【12】 神がなければ全てが許される? イワンの苦悩もいつか解決される / ゾシマ長老の励まし

カラマーゾフの兄弟 イワン 善行はありえません
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長男ドミートリイと父フョードルの金銭問題を解決するために開かれた会合で、イワンは同席した神父らと宗教論を戦わせます。有名な「神がなければ全てが許される」とは、どういう意味でしょうか。イワンの主張とゾシマ長老の温かい励ましから、イワンの抱える心の問題とその救いについて解説します。

第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』 (6) どうしてこんな人間が生きているんだ!
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神がなければ全てが許される?

【11】『どうしてこんな人間が生きているんだ!』 なぜゾシマ長老は大地に頭を垂れたのかの続きです。

第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』 (6) どうしてこんな人間が生きているんだ! には、もう一つ、印象的な場面があります。

それは有名なイワンの思想「神がなければ全てが許される」に関する問答がドラマティックに描かれている点です。

原訳、米川訳など、複数の訳文が存在する為、解釈も様々ですが、江川訳では、「神がなければ全てが許される」とは言及しておらず、「もし人類が抱いている不死についての信仰を根だやしにしてしまえば~人肉嗜食さえも許される」「不死がなければ、善行もありません」といった形で述べられています。

つまり、「不死」「罪」「信仰」といったキリスト教的概念をひと言で表せば「神」に相当し、その神がなければ、罪もないし、何をしても全てが許される、という意味です。

イワンの論点は、前述の「かくあらせたまえ、アーメン!」に詳しく記載されていますが、キリスト教会と国家の在り方に関する考察から始まります。分かりやすく喩えれば、「パンを盗んだ泥棒は、国家の法律においては犯罪者として裁かれるが、キリスト教においては赦される。その矛盾を現実社会でどう解決するのか」という問いかけです。

パンを盗んだ泥棒が心の底から罪を悔いれば、キリスト教的には救われますが、法で定められた罰則には従わなければなりません(罰金や禁固)。しかし、その為に、かえって心をこじらせ、人生をもっと悪くしてしまう人もあるでしょう。そういう現実に対する救済において、キリスト教会はまだまだ国家に及ばないし、また、国家がなんでも赦してやっていたら、お金を騙し取られたり、家族を殺されたりした人は、まったく報われません。ゆえにこの問題は永遠に平行線で、人と社会の苦悩もこの点にある、というのが、イワン的な考えなんですね。

それを端的に表した台詞が、「うかがいますけど、いったい破門された人間がどこへ行けると思います? なにしろそうなれば、そういう人間は、現在のように人間社会からだけでなく、キリストからも離れなくてはならなくなるんですからね。罪を犯すことによって、その男は、たんに人間社会に対してばかりでなく、キリストの教会にも叛(そむ)くことになるんですからね」です。

もっと詳しく知りたい方は、【10】 キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい ~ゾシマ長老とイワンの問答よりを参考にして下さい。

その上で、家族の会合に居合わせたミウーソフは、利口なイワンに敵愾心を燃やし、次のような嫌味を口にします。

「もう一度お願いしますが、とにかくこの話はやめにしていただきたいですね」ミウーソフがくり返した。

「そのかわり、みなさん、イワン君その人について、たいへん興味深い特徴的な逸話をもうひとつ紹介しましょう。

つい五日ばかりのことですが、当時の上流婦人たちを主にした集まりの場で、イワン君は堂々と継ぎのような説を主張されたものです。

つまり、この地上にはどこを探しても、人間として自分と同じ人間への愛を強制するようなものは断じて存在しないし、また、人間は人類を愛せよというような自然の法則ももともと存在していない、で、もし現に愛が存在し、これまでも地上に愛が存在したとすれば、それは自然の法則によるものではなくて、ただただ人々が自分たちの不死を信じていたからにほかならない、というのですね。

さらにイワン君はそれにつけ加えて、いわばカッコにはさむという形で、この点にこそ自然の法則の全本質があり、したがって、もし人類が抱いている不死についての信仰を根だやしにしてしまえば、人間のもつ愛ばかりか、現世の生活をつづけて行くためのいっさいの生命力もたちどころに涸渇してしまうだろう、と言われました。

そればかりじゃない、そのときには、不道徳などということはひとつもなくなって、すべてが許される、人肉嗜食さえも許されるというのです。

いや、まだ先がありましてね、イワン君はその話の結びに次のように主張されたものですよ。

要するに、いまのわれわれのように、神も信じなければ自分の不死も信じない個々人にとっては、自然の道徳律がただちにこれまでの宗教的な道徳律とは正反対のものに変り、悪業にもひとしい極端なエゴイズムが人間に許されるばかりでなく、それこそがその状況のもとでは不可欠な、もっとも合理的な、むしろもっとも高潔な活路として認められることにさえなるはずである、というのです。

このような逆説から推して考えれば、みなさん、この愛すべきエキセントリックな逆説家のイワン君が現に唱導し、今後とも唱導しようとしておられる他のすべての議論についても、容易に結論を出せるのじゃないでしょうか」

イワンの論旨、「神も信じなければ自分の不死も信じない個々人にとっては~」のくだり。

たとえば、仏教では、殺生や煩悩の戒めとして、動物性の食材を避ける考えがありますね。(「精進料理」のWikiを参照

しかし、仏教徒でなく。関心もない人には、何の意味もないことですし、焼き肉の食べ放題も良心が痛みません。ゴキブリだって、シュっと一噴き、何も知らない人は、お寺の境内をタンクトップやホットパンツで歩き回ったりします。

それを罰当たりと思うのは、あなたが敬虔な仏教徒であり、経典でも、これはダメですよ、と定めているからです。

でも、仏教と無関係な人には、罪も罰もありませんよね。

キリスト教もそれと同じ、姦淫や盗みを「罪深い」と思うのは、宗教的感情に根ざしているからです。聖書にも書いてあるし、教義でもそのように定められています。

でも、キリスト教と無関係な人には、どうでもよい話です。それがエスカレーションすれば、「盗んでも、殺しても、エエじゃないか」と思うでしょう。

イワンの危惧もそこにあり、「人類が抱いている不死についての信仰を根だやしにしてしまえば、人間のもつ愛ばかりか、現世の生活をつづけて行くためのいっさいの生命力も涸渇し、人肉嗜食さえも許される」「神も信じなければ自分の不死も信じない個々人にとっては、極端なエゴイズムが許されるばかりでなく、それこそがその状況のもとでは不可欠な、もっとも合理的な、むしろもっとも高潔な活路として認められることにさえなる」となる訳ですね。

詐欺も、殺戮も、自分がイイと思ってるんだから、エエじゃないか、という究極のエゴイズムです。

しかし、本当にそんなことが許されれば、地上は悪の巣窟となり、たちまち平和は失われるでしょう。

答えは誰が見ても明らかですが、一方、イワンの指摘にはもっともな点もあります。

それは「宗教的に許されない人・罪深い人」は、どこで救いを得ればいいのか、という話です。

怒りにかられたドミートリイや、下品きわまりないフョードルもそうですが、神に懐疑的になり、この世に生き場所をなくしたイワンも、その中の一人です。

つまり、人を救うはずの宗教が、逆に、罪なき人に罪悪感を植え付け、余計な苦しみを引き起こしているわけですね。

それに対して、神はどう答えるのか。

イワンの葛藤をより詳しく描いたのが、「料亭みやこ」でイワンとアリョーシャが語り合う場面です。「大審問官の答え」と言った方が分かりやすいかもしれません。

参考記事 ⑩ 大審問官=悪魔の現実論を論破せよ 《カラマーゾフ随想》 原卓也訳

全体を通して見れば、ドストエフスキーもまた、現実の不条理と戦う作家であり、その答えをキリスト教的人道主義の中に見出そうとしたと言えるのではないでしょうか。

ニーチェが生の哲学を通して、自己超克を説き、ひたすら己の内側に救いを見出そうとしたのと対照的です。

あえて答えを言うならば、「大審問官のアリョーシャのキス」がドストエフスキー的回答の全てと感じます。

ドミートリイの曲解 ~罪がなければ、悪業も許される

一方、イワンとパイーシイ神父のやり取りに極端に反応したのがドミートリイです。

彼はパイーシイ神父に対して、次のようなことを確かめます。

「ちょっと」意外なことにドミートリイが突然大声を出した。「聞きちがえのないように念を押しておきたいのですが、『あらゆる無神論者にとっては、悪業が許されるばかりか、彼が置かれた状況からの必要不可欠にしてもっとも賢明な活路と認められなければならない!」こうなのですね?」

「そのとおりです」パイーシイ神父が言った。

「覚えておきましょう」

この箇所だけ見れば、「だったら、オレが親父を殴り殺しても、罪にはならないわけだな」と言いたげです。

しかし、ドミートリイの言葉には様々な含みがあり、父親との金銭の悶着はもちろん、情婦グルーシェンカ、および婚約者カチェリーナとの愛憎、カチェリーナの親族に対する金銭問題の負い目、また日頃の素行(飲酒、放蕩、喧嘩)など、様々な「悪業」が浮かびます。

イワンが宗教的に葛藤するタイプなら、ドミートリイは自身の因果応報によって苦労を抱え込むタイプであり、上記のような考えが、彼の救いになるとも思えません。

ドミートリイは、ドミートリイなりに、活路を見出そうとしており、それは祈りや赦しではなく、現実的に借金を返済し、グルーシェンカとカチェリーナとの三角関係に決着を付けることです。

そして、この中で、ドミートリイだけが「現実の問題」を抱えています。(アリョーシャやイワンの苦悩は、自分自身の借金や色恋ではない)

ある意味、ドミートリイに必要なのは、宗教的善悪を説く助言者ではなく、現実的に問題を解決してくれる士業の専門家だと思うのですが、どうやら人に恵まれないのはドミートリイも現代人と同様といった印象です。

アリョーシャやイワンやゾシマ長老があまりにも浮世離れしたキャラクターだけに、ドミートリイ一人が悪に染まっているように見えますが、ドミートリイは現実社会でがっつり生きる、一人の男、当たり前の人間に過ぎません。

そう考えると、たまたまフョードルみたいな田舎オヤジの元に生まれ落ち、彼の青年らしい色恋や金銭問題について、誰一人、現実的にアドバイスできなかったことが最大の悲劇であり、不幸だと思うのです。

いつかイワンの苦悩も癒やされる ~ゾシマ長老の励まし

不死がなければ、善行もない

一方、ゾシマ長老は、そんなドミートリイに注意を払いながらも、イワンに次のように訊ねます。

「あなたはほんとうに確信しておいでなのかな、おのれの霊魂の不死への人間の信仰が涸渇した場合、そのような結果が起きるだろうと?」

長老がふいにイワンがたずねた。

それに対し、イワンは次のように答えます。

「ええ、ぼくはそう主張しました。もし不死がなければ、善行もありません」

ここで言う「不死」とは、キリスト教的な魂の幸福、神に天の国に迎えられ、イエス・キリストの側で永遠の命を得るというものです。

不死を得るには、キリスト教的な善行を為さねばならず、それは即ち、「罪を犯さない」ということです。

しかし、元からこういう概念がなければ、罪悪感も、善徳も存在しませんね。(日本の仏教徒でもピンとこないでしょう)

イワンのいう、「不死がなければ、善行もありません」というのは、キリスト教的善悪の概念がなければ、永遠の命も求めないし、求める気持ちがなければ、自分から善行を為そうなど考えもしない、ということです。

イワンの心の苦しみもいつか解決する

それに対して、ゾシマ長老は次のように答えます。

「そう信じておられるとすれば、あなたはしあわせなお人じゃ、いや恐ろしく不幸なお人かもしれん」

「なぜ不幸なのです?」イワンがにやりとした。

「なぜといって、どう見てもあなたは、ご自分の魂の不死も、それどころかご自分が教会や教会問題について書かれたことさえ、信じておられないようだからじゃ」

「おっしゃるとおりかもしれません! しかし……それでも、ぼくはまるっきりの冗談を言ったわけじゃなくて……」

イワンはふいに奇妙な白状なしかたをしたが、それでもその顔はさっと赤くなった。

「まるっきりの冗談ではない、それはまことのことじゃ。この思想はまだあなたの心のなかで解決されぬまま、あなたを苦しめておるのじゃ。しかし殉教の受難者もまた、ときにはおのれの絶望を、やはり絶望のあまりに、慰みとすることがある。あなたもいまは絶望のあまり慰みとしておられるのじゃ――そのような雑誌論文や社交界での議論などをな。そのくせ当のあなたはご自分の論法をひとつも信じておられず、内心ではその論法を痛ましく冷笑しておられる……この問題があなたのなかで解決されていない、その点にあなたの大きな不幸がありますのじゃ、なぜといってそれは解決を強要してやまないものですからな……」

「それがぼくのなかで解決されることがあるものでしょうか? 肯定のほうへ解決されることが?」

依然としてなにやら説明のつかない微笑を浮かべて長老を眺めながら、イワンは奇妙な調子で質問をつづけた。

肯定のほうに解決されることがなければ、否定のほうにもけっして解決されることがない、このあなたの心の特性は自分でご存じのはずじゃ。つまり、これがあなたの心の負っている苦しみなのじゃ。だが、そのような苦しみを悩むことのできる至高の心を授けられたことを、あなたは創造主に感謝されるがよい。『上にあるものに思いを寄せ、上にあるものを求めよ、おのれのすまいは天にあればなり』。なにとぞ神のお恵みで、まだ地上におられるうちに、あなたの心の苦しみの解決があなたを訪れ、神があなたの行路を祝福されますように!」

長老は片手をあげ、席についたままイワンに十字を切ってやろうとした。

しかしイワンはふいに席から立ちあがって長老のほうへ近寄り、彼の祝福を受け、その手に接吻すると、無言で自分の席に戻った。彼の顔つきは決然としていて真剣だった。

イワンはすべて見切ったような顔で、ああだこうだと偉そうに論じますが、自分だって、自分の主張に心底頷いているわけではない、彼の否定論も「思索の過程」であり、これが最終回答ではない、ということです。

若い人はみなそうですね。人生論、仕事論、あれこれ唱えてみるけども、自分でも自分の主張に確固たる自信があるわけではない、かといって、周りをおちょくっているわけでもなく、「そうじゃないかな~」みたいなことを、「人生とは!」「生き甲斐とは!」とドヤ顔で語る。イワンもSNSによくいるタイプの一人です。彼がツイッタラーなら、一躍インフルエンサーになったでしょう。

そのように、自分自身さえも懐疑的なイワンの心底をゾシマ長老はいち早く見抜き、「どう見てもあなたは、ご自分の魂の不死も、それどころかご自分が教会や教会問題について書かれたことさえ、信じておられないようだからじゃ」と指摘します。

ゆえに、イワンも決まりが悪くなり、さっと顔を赤らめます。このあたりは、まさに「青年」です。そして、長老は、人生を長く生きただけ分があります。

「この思想はまだあなたの心のなかで解決されぬまま、あなたを苦しめておるのじゃ」というのも、まったくその通りで、イワンは現実社会とキリスト教的善悪の間で生じる不条理をどのように乗り越えればいいのか、自分自身もまったく分かってないわけですね。その反動として、「神みないし、不死もない」「ぼくは天国への切符を慎んでお返しする」とそっぽを向いているだけで。

そして、何よりも、イワンは「信じたがっている」。

だから、「肯定のほうへ解決されることが?」とゾシマ長老に念を押します。

本当に神も不死もないと疑ってかかるなら、どうだっていい話です。

にもかかわらず、「肯定への解決」に言及するということは、それがイワンの本当の望みだからです。

ゆえにゾシマ長老は言います。「肯定のほうに解決されることがなければ、否定のほうにもけっして解決されることがない、このあなたの心の特性は自分でご存じのはずじゃ」

心底からキリストを信じられない代わりに、完全否定にもならない、そういう優しい心の持主だと言いたい訳です。

そして、イワン自身も、そうした自分の心の特性を知っているから、ますます、肯定と否定の間で悩んでしまう。

そこに彼の魅力があり、この作品の本質があるわけですね。

その上で、長老は次のように祝福します。「そのような苦しみを悩むことのできる至高の心を授けられたことを、あなたは創造主に感謝されるがよい。まだ地上におられるうちに、あなたの心の苦しみの解決があなたを訪れ、神があなたの行路を祝福されますように!」。

そうしたゾシマ長老の知性と慈愛を感じたイワンは感激して立ち上がり、長老の手に接吻します。

それは決してからかいや挑発ではなく、心からの謝意と敬意です。

イワンの問い掛けは、さらに昇華して、第三編『好色な人たち』の第八章「コニャックをやりながら」の、「神はあるのか、ないのか?」問答(フョードルが息子二人に神の存在を問い掛け、アリョーシャは「あります」と答えるが、イワンは「ありません」と断言する)、そして、第五編『ProとContra(肯定と否定)』の第三章「兄弟相識る」、第四章「反逆」、第五章「大審問官」へと繋がっていきます。

ゆえに、このパートは、イワンの思想、しいては、物語全体のテーマを読み解く上で重要不可欠な箇所であり、そこでのゾシマ長老の回答とイワンの反応(これは大審問官におけるアリョーシャの接吻に通じる)が、ドストエフスキーの一つの思想的帰着と見ることができます。

カラマーゾフの兄弟 ゾシマ長老  そう信じていなあるなら大いに幸福が訪れる

カラマーゾフの兄弟 イワン 接吻

江川卓による注釈

江川訳の巻末に収録されている注釈です。訳者によって表現が異なりますが、作品理解の参考に。

上にあるものに思いを寄せ……天にあればなり

ゾシマ長老からイワンへ。イワンの心の中で否定と肯定がせめぎ合っているのを感じた長老は、イワンの心の苦しみが解決されることを願って、この言葉を捧げる。「上にあるものに思いを寄せ、上にあるものを求めよ、おのれのすまいは天にあればなり」

「上にあるものに……あればなり」新約聖書の使徒パウロの二つの言葉を合成したもの。「上にあるものを求めよ……上にあるものに思いを寄せ、地にあることに思いを寄するな」(コロサイ書第三章1-2節)と「われらのすまいは天にあり」(ピリピ書第三章20節)。

*

該当箇所は次の通りです。

コロサイの信徒への手紙 第三章 1-2節

さて、あなたたちは、キリストとともに復活させられた(「洗礼」を暗示)のですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたたちは死んだのであって、あなたたちの生命は、キリストとともに神の内に隠されているのです。
新約聖書 新共同訳 Kindle版』より

フィリピの信徒への手紙 第三章 20節

「目標を目指して」(標題)

わたしは、すでに自分の目的に達しているわけではなく、あるいは、すでに完全な者となっているわけでもありません。でも、なんとかして目指すものを捕らえようと努めています。自分がキリスト・イエススに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身はもう捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、うしろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエススによって天へ召して、オア立てになる賞与を目指してひたすら走ることです。

だから、わたしたちの中で信仰に成熟した者はだれでも、このように考えるべきです。

しかし、あなたたちに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは目指してきた方向に沿って突き進むべきです。

兄弟たち、皆いっしょにわたしに倣う者となりなさい。また、あなたたちと同じように、わたしたちを模範として生活している人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対する生活を送っている者が多いのです。彼らの行きつくところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、そして、この世のことしか考えていません。

しかし、わたしたちの本国は天にあり、そこから主イエスス・キリストが救い主として来られるのを(世の終りにおかえるキリストの再臨を指す)、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しいからだを、ご自分の栄光ある身体と同じ形に変えてくださるのです。

新約聖書 新共同訳 Kindle版』より

イワンも、アリョーシャも、ゾシマ長老も、立っているのは同じ平原です。しかし、アリョーシャとゾシマ長老が、ひたすら天(上)を信じ、その理想に突き進んでいくのに対し、イワンは地上の現実に囚われ、懐疑的になっています。

そうした葛藤は即座に解決できないにせよ、イワンが高潔な心で真理を探求する限り、いずれ迷いにも答えが与えられ、心に平安が訪れる、とゾシマ長老はイワンを励ましているのです。

出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

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