『国民の道徳』(西部 邁)について ~道徳の基本は死生観

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『国民の道徳』(西部 邁)の概要

国民の道徳
文: 西部 邁(新しい歴史教科書をつくる会)
2000年10月27日発売予定
(株)扶桑社

サンケイ新聞(7月26日)に掲載されていたCMコピー

未来を語れるのは、道徳だけかもしれない

道徳は、過去のものではありません。
未来へ進む私たちに贈られた英知です。

信じられないことが続発しています。しかし、この原因を評論家のいうように、モラルの欠如といっているだけでは、何も解決はしません。こうした現実を正面から考えるために、今こそ、私たちを支えてくれていた道徳が必要なのです。道徳が持っている驚くほどの積極性に触れてください。道徳は、活力ある人生への決意なのです。一人ひとりが強い意志を持って生きることが、他人にも社会にも活力を与える。道徳こそ、過去から未来へ貫通する私たちの英知。21世紀を迎えようとする今こそ道徳を真剣に、かつ興味をもって考えるために「国民の道徳」をこの秋発刊します。

「国民の道徳」の主な内容

* ヒューマニズムがもつ残酷さについて
* 「個人の尊厳」は、どれほど立派なのか
* 人はなぜ人を殺してはいけないのか
* 地球市民という幻想
* 死生観は道徳の根本である
*「国民」と「市民」と「私民」
* 「働く」ことの意味について
* なんのための豊かさか
* 世界を自殺に導くグローリバズム
* 情報ベンチャーたちが必ず転倒する理由
* 文明と環境の衝突
* 祖国のために死ぬということ
* なぜ「恥の文化」を忘れてしまったのか
* 父性の喪失、母性の欠如が事件を起こす
* 家庭は社交場である
* 学校と世間を切り離してはいけない
* 親が子に伝えるべきこと

『国民の道徳』の抜粋

* 「個人の尊厳」はどれほど立派なのか

『自由』ほど危うい言葉は無い。
使い方一つで、善と悪の境を無くしてしまう。

とりわけ現代社会のように、無罰・無責任が横行している時代にあっては、解釈次第で利己主義の免罪符となりやすい。
そしてこの『自由』をより厄介な存在にしているのが、『個人の尊厳』という絶対不可侵の言葉だ。
何か問題が生じても、『個人の尊厳』という観念を持ち出せば、誰も何も言えなくなってしまう。まるで得手勝手な切り札だ。
というより、個人を過剰に重視する今の風潮が、この言葉に絶対不可侵の権力を与えてしまったというべきか。

いまや『自由』は『個人の尊厳』と最強のタッグを組み、とんだ暴挙を繰り返している。規範を犯そうが、他人に迷惑をかけようが、お構いなしだ。この二言を持ち出せば、それで全てが許される。たとえその解釈が間違っていても、自由と個人の尊厳を犯す方が、全体を乱す事より悪とされているからだ。

一体いつから社会は個人をこれほど過剰に擁護するようになったのだろう。
そもそも、現代は、社会が全体を犠牲にしても個人の自由や個性をを擁護しなければならないほど不自由な時代だろうか。

現代は、全体を観ることが少なくなった。
個々の主張は通しても、全体のバランスは考えない。
常に個人の利害の下に、全体が振り回される。
その中での『個人の尊重』など、利己主義の方便に過ぎない。
個人と全体は常に一対のものであり、全体を意識しない個人など、「個人」とは呼べないからだ。

『個人の尊厳』とは、他者を尊重した上で成り立つものである。
ただ個人の利益のみを重視した尊厳など、『尊厳』に値しない。

* 道徳の基本は死生観

現代人は、人の死を観ることが少なくなった。
情報として死を知っていても、実体験として心に刻むことが無いせいだろうか。死への意識も、尊重も、どんどん薄れつつあるような気がする。

生と死は同一のものであり、人の一生に等しく存在する。『死は人生の集積である』という言葉の通り、あっぱれな生き方は、見事な死に様に通じるものだ。いかに死ぬかということはいかに生きるかと同意義であり、どちらか一方を欠落した生死など有り得ない。死を意識することは、生の重みを実感することであり、死を知ることは、より良い生を構築することに繋がるのだ。

ところが現代人は、死を体験する事が無いため、これを教えることも敬うことも出来ない。死を観ることは、その人間の生き様を知ることであり、生き様を知るということは、生の重みや価値を実感することだ。百人の人間がいれば百通りの生き方があるように、死に方も百通りある。死に通じることは、生の何たるかを感得する近道であるといえよう。

地上には幾千万の種が存在するが、己の生を、存在を疑うのは、人間だけだ。人間だけが自分の存在に理由を求める。他の種のように「ただ生きるために生きる」という生き方は苦手らしい。だから理由を失えば、たちまち生きることが安っぽく思われ、些細な躓きが人生の全てを打ち壊してしまうような錯覚に陥ってしまう。

そして己の生を尊重できない人間は、他人の生も尊重できない。簡単に壊してしまえる。自分の死を知らないから、他人の死にも無神経になれるし、「なぜ人を殺してはいけないのか」という馬鹿げた疑問にとりつかれるのだ。

人間はもっと死を観るべきだ。真正面から死について考えるべきだ。それも早い段階で。子供には分からないということはない。子供は大人よりもっと鋭敏に本質を捉えることができる。人や物事への関心を無くし、おかしなニヒリズムにとりつかれる前に、周囲の大人がそうした機会を作ってやるべきだろう。

もっとも大人がそれを心得ていれば、の話だが。

【コラム】 原罪と個の自由の行き着く果て

旧約聖書の創世記では、アダムとイブが禁断の知恵の実を食べて楽園を追放される。

「これを食べると、神のように賢くなれるよ」という蛇の言葉にそそのかされ、イブが食したものを、アダムもまた口にしたからだ。

なぜ人は神のように賢くなってはならないのか。

それは、めいめいが神のように自分で考え、自分で行動し、善悪も自分で判断するようになれば、秩序も乱れ、世の中もめちゃくちゃになってしまうからである。

ドストエフスキーの『罪と罰』に「あなたがさっき主張したことを、極端まで押しつめると、人を斬り殺してもいい、ということになりますよ」という台詞があるが、まさにその通り。

個人の自由主義は、突き詰めれば、殺人すら容認する世界で、だから近年、「社会の役に立たない人は存在しても仕方ない」みたいな言説が堂々とまかり通るのだろう。

責任もモラルも伴わない自由は社会にとって罪悪でしかなく、神のように賢くなろうとしたアダムとイブが楽園から追放された所以である。

楽園とは、皆がモラルを遵守して、争いも、憎しみもない、調和の取れた世界だ。

そこからはるかに遠い所にあるのが、我々の社会である。

『自由』ほど危うい言葉は無いという西部氏の危惧は、20年の時を経て、歪な形で現れ、再び我々に自由主義の在り方を問いかける。

新たな基軸――すなわち自由主義社会の"神"となるものが、道徳と死生観かどうかは分からない。(今さら説得力もなかろう、という意味で)

ただ一つ確かなのは、人間は自分の頭で正しく考えられるほど、賢くもないし、強くもない、ということだ。

ほころびた社会をどう紡ぐのか。

もはや分断と格差の世に、これといった処方箋はないような気もする。

マンモン(金)という紙以外は……。

2021/08/30

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