オレオレ詐欺と現代のラスコーリニコフ ~金持ちの高齢者から騙し取るのは罪なのか?

ラスコーリニコフ
記事について

『持てる者から奪えばいい』というオレオレ詐欺の論理はなぜ間違いなのか。個人が勝手な正義を行使することで社会不安は増大し、その人自身も幸福にしない。『罪と罰』のラスコーリニコフの主張をテーマに現代の問題点を読み解くコラム。

目次 🏃

金を持った高齢者と、金のない若者の国

高齢者からお金を騙し取る若者のオレオレ詐欺に関する記事です。

金持ちの老人は日本を蝕む“ガン”なのか

金持ちの高齢者から大金を騙し取っても、何の罪悪感も抱かない若者の言い分。

金持ちの老人は日本を蝕む“ガン”なのかより

「俺は、詐欺屋始めてもう何年も経つ。だけど、前の仕事みたいな罪悪感を感じたことは、ほとんどない。
なぜなら、これは犯罪かもしれねえけど、最悪の犯罪じゃねえからだ。
いいか? 
いま、詐欺でひとり騙して取る金の単価ってのは、200万円程度だ。
お前らにとって200万円っていうのは、とんでもねえ額だろ? 
それ取られたら、首くくるかもしれねえ。生き死にの問題だろ? 
でも、詐欺で200万円取るのは、その日のうちに200万円用意してポンと払える余裕のある人間だ。
そいつらは200万円取られて、悔しいかもしれないけど、そこに本気の痛みはねえ。
それが即生き死にに関わるような人間じゃねえ。
俺が詐欺で罪悪感を感じないのは、200万取っても痛くない人間を狙って、そいつらから奪ってるからだ。
たとえこれが1000万でも2000万でも、それを払うことができて、取られてもさしてダメージを感じない奴から取ることに、俺は一切の罪悪感を感じない。
お前ら、昼に研修でゴルフ場と工業団地見てきたろ? 
思い出してほしい。
平日の真っ昼間っからゴルフ場に高級車並べてたのは、どんな奴らだった? 
俺らが詐欺で的にかけるのは、まさにそいつらだ」

老人喰い——高齢者を狙う詐欺の正体 鈴木大介

老人喰い:高齢者を狙う詐欺の正体 (ちくま新書)
老人喰い:高齢者を狙う詐欺の正体 (ちくま新書)

高齢者がお金を遣えないわけ

高齢者がお金を貯め込むのにも理由がある。たくさん持っているからといって、裕福というわけではない、という意見。

高齢者がお金を遣えないわけ/日野 照子

例えば先日、ネットで流れていた新聞記事*3で読んだのだが、振り込め詐欺で捕まった被疑者に罪悪感はないらしい。
「高齢者がカネを持っていて何の意味がある。俺たちがそのカネで日本の経済を回してやっているんだ。」との強弁である。
さらに、この記事には「そうだ貯めこむな。(振り込め詐欺の)やり方は間違っているが一理ある」などというコメントがたくさん付くのである。
基本的には犯罪者と意識は変わらない。
余っているお金をただ抱え込んでいるのだと、なぜわかるのだろう。
振り込め詐欺にあうと、何故か騙される被害者が馬鹿なのだと責められる風潮があるが、どう考えてもおかしい。
それがどのような形であれ、子供への愛情によって騙されたにも関わらず、当の子供に責められることもよくあるらしい。
騙す方より騙される方が悪い。
貯めこんだカネを抱え込んでいる方が悪い。
なんだろう、この考え方。
そんな風な社会だから、人間関係だから、高齢者に安心してお金を遣ってもらえないのだ。

高齢者がお金を遣えないわけ/日野 照子

オレオレ詐欺と現代のラスコーリニコフ

一つの殺人で、数千の生命が堕落と腐敗から救われるとしたら?

ドストフスキーの名作『罪と罰』では、貧乏な大学生のラスコーリニコフが「一人の悪どい高利貸しの老婆を殺し、その金を万人に役立てることは罪ではない」という身勝手な論理から高利貸しの老婆を斧で殺害する。しかし、、偶然、その場に居合わせた善良なリザヴェータまで殺害してしまったことから良心の呵責にさいなまれ、ついには娼婦ソーニャの導きにより、警察に自首し、裁きを受け入れる。
(詳しくは 米川正夫・訳で読み解く ドストエフスキー『罪と罰』 の名言と見どころ

『罪と罰』では、「殺人の正当性」は次のように表現されている。(米川正夫・訳/新潮文庫)

ラスコーリニコフが安料理屋に立ち寄った時、たまたま隣のテーブルに座っていた将校と大学生が議論を始める場面だ。

「僕はあのいまいましい婆を殺して、有り金すっかりふんだくっても、誓って良心に恥じることはないね」と大学生は熱くなって言い足した。

「いいかい、一方には無知で無意味な、何の価値もない、意地悪で、病身な婆がいる。誰にも用の無い、むしろ万人に有害な、自分でも何のために生きているか分からない、おまけに明日にもひとりでに死んで行く婆がいる。一方には、財力の援助がないばかりに空しく挫折する、若々しい新鮮な力がある。しかも、それが到るところざらなんだ! 僧院へ寄付と決まった婆の金さえあれば、百千の立派な事業や計画を成就したり、復活したりすることが出来るんだ。それによって、数百数千の生活が、正しい道に向けられるかもしれないんだ。貧困、腐敗、破産、堕落、花柳病院などから幾十の家族が救われるかもしれない──それが、皆あいつの金で出来るんだ。やつを殺して、やつの金を奪う、ただしそれは後でその金を利用して、全人類への奉仕、共同の事業への奉仕に身を捧げるという条件付きなのさ。どうだね、一個の些細な犯罪は、数千の善事で償えないものかね? たった一つの生命のために、数千の生命が堕落と腐敗から救われるんだぜ。一つの死が百の生に変わるんだ。あの肺病やみの、卑劣で、意地悪な婆の命が、社会一般の衡にかけてどれだけの意味があると思う? 蚤かアブラムシの生命と何の選ぶところもない。いや、それだけの値打ちすらもない。だって婆の方は有害だからね。あれは他人の生命を蝕むやつだ。この間も腹立ちまぎれにリザヴェーダの指に食いついて、すんでのことにかみ切ってしまうところだったぜ!」

「むろん、そいつは生きている価値がないな」と将校は言った。「しかし、そこには自然の法則というものもあるから」

「なんの、きみ。だって人間は自然を修正し、指向してるじゃないか。それがなかったら、偏見の中に埋没してしまわなきゃならんことになるよ。でなかったら、一人の大人物も出なかったはずだよ。人はよく『義務だ、良心だ』という。僕は義務や良心に対して、とやかくいおうと思わない。だが、われわれはそれをいかに解釈していると思う?」

ラスコーリニコフは彼らの会話に刺激されて、『非凡人は法も踏み越える権利を有する』という自説に自信を深め、老婆殺しを決行する。

それに対して、事件を追う判事ポルフィーリィは次のように反論する。

(ポルフィーリィはある大学生が書いた論文を引き合いに出し)

「つまり世の中には、あらゆる不法や犯罪を行い得る人……いや、行い得るどころか、それに対する絶対の権利を持ったある種の人が存在していて、彼らのためには法律などないに等しい──というこの事実に対する暗示なのです。この人(=ラスコーリニコフ)の論文によると、あらゆる人間が『凡人』と『非凡人』に分かれるという点なのさ。凡人は常に服従をこれ事として、法律を踏み越す権利なんか持っていない。だって、その、彼らは凡人なんだからね。ところが、非凡人は、特にその非凡人なるがために、あらゆる犯罪を行い、いかなる法律をも踏み越す権利を持っている。たしかそうでしたね。ところで、一つ伺いますが、非凡人はいつも必ず罰せられるとは限りますまい。中にはかえって……」

「生きながら凱歌を奏する、とおっしゃるのですか? そりゃそうですとも、中には生存中に目的を達するものがあります、その時は……」

「自分で人を罰し始める、ですか?」

「必要があれば。いや、なに、大部分そうなるでしょう」

「一体、どういうところで、その非凡人と凡人を区別するのです? 生まれる時に何かしるしでもついているんですか? わたしのいう意味は、そこにもう少し正確さがほしいと思うんです。──さもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、あなたの巧い表現を借りると、『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……」

利己主義の蔓延

ドストエフスキーが『罪と罰』を著したのが1865年だから、オレオレ詐欺の論理は19世紀から存在すると言える。

「持てるものから奪えばいい」という理屈に対して、「その通り」と同調する意見が圧倒多数としたら、それは良心の敗北というより、利己主義の蔓延だ。

もっと悪く言えば、『思考の死』である。

オレオレ詐欺で騙し取った金を、自身の享楽やワンランク上の暮らしの上に使うとしたら、がめつく貯め込んで、慈悲心のカケラもない高利貸しの婆と変わらない。

たとえば、自分の隣に高級住宅を建てた人が、「これ、近所の婆から騙し取った金で買ったんだ」と嬉しそうに話したとして、それを心から祝福できるか、という話である。

たとえ、相手がたくさん持っていたとしても、法に背いて、騙し取るのは犯罪だ。

それを「かわいそう」「自分も困ってる」で許してしまったら、この世の秩序は崩壊してしまうだろう。

何のための法治国家かといえば、身勝手な正義を行使させない為だ。

「泥棒にも正義がある」などと言い出せば、社会の安全性はもちろん、貨幣の価値まで狂ってしまうだろう。

持てる者から奪うことは正義なのか?

「持てる者から、奪う」

それは一見、正義に見えるが、元々、世の中には決まった量のお金しかないのだから、持たざる者が持てる者から奪ったところで、お金が横から横に流れて行くだけ、何の解決にもならない。

幾多の社会問題を生み出しているのは、上手く分配できない指導者層であり、がっつり貯め込んだ高齢者が貧しい若者を苦しめているわけでは決してない。

社会に流通しているお金の量と分配の仕組みを知れば、本当に責めるべきは誰か、分かるのではないだろうか。

努力しても、努力しても、報われない、今の若者の困窮も理解できるが、「持てる者から奪えばいい」という考えは、社会も個人も決して幸福にしないばかりか、不安と暴力をもたらし、いっそう若者の未来を暗くするだけである。

どうか「持てる者から奪うことは正義である」という論調に頷かないで欲しい。

それよりも、問題の本質を見極め、分配の仕組みを見直すことだ。

あなたが騙し取ったお金を、同じように他の誰かが騙し取ったら、あなたも必ず文句を言うだろう。

「持てる者から奪えばいい」という考えは、正義にも、解決策にもならないのである。

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初稿 2015年6月4日

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この記事を書いた人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚のSF小説を手がけています。看護師として医療機関に勤務後、東欧在住。石田朋子。amazonの著者ページ https://amzn.to/3btlNeX

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