バブル期の日本の強みと若者への願いを描く 劇画『サンクチュアリ』 池上遼一 / 史村翔

池上遼一 サンクチュアリ
目次 🏃

『サンクチュアリ』 あらすじ

サンクチュアリ (1990年~1995年)

原作・史村翔 (『北斗の拳』の原作・武論尊氏のもう一つのペンネーム)
作画・池上遼一

あらすじ

カンボジアのポル・ポト政権の虐殺から生き残り、日本に帰国した北条彰(ほうじょう あきら)と浅見千秋(あさみ ちあき)は、表と裏の世界から社会を動かすべく、戦いに身を投じる。
北条は暴力団『北彰会』の会長として、裏社会のドンを目指し、浅見は民自党代議士・佐倉の秘書として、政界の中枢に食い込もうとするが、そこには強大な敵が待ち受けていた。

金と権力が蠢く昭和社会を舞台に、二人の男が日本のサンクチュアリ(聖域)に挑む、胸アツの骨太ドラマ。

バブル期の汚職や権力闘争がメインなので、密談で飛び交う札束の額面や女体盛りの接待に、現代の読者は面食らうかもしれないが、昭和というのは、本当にこういう時代だったし、政治サイドも、暴力団サイドも、決して誇張ではない。(当時を知っている者が見れば、このキャラはあの人、この団体はアレと、すぐに想像がつく)

今の草食系の世の中しか知らない人にも、大いに参考になるのではないだろうか。

サンクチュアリ(1) (ビッグコミックス)
サンクチュアリ(1) (ビッグコミックス)

昭和時代の日本の強み ~日米自動車競争にて

振り返ってみれば、『サンクチュアリ』に託された願いは達成されず、「この頃にはまだ希望があった」と思うことしきりである。

とりわけ、それを痛感するのが、日本車の売れ行きがあまりに好調なので、米国サイドが恐れをなし、政治的に圧力をかけようとするエピソードだ。

私はバブル世代なので、当時、あの頃のアメリカにおける日本車ボイコットの動きや、デトロイトで労働者らが日本の国旗を燃やすデモンストレーションなど、今も鮮明に記憶に残っている。

一億総貧困化に馴れきった、令和の若者には想像もつかないかもしれないが、映画『ダイ・ハード』でも、リッチな日系企業が舞台になったように、日本の工業製品と経済力(Made in Japan)が世界を席巻し、米国も食うか……というような時代が、本当に存在したのである。

*

日米自動車競争において、米国メーカーが優位を保つべく、米政府は販売拡大の交渉役に、32歳の大統領補佐官・ビセット女史を送り込む。

ビセット女史の一行は、空港から交渉場所へと向かうが、車の前に、突然、浅見千秋が現れる。

浅見は、個人的にビセットと話がしたいと申し出、ビセットもそれに応じる。

車の中で、浅見は言う。

「この国で本当にアメリカ車が売れるとお思いですか?」

「日本政府が外国車に対する不等な規制を改めればアメリカの車は必ず売れます」

断言するビセット。

「だが同じ規制を受けているはずのドイツ車は売れています」

と切り返す浅見に対し、ビセットは、日本でアメリカ車が売れないのは悪いイメージのせいだと言い張る。

「果たしてそうでしょうか、では、どうしてアメリカ本土で日本車が売れるのですか。両国がすべての規制を取り除き、自由に競争したとしても、売れるのは日本車だ」

そんな浅見が案内したのは、日本の一般的な公立小学校だった。

授業中、楽しく九九(かけ算)を唱和する子供達の姿を見て、ビセットは「私には異様としか映らない。この子達が管理されたロボットとしか見えない。」と揶揄する。

だが浅見は言う。

「そう管理です。日本人はこうやって小学生の時からすでに管理というシステムの中で生きている。
ですが、ロボットが笑いますか?
おそらく彼らに管理されているという意識はない。それを当然の事と捉え、無意識のうちに管理というシステムが日本人の中に溶け込んで行く。そしてその中で彼らは悦びや目標を見出して行く。
日本人というのはね、管理というものの中で自分の喜びや目標を見い出せる民族なんですよ。
やがて彼らが成長し技術者となり労働者となって車を造る。
ボルト一本締めるにも違いが出てくるとは思いませんか?」

「……喜び……それは労働者の質のことを言っているの?」

「いや、国民性の違いを言っているのです
たとえば自動車部品の問題についてもそうです。
あなた方、アメリカ人のどこかには部品100%のうち5%の不良品があるなら、最初から110の部品を買えばよいという考えがある。たしかに数は合う。だが日本人は、あくまでも不良品0%にこだわる。
もしそれでもなおかつ、車及び部品を日本が買うべきだと強硬に主張するならアメリカの白人主導主義に他ならない」

動揺するビセットに浅見はなお続ける。

「日本人だから解るんです。日本人も、アジアの国々に大して、日本優位主義を根強く内包している。二つの国にとって車なんぞよりこっちの方がはるかに大きな課題だ」

そして、浅見が、アメリカの自動車会社が生き残る方策として、日本やドイツのメーカーと合併することを提案すると、ビセットは、「車に関してだけはアメリカ人の感情がそれを絶対に許さない!」と激しく反発する。

「感情を言っているうちはまだ深刻ではない。もし本当にアメリカという国、車メーカーが困窮し逼迫しているなら、感情などと言っておれないはずだ。
どんな国にもその国の文化があり歴史があり伝統がある……
それぞれがプライドをもっている
それが共存していかなくてはならない
大変な事だ……要は生きるという事です。
富める国、貧しい国……そして その国民達……国や国民がどうやって生きて行くのか……
どうしたら生きているという実感を得られるのか。
このテーマの答えを見つける事が出来れば、あんたはアメリカ合衆国の大統領にだってなれる!」

政治家とは何か ~糞尿をひっかぶる覚悟があるか?

本作が描かれたのは、1990年代、バブル経済が失速し、「失われた10年」へと下りつつある頃だ。

舞台となるバブル期は、50年にわたる自民党一党支配と金権政治が問題視されながらも、「24時間、戦えますか?」のジャパニーズ・ビジネスマンが世界中を席巻し、空前の好景気をもたらした。

一方、『新人類』と呼ばれる若者の愚行や享楽主義、シラケ世代の無気力、無関心が日本の将来に暗い影を落とし、若きリーダーの北条彰と浅見千秋が表と裏から日本のサンクチュアリに挑んだ所以でもある。

世の中、これから、だんだんおかしくなるぞ……という時に、池上遼一と史村翔という二人の巨匠が、日本に警鐘を鳴らし、大きな望みを託して描き上げた預言書といっても過言ではない。

それは主人公の二人だけでなく、政界のドンとして行く手を阻む、民自党幹事長・伊佐岡の言動にも表れている。

伊佐岡は、若者の正義の目から見れば、権力欲に凝り固まった薄汚い老人だが、戦後の混乱を生き抜き、高度成長の基盤を作った政治家として、彼は彼なりに信念をもって行動している様子が窺える。

たとえば、伊佐岡を裏切り、政敵である浅見側に極秘文書を流した原口代議士に物申す場面。

それほど首相になりたいか? 政権を握ってみたいか、原口。

欲しいならくれてやってもいいぞ。だが、お前のようなネズミ代議士に国家が動かせるか!

原口、世界の現状を見ろ! 
これからの日本は今までのように誰が首相になっても安穏としていられる情勢ではない……。
近い将来、必ずや世界的な不況の嵐に日本も巻き込まれる。
その中でおまえに何が出来る。
日本という国家、日本という民族を存続させる明確な意志、方針を持っているのか?
政権を握る者として、この日本を導いていく強固な自信、理念があるのか?

わしなら国民に対し、胸を張ってこう言う

貧乏人は麦を喰え! 米が喰いたきゃ努力しろ!

原口、政治家ってのはいざとなったら頭から糞尿ひっかぶる覚悟が必要なんだ
おまえにその度量があるか
政権という席をただの甘い座と思うんじゃない!

もし、伊佐岡が単なる悪の権化なら、本作も単純な勧善懲悪で終っていただろう。

そうではなく、怪物・伊佐岡にも、国の将来を思い、建国に身を捧げた歴史があるから、一見、利己的と思える行動にも納得がいく。

ただ、伊佐岡のやり方では、権力は盤石になるかもしれないが、身内だけが優遇される、硬直した社会になるため、日に日に進歩する世界とは戦えない。

だからこそ、浅見や北条のように、政治や社会の仕組みを根こそぎ変革し、若い力が積極的に政治に参加して、国の在り方を変えてゆこうとする姿に、怪物・伊佐岡もついに折れ、自らの限界を感じる結末に説得力があるのだ。

『サンクチュアリ』は、一見、政治とヤクザの抗争劇だが、本質は、新旧の価値観の激突であり、勧善懲悪を超えた熱いメッセージが感じられる。

来るべき21世紀に向けて、若者に何が出来るかという問いかけは、一国の興亡にかかわるテーゼであったが、残念ながら、バブル世代に、その自覚と危機感はなかったようだ。

作中、浅見千秋が、70年代組の若手政治家のホープでありながら首相の腰巾着になりさがった狩谷代議士をつかまえ、「あんたら団塊の世代がナマクラだったから、今のシステムが出来上がっちまったんだよ」と凄む場面があるが、だとしたらバブル世代はどのように評されるのか。

その続きも、ぜひ史村&池上の名コンビに描いて欲しいものである。

ポル・ポト政権とカンボジア大虐殺事件について

本作において、重要な鍵となるのが、少年時代に北条と浅見が体験した、ポル・ポト政権によるカンボジア大虐殺だ。

1975年から1979年にかけて、ポル・ポト率いるクメール・ルージュ(政治勢力)が引き起こした虐殺の犠牲者は、150万~200万人と言われ、日本人である北条と浅見の家族も、知的階級であることから拘束され、子供の北条と浅見だけがタイ国境を超えて生き延びた。

とりわけ、収容所として使われた校舎『S21(トゥール・スレン)』は、別名、『キリング・フィールド』と呼ばれ、映画化もされている。

キリング・フィールド [HDニューマスター版]
キリング・フィールド [HDニューマスター版]

映画は、アメリカ人ジャーナリスト、シドニー・シャンバーグと、現地の新聞記者兼通訳のディス・プランの体験を描いた史実ドラマであり、クメール・ルージュの容赦ない迫害によって虐殺される人々の悲劇が如実に描かれている。アカデミー賞受賞作。

事件の詳細については、あまりに残酷で書けないので、各自、文献などを参照して下さい。

2010年10月15日 0

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最初から日の当たる場所で歩き始める人はいない。 皆に理解されながら物事を始める人も。 始める時は、いつも一人。 考えるのも、一人。 行うのも、一人。 だからこそ達成の悦びもひとしおなのです。

この記事を書いた人

MOKOのアバター MOKO 著者

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚のSF小説を手がけています。看護師として医療機関に勤務後、東欧に移住。石田朋子。
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