それは生物の大量死から始まった――。ありとあらゆる動植物が死に絶え、人類滅亡の危機が迫った時、『12の頭脳』を筆頭に世界中の知性が結集し、遺伝子保存プロジェクトを立ち上げる。高緯度に超高層ビル『タワー』を建設し、動植物の体細胞と生殖細胞を持ち込んで、全生物のゲノム情報を石英ガラスの記憶媒体『ゲマトリアンクォーツ』に刻みつけるが、プロジェクトの途中で『12の頭脳』が事故死する。動揺する人々の前に現れたのは遺伝子工学の鬼才エルメインだ。エルメインは忠誠を誓う市民8000人をタワーに招き入れ、≪隔壁≫で仕切って、半閉鎖式生命圏≪天領≫を作り出す。だが、その時を境に設計図は失われ、タワー全体のITシステムも機能不全に陥った。人々は≪天領≫に閉じ込められたまま、外の状況を知ることもできず、物不足に怯えている。『エデンの庭師』こと農園管理人のアドナは、市民の糧を繋ぐべく、ゲノム編集による農作物の栽培...
作品のあとがき ~性転換手術を受けたAさんのエピソード
私がAさんに出会ったのは、新米看護婦として外科病棟に勤務していた頃のことです。 Aさんは二十代男性で、外国で膣形成術を受けたものの、膣と直腸の間に瘻が生じ、腸の内容物が膣に漏れ出すなど様々な問題が生じた為、手術目的で外科病棟に入院されました。 幸いAさん自身は健康で、既往歴もなかったことから、瘻を縫合すれば、すぐに軽快するだろうとの診断。術式もさほど難しいものではなく、入院予定は二週間でした。 しかし、膣形成術を受け、見た目も女性のようなAさんを病棟内でどのように遇すればいいのか、看護側には戸惑いもあります。 病棟カンファレンスを通じて、「病室はトイレ付きの個室」「患者名の表記は戸籍に準じる」「共同浴室の使用時間を特別に設ける」「基本、女性として接する」等々、様々な取り決めがなされました。...
楽園
無数の花に生まれ変わって、永遠に生きたい
その頃、アドナとスティンはカプセル・エレベーターの中で身を寄せ、ドア上方のインジケーター・ランプがどんどん下階に向かうのを固唾を呑んで見守っている。 ここから先の展開は想像も付かないが、今日までの自分とガーディアンを信じて、真の楽園を目指すだけだ。幾多の苦難を経て、ようやくここまで辿り着いた達成感が徐々に胸に広がりつつある。 そうして、ようやくエレベーターが旧司令部に到着すると、二人は顔を見合わせ、 「いよいよだな」 「うん」 と息を弾ませてキャビンを降りた。 そこは3階と同じように他から隔絶された小さなエレベーターホールで、右と左の両側に全く同じ型の鋼製ドアがある。スティンが向かって右側のドアを開けようとすると、「そっちはメインフレームだよ!」とアドナが叫んだ。 「ガーディアンとの約束だ。開けない方がいい」 「そうだった……忘れてた」 スティンは冗談とも本気ともつかぬ口調で答えた。...
医療と救済
愛する人を助けてこその医療
同じ頃、総合病院の外来は急患でごったがえしだ。感染騒ぎと停電でパニックに陥った市民が「頭が痛い」「胸が苦しい」と押し寄せたからだ。多くは不定愁訴だが、中にはラミアプラズマ感染症や本物の疾患も含まれる恐れがある為、決して油断はできない。 しかし、朝から外来患者が倍増の上に通常業務も重なって、現場はてんてこまいだ。学生も現場に駆り出され、診察介助にあたっている。だが、それでも人手が足りないので、やむおえず医学生も初診に携わることになった。初診といっても、確定診断するのではなく、問診や視診で「感染者」「感染疑い」「それ以外の重症者」「軽症者」の選別を行い、個々に応じた診察室に患者を割り振る役目だ。 新たな体制で診療を始めるにあたって、ジュール医師はTVカメラを通じて医療者全員に訓戒した。...
ガーディアンの告白
『神の遺伝子』をもつ娘とマーテルRNA
アドナとスティンを乗せたエレベーターがシステム監視室に到着すると、二人は顔を見合わせ、真っ暗な室内にそろそろと踏み出した。まだ幾つかのコンピュータ機器は通電しているのか、ハードウェアのステータスランプやコンソールのバックライトが星のように点滅している。 スティンがLEDライトを灯し、マルチモニターに面した扇形のメインコンソールを注意深く照らした時、アドナが「あっ」と小さく叫んだ。 メインコンソールの座席の近くに、誰かがうつ伏せで倒れている。まるで何かを手に取ろうとするように、右腕をいっぱいに伸ばして。 「ヴィクトルだ」 スティンがつぶやくと、 「ヴィクトル・マジェフスキー?」 とアドナも声を震わせた。 「そうだ。バイオクリーンルームで深手を負った後、必死の思いでここに辿り着き、遠隔操作でGEN MATRIXの接続を断ち切った。設計図の分解も、ゲマトリアのエラーも、彼の仕掛けだ」...
IT室の攻防 ~サーバールームの設計図とスティンの駆け引き
サーバールームとスティンの駆け引き
小型エレベーターが3階南翼の西側コーナーに到着すると、ヘクターは二人の背後に交互にエアガンを突きつけ、「アドミニストレータ室に行け。IT室の突き当たりだ」と急かした。 三人がIT室に姿を見せると、システム復旧作業に追われるスタッフも蒼然となり、その場に立ち尽くした。 「エルメイン先生殺害の容疑者だ。用事が済んだらセキュリティ室に連行する。これからアドミニストレータ室で重要な作業をするから、下級技師は全員退室しろ」 技師達がただちに退室すると、三人はさらに奥に突き進み、アドミニストレータ室のドアを開いた。中にはシャルロットともう一人の上級アドミニストレータが居たが、ヘクターは片方を追い払うと、シャルロットにメインコンソール席を空けるように命じた。 「何のつもりなの」 シャルロットがそばかすだらけの小顔をしかめると、 「こいつが最高管理者権限を書き替える。お前は黙って見てろ」...
エルメインの最期
ベラの逆襲と暴かれる真実
《このシステムは六十秒後に自動的に再起動します。中止する場合は、管理者コードを入力して下さい》 「どういうことだ?」 エルメインが白目を剥くと、 「ITシステムが再起動するみたいです」 技師が他人事みたいに答えた。 「そんなことは分かっている! 何が起きてるのかと訊いてるんだ!」 「ですから、圏内のITシステムが再起動を……」 「どけっ!」 エルメインは技師を突き飛ばすと、自らワーキングチェアに腰掛け、ラップトップと向かい合った。 何度も、何度も、自身の管理者コードを入力し、Enterキーを押すが、再起動の動きは止まらない。生体認証装置を接続し、指紋、音声、虹彩、ありとあらゆる方法を試すが、《認証エラーです。正しい管理者コードを入力して下さい》を繰り返すだけだ。 「そんな馬鹿な……有り得ない」 エルメインは猛然とスティンに歩み寄ると、襟首を掴んだ。 「貴様、何をした!」...
診察室の死闘
アラル文字のソースコードとITシステムの再起動
翌朝。 スティンは朝食を食べる間もなく、『検査』と称して何処かに連れて行かれた。その後、診療所の職員がアドナの朝食を持ってきたが、アドナは一人分の食膳をじっと見つめながら、得も言われぬ恐怖に身を震わせた。 だが、どんなことがあっても、最後まで諦めないと約束した。あの夜のプレーと同じように、奇跡のジャンプショットで最後には勝利すると信じたい。 アドナは深呼吸すると、いつになく活力がみなぎっているのに気が付いた。男性ホルモンの影響か、それとも神の遺伝子か。夕べまで病み上がりでふらふらしていたのに、今は意識も清明として、身体の隅々まで細胞が息づいているように感じる。...
スティンとアドナの再会
生きよう。どれほど酷い目に遭っても、最後まで諦めるな。
あれから三週間。 これといった動きはなく、周りも平静だ。診療所のスタッフも、業務の合間に詰め所でぺちゃくちゃお喋りしているところを見ると、そこまで深刻な事態でもなさそうだ。 それにしても、アドナはどうしたのだろう。こんな時に虫のいい話だが、彼だけはスティンの身を案じて、警察や執政府に働きかけてくれるという期待がある。だが、いまだ何のアクションもないところを見ると、交渉に失敗したのか、あるいは脅されて身動きがとれないか。まさか、とうに殺害されたわけではあるまい? スティンは寝返りを打つと、アドナが初めてゲーム場に訪れた時のことを思い返した。 あの夜も、今回も、素知らぬ振りで通り過ぎれば、もっと違った展開があっただろうに、あの眼差しのせいで手元も狂いっぱなしだ。いつから俺はこんなセンチメンタルな人間になったのだろう? だが、こんな状況に陥っても、少しも後悔してない自分がいる。...
スティンとルルの別れ
天上裏の血痕とバイオクリーンルームの秘密
診療所の一室に軟禁されてから、三週間。 スティンは日課にしている筋肉トレーニングを終えると、軽くシャワーを浴び、病室のベッドにごろりと横になった。 天井の吊り下げ式TVからは延々と歌謡番組が流れ、他のチャンネルに切り替えることはできない。これも一種の拷問だと呆れながら、リモコンでTVと室内照明を消すと、ベッドサイドのナイトランプに切り替えた。 毎日、テレビ電話のカメラ越しに尋問は続いているが、いつも同じことの繰り返し。「父親は誰か」「いつからネットワークに侵入しているのか」「他に協力者はいるのか」「どうやって身分証を改竄したのか」等々。彼が自分の権利を主張し、それ以外のことは口を閉ざすと、相手もそれ以上は追及せず、その代わり、何時間もカメラの前に座り続けることを強いた。取り調べもやる気があるのかないのか、厳しい追及もせず、適当に泳がせているところがかえって不気味でもある。...
遺伝子センターにて
アドナの自己犠牲と病原体の特定
「だめだ、だめだ! こんな検体採取の仕方で遺伝子の検出などできるわけがない!」 遺伝子センターの検体受付でフロム所長が声を荒らげた。 「便培養の容器を何時間も室温で放置した挙げ句、嫌気ポーターの容器を傾けて、内部の炭酸ガスを逃すとは。容器の底のインジケーターが変色してるじゃないか。こんなものを持って来られても、誰にも、どうすることもできない。君たちは遺伝子センターを便利屋か何かと勘違いしてるんじゃないか!」 若い臨床検査技師はしょぼんと項垂れながらも、 「しかし、すぐに検体を届けたくても、エレベーターが混み合って身動きが取れないんです。各階で停止して、その度に待たされるし、僕たちが検体ボックスを持っているのに気付くと、『病気をうつす気か、降りろ!』と怒鳴る人もいて……」 「馬鹿馬鹿しい。だったら、主塔のエレベーターの一つを医療用に確保すればいいじゃないか」...