勝者の語る正義に説得力なし 映画『ジョーカー』とホアキン・フェニックスの魅力

ジョーカー バットマン
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映画『ジョーカー』について

作品の概要

ジョーカー(2019年) - Joker

監督 : トッド・フィリップス
主演 : ホアキン・フェニックス(アーサー / ジョーカー)、ロバート・デ・ニーロ(人気司会者マレー・フランクリン)、ブレット・カレン(トーマス・ウェイン)

ジョーカー(字幕版)
ジョーカー(字幕版)

あらすじ

精神的に緊張すると笑い出してしまう、深刻な病におかされたアーサーは、老いた母の面倒を見ながら、ピエロのパフォーマーとして生計を立てていた。
だが、同僚にそそのかされ、銃を所持していることが職場にばれ、仕事を解雇される。
絶望したアーサーは、事の成り行きから、電車の中で三人のエリート証券マンを射殺してしまう。
「ピエロがやった」という目撃情報と、抗議する住民を道化呼ばわりするトーマス・ウェインの発言から、ゴッサムシティではピエロを英雄視するデモが最高潮に達する。
そんな時、尊敬するマレー・フランクリンが司会を務めるトークショーから出演依頼があり、アーサーは『あること』を決意する...。

見どころ

映画『ジョーカー』は、バットマン・シリーズに登場する悪役ジョーカーをモチーフとしたサイコスリラーの傑作だ。
心を病み、社会にも適応できない底辺の男アーサー・フレックを、映画『グラディエイター』のシスコン皇帝で有名なホアキン・フェニックスが好演し、世界中の映画賞を総なめにした。(グラディエイターとホアキンのキャリアは後述)

幾多の映画解説で指摘されているように、本作と、バットマン・シリーズのジョーカーに直接的な関係はない。
いわば錯乱したアーサーの「心の中の出来事」だ。

しかしながら、バットマン・シリーズの世界観とまったく違和感がないこと、貧しいながらも心優しいアーサーが凶悪なジョーカーに転落する過程に非常に説得力があることから、二度、三度、繰り返し見ないと、その仕掛けに気づかない演出になっている。

暴力を称賛するようなエンディングには賛否両論あるが、現代の格差社会と底辺の絶望をこれほど生々しく描いた作品もなく、劇場公開の後、米国でも、人種差別や経済格差を不満とする下層庶民が各地で暴動を起こし、現在も場所によっては無法地帯のようになっているのも象徴的である。

皆が本作に感化されたとは思わないが、貧苦にあえぐ庶民が見れば、「よくぞ言ってくださった」と拍手喝采するような内容だ。

アーサーのように、働いても、働いても、報われない人々の鬱憤はどこで晴らせばいいのか。

社会的には決して口にしてはならない結論を、本作が豪快に描いてくれたので、多くの市民の溜飲が下がったのは確かだろう。

映画の中にまで行儀や倫理を求められたら、それこそ庶民は生きていけない。

本作を批判する人は、どれほど立派な生き方をしているのか、聞いてみたいものである。

なお、本作では、アーサーの憎悪を一身に受けてしまう人気司会者マレー・フランクリンを名優ロバート・デ・ニーロが演じており、随所に彼の代表作『タクシー・ドライバー』のオマージュが散りばめられているので、本作に興味をもったら、タクシー・ドライバーも併せて見て欲しい。(後述でも紹介)

参考 哀愁のジャズとマグナム『タクシードライバー』~雨は人間のクズどもを歩道から洗い流してくれる

勝者の語る正義に説得力はなし ~まったく笑えない底辺の怒り

ジョークは人を救わない

本作の醍醐味は、なんと言っても、アーサー = ジョーカー と名司会者マレー・フランクリンの直接対決だろう。

とあるクラブで、コメディを演じた時のビデオがマレーの目に留まり、マレーはアーサーを番組に招待する。

マレーは、いつもの調子で、アーサーのコメディをネタに笑いを取るが、アーサーの目には嘲弄としか映らなかった。

番組に呼ばれたアーサーは、ジョーカーのスタイルに扮し、マレーに底辺の怒りをぶつける。

アーサー
「このところツライことばかりで
あのこと以来……
証券マンを3人 殺した
ジョークじゃない」

マレー
「君が地下鉄で三人を撃ち殺した? どう信じろと?」

「僕にはもう失うものはない
傷つける者もない
僕の人生はまさに喜劇だ」

「人殺しが笑えることか?」

「そうさ 自分を偽るのは疲れた
喜劇なんて主観さ
そうだろ
みんなだって
この社会だって そうだ
善悪を主観で決めてる

同じさ 自分で決めればいい
笑えるか 笑えないか」

「つまり君がこの番組に出たのは
ブームを起こしてシンボルになるため?」

「勘弁してよ
僕がブームの火付け役?
奴らが最低だから殺した
どいつもこいつも最低で狂いたくもなるさ」

「君は狂ってるから人を殺していいのか?」

「違うよ 音痴だから死んでもらった

(会場ブーイング)

なぜ彼らに同情する?
僕が歩道で死んでも踏みつけるだろ
誰も僕に気付かない
だが あの3人は ウェインが悲しんでくれた」

「ウェインと問題でも?」

「そのとおりだ
マレー 外の世界を見たことがあるか
スタジオの外に出たことは
誰もが大声で罵り合っている
礼儀も何もない
誰も他人のことを気に懸けない
ウェインみたいな奴らが僕の気持ちを考えるか
他人の気持ちなど考えない
こう思うだけさ “黙って いい子にしてろ 狼にはなれない“」

「それで終わりか? 自分を憐れんで 殺人の言い訳を並べてるだけだ
みんなが最低ってわけじゃない」

「あんたは最低だ」

「私が どう最低だ?」

「僕の映像を流して この番組に呼んだ
笑いものにするために
奴らと同じだ」

「私を知らないくせに
君が引き金になって暴動が起きた
重症の警官たちを君は笑った
君のせいで今日も殺人が起きてる」

「もっとジョークを聞きたいか?
心を病んだ孤独な男を欺くと どうなるか
社会に見捨てられ ゴミみたいに扱われた男だ
報いを受けろ クソ野郎!」

行いはどうあれ、有名司会者にTVで笑いものにされ(少なくともアーサーにはそう見える)、勝者の立場から諭されても、底辺のアーサーの心には1ミリも響かないだろう。

トーマス・ウェインの正論がそうであるように、今の世の中、勝者の語る正義に何の説得力もない。

浮かばれない、報われない、その他大勢がアーサー(ジョーカー)に共感し、怒りを爆発させるのももっともな話で、もはや小手先の支援では救済できないところまで来ている、というのが現状だろう。

しかしながら、アーサーにも救われるチャンスはあった。

この番組には精神病学の女性専門家がゲストとして招かれ、恐らく、一通りのトークの後、アーサーの病気について語り合う企図だったのだろう。(もちろんアーサーには知らされておらず、マレーのサプライズだったかもしれない)

だが、アーサーが先に引き金を引いたことで、専門家に相談するチャンスも、マレーの真意を知る機会も永久に失われてしまった。

マレーが口にする「私を知らないくせに」という台詞は、そういう意味であり、この点にフォーカスすれば、必ずしもアーサーが全面的に被害者ではないことが分かる。

では、マレーはどうすれば良かったのか。

最初から真心を伝えていれば、誤解は生じなかったはずで、むしろ真心が知ったアーサーが、それまでの恨みも怒りも忘れて、マレーの親切に心を委ねる展開もあったかもしれない。

ところが、マレーは根っからの芸人であり、番組を盛り上げる為にも、種明かしは絶対にしない。

ぎりぎりまで真意は隠して、感動のエンディングに運びたい。

そうした芸人としての計算が、彼らに残された僅かなチャンスをふいにしてしまった。

これはどちら側から見ても全くの悲劇で、人助けというものが、しばし誤解と犠牲を伴う現実を如実に描いている。(最近では、善良な精神科医が、一人の患者の思い込みによって、死に至らしめる事件があった)

ジョークは、あくまで豊かな社会と人間関係の潤滑油であって、現実社会の貧困や格差は、もはや笑えないところまできている。

本作が、その他大勢の深層心理に深く突き刺さり、無性にアーサーに肩入れしたくなるのも、誰の人生も勝者が言うほど、良いものでもなければ、輝くものでもないからだろう。

勝者の語る正義に何の説得力もなく、ただただ、己のみじめさが身に染みる現代において、本当の救いは何かと問われたら、「面白くないものは、面白くない」と正直に生きることだろう。

それはまさにジョークと対極の世界で、マレーのような勝ち組司会者が、世の中を面白くしようとすればするほど、敗者の心は屈折し、暴力と破壊にひた走る。

現代が求めているのは本音の会話であり、正論やジョークは人を孤立させるだではないだろうか。

それでもジョーカーがバットマン(ブルース・ウェイン)に勝てない理由

ドストエフスキーの名作『罪と罰』にこんな台詞がある。

落ちこぼれの退役官吏で、飲んだくれの亭主でもあるマルメラードフが、苦悩する大学生ラスコーリニコフ相手に居酒屋でくだを巻く場面だ。

しかし、貧乏もですよ。洗うがごとき赤貧となると、こいつはもう悪徳なんですな。

ただ貧しいというだけなら、人間本来の高潔な感情も持ち続けていられる。

ところが、貧乏もどん底になったら、そうはいきません。

貧乏のどん底に落ちた人間は、棒で追われるのじゃない。

箒でもって人間社会から掃き出される。

つまり、屈辱を思いきり骨身にこたえさせろという寸法ですな。

いや、それが道理なんですわ。

なぜって、貧乏のどん底に落ちると、私など、まず自分で自分をはずかしめにかかりますからな。

江川卓・訳 『罪と罰』

アーサーも、病弱な母親から、「どんな時もスマイルしなさい」と教えられ、その通りに生きてきた。

重い精神障害を抱えながらも、大道芸の道化として真面目に働き、必死で生活を支えた。

だが、そんな善良な魂も、過酷な現実の中で、無残に踏みにじられ、狂気へとひた走っていく。

最初、病気として「ハハハ」と笑っていたアーサーが、次第に自らを蔑み、やがては社会全体を嘲る笑いに変わっていくのは、前述のマルメラードフと同様だ。

それは幸福感に基づくスマイルからは程遠い、ネジ巻き人形が壊れたような、醜怪な嗤いである。

そんなアーサーの目から見れば、正論を説く富豪のトーマス・ウェインも、上段から教え諭す有名人マレー・フランクリンも、それこそ無知な道化でしかない。

彼らは世界の全てを知った風に語るが、下々のことなど何一つ分かってない。

「スタジオの外の世界を見たことがあるか、マレー?」という台詞は、下層民から上層民への痛烈な問いかけた。

本当に理解すべき人々が、何一つ知りもせず、また知ろうともせず、下々に「こんな風に生きろ」と教え諭す様は、滑稽を通り越して、怒りすら湧いてくる。

「お前たちの綺麗事など聞きたくない。とにかく、金を寄越せ。そして、人として扱え」

恐らく、世の大多数は、アーサーの叫びに共感するのではないだろうか。

だとしても、アーサー(ジョーカー)は、ブルース・ウェイン(バットマン)には絶対に勝てない。

それは、ブルースが、生まれながらの勝ち組であり、正義の側だからだ。

言葉と行動で主張しなければ、誰にも認めてもらえないアーサーとは違う。

絶対的な自負心に支えられた人生の勝者に、理屈や意地で立ち向かっても、木っ端みじんに蹴散らされるのが関の山だろう。

「だったら、お前も同じくらい稼いでみろ」と言われたら、アーサーみたいな弱者にはどうすることもできないからだ。

何を、どう取り繕おうと、社会の構造など一朝一夕には変わらないし、底辺に暮らして面白いわけがない。

それをスマイルや前向き思考ではぐらかし、「自分の人生を幸福に感じられないお前が悪い」と、自尊心のレベルで貶めるのが勝ち組論者で、ジョーカーに頭を殴られても、金の延べ棒でぶちのめすのが、現実社会ではないだろうか。

だとしても、世の多くは暴力は望まないし、それが真の解決に至らないことも知っている。

どこかで暴動が起きても、全世界に波及しないのは、そういうことだ。

辛く、貧しくても、善良な者の方が圧倒的に多いのが、この世の真実である。

そんな中、映画『ジョーカー』のような作品が登場して、その他大勢の気持ちを代弁してくれたのは、一瞬の清涼剤になっただろう。

「見るな」と禁じても、酷評しても、日々の生活に疲れた者は、今後も『ジョーカー』を再生するに違いない。

アーサーの放つの銃弾に、己の怒りを託して――。

ロバート・デニーロと映画『タクシードライバー』のオマージュ

本作でも、狂気に走る前のアーサーが、同僚から譲り受けたピストルを手に、自室で身をくねらせながら独り言を口にする場面があります。

これは、ロバート・デニーロの名作『タクシー・ドライバー』のオマージュですね。

『You Talkin' to Me?(オレに話しかけているのか?)』と言えば、この台詞というぐらい、映画ファンの中では有名な場面です。

70年代を代表するアンチヒーローといえば、ベトナム帰りの孤独な青年、トラビス・ヴィックルが代表格。

彼もまた、架空の敵を相手に射撃の練習をしていました。

正気と狂気の境目みたいな演技は、時代を超えて、ホアキン・フェニックスに受け継がれた、、という印象です。

ホアキン・フェニックスと映画『グラディエイター』

ホアキン・フェニックスは、リドリー・スコット監督の『グラディエイター』で、戦場の英雄マクシムスに嫉妬し、実の姉に恋する、「こじらせ皇帝」を演じ、圧倒的な存在感を見せつけました。

絶対的権力者にもかかわらず、ちっとも怖くない。どこか臆病で、神経質で、頼りなげな皇帝役を物悲しく演じたのは、ホアキンの実力です。

私はこの頃からホアキンのファンです。

ちなみに、ホアキンは、繊細な美貌で一世を風靡したリバー・フェニックスの実弟なんですね。目の前で不幸な亡くなり方をしたことが、現在のホアキンの演技を形作っているのでしょうか。

『ジョーカー』のインパクトがあまりに大きいので、今後、どのような活躍をされるのか、引き続き注目したいところです。

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