生きることに悩む高校生への回答
○月○日
何のために
どんなふうに
生きればよいというのだ
オレがいなくても
オレが死んでも人間は動きまわる
時間はどんどん過ぎ去って
再び帰ることはない
あのときは幼かったが
一所懸命生きていた
食うために生きろというのか
生きるとはどういうことか
いたずらに老い、死んでいくのか
(岩手・○○茂美)
寺山氏の回答『書く前に走れ!』
きみは、この日記を書く前に100メートルを全速力で走るべきだった。
ローリングストーンズを100回聞くべきだった。見知らぬ女の子に話しかけてみるべきだった。「あしたのジョー」の10年後を創造するべきだった。
ぼくは、「生きる」などということを10行ぐらいで書いて悩むような軽薄さを好まない。
【コラム】 言葉にすると思考も終わる
思考というのは、言葉にした瞬間、終わってしまうものだ。
心のもやもや、いらいらを、文章化し、誰かに見てもらえば、それで一旦落ち着く。
落ち着いてしまえば、後はほとんど考えない。
一時的にせよ、頭の中もすっきりして、それ以上考えたり、自問する必要がなくなるからだ。
昨今、SNSが人気なのも、こうした自浄作用があるからだろう。
手軽に送信して、誰かに見てもらえたら、一瞬でも落ち着く。
誰かに共感してもらえたら、尚よい。
だが、その後は?
自分の考えをじっくり検証し、正したり、深めたりすることがあるだろうか。
恐らく、多くの人が書きっぱなし。送信した時点で満足して、それ以上、考えることもなければ、自問することもないのではないだろうか。
気持ちや考えを言葉に表すことは、たとえ10行の詩でも、それなりに価値のあることだ。
もやみたいな想念に形を与え、論考することで、結論への道筋ができるし、新たな自分の一面に気づかされることもある。
10行の詩にもドラマがあって、書き始める前と、書き終わった後では、自分自身もどこか違っているだろう。
だからといって、何でも言葉に吐き出せば、それで完結というわけではなく、実際は、そこから思索の度が始まる。
何故なら、言葉は手がかりであって、答えそのものではないからだ。
地獄が何処にあるのか分からなくても、地獄の門を作れば、その先が地獄になる。
それと同じで、言葉は問題の存在や未来の方向を明確にするだけで、そこがゴールではない。
「今晩、何を食べようかしら」と言葉にしても、お腹はふくれないのと同じで、言葉を通して「空腹の自分」を認識し、その解決策として買い物にでかけ、調理して初めて空腹も満たされる。
いわば、言葉は「今、この瞬間の自分自身」を可視化し、そこから先の道筋を明確にして、合理的に行動する為の手段であって、言葉そのものが空腹を満たしてくれるわけではないのだ。
それは空腹に限らず、悩み、迷い、疑問、全てにおいて同じこと。
書いて満足する悩みなら、最初から悩みというほどのものではないし、作品として完結すれば、気持ちもそこで冷める。
心から真理を目指すなら、「書かない」という選択肢も必要で、本物の思考は、「書かない時間」にこそ育まれるのではないだろうか。
10行詩の高校生に対し、寺山氏は「ぼくは、「生きる」などということを10行ぐらいで書いて悩むような軽薄さを好まない」と答える。
それは作品としての10行詩がくだらないのではなく、「生きる」ということについて知りたいなら、詩を書く前に、まず生きろ、という話だろう。
それは100メートルを全速で走ることだったり(短距離走の意味でなく、何事も全力で取り組めということ)、見知らぬ女の子に話しかけてみることだったり、ひたすら実践あるのみ。
詩に書けば、一瞬、心のもやもやはすっきりするだろうが、そこで満足して、後は何も考えないのではないだろうか。
同時に、頭の中で語る人生と、実際に生きた人生は、大きな違いがあるし、本当に人生を生きる者には「生きるとは何?」という問いかけもない。
今目の前の洗濯物をたたむこと、通勤電車に乗ること、知人にお礼の手紙を書くこと、ワンコを散歩に連れて行くこと、全てが「生きる」ということであり、その中での充実感、挫折感、虚無感、高揚感は、10行そこらで説明できるものではないからだ。
そもそも、生きるのに忙しい者が、詩情にひたって、生きるとはどういうことかなどと詩に書くこともないだろう。
そう考えると、誰もが気軽に投稿して共感を得られる現代のSNSは、言葉も、思考も、軽薄になりやすく、そこで思考が止まってしまう危うさもある。
会わない時間が愛を育てるように、現代人も書きたい、繋がりたい衝動から一歩離れて、一人じっくり考える時間を大事にした方がいいのではないだろうか。