神を笑うなかれ 修道院ゴシックホラーの傑作『薔薇の名前』 ショーン・コネリー主演

薔薇の名前
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記事について

ゴシックホラーの異色作。高邁な修道僧ショーン・コネリーと若きクリスチャン・スレーターが厳格な修道院で起きる連続殺人事件に挑む。殺害の理由には中世キリスト教における『笑い』が秘められていた。なぜ僧は笑いを禁じられたのか、笑いと神にどんな関係があるのか、映画のスクリーンショットを交えて解説するレビューです。

この記事はネタバレしません。作品の核となる「笑い」に関するコラムです。

目次 🏃

『薔薇の名前』(Le Nam de la Rose)の魅力

女というものは本来邪悪だが
神によって至高のものとなる
その時 女は恩寵の担い手に変わるのだ
げに美しきは聖母の胸
世に比ぶものなき 尊きもの

聖母像を礼拝する修道士と見習い僧アドソのやり取り

作品の概要

ゴシックホラーの傑作『薔薇の名前』は、1986年、ウンベルト・エーコの同名小説をベースに、1986年、フランス・イタリア・西ドイツの合作で製作されました。

連続殺人の謎に迫る修道士「ヴァスカヴィルのウィリアム」をショーン・コネリー、ウィリアムの愛弟子で、本作の語り手でもある、見習い僧アドソを、若きクリスチャン・スレーターが演じ、中世がそっくり再現したような舞台セットと緻密な脚本で、高い評価を得ました。

メジャー大作ではありませんが、ショーン・コネリーの圧倒的な存在感に加え、衣装、インテリア、食器、本のページに至るまで、完璧に再現された美術と、現代ミステリーに引けを取らない謎解き、(言葉は悪いが)見た目も言動も薄気味悪い修道士たち、中世キリスト教精神に基づく犯人の動機など、全てにおいて完成度が高く、今なおカルトな人気を誇る80年代の名作です。

物語は、北イタリアの修道院に派遣されたヴァスカヴィルのウィリアム修道士と愛弟子アドソが、最近起きた若い修道士の死亡事件を独自調査するところから始まります。雪の上に残った足跡から、誰かが遺体を引きずったと推測し、さらに調査を進めるうち、第二の殺人が起きます。最初に死んだ修道士が、写本室で挿絵を描く仕事を担当していたことから、ウィリアム修道士は事件と写本に深い関係があることに注目し、隠された図書室を調べ始めます。若い修道士が残したギリシャ語の暗号を手がかりに、真相に近づますが、異端審問官の一行がやって来て、農民の少女と秘かに接触を図っていたサルヴァトーレの裁きを始め、ウィリアムとアドソも巻き込まれます。

果たしてウィリアムスは暗号の謎を解き、真犯人を突き止めることができるのか。

そして、有罪判決されたサルヴァトーレと農民の少女を救うことができるのか。

ショーン・コネリーのジェームズ・ボンドが中世世界に転生したようなミステリーで、最後まで展開が読めないプロットも秀逸。

ミステリー好き、ゴシック好き、またキリスト教世界観に興味のある人も大満足の逸品です。

薔薇の名前 ブルーレイ [リージョンフリー 日本語字幕収録](輸入版)
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説明

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【画像で紹介】 作品の見どころ

本作の醍醐味は、なんと言っても、ショーン・コネリーの役作りでしょう。
中世修道院の衣装がぴたりとハマって、このまま中世に転生してもまったく違和感がないほど。
台詞回しも、英国俳優らしく非常に綺麗で、厳かな修道士のイメージにぴったり。

ウィリアム修道士に付き従う見習い僧アドソも、中世に迷い込んだような、みずみずしいチェリーボーイで、微妙に回りから浮いているところがポイント。
アドソ(クリスチャン・スレーター)だけが現代的な風貌で、物語の立ち位置として、非常に敵役だと思います。

ヴァスヴィカルのウィリアム修道士を演じるショーン・コネリー

クリスチャン・スレーター ショーン・コネリー

また、本作の特徴は、(本当に言葉が悪いけど)、ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーター以外に、まともな見た目の出演者が存在しないこと(^_^;

盲目の老僧ホルヘを筆頭に、そろいそろって、まるで妖怪物語のよう。(スミマセン・・)
特殊メイクの効果もあるかもしれませんが、よくこれだけ奇怪な容姿の役者を集めたな・・とつくづく。

不気味なせむし男

謎のキャラクター

浴槽の溺死体

本作の素晴らしい点は、小物一つに至るまで、中世が完璧に再現されている点。

とりわけ、本作の要所となる写本室と写本の美しさとリアリティは目を見張ります。

これも全て手作りだそう。スタッフの並々ならぬ情熱を感じます。

修道院の図書館

美しい中世の写本

美しい中世の写本

思えば、ネットもテレビもない時代、知識を伝えるツールといえば『写本』でした。

修道僧や専門家が、原本を一言一句、細部の装飾に至るまで、丁寧に写し取り、代々伝えていました。

その労力たるや、想像を絶するものがあります。(ちなみに私は般若心経の写経でさえ、やり遂げることが出来なかった)

また、写本は、必ずしも『真実』だけを伝えていたわけではありません。

中には『科学』という、キリスト教徒真っ向から対峙する知識もあります。

時の権力者に都合のいい情報もあれば、世の監修に逆らうような哲学もあったでしょう。

それらを秘かに写し取り、回し読みしながら、当時の人々は知恵を磨き、思考を深め、新たな価値観を生み出していったのかもしれないですね。

神を嗤うなかれ : なぜ「笑い」はタブーとなったのか?

そんな中世修道院において、絶対にタブーとされたものがありました。

それは『笑い』です。

修道院には「沈黙の掟」があり、むやみに笑ってはならない。

なぜなら、笑いは神を侮辱し、信仰を破壊するものだからです。

そして、この修道院にも、笑いは堕落に繋がるという厳しい戒めがあります。

笑いは禁忌

ウィリアム修道士とアドソが写本室を訪れた時、若い写本士の一人が、ヒャハハと噴き出します。

すると、盲目の老僧ホルヘが激高します。

「修道士たるもの、笑いは慎みなされ!」

そして、老僧はウィリアムに振り返り、

「ウィリアム君、気を悪くせんでくれ。何がおかしいのか、笑い声が聞こえたので」

と言うと、ウィリアム修道士が答えます。

「聖フランチェスコは笑いを認めておられた」

しかし、老僧は眉をひそめ、

「笑いは悪魔の風。笑いは人間の顔を歪めさせ、猿の顔にしてしまう」

ウィリアム修道士は反論します。

「猿は笑わない。笑うのは人間だけだ」

「キリストは決して笑わなかった」

「そうかな」

「笑ったという記録はない」

ウィリアム修道士はなおも反論します。

「逆に記録もまた ない。
賢者は異教の徒をからかうのに喜劇を利用した
聖マウロは熱湯責めにあった時 風呂がぬるいと文句を言い
スルタンは熱湯に手を入れた」

「聖人はそんな子供じみた真似はしない
声も上げず じっと苦痛に耐えられたのだ」

「アリストテレスは『詩学』第二部の中で 喜劇は真実を伝えると」

「読んだのか」

「いや 何世紀も紛失したままで」

「はじめから書かれなかったのだ 神は無益なものは お望みにならん」

と、笑いに対する老僧の見解が述べられます。

*

本来、幸福の象徴ともいうべき『笑い』が、なぜ禁忌なのか。

『笑い』には二種類あります。

幸福な微笑としての『笑い』と、侮蔑や嘲りとしての『嘲笑』です。

この場合、禁じられているのは、『嘲笑』と考えれば分かりやすいです。

最初は、楽しい気持ちで笑っていても、その笑いが嘲り=嗤いに変わることもある。

漫才の笑いも、学校の教室では、いじめになるのと同じです。

笑いを許せば、だんだんエスカレートして、権威ある者も笑いの対象として貶めるようになります。

たとえば、学級崩壊がいい例です。

教師がどれほど熱心に「真面目に学ぼう」「級友を思いやろう」と真っ当なことを教え諭しても、子供が「ださい」「遅れてる」「三流大卒のくせに」と馬鹿にして茶化せば、正しい教えも意味をなくします。

教師の権威が失墜すれば、生徒も好き勝手するようになり、学級崩壊に至ります。

キリスト教もそれと同じです。

聖職者をおちょくり、神そのものをジョークにすれば、信仰心など育つはずがありません。

どれほど尊い教えも、笑いの対象にすれば、まったく意味を成さないからです。

中世の修道院が『笑い』を禁じた背景には、徹底した教育管理、権威の維持など、様々な思惑があったでしょう。

しかし、最大の動機は、神と聖書、そして聖職者の神格を絶対的なものにすることだったと思います。

学級において、教師を敬うことが、教育において不可欠なのと同様です。

権威あるものや聖なるものを笑いの対象とし、何を言っても、おちょくるようになれば、神の言葉など、心に響くはずがありません。

*

一方、どこまでがユーモアで、どこからが愚弄なのか、その線引きも難しいものです。

最近では、特定宗教の風刺画を描いた出版関係者がテロリストに襲撃される事件がありましたが、あれもどこまでがユーモアで、どこからか愚弄なのか、見分けもつかないほど際どいものでした。

そのように、線引きが難しいものは、「最初から全て禁忌とする」という方策が取られたとしても不思議はありません。

そう考えると、ハリウッド映画で、一般の役者が、堂々とイエス・キリストや聖家族を演じられるようになった現代においては、何事も自由といえば自由だし、何人の権利も認められる高度な社会に違いありません。(ベン・ハーの時代には、イエス・キリストの顔出しは禁忌だった)

反面、尊ぶべきものまで笑いの対象にし、真面目に考えようともしない『神なき時代』でもあります。

現代における神とは、真理であり、導き手であり、人として生きる道です。

自由は、人間に平等や幸福をもたらす重要な要素に違いありませんが、多様な価値観が存在し、生き方の選択肢が増えれば増えるほど、人の悩みも、複雑かつ救いがたいものになっていきます。以前ならこの程度で済んだことが、この程度では満足しなくなるからです。

そのことについて、『原罪』 = 神の掟に背き、知恵の実を口にしたことから楽園を追放され、 そこから人間の苦悩が始まった――と考えた昔の人々は、私たちが想像する以上に、人間の脆さや欲深さを理解し、恐れていたのかもしれません。

*

映画『薔薇の名前』で描かれる中世は、修道院も、台所も、写本室も、全てがおどろおどろしく、みなが恐怖政治に怯え、異端者が火あぶりになるような暗黒の時代です。

それだけに、禁を破ってでも、「真実を知りたい」「物事の本質を理解したい」という知的な欲求もひとしおだったでしょう。

地下の奥深くに秘められた写本の数々にウィリアム修道士が目を輝かせる気持ちは非常によく分かるし、最後の行動にも納得がいきます。

しばし中世の世界に浸りたい方、本格ミステリーが好きな方、またキリスト教ものに興味のある方も、一度、ご覧下さい。

おまけ

「お前の本当の目的は何だ」

「書かれなかった”と言われた本です
喜劇に関する書物です
笑いと同様にお嫌いな喜劇の
多分 古写本が一冊だけ残っているはずです
アリストテレスの「詩学」第二部」

「お前はきっと素晴らしい私書になれたろうな」

”俗悪な人間の滑稽さの中に真実を見出す
それが喜劇である
彼らの欠点もよしとせよ”

誰かにこっそり教えたい 👂
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