精神的な親殺しにしくじると、子供は自分の死を考えるようになる。
最悪、肉体的な死をもって、激しい苦悶にけりを付けようとするだろう。
だが、それは本当に親の望みだろうか。
子供を永久に喪っても、貫くべきものがあるのだろうか。
*
子供は、時に究極の選択を迫られる。
父王に向かって棍棒を振り下ろす時、あなたは自らも死ぬような感覚を覚えるだろう。
その孤独と、ぎりぎりの決意。
親という絶対的な規範に背く恐ろしさと裏切りの気持ちに、胸の中も千々乱れ、自分が死んだ方が楽だと感じることもあるかもしれない。
だが、死んではいけない。
たとえ親と衝突しても、あなたは自分自身を諦めてはならないし、親の価値観と自分自身を秤にかければ、これから未来に生きていく、あなた自身の方がはるかに重いに決まっている。
親に人生の主導権を握られるな。
親不孝の脅しに屈するな。
誰の中にも、多かれ少なかれ、そうした葛藤が存在することを人間として理解し、文学として表現したのが寺山修司である。
「毛皮のマリー」を読む時、最後には母の腕の中に帰っていく息子の姿を見て、あなたは慄然とするだろう。
「他人の母親を盗みなさい」だの「母のない子」だの、ぎょっとするような文句に目が点になり、その罪深さを自らの中に再確認するかもしれない。
だが、それもまた人間の一面であり、目を背けて否定するよりは客観的に見ろと促すのが寺山文学である。
そして、いつしか全ての葛藤を通り抜け、自らも親となった時、若き日の迷いの正体を知るだろう。
この人も、同じ傷に苦しみ、同じ辛酸を舐めてきたのだと分かれば、あなたが独りぼっちのボクサーではないことにきっと納得するはずだ。
*
『オイディプス王』と精神的な親殺しについてに関連するメモ書き
初稿 2017年4月?