すみやかに自分たちの会話に戻った。

アドナが一番奥のカウンター席に腰を下ろすと、調理場の奥から丸顔の中年男性が顔を出し、「何にします?」と尋ねた。アドナは「クワスを」と答え、ほっと一息ついた。

KWAS(クワス)はライ麦パンを発酵させた微炭酸の飲み物だ。一~二パーセントのアルコール分を含み、圏内ではポピュラーなデザート飲料である。濃厚なカラメルをビールで割ったような、ほろ苦い甘さが特徴で、アドナも毎日のように嗜んでいる。

改めて店内を見まわすと、カップルも親子連れもささやかなご馳走に舌鼓を打ち、たわいもない会話に花を咲かせている。上階では連日のように将来起こり得る食糧不足や医薬品不足について打開策が取り沙汰されているのに、ここに居る人たちは明日も十年後も同じ暮らしが続くかのような明るさだ。呑気といえば呑気だが、反面、VIPフロアにはない親しみが感じられる。VIPフロアにも洒落たレストランはあるが、全て個室の予約制で、見知らぬ者同士が相席で飲食を楽しむことはまずない。たまに見知った人と廊下やスパですれ違っても、親しく挨拶を交わすことはなく、じろじろ相手の顔を見ないのが礼儀だ。

理由の一つは、VIPフロアに住まう全員が《特別な人々》とは限らないからだろう。

たとえば、アドナが住む七階の東翼は『マザーズエリア』と呼ばれ、VIP向けの代理母や家政婦を営む女性が住んでいる。また別のエリアには調理や営繕を請け負う男性も居て、中には色事の相手を務める男女も存在する。出自や素行を知られたくないのはお互いさま、誰もが自ずと秘密主義になり、それ故、VIPフロアの機密性や権威性も守られてきた。世の中にはそれが心地よい人もあり、一概に何が正解とは言えない。

だが、バルで家族や恋人と飲食を楽しむ人々を見ていると、最後の瞬間まで、こんな風に笑顔で過ごす方がどれほど幸福か知れないと思う。呑気に見えるが、何も考えてないのではなく、どのみち世界を変える力もないなら、ないなりに有意義な人生を送ろうと、毎日を楽しんでいるのかもしれない。

§

やがてクワスが運ばれてくると、アドナはグラスの縁に軽く口を付け、甘酸っぱいパンの匂いを嗅いだ。品質は上階のレストランで出されるものと同じ。そこまで差別もないようだ。日頃の緊張も忘れて、ほっと一息つき、グラスの半分ほど飲み干した時、壁の向こうから「おおーっ!」という歓声が聞こえてきた。何事かと振り向くと、木製のアーチ型ドアで仕切られた部屋の向こうに大勢の気配が感じられる。トイレのドアと思っていたが、どうやらゲーム場入り口らしい。

席を立ち、分厚いドアを細めに開くと、その先は広々としたホールで、年代物のスロットマシンやピンボールなど、様々なゲーム機が十台ほど並んでいる。その続きには、チェスやボードゲーム用のテーブル、ミニ卓球台や野球盤もある。

だが今、そこで遊んでいる者は皆無だ。ゲーム場に居合わせた数十人の視線は、一斉にL字型ホールの奥のビリヤード台に注がれている。アドナは軽く爪先立ちをし、客の頭の隙間を縫うようにして、ビリヤードに興じている二人のプレイヤーを見つめた。

一人は大柄な中年男性で、これほどの騒ぎの中、顔色一つ変えずにキューを構えている。そういえば、牡牛のように四角い顔と中肉中背の体躯に見覚えがある。ビリヤード大会の十期連続チャンピオンだ。今は若いプレイヤーに王者の座を取って代わられているが、十年以上、表彰台の常連であり、正確無比なショットで定評がある。

もう一人は黒目黒髪の若い男性で、こちらは初めて見る顔だ。翳りを帯びたエキゾチックな容貌に、黒豹みたいにしなやかな体付きをして、キューを手にした姿がまるでカフカス*2の戦士みたいだ。誰かから譲り受けたのだろう、擦り切れた三本指の黒いビリヤードグローブをはめ、じっとビリヤードグリーンを見つめている。

元チャンピオンが完璧なキャノンショットを放ち、5番の的球がポケットすると、彼の口元が微かに動いたが、すぐにキューを構えると、白い手球を鋭角に撞き、二次方程式のように美しいZショット*3で形勢逆転した。「スティン!」と周囲から歓声が上がり、それが彼の呼び名らしい。「染み(スティン)」。おかしな名付けをする人もあるものだ。

何度かショットを交えた後、チャンピオンが再びキューを構え、得意のスクリューバックで的球を散らすと、スティンが作った勝利の布陣はあっけなく崩され、勝負は再び振り出しに戻った。だが、それも織り込み済みなのだろう。スティンは余裕でキューを構えると、この世に唯一つ存在する、勝利の放物線を描くようにビリヤードグリーンに視線を走らせた。

と、その時。

スティンと正面から目が合い、アドナは力付けるように微笑した。スティンも一瞬遅れてキューを振り出したが、手球は僅かにコースを外れて、6番の左側面をかすり、6番はヘッドレールの右側コーナーポケットの手前で軽く跳ね返って、サイドレールから少し離れた所で停まった。スティンは軽く舌打ちし、アドナを一瞥したが、直ぐに視線を反らすと、ビリヤード台から離れた。

次は元チャンピオンの番だ。

だが、他の的球や手球の配置から、元チャンピオンもワンショットで6番をポケットするのは無理と踏んだのだろう。わざと8番を狙い撃ちすると、手球の斜め後ろにぴたりと止めた。これで手球は6番と8番に前後を挟まれ、身動きが取れない。しかも星のように連なった3つの球の後ろには7番があり、下手に的球を動かせば、元チャンピオンに有利なポジションに取って代わる。瞬く間に6番、7番、8番とポケットされて、勝利玉の9番も元チャンピオンが確実に取るだろう。

スティンが勝利するシナリオはただ一つ。白い手球をヘッドレールに勢いよく当て、ウサギのように後ろ向きにジャンプし、8番の背後に着地させる。その場で手球をIターン、8番を背後から押し出して、斜め前に位置する6番の左側面に当て、ポケットする。だが、そんな器用な真似ができるものか。万一、7番を巻き込めば、勝利するのはもっと難しくなる。

アドナも我が事みたいにはらはらし、何とか彼に勝利を授ける術はないかと、祈るような気持ちで周りを見回した時、壁際のカウンターテーブルに若草色の食券が山積みになっているのに気が付いた。

若草色の食券は、市民に平等に配布されている給食券だ。一枚で温かいスープと主食と副食、デザートの一食が賄える。食券の不正使用が固く禁じられているのは、収穫量と消費量の統計に誤差が生じれば、農業生産計画に支障をきたすからだ。万一、収穫予測が外れて、生産が追いつかなくなれば、それを穴埋めするのに何ヶ月もかかる。過去にも何度かショ糖や豆粉が極端に不足して、市民の食生活に重大な影響を及ぼしたことがあった。それを補正するために、農園スタッフや食糧管理委員会がどれほど腐心したことか。一枚二枚をストックするならともかく、食券を何十枚と貯め込んで賭け試合の景品にするなど、非常識にもほどがある。

アドナの胸に白い炎がめらめらと燃え上がり、このいかがわしい賭け事をどうやって止めさせたものかと一計を案じていると、不意にスティンが顔を上げ、「ウサギがいる」とアドナを睨み据えた。

「見慣れない顔だ。誰が中に入れた?」

アドナが思わず後退ると、周りの客もどよめき、場違いな白衣姿に訝しげな視線を寄越した。

「そういえば、見張りは何所に行った?」

「イゴールならトイレだよ。あいつ、シードルを飲むと、決まって下痢するんだ。一度トイレに行ったら、三十分は出てこない」

周りは面白おかしく騒いだが、スティンはビリヤード台から離れると、

「今すぐここから出て行け! 誰かに喋ったら、てめえのケツの穴に一番デカい球をぶち込むぞ!」

と別人のように凄んだ。

「食券の流用は法律で禁止されている。いますぐ止めれば通報はしない」

「流用したら、どうだってんだ。どうせ誰も口にしなかった食券だ。どう使おうと、俺の勝手だろ」

「勝手で許されることじゃない。一食を配給する為に、皆がどれほど汗を流し、心を砕いていることか。一日の統計の狂いは来月の献立に、来月の狂いは一年の生産計画に、徐々に大きく波及して、余っても、不足しても、農園には大打撃だ。君は土に種を蒔けば、ひとりでに芽が出て実を結ぶと思っているのかもしれないが、屋内農園の土壌は……」

「ごちゃごちゃ、うるせえぞ! ケツの毛をむしられたいか!」

「君こそ勝つ自信がないなら止めればいい。そのポジションを見る限り、君に万に一つの勝ち目もない。そもそも、前後を挟まれた手球にキューを当てるだけでも至難の業だろう。まして手球を後ろ向きにジャンプさせ、着地と同時にIターンさせるなど、魔術師でも無理だ」

すると周りの客が「スティン、お前、完全に馬鹿にされてるぞ」「得意のラビットを見せてやれ!」とはやしたてた。

スティンはチョークの代替品をキューの先端に擦り付けると、

「正論で人が救えるなら、今頃、みな明るい陽の下で腹いっぱい食っている。だが現実はそうじゃない。正論を説いて相手を非難するだけなら向こうに行ってくれ。目障りだ」

アドナが返す言葉もなく、その場に立ち尽くしていると、スティンは再びビリヤードグリーンに集中し、勝利の軌跡を描いた。狙い定まると、サイドレールから身を乗り出し、手球の後ろから高くキューを構えた。一体どうするつもりかと固唾を呑んで見守っていると、まるでこの世に唯一存在するニュートン力学の質点を突くように鋭くキューを振り出した。

手球は6番と8番の隙間を縫って、勢いよく前に飛び出したかと思うと、ヘッドレールのクッションに当たって跳ね返り、ウサギのようにジャンプした。8番の頭上を飛び越え、後方の7番にヒットすると、弾みで前方に転がり、8番の背面に当たった。後ろから押し出された8番は前にコロコロ転がると、6番の左側面に当たり、動力を得た6番はまるで魔法がかかったように斜め前に転がると、コーナーポケットにぽとりと落ちた*4。

周囲から歓声が上がると、アドナも信じられないような気持ちで彼の顔に見入った。

あとはスティンの独壇場だ。7番、8番、9番と、続けざまにポケットを決めると、鮮やかに勝利を決めた。元チャンピオンは屈辱に顔を歪めたが、最後にはスティンと握手を交わすと、黙ってゲーム場を後にした。

スティンはカウンターテーブルに積み上げられた若草色の食券を鷲掴みにして、ジーンズの後ろポケットにねじ込むと、

「顔が赤いぜ、ウサギちゃん。なんなら俺が相手してやろうか、後ろから」

と嘲った。周りから下卑た笑いが起きると、アドナは顔を真っ赤にして足早に立ち去った。

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石田 朋子

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