初心者におすすめ FOR BEGINNERS『ニーチェ』解説本 ~ルサンチマンの乗り越え方

ニーチェ for beginners
記事について

竹田青嗣のやさしい文章とサイケデリックなイラストが魅力のビギナーズ本。生涯考え抜いたニーチェの生き様とルサンチマンの解決法などを引用を交えて紹介。いかに乗り越えるかのヒント集。

目次 🏃

竹田青嗣の FOR BEGINNERS『ニーチェ』 入門編について

キャッチーな名言が上手いニーチェ

いつの時代もニーチェは大人気です。

ヘーゲルやショーペンハウアーの名前は知っていても、いまいち読む気にならないのに対し、ニーチェの著書には若者を惹きつけるキャッチーな名言が満載です。

わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り越えられるべきものである

『これが──生だったのか』わたしは死に向かって言おう。『よし、それならもう一度!』と。

人生の半ばにおいて、人生は私を失望させはしなかった

他の有名な哲学者との違いは、ニーチェはキャッチーな言い回しが得意であった点でしょう。

たとえば、アリストテレスやプラトンの名言について問われたら、幾つも出てこないですよね。

ところが、ニーチェは「神は死んだ。俺たちが神を殺したのだ」を筆頭に、「これが生だったのか、よし、それならもう一度」とか「血をもって書け」とか、まるで新刊の帯みたいにキャッチーな名言がすらすら出てきます。

いわば、ハートを鷲づかみにするのが上手いんですね。

物事を理屈で解き明かそうとした他の哲学者と異なり、ニーチェはどちらかといえば文学者に近いと私は思っています。

内容的には、生き方コラムとか綴っている現代のブロガーとほとんど変わり有りません。

……というより、昔から、人間の悩みは一つしかありません。

わたしの人生、どうして思う通りにいかないの? あの人ばっかり幸せそうで、きー、悔しい!!

いつの時代の哲学者も、手を変え品を変え、同じことを唱えているだけで、悩みの根源も同じなら、その処方箋も似たり寄ったりです。

つまりは、全てを肯定せよ、そして、受け入れよ――ですね。

ただ、現代と紀元前では社会の様相も大きく異なりますし、学者でさえ迂闊に本当のことを言えない暗黒時代もありました。

誰もが言いたいことを言えて、なおかつ記録に残せるようになったのは、人類史の中でも、つい最近のことで(数百年ぐらい)、もし、遠い昔から、誰もが読み書きし、それを皆に見せたり、記憶媒体に残すことができたら(現代のSNSみたいに)、一般的な物の考え方も、もっと急速に変化し、ニーチェもここまで孤立することもなかったでしょう。

あの時代、ニーチェが際立ち、現代まで読み継がれる理由の一つには、青年の心を鷲づかみにするような、キャッチーな物言いが上手かった点が大きいと思います。

思想の新しさよりも、文学的な才能に惹かれて読み始める人も少なくないでしょう。

私もその一人です。

とはいえ、いきなり著作を読むのは、初心者には少々ハードルが高いかもしれません。

なぜなら、『ツァラトゥストラ』で読み解く ニーチェの『永劫回帰』と『自己超克』でも書いているように、ニーチェの著作には、人間や社会の事象を「魔術師」や「獅子」や「海」に喩えるような、抽象的な表現が多いからです。

古典文学に不馴れな人なら、「いったい、何が言いたいのだろう」と首を捻るかもしれません。

そこでおすすめしたいのが、竹田青嗣氏の『ニーチェ (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 47) 』です。

初心者に向けて ~竹田青嗣の序文より

タイトルに FOR BEGINNERS とあるように、「興味はあるけど、何から読めばいいのか分からない」という初心者向けの本です。

今もニーチェの解説本は山のように出回っていますが、あまりにも省略しすぎて、安っぽい感じがしたり、あまりにも著者の思い入れが強すぎて、肝心な思想が伝わってこなかったり、納得いくような答えが得られないことも多いです。

その点、竹田氏の FOR BEGINNERS は、イラスト満載のコミック本みたいな内容にもかかわらず、要点はしっかり押さえ、試行錯誤のデビュー作から、ニーチェの思想の集大成ともいえる「永劫回帰」まで、分かりやすく解説しています。

印字も大きく、文章量もさほど多くないので(イラストが誌面の半分を占めている)、おやつ代わりにサクっと読むことができます。ついでに漢字も控えめ。

本書は次のから構成されています。

  • 第一章 生いたちとその ”思想” への道
  • 第二章 思想の航跡
  • 1. 『悲劇の誕生』
    2. 『反時代的考察』について
    3. 『人間的な、あまりに人間的な』、『曙光』、『悦ばしき知識』
    4. 『ツァラトゥストラ』へ

  • ヨーロッパ対ニーチェ
  • 1. 道徳の系譜学と諸力の思想
    2. ヨーロッパのニヒリズム
    3. <力への意志>
    4. ニヒリズムの克服、価値創出へ ――「階序」の思想と「超人
    5. <永遠回帰>

  • 結び ニーチェの<現在>
  • あとがき

まずは序文。

ニーチェに対する、謎めいた、そして思わせぶりな問いが、近来ますます ”流行” の感がある。
仮面を付けた思想家、哄笑する者、狂気の哲学者、等々。
なるほど、思想というものがあまり分かりやすいものなら魅力がない、ということはある。

しかし、よく解きほぐして普通のひとに分からぬような理を説いた大哲学、思想はかつてほとんどないということは覚えていていいことだ。
現在、さまざまに語られてるニーチェ像は、ひどく難しい言葉で、ニーチェはすごいぞ、すごいぞ! と主張する。
ところがよく耳を澄ませると、何がすごいのかあまりはっきりしない場合が多いのだ。

だから、ここではいくつかの原則を守ることにしよう。
まずニーチェの説で、判然と受け取れない点はそのままに示し、明らかに括れるところをできる限り要約して辿ること。
次に、簡単にその生涯を観るが、ニーチェの人間はどうであったかという憶測を拝して、なるべくテクストそのものから彼の考えを引き出すようにすること。
そして、著書の進みゆきにそれほどこだわらないで、ニーチェの思想の全体像を思い描くように努力してみること。
つまり、あいまいな言い方や思わせぶりな言い方はできるだけ避けて、誰でも受け取れるニーチェの考え方を辿ってみたい。

上記を読めば、「ハードルが高そう」と身構えていた人も、ちょっと安心するのではないでしょうか。

生涯、考え抜いたニーチェ ~諦めない、開き直らない

そんなニーチェの凄いところは何なのか。

竹田氏いわく、

どんな社会や時代においても、その青年たちが広く共有することになる ”時代の問題” というものがある。
この問題は、いつもまず、青年がその社会に対して抱く平均的な歪み(と感じられるもの)をそれなりに表現している。

しかし、普通は誰も自分の一生を費やして、この問題を問い続けることはできない。
それが人間の生のあたりまえの条件である。

だから大多数の人間は、問題にぶつかりはするが、それを根本的に解くまでに至らないでいろんな不満を感じながら生きていくことになる。
ニーチェはそういった問題を、徹底して考え抜いた人間の一人だったわけだが、彼はこのとき、いったいどういうことを成したのだろうか。

現代には「中二病」という言葉があります。

どんな人も、青年期になると、「自分は何のために生まれてきたのか」「この世に生きる意味はあるのか」「自分とは何ものなのか」というテーマに興味をもち、「オレみたいな人間は生きていてもしょうがない」「生きることに意味なんてない」みたいに、心をこじらせることがあります。

しかし、そこそこの年齢になり、仕事のノルマや家賃の支払いに追い回されるようになると、「人生なんて、こんなもの」「幸も不幸も、気の持ち方次第」と開き直り、今度は中二病をこじらせた人をバカにするようになります。

その点、ニーチェは、途中で開き直ったりせず、「人間とは何か」「どうすれば幸せになれるのか」といったことを生涯、考え続きました。

それはまた、ニーチェ自身が、自分という人間を肯定する為の旅だったのでしょう。

だから、彼の言葉には迫力があるし、キャッチーな名言も生まれます。

ちょっと稼いだ途端、どや顔で「人生とはー」「幸福とはー」と語り出すブロガーやYouTuberとの違いです。

理想と社会的現実の矛盾をどう超えるか ~ニーチェの思想の航跡

では、ニーチェの思想の根源にあのは何なのか。

その点について、竹田氏は次のように述べておられます。

こういうニーチェの思想のドラマは、単純化して言うと、青年期において人間が「理想」と「社会的現実」との間に横たわる大きな矛盾をどう超えるか、という問題を廻っていたことがわかる。

そして注意しておきたいのは、それがひどくポピュラーな(つまり誰でも大なり章なり経験するような)問題にすぎないということだ。

若い頃には誰にとっても「世界」は、大なり小なり(かく生きたい)と(こうしか生きられない)ということのせめぎ合いとして現れる。

そして、このせめぎ合いは、まずほとんどの場合、(かく生きたい)のはやまやまだけれどそれを純粋なかたちのまま維持するのは難しい、だから(こうしか生きられない)の範囲の中でせいぜい(かく生きたい)を見出すようにしよう、というかたちをとることになる。

そう考えるのが、いわば人間の自然の理だろう。

ところがニーチェは、このプロセスになんとか突破口を穿って、そこを抜けて進んでゆく可能性を求めようとしたのである。

つまり、「開き直らなかった」わけですね。

多くの青年は、未来に大志を抱きながらも、いざ現実の壁にぶつかると、途中で諦め、開き直るものです。

東大進学を目指していたが、どうやっても合格せず、第二志望で終わってしまった自分。

偉大な博士になりたかったのに、公的支援を打ち切られ、研究もままならなくなった自分。

そもそも、自分が生涯のテーマと選んだ研究がまったく評価されない自分。

そうなると、努力や情熱の価値など半減しますし、身の丈に合わせて生きていく他なくなります。

そこで開き直って、今度は大志を抱く若者に「努力したって、ムダムダ~」と嘲笑するようになるか。

それでも、どこかに突破口を見つけようとするか。

両者の違いは大きく、ニーチェは後者でした。

だから「人間とは乗り越えられるものである」という名言が生まれたのです。

どんな世界もそうですが、諦めて、開き直った人間に、そこから先の成長はありません。

苦しくても、納得いく方向に突き進む以外、人生の勝利はないように感じます。

ルサンチマンといかに戦うか

逆に、心をこじらせた青年はどうなるのか。

思うように生きられなかった自分と、社会に対する恨み辛みをつのらせ、人生が非常に生きづらいものになってしまいます。

こうした怒りや憎悪を『ルサンチマン(怨念)』と言います。

竹田氏はルサンチマンについて次のように解説しています。

ここでのニーチェの出発点は、まず社会がある限り個人の力の差というものは根本的には避けられないという点にある。
そのことをまず「あるがまま」に認めること。
人間のルサンチマンはこの力の差という現実から発するが、それを認めた上でこれをどう処理すればいいか考えること。

たとえば民主主義的な考え方が身についたわたしたちの常識的な見方は、むしろ弱い人間を強くし、強すぎる人間の血からを制限して、要するに人間の力の平均化すべきだという考え方をとるだろう。
しかしニーチェはそういう考え方は逆立ちしているというのである。
この平均化する考え方は、弱い人間に強者になろうとする無理な欲望を与え、また強く高い人間の肯定的な力をそいでしまう。

問題なのは、平均化ではなくむしろ意識化ということである。
弱い人間はこの力の差を「あるがまま」に認められないことで、他人や世間に対してルサンチマンを抱き、一方、力を持った津老い人間は同じ理由で意味なくうぬぼれたり、逆に弱い人間に対して罪悪感を持つ。
だから平均化は事態を悪くするだけであって、むしろ問題は、この「あるがまま」をはっきり意識し、その中で人間がどういう合理的な関係を持ちうるかを考えることである。
そのときはじめて、弱い人間がそのありのままのかたちでどのように自分の生をもっともよくまっとうできるかということについての、新しい展望が現れる。

ニーチェによれば、強い人間と弱い人間はこうしてそれぞれの課題を持つことになる。

強い人間は、弱い人間との力の差の中に自己の満足を見出すのではなく、つねに人間が生を肯定しつつ生き得るような高い生き方を探し求めるという課題を求めるべきだ。

また弱い人間は、自分のルサンチマンの源をよく意識し、現実には高い人間の生き方に届かなくとも、つねにそれを見つめそれに憧れつつ生きるという課題を持ったほうがいい。
そういう生き方のほうが平均化の方向よりずっと合理的でもあり正しい道でもある。

そうニーチェは主張するのである。

たとえば、ある集団に、走るのが速い子と遅い子がいるとします。

走るのが速い子は、当然、体育の成績も良いし、運動会ではヒーローになります。

遅い子は、体育の成績も悪いし、運動会では皆の笑われ者です。

その結果、走るのが速い子は尊大になり、遅い子は劣等感を抱えて、時に、クラスの友達や学校を恨んだりします。

そうした不幸をどう救えばいいのか。

民主主義的な考えでは、「一等賞も、六等賞もなくそう。皆で一緒にゴールイン。これで不幸はなくなる」という平均化を選びます。

しかし、見た目を平均化しても、個々の能力が変わるわけではありません。

走るのが速い子は、これからもどんどん速くなり、自信を付けて生きていくでしょう。

走るのが遅い子は、どうやっても速くならないので、たとえこの世から一等賞や六等賞がなくなっても、その現実は変わりません。

何かにつけ、走るのが遅い自分を意識し、走るのが速い人を横目に見ながら生きていくことになります。

つまり、この世から一等賞や六等賞をなくしても、誰の救いにもならないわけですね。

その点、ニーチェは、一等賞とか、六等賞とかいう概念を超越して、「走るのが遅い子でも、いかに幸せに生きるか」を模索します。

その手段として、「100メートル競争で上位入賞するまで必死に努力する」「得意な絵画で頑張る」「走る能力よりも、人に愛される方が大事」等々、様々な道筋を見出します。

どれが正解で、どれが間違いというものではなく、その人が納得できる生き方が一番大事というわけです。

ある意味、平均化というのは、体のいい現実逃避と言えるかも知れません。

なぜなら、子どもの優劣を無くすには、一等賞や六等賞をなくすのが一番手っ取り早いからです。

あの子も、この子も、みな平等。能力の物差しを無くしてしまえば、表面的な問題はなくなりますね。

しかし、表面を平均化したところで、人間の能力まで変えられるわけではありませんから、それは問題から目を背け、「何もなかったことにする」という現実逃避に他なりません。

たとえ一等賞や六等賞がなくなっても、「走るのが遅い自分」とはずっと付き合っていかなければならないのですから、それなら、表面を平均化して、問題をなかったことにするより、走るのが遅い自分との付き合い方を考える方が、最終的には幸せになりやすいと思いませんか?

ただ、その為には、都合の悪い現実も受け入れなければなりませんし(走るのが速い子には一生勝てない、など)、人間の劣等感や心の傷はそう簡単に克服できるものではありません。

何度でも、何度でも、立ち上がり、心の中で闘い続ける必要があります。

それが面倒に感じるから、手っ取り早く「一等賞をなくしましょう」という考えになるのであって、実質的には、問題の解決になってないのではないでしょうか。

ニーチェは、いわゆる「血を吐くような努力」をした人です。

評伝などを読んでいると、気の毒なほどです。

だからこそ、キャッチーな名言を次々に生み出し、後世に残すことができました。

そう考えると、一等賞や六等賞をなくしたり、「人生なんて、こんなもの」と開き直ることは、壁のひび割れにセロテープを貼るようなものであり、真の強さには程遠いような気もします。

『永遠回帰』とは何か ~何度でも生きようとする意思

ニーチェといえば『永遠回帰(永劫回帰と翻訳することもある)』。

恐らく、多くの読者にとって、最も知りたいのは、『永遠回帰』の極意でしょう。

これについて、竹田氏は次の四つに分類しておられます。

  1. 機械論、輪廻論の極限形式としての<永遠回帰>
  2. ニヒリズムの極限としての<永遠回帰>
  3. 育成の、理想形成としての<永遠回帰>
  4. 反動力の克服としての、生の肯定としての<永遠回帰>

それぞれに深い意味があり、一見、別のことを語っているようですが、一言で要約すれば、「人生の困難は何度でも訪れる。だが、その度に、立ち上がり、乗り越え、どこまでも生きていこう。これが人生だ。生まれてきてよかった」みたいな話です。

困難が訪れると、誰もが落ち込み、将来への希望もなくしてしまいます。

運命の輪に踏みしだかれ、今までの自分は死んでしまったように感じる人もいるでしょう。

しかし、そこからが新たな生の始まり。

考えて、考えて、考え抜いて、立ち上がる。

そして、見事立ち直った時には、太陽と向かい合うツァラトゥストラのように、この世に生まれてよかったと歓喜するでしょう。

そういう瞬間が、人生には何度でも訪れます。

そうした営み自体が、「生きていくこと」であり、人生なんですね。

だから、幸福も不幸も関係ない。

走るのが速いか、遅いかも、関係ない。

要は、どう生きて、納得したか。

その一言に尽きます。

ゆえに、竹田氏もこう綴っておられます。

ニーチェにとって、<永遠回帰>は、なんら<真理>ではない。

君は<永遠回帰>を欲するか否か。

この問いによって、彼はあの「自分を超え出たもの」への自らの熱望を、ひとびとの生にむかって問い尋ねているのである。

つまり、考えたり、躓いたり、落ち込んだり、立ち直ったり、そうした営みが、さながら一つの環の中でぐるぐる廻っているように感じるから、永遠回帰であって、「君は永遠回帰を欲するか」というのは、「君は幸不幸の廻りにも耐えて、生きることが楽しいと感じるか(それを心から望むか)」みたいな話です。

この世に、上がりっぱなしの人生もなければ、下がるばかりの人生もなく、誰もが、運命の環の上を、くるくると踊ってる。

でも、それを楽しいと思えるか否かが、幸福と不幸の分かれ目ということですね。

それぐらい、皆、同じように経験してるじゃないか――と思われるかもしれませんが、多くの人は、上がることは望んでも、下がることは考えないし、一度でも痛い目に遭えば、もういいやと、現実から目を背け、なあなあでやり過ごすものです。

しかし、それは、「この世から一等賞や六等賞をなくそう」という考えと同じ、真の解決には至ってません。

それよりは、自分の劣等感や敗北感とがっつり向き合って、自分なりの処方箋を考えてみないか、というのがニーチェの問いかけですね。

なおかつ、そこで得た知恵やパワーを周りにも分け与えていこう、と。

ニーチェの著作には小難しい表現が多いですが、要は、そういう話です。

他人の解説より、自分の読書体験が大事

ニーチェに限らず、ドストエフスキーでも、寺山修司でも、著作が難しいと、手っ取り早く、内容(読み方)を教えてくれる解説本に目が向きますが、誰の解説本も、所詮、他人の考えであって、自分自身の血肉にはなりません。

たとえ専門家の書いた本でも、そこには、専門家自身の見解が多分に織り込まれているし、いくら知識は同じでも、人によって読み方は大きく異なるからです。

また、解説本を読んで、変に理解してしまうと、それで読破したような気になって、肝心の著書は読まない、という逆転現象も生じます。

「まんがで読破」や「5分でわかる世界名作文学」なども同様で、いったん結末まで分かれば、小難しい著作を努力して読もうなどという気にはなれないからです。

それが入り口になって、著作に手を伸ばす人もあるのかもしれませんが、それは少数でしょう。

今は、他人の解説本を読んで、分かったような気になってる人が圧倒多数ではないかと感じます。

また、解説本を読んで、他人の読み方や考え方を頭に入れると、それを前提に読んでしまうので、自分の見解をもつのが難しいというデメリットもありますね。

順序としては、まず著作を読む。

どうしても分からないところを、解説本で補う。

といったところでしょうか。

逆でも問題はないですが、著者にしてみれば、まずは著作を先に読んで欲しいのではないかと思ったりもします。

ともあれ、竹田氏の FOR BEGINNERS は、ざっくり理解するのにおすすめですし、ビジュアルも満載で、漫画本の延長みたいに楽しめると思います。

興味のある方は、ぜひお手にとってみてください。

ワーグナーも登場。ニーチェの生涯も簡単に紹介されています。
ニーチェ for beginners

ゴキブリも登場。
ニーチェ for beginners

バカボンのパパも登場。
ニーチェ for beginners

本に線を引くのは好きじゃないのですが、ニーチェの本はたいがいマークしてます(*^^*ゞ
ニーチェ for beginners

ニーチェ for beginners 入門編 つねに人間が生を肯定しつつ生き得る

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