人工池と謎の病原体 ~水循環システムの老朽化と水汚染

    第一節 スネーク (2)

    STORY
    変死したジェシカの身辺調査で「家庭教師のテイラー」が浮上する。アドナはスティンの身の上を案じてジェシカの母親を訪ねるが、有力な情報は得られない。少女が「ネズミを見た」という人工池にも変わった点は見受けられないが、タワーの設計図は失われ、現行の水循環システムがどうなっているのか誰にも分からない。不安が増す中、アドナはスティンの交際相手のベラとすれ違う。

    目次

    人工池と謎の病原体 ~水循環システムの老朽化と水汚染

    スティンの市民IDが存在しない理由

    翌日、アドナは七日ぶりに最下階に降りた。少女の母親が全ての検査を終えて帰宅したと聞いたからだ。

    検査の結果、母親の健康状態はすこぶる良好で、感染症の兆候も見られない。保健所でも生活調査が行われたが、虐待や薬物使用の痕跡はなく、精神病理的な異常も見られなかった為、問題なしとの判断に至ったようだ。

    それに、あの母親にはどうしても会って聞きたいことがある。

    スティンのことだ。

    あれからどうしてもスティンの身上が気になり、同じ年頃の同僚に尋ねたところ、そんな男子生徒はまったく見覚えがないと言う。 そう言えば、アドナ自身も見覚えがない。

    いや、一度も会ったことがないのだから、覚えがないのは当然だが、それでもあれほど目立つ容姿なら、学生関連のイベントを通して、どこか記憶の隅に残っているはずだ。文化祭、弁論大会、クリスマスパーティー。学年も教室も異なるセスのガールフレンドさえ、文化祭の寸劇で『森は生きている*9』のヒロインを可憐に演じていたのが記憶に残っているのに、スティンに関してはまったくの白紙だ。同年代の学生年鑑も調べてみたが、それらしいプロフィールは見当たらず、まるで忽然とこの世に姿を現したかのようである。

    そこで禁じ手と知りながら、セスのコネクションを利用して、保健所の検診記録を調べた。出生時検診、学童検診、不妊手術の術前検査、等々。が、やはり該当のプロフィールは存在せず、食糧管理委員会が運用するデータベースにもそれらしき個人情報は見つからなかった。

    まさか市民IDが存在しない?

    そんな馬鹿なと思いつつ、有り得ない話ではない。何故なら、VIPフロアには、生まれてから死ぬまでずっとフロアの一画で過ごし、家族もなく、友人もなく、ゲルダ先生のように、ただ役割を果たす為だけに存在する住人が少なからず存在するからだ。彼等は一般市民と同じようにIDは持たない代わりに暮らしは保証され、医療も教育も受けられる。それは調理や営繕を請け負う男性も同様で、決して非人道的な扱いではない。

    それと同類なら、スティンに市民IDが存在しない理由も納得だが、果たしてVIPフロアの住人が身分を隠して、大衆相手に賭け試合に興じたりするものだろうか。彼はどう見ても体制に批判的だし、賭けで食券をせしめつつ、裏ではグリルチキンやラムステーキに舌鼓を打つタイプには見えない。

    何にせよ、あの少女が「自分の恋人はハスラーで、キスの上手な家庭教師」と吹聴していたのは本当らしく、保健所の聞き込み調査でもクラスメートの証言として記録に残されている。それが本当なら、賭け事以上に問題だ。事と次第によっては刑罰に処される。それでなくてもプールバーの常連から紅疹病疑いの患者が出たことで、保健所ばかりでなく、身に覚えのある住民が騒然としているのに、スティンにまったく嫌疑が及ばぬ訳がない。「詮索しない」という約束を早々と破った後ろめたさはあるが、やはり放ってはおけない。

    少女とスティンの関係 ~最下階の住まいにて

    再び最下階の西翼に赴き、『2483』のナンバープレートのかかった白いスチールドアのインターホンを鳴らすと、疲れきった母親が顔を出した。前より血色はいいが、警戒心と厭悪を剥き出しにして、人相もいっそう険しい。母親はアドナの顔を見ると「また、あなたなの」と眉をひそめたが、どうせ断っても、次から次に執政府の関係者がやって来ると観念したのか、細めにドアを開くと、「どうぞ」とぶっきらぼうに答えた。

    アドナは狭い室内を見回しながら、「あれから住まいに変わった点はありませんか?」と訊ねた。

    「どういうこと?」

    「台所が汚れているとか、壁に掻き傷があるとか、ネズミの痕跡を思わせるものです」

    「今、帰って来たばかりよ。何かあれば、とうに知らせてるわ」

    つっけんどんに返すと、母親は精も根も尽き果てたように、どさりとリビングのソファに腰を下ろした。

    「娘さんの部屋を見ても構いませんか」

    「どうぞ。まだ整理もしてないけど」

    子供部屋の木目のドアを細めに開くと、今は肉の腐ったような臭いではなく、消毒液の刺激臭が鼻を突く。くまなく散布する為か、ベッド、クローゼット、チェストなど、まるで物盗りみたいに中身が開かれ、少女の衣類や勉強道具まで床に散乱している。惨状に胸を痛めながらも、クローゼットの奥、机の下、チェストの裏側など、ペンライトで丹念に調べ、害獣や害虫の痕跡を探したが、これといったものは見当たらない。

    子供部屋が終わると、台所に足を運び、冷蔵庫の裏側、食器棚の中、流し台の下の排水口など、目を皿のようにして調べたが、ラットサインのようなものは何所にもなく、浴室も、母親の寝室も、清潔そのものだった。

    最後にリビングを見て回り、アドナはサイドボードに飾られた少女の写真に目を留めた。

    二十秒おきに画像が切り替わるA5サイズのデジタルフレームに、幼い頃から撮りためた少女の姿が映っている。母親と同じ、額から鼻先まですらりと伸びたギリシャ鼻をして、プールで泳ぐ姿も、アイスクリームを頬張る姿も、小さな女王さまみたいに愛らしい。近影に至っては目を見張るほど大人びて、切れ長の瞳と赤い唇が妖しいほどだ。

    あまり関連付けたくないが、紅疹病のことを脳裏に浮かべ、

    「あの……お母さんに内緒で、お嬢さんがどこかに出入りしていたということはないですか? あるいは、お母さんも御存知ない、大人の男性との付き合い……」

    「あなた、何が言いたいの」

    「調査員として、考え得ることの限りを確かめたいだけです。他意はありません」

    「そういえば、テイラーが来てたわ」

    「テイラー? もしかして、スティンのことですか? ビリヤードが得意な」

    「だったら、テイラーでしょう。あの人、本名はスティンというの?」

    「スティンも呼び名みたいです。いろんな渾名があるんでしょう」

    「若い子は皆そうね。ここじゃ何でも筒抜けだから。狭いフロアに大勢が暮らして、誰が誰と付き合っているとか、喧嘩したとか、丸分かり。だからゲームやメッセンジャーのアカウント名で呼び合うのよ。場面に応じて使い分けてね。テイラーのことも、いろいろ噂を耳にしても気にしなかった。いい人だし、母親の間でも評判がよかったから」

    「母親の間で?」

    「そうよ。子供の面倒をよく見てくれて、頭もいいから、家庭教師を兼ねて子守を頼む人が何人かいたの。私も勤め先の奥さんに紹介されて、半年前から子守を頼むようになってね。ジェシカも彼のことをとても気に入って、実の兄みたいに慕ってたわ。おかげで成績も上がったぐらい」

    「テイラーとはどれくらい親密だったんですか?」

    「あなた、何を言ってるの! ジェシカは十二歳よ。ボードゲームをする以外に、どんな付き合いがあるっていうの!」

    「そうですね……すみません」

    「もういいわ、こんな話。あれから保健所だの、市民課だの、次から次にやって来て、根掘り葉掘りの質問攻め。こっちは悲しむ暇もありゃしない。ネズミの事が気になるなら、140階の噴水広場でも行ってみたら? ジェシカはいつもそこで私の帰りを待っていたの。人工池のベンチに腰掛けながら」

    人工池と水循環システム

    アドナはエレベーターで140階に上がると、南翼の窓際にある噴水広場に向かった。

    140階の南翼には、幼稚園や小学校の他、カフェ、図書室、ミニシアター、フィットネスなど、公共施設が集中しているせいか、人通りも多く、空間も広々としている。とりわけテラコッタタイルの敷き詰められた噴水広場は見た目も明るく、近くに幼児向けのプレイグランドもあることから、市民の憩いの場になっていた。

    ジェシカの母親が勤める食堂は、130階から144階の住民が利用している公共施設で、三度の給食の他、ケーキやアイスクリームなど、ポイントに応じて、様々なデザートを楽しむことができる。業務時間は朝六時から夜十時まで。ジェシカの母親も、仕事が遅くなる時はスティンに子守を任せていたのだろう。保健所の調べでは、勤務態度も真面目で、これといった問題は見当たらないという。ぶっきらぼうな態度は気に掛かるが、娘があんな異様な死に方をすれば気持ちが荒むのも理解できる。次から次に聴取されて悲しむ暇もないというのは、その通りなのだろう。

    アドナは辺りを見渡すと、噴水広場から20メートルほど離れた所に大きな人工池があるのに気が付いた。外周水路と交わる形で設けられた人工池は、幅5メートルほどの雲形のプラスチック製で、周囲には多種多様な水草が植えられ、池の中央には小さな噴水もある。フェイクの丸太で作った太鼓橋には三人の女の子が腰を掛け、きゃっきゃと笑いながら裸足で水を掛け合っている。

    そう言えば、セスが言っていた。「人工池の水草の陰でネズミを見た」と。ひょっとして、この人工池がそうなのか。同じ年頃の子供の遊び場になっていて、母親の勤める食堂にも近い。

    アドナは人工池の側に膝を突くと、透き通った水底を覗き込んだ。

    人工池の水は、外周水路から引き入れ、池の中を循環した後、反対側の排水口から外周水路に戻される。乳白色のゼオライトを主とした床材の状態はよく、水草も青々として、水質の汚濁も見られない。

    水源は、飲料水とは別に地下300メートルから組み上げており、高性能の中空糸膜フィルターを通して有害な有機物や細菌を除去した後、農業用水や生活用水として圏内を循環させている。

    飲料水や農業用水に比べたら、外周水路の水質は落ちるが、定期的に水質検査もしており、有害物質による汚染や有機汚濁のトラブルも聞いたことがない。もし地下水が汚染されているなら、少女一人ではなく集団に異変が起きるはず。あの少女にだけ特異的に起きたということは、水ではなく、やはり別の感染症なのか――。

    アドナは人工池の側のベンチに腰掛けると、白いショルダーバッグからタブレット端末を取り出し、営繕課でダウンロードした汎用設計図を表示した。

    いつもながら、144階以降の設計図が見事になくなっているのは冗談のようでもあり、恐ろしくもある。高層ホテルに喩えれば、上階の客室の間取りは分かるが、下階の基礎構造や屋外に通じる避難経路はまったく分からないのと同じだ。万一、火事や断水になった時、上階の宿泊客はどうやって脱出し、機械を修理するのか。この七十年、これといったトラブルもなく、無事に過ごせたのが不思議なくらいである。

    アドナはジュール医師が言っていた原虫の可能性を脳裏に浮かべながら、水循環システムに関する資料を開いた。

    タワーの水循環システムは、揚水・浄水・下水処理の三つのパートからなり、最も複雑な工程を要する浄水と下水処理は地下のメカニカルフロアで行われる。

    一方、揚水管は基底部のポンプ室から地中深くに到達し、その数は百本以上に及ぶ。揚水管の種類や深さも均一ではなく、地下300メートル以深から揚水しているパイプもあれば、遠くの河川から直接水を引いているパイプもあり、機能も性質もまちまちだ。

    地下や河川から引き揚げられた水は、いくつかの濾過式ポンプを通過した後、メカニカルフロアに汲み上げられ、飲料水、生活用水、農業用水、製造用など、用途に応じて清浄化が施される。

    圏内の給水ポイントも、用水の種類によって細かく分けられ、農業用水のようにメカニカルフロアから最上階まで直接汲み上げているものもあれば、飲料水のように、いったん各階の貯水タンクに汲み上げられた後、各戸に配水しているものもある。

    また、外周水路や人工池に使われている雑用水は、飲料水ほど厳しい水質管理もされず、水中に含まれる浮遊物の質量や残留塩素濃度の基準値も緩い。一般の水質検査で問題なくても、未知の微生物が存在する可能性はある。特に外周水路の水は、別ルートから水を汲み上げ、グリーンエリアの水と混ざり合いながら、螺旋の小川のように数階層を循環しており、飲料水や農業用水ほど浄化も徹底していない。

    たとえEOSが今も機能して、地下水や河川の水質をチェックしているとしても、観測システムは化学分析がメインで、微生物学的分析はそこまで厳密ではない。地下から雑用水に紛れ込み、水中や給水設備に棲み着いた微生物が、以前とは異なる環境で自己複製を繰り返すうちに変異し、病原性をもつに至ったことも考えられる。

    ちなみに下階の外周水路を循環する雑用水は100階南翼のウォーターフォールから供給されている。100階南翼といえば、スネークが通っていたプールバーのあるエリアだ。ウォーターフォールといっても、トロピカルパークのような巨大人工滝ではなく、吸水口の周囲に大きな飾り石を積み上げ、高さ3メートルのZENスタイルの流水オーナメントに仕上げたものだ。飾り石の周囲にはバリ風グリーンも植えられ、夜にはライトアップされて、市民の憩いの場になっている。プールバーの常連なら、息抜きに立ち寄ることもあっただろう。そして、女の子たちと同じように流水に足を浸し、酔った身体をリフレッシュしながら仲間と何時間も話し込む――。

    彼は念の為、数カ所で水を採取し、植え込みの土壌や水草もサンプルケースに収めた。水遊びの小学生にもネズミのことを聞いてみたが、そんな生き物は見たことがないという。

    ともあれ、水草を中心に周辺の飾り石や観葉植物、外周水路などを写真に収め、サンプルバッグを肩に提げて立ち去ろうとした時、ガタゴトと空の手押し車を押して歩く女性とすれ違った。女性は分厚いべっ甲眼鏡をかけ、栗色の長髪をぶっきらぼうに結い上げて、倉庫係のカーキ色の繋ぎを身に付けているが、つんと澄ました横顔や艶めかしい腰つきから、あの晩、ゲーム場で鉢合わせた女性だと分かる。

    すれ違いざま、女性もちらとアドナの顔を見やり、はっと目を見開いたが、すぐに目を反らすと、早足で主塔のエレベーターホールに向かった。アドナはしばらく彼女の後ろ姿を見つめていたが、意を決したように彼女の後を追った。

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