映画『シンドラーのリスト』とオフィシエンチム戦争博物館(アウシュビッツ収容所)の記録

目次 🏃

映画『シンドラーのリスト』 あらすじと見どころ

シンドラーのリスト(1993年) - Schindler's List

監督 : スティーブン・スピルバーグ
主演 : リーアム・ニーソン(オスカー・シンドラー)、ベン・キングスレー(ユダヤ人会計士イザック・シュターン)、レイフ・ファインズ(収容所の所長アーモン・ゲイト)

シンドラーのリスト(字幕版)
シンドラーのリスト(字幕版)

あらすじ

ポーランドのクラクフがドイツ軍によって占領されると、ドイツ人実業家のオスカー・シンドラーは、ホーロー容器工場を設立し、一儲けを企む。
ユダヤ人を安価な労働力として雇い入れ、ドイツ人将校らにも取り入って、事業も順調に成長するが、クラクフ市内で繰り広げられるユダヤ人虐殺を目の当たりにするうち、シンドラーの心境に変化が訪れる。
工場で働くユダヤ人の命を救うため、シンドラーは従業員リストを作成し、ドイツ軍に連行されないよう計らうが、クラクフ・プワシュフ強制収容所の所長アーモン・ゲートは、容赦なくユダヤ人を捕らえ、シンドラーの工場も例外ではなかった。
果たしてシンドラーは全ての人を救うことができるのか……。

見どころ

本作は、ユダヤ人虐殺の現実を生々しく描き出し、世界に歴史的悲劇を再認識させた、記念碑的な作品だ。過去にも、ユダヤ人虐殺をモチーフとした映画は存在したが、本作は、戦争史料や元囚人らの証言、記録ビデオなどに残された史実をリアルに再現し、当時を知らない観客にも疑似体験させた点で、映画史に残る作品となっている。胸に迫るような演出は、『ジョーズ』や『ジュラシックパーク』で映画ファンを戦慄させたスピルバーグ監督ならでは。
虐殺の場面では、モノクロ映像を効果的に取り入れ、映画というよりは、歴史フィルムのようなテイストに仕上がっている。

『スターウォーズ ファントムメナス』や『96時間』など、アクション映画でお馴染みのリーアム・ニーソンもこれが出世作となり、英雄でもなければ、聖人君子でもない、人間シンドラーの内面を、ユーモアを交えながら好演。特に、女性秘書の面接の場面は有名。

アーモン・ゲート所長を演じたレイフ・ファインズの切れっぷりも凄まじく、メイドとして雇われたユダヤ人少女の恐怖がひしひしと伝わってくる。

第二次大戦の記憶も薄れつつあるので、若い世代にも一度は観て欲しい、歴史ドラマの傑作。

※ チップス食べながら寝そべって見る系の映画ではないので、気合いが必要です。

全編のムービークリップはこちら(オリジナル版・字幕なし)
http://j.mp/1BcYBIn

【動画で紹介】 戦争と暴力 ~クラクフで何が起きたのか

以下、印象に残った場面をピックアップ。

クラクフ・プワシュフ強制収容所の所長に就任したアーモン・ゲイトは、鹿狩りのように囚人を狙い撃ちする冷酷非情な男だ。
「設計上の問題から、このまま工事を続けては危険です」と進言したユダヤ人女性のエンジニアを、それだけの理由で射殺してしまう。

シンドラーの心の変化を表す、象徴的な場面。
全編モノクロの中で、赤いドレスを着た少女だけが強調して描かれる。
少女の悲劇を追うように、シンドラーの心も揺れ動く。
クリップには収録されてないが、次にシンドラーが目にする時は、少女は遺体を運ぶトラックに乗せられている。

労働力にならない子供を「処分」するために、ピクニックに連れて行くと称してトラックで運び出す場面。
真実を知らない子供達は楽しくはしゃぎまわり、事に気付いた母親らは狂ったように後を追いかける。
胸の引き裂かれるような史実である。

ユダヤ人一家が連行される場面。
最後の祈りを捧げると、家宝である宝石類を飲み込む。

本作には、サスペンスの要素もあって、オスカー・シンドラーは、一人でも多くのユダヤ人を救うために、ドイツ将校の前で道化も演じなければならない。
もし、彼がユダヤ人に同情的で、命を救う為にリストを作成していると知れたら、事業は取り潰し、シンドラー自身も厳罰に処させるからだ。

ここでは、猛暑の中、移送列車に閉じ込められ、脱水状態の囚人らに水を与えるため、シンドラーがわざと悪人を演じ、「もっと囚人を痛めつけてやれ」とホースで水をぶっかける。
将校らはゲラゲラ笑い転げるが、車両から滴り落ちる水が囚人らを救う。

こちらは、唯一、笑いを誘う場面。
女性秘書を選ぶにあたり、シンドラーの態度の違いが面白い。

こちらはネタバレ動画になりますが、シンドラーに救われた人々の子孫は、これだけの数に上るということ。
「人ひとり」とはいえ、命の重みは大きい。

現在のクラクフ・カジミエーシュ地区(ユダヤ人街)は、お洒落な郷土料理の店や土産物屋が立ち並び、このような悲劇があったことを微塵も感じさせません。
ここは外国人観光客のツアーとしても人気で、歴史ガイドからは、第二次大戦中の生々しい出来事を聞くことができます。

イツァーク・パールマン演奏の主題曲とサウンドトラック盤

『シンドラーのリスト』のサウンドトラック盤は、イスラエル出身の世界的ヴァイオリニスト、イツァーク・パールマンをソリストに迎え、ジョン・ウィリアムスによって作曲されました。
テーマ曲は非常に有名なので、映画を見たことがない人も、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

まるで鎮魂歌のようなメロディが心を揺さぶります。

Spotifyでも全曲視聴することができます。

オフィシエンチム戦争博物館(アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所)について

ナチス・ドイツによる絶滅計画(ホロコースト)と、ユダヤ人虐殺の史実は、ポーランド・オフィシエンチムにある『オフィシエンチム戦争博物館』で厳重に保管されています。
日本で一般に知られている「アウシュビッツ」の呼称はドイツ語読みであり、オフィシエンチムがポーランド共和国での正式な地名となります。

史実に関しては、以下のリンクを参考にして下さい。

オフィシエンチム戦争博物館 公式サイト(日本語)
http://www.auschwitz.org/en/more/japanese/

日本国内の情報としては、ツアー会社かニュース記事が圧倒多数なので、あまり参考になりません。
まだWikiの方が理解しやすいと思います。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(Wiki)

動画も、『 Auschwitz』もしくは『Birkenau』で検索すれば、たくさん出てきます。
オフィシャルな動画が見つからないので、一番、見やすいものをピックアップします。

映像としてはBBCが見やすいです。旅行ビデオ風ですが、概要を把握するには最適です。
扇情的なナレーションもなく、どの程度の規模であったか、把握できるのではないでしょうか。

こちらは体験者のインタビューを交えた10分ほどのドキュメンタリー。
自動翻訳で字幕も出るので、興味のある方はぜひ。

こちらはあまりエモーショナルにならず、8分50秒ほどで見どころをコンパクトにまとめています。
字幕付きなので、日本語の自動翻訳で視聴して下さい。

日本人ガイド 中谷剛氏の著書と案内

一つの資料としてお勧めしたいのが、戦争博物館で唯一の日本人ガイドである、中谷剛さんの著書です。

アウシュビッツ=オフィシエンチム戦争博物館のガイドといえば、中谷剛さんが有名です。
私も2004年にガイドをお願いしたことがありますが、残念ながらスケジュールの都合がつかず、実現しませんでした。
やはり一度はお話を伺いたい方です。

ガイドの内容をツイートして下さっている方があるので、ご紹介しますね。

※ Twitterの仕様上、ツイートが重複する箇所がありますが、よろしくご了承下さい。

中谷さんは本当に素晴らしい方です。
在ポ日本人の鑑のような方です。

今、社会思想的な活動している人に対して、すぐ右だ、左だと決め付けて、揶揄する風潮がありますが、皆が皆、○○党や○○主義にかぶれて社会活動に身を投じるわけではありません。
中谷さんのように、歴史に対する疑問、怒り、人類としての責任感から、こうした仕事に献身する人もあります。

ホロコーストを次世代に伝える―アウシュヴィッツ・ミュージアムのガイドとして
ホロコーストを次世代に伝える―アウシュヴィッツ・ミュージアムのガイドとして

目次は次の通り。

第一部 オフィシエンチムで
アウシュヴィッツ博物館へようこそ(過去を見つめる目)
ユダヤ民とロマ・シンティ(虐殺の対象となった人たちの今)
「いじめっこ」と」「いじめられっこ」(ポーランド人のジレンマ)
アウシュヴィッツを生き抜いた人々(苦悩と勇気)
過去と未来の架け橋(国際青少年交流の家)
現在進行形の教科書問題(歴史の認識)
国民記憶員(歴史の記録と清算)
アウシュヴィッツを守る人々(未来への期待)

第二部 写真で見るアウシュヴィッツ強制収容所
ポーランド国立アウシュヴィッツ・ミュージアム所蔵の、1939年から1945年にわたる歴史的写真61点で構成

第三部 アウシュヴィッツ・ミュージアム
アウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館
ここが強制収容所だ(地獄の入り口)
絶滅計画の展示
収容所の生活
生体実験
死のブロックと処刑の庭
ロマ・シンティの悲劇
ソ連戦争捕虜
ポーランドはそのとき
神の試練か
ガス室と焼却炉
ビルケナウ(死の門、生死の選別から大量虐殺の現ばまで、女性収容所としてのビルケナウ、検疫隔離収容所、等々)
あとがき

ひとり旅のための簡単ガイド

中身はこんな感じ。

アウシュビッツとの出会い

アウシュビッツを生き抜いた人たち

中谷剛 過去と未来の架け橋 アウシュビッツ博物館案内

中谷剛 アウシュビッツ博物館案内

冒頭の紹介文が良いです。

ソ連の衛星国といわれていたポーランドに、フランクフルト経由で入国したのは1987年、僕は二十歳だった。「東側の人々」――そんなイメージを持って乗車した国際列車のコンパートメントで出会ったポーランド人は皆、人なつこくやさしい人だった。
(なんやー。普通の人ばかりやないか)
ちょっと拍子抜けした。日本のテレビや新聞で知った印象とはだいぶ違う。言葉もわからないのに皆、ひ弱な学生の僕を助けてやろうと懸命なのだ。

ポーランド訪問の目的は、小学校六年生のときに聞いた、あのアウシュヴィッツへ行ってみることだった。「よそ者」という一言がずっと僕の脳裏に居座っていたからだ。クラクフからオフィシエンチム(アウシュビッツ)まで一時間あまり。フランクフルトからの国際列車で知り合ったポーランド人夫妻が手配してくれたタクシーで、麦畑の中の道をひた走った。

強制収容所の跡地で感じた死の気配は強烈だった。果てしなく広大な土地を歩いていると、背中に無数の魂がかぶっさってくるような錯覚さえ感じた。当時、そこで何が展示されていたのかもほとんど覚えていない。

大学卒業後、ある医療用ベッドメーカーに営業マンとして就職した。そのころ世界は急速に変化しつつあった。1989年にはベルリンの壁が崩壊した。ワルシャワでは体制の転換を協議する円卓会議が開かれていた。こうしたニュースを見ていると、自由を求めるポーランド人たちと片言の英語で情報交換した1987年の感動が蘇ってきた。

「なんで、ポーランドなんかに行くの?」

心配する両親の問いにはうまく答えられなかった。理由がなかったわけではない。言葉で表現できない。胸元を突き上げられるような欲求をどう説明してよいかわからなかった。現地の言葉や習慣もほとんど知らない「よそ者」でもそこで生きていけるのだという実感を味わいたかった――などと説明したら、今でもほとんどの人は(おまえ、アホちゃうか!)と思うに違いない。

≪中略≫

しかし、条件が整ったことと(永住許可を取得するまでの経緯)生活能力があるということはまた別である。出口のない暗闇の中といった感じでまったく進歩のない語学力――。
「十年もやればできるようになるよ」という慰めとも皮肉とも受け取れる地元の人の言葉に、いくどとなく落ち込んだ。
最初の三年間は周りが笑うときも意味がわからず、問われる内容にも答えられない仔犬のような生活を過ごした。小学校三年生の時の沈黙体験が、ここでは免疫として役立った。

きちんとした生活をしてゆくためにもポーランド語を習得しなければならない。そのためのハードルとして国家資格の取得を目指した。日本では長らく車を運転していたが、あえてポーランド語で筆記試験を受けて、こちらの運転免許を取得することから始めた。通訳ガイド資格にも挑戦した。そうすれば講習会でポーランドの歴史が学べる。それに、通訳ガイドはなんといっても県知事免許の資格である。要するに動機は「言葉と生活」だった。

アウシュヴィッツ強制収容所の跡地は1947年以来国立博物館となっている。学生時代の体験から七年近く経った1994年にやっと再訪した。以前に感じた死の気配は消えていた。目的が違っていたからかもしれない。

僕とアウシュヴィッツは不思議な再会を果たした。その後公式ガイドの資格を取得して今日まで、僕がアウシュヴィッツから得たことは限りない。本書ではそれを、みなさんい紹介してゆきたいと思う。

こちらは2012年にリニューアルされた、増補版です。
私は旧版を持っていますが、どちらも読み応えがあります。

新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内
新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内

なぜアウシュビッツは『人類最大の罪』と言われるのか

アウシュビッツが人類最大の罪といわれる所以は、「数百万人が殺されたから」とういだけではありません。
真の恐ろしさは、行為そのものより、「同じ人間によってなされたことであり、誰もが明日からでも虐殺者になりうる、という点にあります。

たとえば、絶滅計画に関わり、裁判の模様が全世界に中継されて、哲学者ハンナ・アーレントに『悪の凡庸さ』と言わしめた、アドルフ・アイヒマンは、普通の小役人でした。
マッドマックスのような極悪人でもなければ、スターウォーズのパルパティーン皇帝みたいに冷酷な支配者でもない、戦争がなければ、書類に判子をつくだけで一生を終えたような、一般市民です。

ところが、戦争のような異常な状況になると、誰も文句も言えず、「命令されたからやった」と、機械的に加担するようになります。
家に帰れば、良き父親、良き夫である人も、軍服を着て、命令されれば、虐殺する側になるのです。

それは軍人に限った話ではなく、市民も同じです。
目の前で、多くのユダヤ人が連行され、殺害されていたのに、誰も止めることは出来ませんでした。
時には、群衆が怒りや不満を爆発させ、同じ市民を手にかけることもあります。

私たちは皆、そうした危うさを抱えており、例外は存在しません。

命令する側になるか、される側になるかの違いであって、我々は、いつまた同じ過ちを繰り返すかしれません。

これはナチス・ドイツや、オフィシエンチムの一地区に限った話ではなく、全人類に共通する誤りなのです。

参考になる作品
悪の凡庸さ 映画『ハンナ・アーレント』 自分は過たないと言い切れるのか
アイヒマンの裁判を傍聴した哲学者アーレントは極悪人のイメージとは異なる、小役人のような人柄と証言に衝撃を受ける。大衆の思考停止によって歴史的悲劇が繰り返されることを『悪の凡庸さ』と説き、考えることの大切さを訴える。
なぜ戦犯は裁かれねばならないのか ~映画『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』
アルゼンチンに潜伏するアドルフ・アイヒマンの逮捕に執念を燃やすドイツのフリッツ・バウアー検事。なぜ戦犯を裁かねばならないのか、バウアーの理念を解説。

アウシュビッツ収容所の写真

囚人棟の洗面所。ここで顔を洗い、情報交換も行われたとのこと。

アウシュビッツ収容所 洗面所

映画にもしばしば登場する囚人棟のトイレです。ここに子どもが隠れた場面は有名ですね。
衰弱した囚人が穴から落下することも少なくなかったそう。

アウシュビッツ収容所 トイレ

囚人たちに割り当てられたベッド。夏はともかく、冬は到底、過ごせるものではありません。

アウシュビッツ収容所 ベッド

多くの囚人が射殺された死の壁。多くは、ろくな裁判も受けられず、問答無用で処刑されました。

アウシュビッツ収容所 死の壁

女性はみな髪を切られ、その髪は工業製品などに使われました。

アウシュビッツ収容所 

囚人が携帯していたカップなども没収され、軍需品などに転用されたり、加工されました。

アウシュビッツ収容所 カップ

ここに送られた囚人の多くは、また別の場所に移送されるか、強制労働させられるだけだと希望を持っていたそうです。
最後は、輸送列車を降りた所で区分けされ、ガス室送りになりましたが。

アウシュビッツ収容所 旅行かばん

ポーランド国立オシフィエンチム博物館 公式サイト
http://auschwitz.org/en/

子どもの玩具や人形まで没収されていたのですから、鬼畜の所業です……

アウシュビッツ収容所 囚人の所持品

アウシュビッツ収容所 囚人の所持品

ドキュメンタリー映像。フランス語ですが、囚人棟、ガス室、焼却所など、収容所全体を4分弱の映像にまとめています。

ポーランド国立オシフィエンチム博物館で唯一の日本人ガイド、中谷剛さんによるガイドの模様。

https://pixabay.comの画像ですが、今もイスラエルの国旗を掲げた若者グループが訪問しています。ドイツの若者が清掃などのボランティアに来ることもあるそうです。

アウシュビッツ収容所 

カジミェシ・スモーレンの序文より ~強制収容所について

フルタイトルは、

アウシュビッツ収容所
ポーランド国立オシフィエンチム博物館
カジミェシ・スモーレンの序文より
(グリーンピース出版会 東京 1986)

どの書籍からの引用か、当方でメモするのを忘れたのですが、参考の為、掲載しておきます。

ナチスによる大量虐殺の最も巨大なセンターはオシフィエンチム・ブジェンカ(アウシュビッツ・ビルケナウ)に作られた収容所である。ここではヨーロッパ全土から連行された約400万人が殺されている。オシフィエンチムでは、さまざまな政治的思想家や宗教聖職者の人々が死に、レジスタンスたち、強制移住させられた町や村の人々が死に、ソビエト人の捕虜や一般市民、さらにユダヤ人、ジプシー、そして男女、子供たちと、24カ国の人々が死んだ。

この収容所の建設構想は、ポーランド人で充満した刑務所の状態を解消する目的で1939年末には生まれていた。これはシレジア地方のポーランド系住民の大量逮捕計画と直接結びつけられていた。オシフィエンチム収容所の建設命令は、1940年4月27日にSS(ナチス親衛隊)司令官ハインリッヒ・ヒムラーによって下され、所長に前ザクセンハウゼン収容所長ルドルフ・ヘスが任命された。そこは、高圧電流を通した二重の有刺鉄線と、SS隊員が四十六時中任務する監視塔によって囲まれていたのである。

・・《中略》・・

収容所に送られた人たちは囚人台帳に登録された。つまり氏名生年月日を記載され、番号が与えられたのである。収監ナンバーが囚人にとって唯一の身分証明であり、人間としての人格は番号に取って代わった。1940年の冬から1943年まで、囚人たちは情報部の写真室で3ポーズの写真を撮られていた。やがてこの写真は、左腕に囚人番号をイレズミされることに代えられた。これは囚人の逃亡阻止と脱走者を捕えた際の身分確認を容易にするためである。

・・《中略》・・

オシフィエンチム地域の湿度の高い気候と、極度に不衛生な生活環境と飢え、加えて寒さをふせげず洗濯もできない着たままの服、そしてネズミと虫は多くの囚人を死に至らせる伝染病の原因になっていた。

・・《中略》・・

どのような悪天候でも囚人達は収容所の通路に追い出された。ブジェジンカでは女囚たちが身を洗うために、少しでも水を手に入れようと、水たまりまで利用していた。
朝食はコーヒーとは名ばかりの1/2リットルの苦い液体だった。

この“朝食”が終わると囚人達は点呼のために広場に整列し、数分後には五人一組で12時間労働に向かった。

この労役は休憩も無く、いつも走らされて、警棒を握ったSS隊員やカポー(囚人頭)の監督のもとに行われた。就労時間は作業中に殺された囚人の数で計られ、作業が中断できるのは、腐った野菜で作ったスープを飲む時の1回だけであった。囚人たちの作業ペースは、頻繁に殴りつける警棒とムチによって早められた。さらに苦痛を重ねたことは、泥地や掘り返した地面を歩きにくくする木靴であった。

労働隊の収容所への帰途は、殺されたり、またスコップと警棒で負傷した囚人たちが、引きずられたり担架や手押し車に乗せられていた。今日、悲運の仲間を苦労しながら運んだ者は、明日は自分の“最後の日”になるかもしれないと思っていた。しかしその時が来れば、仲間の誰かが連れ帰ってくれることも分かっていた。それは点呼のためであり、生死を問わず全員が帰らなくてはならなかったからだ。何故なら、収容所の常態として囚人と名簿を一致させなければならないからである。

夕刻の点呼は数10分、時には数時間も続いた。点呼は囚人たちが直立、時には屈んで受けていた。

女性収容所では、たびたび懲罰の点呼が行われた。やり方は、女囚たちの両手を上げさせたまま地面にひざまずかせるものだった。最も長時間の点呼と記録されたものに、囚人一人の脱走の仕返しとして、1940年7月6日オシフィエンチムで行われた約19時間というものもある。

点呼が終了してから囚人たちは、夕食として300グラムのパンと30グラムのマーガリンと薬草の飲み物が与えられた。1日分の食事の熱量は1300~1700カロリーにすぎなかった。

・・《中略》・・

労働と飢えが、囚人達の極度な衰弱の原因になっていた。身体の衰弱と同時に精神も疲弊して、極端に冷淡になり周囲の事柄に無感覚になった。

囚人たちは常に脅迫されている雰囲気の中で生きていた。わずかな休憩でさえ、警棒や銃の台尻で殴打されて中断された。夜中でさえ、恐怖のあまり自殺を決め、有刺鉄線に身を投げる囚人に向けた銃撃音で起こされた。

SS隊員はグループ責任制を採用し、組織的な脱走には仕返しとして囚人仲間の10ないし20人の餓死刑や絞首刑が科された。脱走計画を持つとみなされた囚人たちや、それに失敗した囚人たちは、点呼の際に絞首刑か銃殺刑に処された。銃殺の執行は主にオシフィエンチム収容所の第11号ブロック中庭の”死の壁”で行われた。ここでは、約20,000人が殺されている。

・・《中略》・・

SSの医師達は、何の検査も行わずに新たに到着した人々の70~80%を平均を死に追いやった。選別作業中のSS隊員たちは囚人グループを囲み、収容所に入る前にシャワー消毒を行うといいながらガス室へ誘導した。ブジェジンカ(ビルケナウ)の各ガス室は一度に1,500~2,000人を入れることができた。

ガス室の気密扉を閉じた後、SS隊員は特別に作られた天井の穴から毒ガス・チクロンBを投入した。約15~20分の間にガス室に入れられた人間は全て窒息して死んだ。窒息させられた人々の死体は4カ所の死体焼却所か野積みで焼かれた。灰は、付近の野原に撒かれたり池や川に捨てられた。

・・《中略》・・

ナチスは犯罪行為を容易にするため、死を宣告された人々にさえも新しい地域に定住させると欺いていた。そのため移住させられる人々は、自分の最も貴重な財産(所持品)を携行した。殺された人々の奪われた所持品は35カ所の棟の特別倉庫に収納された。それらの品は分類した後、SSやドイツ国防軍および一般市民用としてドイツ本国へ送られていた。

収奪を追求する上で、死体も対象外になり得なかった。溶かされた金歯をドイツの衛生局や銀行へ送り、殺された女性の髪を刈り取り、服地や寝具などに再生した。そして人間の灰すら肥料として供給された。

・・《中略》・・

オシフィエンチムの収容所は、単に連日数百数千人の人間が消えていった所というだけではない。収容所内では、生きるために人間の尊厳を守るための闘い、SSの犯罪を全世界に向けて告発するための闘いが続けられていた。その闘いは、囚人たちの“生”が収容所の扉によって閉じられた瞬間から開始された。

しかし、その闘いは表だって行うことができなかった。囚人達は、最少の犠牲で最大の効果をもたらす戦術を選ばなければならなかった。なぜなら、ナチスの緻密な絶滅システムは、あらゆる抵抗の兆しさえ見逃さず、容赦なく潰した。

これらの活動内容は、特に危険な状態にある囚人の命を助けること。医薬品の入手と治療、仲間同士人間としての尊厳の確認、神経のバランスを維持する等の助力が行われていた。

一方、ナチス犯罪の証拠を集め、それらを鉄条網の外へ密かに搬出する、他の囚人たちが罰せられない方法での脱走計画、そしてその組織化が行われたのである。
収容所から発する情報は、常に暗号化された隠し文にして外部に渡された。それらは衣服の中や特別に作られた“物”に隠して運び出された。それらは衣服の中や特別に作られた“物”に隠して運び出された。ナチスの犯罪を証明する文書は、土の中に埋められたことが多い。荒れ狂う暴虐手段と闘うためには、囚人同士の結束が何よりも必要だった。SSに対する共通の闘いに、政治的、社会的にも異なる様々な国籍の人々が、宗派も種族も超えて、参加していたのである。

・・《中略》・・

ナチスの緒戦の勝利は彼らを厚顔無恥にさせ犯罪行為を無感覚にさせた。しかし勝ち戦から敗北へ流れが変わると、ナチスは犯罪の痕跡を消滅させる作業を始めた。その実例として、資料の廃棄や収容等の破壊、収容所で殺された人々の財産、所持品や医療などの焼却、ガス室と死体焼却場の爆破などがある。

彼らは、彼ら自身が最も恐れる犯罪行為の目撃者であった囚人たちを、他の収容所へ移動させ始めた。最後の60,000人の囚人たちは数10キロ歩かされた後に無蓋の石炭貨物車でドイツへ送られた。その撤退の道は、殺された囚人たちの死体が累々と続いていた。

収容所は1945年1月27日、第1ウクライナ戦線のソビエト第60師団の兵士によって解放された。

・・《中略》・・

1947年7月2日、ポーランド議会は、元収容所の地域を「ポーランド国民と諸国民の殉難の記念碑として永遠に保存する」ことを決議し発布した。そして、ポーランド人民共和国の国家評議会は、ナチスに殺された人々にその名誉を称える第一級グルンヴァルド十字架を与えたのである。

(以上)

初稿 2010年7月28日

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