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臆病なウミガメは甲羅から顔を出すのが精一杯 ~嵐の夜の急病人と海辺の別荘

本作は、海洋科学や土木・建築をモチーフにしたサイエンス・フィクションです。
投稿の前半に小説の抜粋。 後半に参考文献や画像・動画を掲載しています。
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第二章 採鉱プラットフォーム ~ウミガメ(5)
STORY
嵐の夜、高齢の機関士ワディが急病になる。ヘリも飛ばせない中、ヴァルターは補給船の操船を買って出て、無事に島に送り届ける。 海の別荘ではアルがずぶ濡れのヴァルターを優しく迎え入れ、父娘の優しい暮らしに触れる。一度はリズの告白を拒んだヴァルターだが、少しずつ気持ちも変わりつつあった。
目次

自分が何ものか思い出す

嵐の夜の急病人 ~海に出ると生きる方を選ぶ

その夜、ヴァルターはマードックに誘われて、初めて娯楽室に顔を出した。

最初はいつもの如く断ったが、「お前はもっと人と向き合った方がいい。自分の手がけるミッションにどんなスタッフが関わっているか、一度も顔を見なくて平気なのか」と諭され、確かにその通りだと頷いた。自棄で引き受けた仕事だが、個々の背景や想いを知るほど「稼げばいい」とは思えなくなる。たとえダグやガーフのように八つ当たりが趣味みたいな相手でも、彼らがここに懸けた数十年を土足で踏みにじるような無神経は持ち合わせない。

やがて娯楽室には仕事上がりのスタッフが次々に訪れ、五組ある楕円形のラウンジソファもいっぱいになった。ソファに座りきれない者たちはカウンター席に腰掛け、ソーダ割りを片手に大音量のサッカー中継に見入っている。

彼も居合わせた初顔のスタッフらとぼちぼち言葉を交わしながら、いまいち迫力にかけるトリヴィアのプロリーグ戦をぼんやり眺めていた。

そうして前半戦が終了し、長いコマーシャルタイムが始まった時、突然、ダグが血相を変えて娯楽室に飛び込んできた。

「急病人だ。大至急、帰島させたいので、誰か手伝ってくれないか」

だが、外は半時間ほど前から降り始めた雨が一段と激しくなり、風も激しく吹き付けている。

「どうやって帰るんだ? この天気じゃヘリも飛べないぞ」

側に居た作業員が不安そうに聞き返すと、

「物流センターから食材を運んできた小型船が係留している。今、乗組員二名が支度をしているから、航行中、病人に付き添ってくれるだけでいい」

「病人って、誰だ」

「機関部のワディだ。一時間ほど前、腹痛を訴えて医務室に来たんだが、鎮痛剤がまったく効かない。少し下血もしているみたいだから、すぐに島に帰したいんだ。ポートスクエアの病院が受け入れてくれる」

ダグが今一度、娯楽室を見回すと、「俺が行こう」とヴァルターが手を上げた。

「どうせなら船を操縦できる方がいいだろう」

ダグは目をぱちくりしながらも、

「そうか、行ってくれるか。病人の搬送は皆で手伝うよ」

と、ほっとしたように答えた。

医務室のベッドに横たわっているのは六十四歳の男性機関士だ。長年機関部の主任だったが、四ヶ月前、体力の衰えを理由にオリガ・クリステルと主任業を交代している。腹痛はのたうちまわるほどではないが、身体をエビのように丸め、苦しそうに呻いている。

「ワディ、しっかりするんだ。すぐ島に帰してやるからな」

ダグとガーフィールドが交互に声かけしながら、小柄な老体を担架に移し替え、力自慢の作業員らが四人がかりで担ぎ上げた。

激しい風雨でスチールメッシュの通路も階段も滑りやすい中、どうにか担架を船着き場まで下ろし*54、小型船の船室に運び入れると、乗組員二人が速やかにエンジンを発動し、他のスタッフが係留ロープを解いた。

ヴァルターはメディカル・スタッフから大量に下血した場合の対処法について説明を受けると、救急箱、大型のコットンパッド、保温用の電気毛布、デジタル血圧計、医療機関とリアルタイムに情報交換できるタブレット端末を携えて船室に乗り込んだ。

嵐の中の操船

海上の風速は毎秒十五メートル、波高は三メートルと最悪のコンディションではないが、激しいうねりが船底を突きあげ、甲板には絶え間なく白い波しぶきが上がっている。船室はどうにか風雨に守られているが、甲板から流れ込んだ水が床に徐々に広がり、病人に付き添っている彼の足下もずくずくだ。二人の乗務員はほとんど会話もなく、操舵装置にかじり付くようにして船位を保っているが、夜間とあって緊張もひとしおである。

彼はぐったりと横たわるワディの様子を見ながら、時々、操舵室にも足を運んだ。乗組員は二人とも経験三年前後で、操舵にもだいぶ慣れていたが、夜間の時化を航行するのは初めてだという。まるでジェットコースターのような上下の揺れに彼らの表情も硬い。彼らの操舵を後ろで見ながら、ヴァルターもいろいろアドバイスしていたが、乗組員の緊張が限界に達すると途中で交替した。

横からの力に煽られないよう分刻みに船の向きを変え、次々に立ち上る大波を正面から乗り越えていく。その度に大人の背丈をはるかに超える水しぶきが上がり、ステアリングを握る彼の手も汗ばんだが、難所も十五分ほどで通過した。海岸まで20キロメートル辺りまで来ると雨も小降りになり、操舵も一気に楽になった。二人の乗組員はまだ青ざめたような顔をしていたが、彼は「もう大丈夫だ」と声をかけると、再び船室に戻った。

ワディは鎮静剤の効果でうつらうつらし、彼の呼びかけにも微かにしか答えない。だが、意識障害というよりは半眠状態で、血圧や脈拍に異常はない。

彼はワディの側に腰を下ろすと、初めての航海実習を思い返した。

商船学校に入学してから半年目、十日間の短期実習だ。

朝の出港時は目の覚めるような好天だったが、午後から海が荒れ始め、日没には四百五十トンの実習船は絶叫マシーンと化した。それまで威勢の良かった実習生は次々に洗面所に駆け込み、夕食を全部吐き出して、時化に耐えた。こうなると酔い止めの錠剤など何の役にも立たず、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つしかない。

その時はさすがに心の中で母に助けを求め、泳いでもマルセイユの港に帰りたい心境だったが、船で働けば、これから幾度となく時化も経験する。高波に呑まれた父はもっと苦しかったと思えば闘志も湧く。(俺だって負けるもんか)と父の形見のダイバーズウォッチを握りしめ、歯を食いしばって地獄のような苦しみに耐えた。

そのうち船医が見回りに来て、錠剤とは異なる種類の薬液を肩に注射してくれた。それで少し苦痛が和らぎ、うつらうつらするうちに夜が明けた。

甲板に出てみると、風雨も嘘のように収まり、赤く染まった雲の切れ目から朝日が昇り始めている。目を細め、水平線から立ち上る鮮烈な光を見るうちに、父がしばしば口にした『Morgenröte(曙光)』という言葉が脳裏に浮かんだ。

朝の光の中、母と旧港のカフェ『Pour toujours(プール トゥルージユ)』で「一生かけて幸せにする」と誓った。あれが僕の人生の曙光だったと。

だが、彼にとって人生の曙光とは、あの時、船上で目にした『Morgenrood』に他ならない。父は無くとも人生は続く。ひとたび自力で生きようと決めたからには、決して弱音は吐かない。波に揉まれ、打ちのめされても、何度でも水底から立ち上がる。ゼーラント州のモットー『Luctor et Emergo(わたしは闘い、水底から姿を現す)』のように。

そして今も、海が支えだ。

一度は生きる気力も無くしたが、やはり海に出ると生きる方を選ばずにいない。陸で干された魚も、水に戻せば、たちまち息を吹き返すように。

やがて窓の外にノボロスキ社の愉快な電飾看板『イルカ座』が見えると、彼もほっと胸を撫で下ろした。イルカの電飾看板は船乗りたちの心の灯台なのだ。

海の別荘とアルの気遣い

小型船が船着き場に接岸すると、待機していた救急隊員がワディを移動寝台に移し替え、すみやかに救急車に搬入した。霧雨の中、サイレンを鳴らしながら四キロ先の病院へ向かうのを見届けると、彼も額を拭い、雨合羽の水を払った。作業に夢中で気付かなかったが、雨と水しぶきでシャツもジーンズもずくずくだ。二人の乗組員は第一埠頭の駐車場に自家用車を停めており、ポートスクエアの集合住宅まで五分ほどだが、彼の宿舎は島の反対側にあり、どうしようか立ち尽くしていると、背後で軽く車のクラクションが鳴った。警備会社の車だ。ゆっくり彼に近づくと、運転手が窓から顔を出し、「ヴァルター・フォーゲルさん?」と訊ねた。

彼が頷くと、

「アル・マクダエル社長に頼まれました。高級住宅街の南門まで送るように、と」

運転手は後部座席の扉を開くと、雨合羽を脱ぐよう促した。座席の一部には防水シートがかけられ、大判のタオルも用意されている。

なぜ南の宿舎ではなく海辺の別荘なのか、彼にはまったく事情が飲み込めないが、時計の針は午前零時を過ぎ、考えを巡らす体力もない。備え付けのブランケットにくるまり、座席に深く身を沈めると、十分ほどうつらうつらした。

半時間もかからず南門に到着すると、運転手は車から降り、回転式フェンスのインターホンに話しかけた。すぐに解錠のブザーが鳴り、彼も速やかに回転式フェンスを通り抜けた。

前と同じように海岸に続く小径を降り、テラコッタタイルの敷き詰められたエクステリアを抜けると、すぐに玄関ドアが開き、アル・マクダエルが顔を出した。ストライプの寝衣に濃紺のナイトガウンを羽織り、足にはムートン・スリッパを履いている。完全にプライベートな格好に彼の方が戸惑ったが、アルは彼を招き入れると、「時化の中、よく無事に戻ってくれた」とねぎらった。

靴を脱ぎ、タオルで水気を拭きながら、無意識に廊下の奥に視線を廻らせると、

「娘は寝てるよ。お前が来ることも言ってない。明日の朝、仕事で早いのでね」

アルは淡々と答え、二階の書斎に案内した。

書斎はアルの主寝室の隣にあり、仕事や調べ物に使っている。さして広くはないが、高級オーク材の書斎机とお揃いの書架が置かれ、大統領の執務室みたいだ。壁際にはダークブラウンの本革ソファが置かれているが、今は背もたれを倒してダブルサイズのベッドにアレンジされている。白いコットンシーツの上にはゲスト用のパジャマとタオル一式が用意され、サイドテーブルにはミネラルウォーターのボトルとクリスタルグラスもある。

「シャワーは一階のユニットバスを使うといい。簡易シャワーだが、シャンプーや石鹸など必要なものは全て揃っている」

「全部、あんたが用意したのかい?」

「小学生じゃあるまいし、一から十まで家政婦まかせと思ったか? 時々、セスや懇意にしている者が仕事の話で泊まりに来ることもある。これぐらい慣れてるんだ」

「病院から連絡は?」

「ワディは大事に到らず、救急病棟で点滴治療を受けている。明日の検査結果によっては手術になるそうだ。腫瘍か、潰瘍か、大腸に少し厄介な病気があるらしい」

「今までまったく気付かなかったのかい?」

「ワディは機関部のベテランだ。四ヶ月前、オリガに主任を委ねたが、やはり持ち場を離れるのは心配だったのだろう。ここ数日、お腹に違和感があったが、十月十五日まで踏ん張るつもりだったらしい。手遅れでなければいいが……。ともかく、早くシャワーを浴びて休むといい。明日は午後二時にエンタープライズ社の補給船がロータリーの船着き場から出航する。その時にまた車を手配するから、昼過ぎまで、ゆっくりするといい。家政婦がブランチを用意する。わしも娘も午前八時には家を出るから、お前と顔を合わすこともない。娘に伝言があるなら、今のうちに聞いておくが」

彼は小さく頭を振るだけだ。

アルは(強情な奴だ)と呆れながらも、改めて労をねぎらい、主寝室に引き上げた。

彼はバスタオルとパジャマを持って一階のユニットバスに降りると、濡れた服を脱ぎ、ジェットマッサージ付のブースで手早くシャワーを浴びた。

寝静まった邸内は、人界から切り離されたような隔世感があるが、身を寄せ合って生きる父娘の温かい暮らしぶりが伝わってくる。

紺色のコットンパジャマを携え、足音を忍ばせて二階の書斎に戻ると、彼は軽くあくびをし、ソファベッドに腰を下ろした。クリスタルグラスにミネラルウォーターを注ぎ、喉を潤しながら書斎を見回すと、背の高い書架に本がぎっしり詰まっている。そういえば、運河沿いの小さな家にも、カールスルーエの実家にも、大きな書架があった。小説、詩集、哲学書、専門書。町の本屋を何軒も梯子し、気に入った作品を何度も読み返すのが父のスタイルだった。

何となく父の佇まいを思い出しながらソファに横になると、壁越しに豪快な鼾が聞こえてくる。

(あの人も強情だ)

昼間はどんなに気を張っても、寄る年波には勝てないだろうに。

ところで、彼女は何処に居るのだろう?

ふと天井を見上げた時、かーっと身体が熱くなった。眠り姫のような寝姿が脳裏に浮かび、ぴょこぴょこ、カエルに変身したくなる。

よからぬ妄想を振り払うように瞼を閉じると、高級ソファベッドの柔らかな感触を愉しみながら眠りに就いた。

海の別荘にて ~優しい父娘の暮らし

午前九時過ぎに目を覚ますと、すでに邸内に父娘の姿はなく、夕べと同じような静けさに包まれている。カーテンを開けると、夕べの嵐が嘘のような快晴で、疲れた身体に爽やかな朝日が染み通る。

すぐに服に着替えようとしたが、夕べシャワーを浴びる時、濡れた衣類をユニットバスのフックに引っ掛け、そのまま置き忘れたことに気がついた。階下には誰もいないものと思い、パジャマ姿のままリビングに降りると、キッチンでことこと物音がする。一瞬、リズかとたじろいだが、用事をしていたのは五十代後半の家政婦だ。馴染みのマルティナだ。

マルティナは、彼の姿に気付くと、きれいに折りたたまれた洗濯済みの衣類を差し出した。中には下着も含まれ、まさか彼女が洗濯したのかと赤面したが、マルティナいわく、アルの指示らしい。シャワールームで身繕いする間、マルティナは食事の準備をしてくれた。

リビングの続きにあるダイニングスペースには、高級オーク材の楕円形テーブルが置かれ、テーブルの真ん中にはシンプルなクリスタルグラスの一輪挿しにオレンジ色のバラが飾られている。席に着くと、数種類のパンが入ったバスケットにバターポット、イエローチーズとホワイトチーズの盛り合わせ、ボイルした燻製ソーセージ、スクランブルエッグ、トマトやキュウリのピクルスが次々と運ばれてきた。

マルティナの話では、アル・マクダエルとは十七年来の付き合いで、頼まれた時だけ、掃除、洗濯、買い物、夕食の下ごしらえを済ませて、昼過ぎには帰るのだという。

「近頃はお嬢さまも家事をなさいますのよ」

とマルティナは付け加えた。

「ここに来られた頃はオーブンの使い方もご存じなかったですが、今ではご自身でマフィンを焼いたり、スープをこしらえたり、一所懸命になさっています。その分、私の仕事は減りましたが、この年になると何軒も掛け持ちはきついですし、今で丁度いいくらいです」

食事が済むと、マルティナはリビングテラスでくつろぐよう勧めたが、そこまで厚かましくもなれず、デザートのチョコレートブラウニーだけつまんで席を立った。 

ふと壁際に目をやると、腰の高さほどのキャビネットにいくつものフォトフレームが並んでいる。

一枚目は、純白のベビードレスにくるまれて、天使のように笑う赤ん坊のエリザベス。

二枚目は、ピンク色のキッズドレスに身を包み、おしゃまに笑うエリザベス。

三枚目は、伯母のダナ・マクダエルと学校の正門前で記念撮影する制服姿のエリザベス。伯母と姪がこれほど似るものかと不思議な気もするが、まあいい、美人は遺伝するのだろう。

四枚目は、上品なロイヤルブルーの夜会ドレスを身に着けた、気品あふれるエリザベス。

どれも父親の深い思い入れがひしひしと伝わってくる。

さらに視線を移すと、直径五センチほどの鉱物の置物がある。縦にスライスされ、断面には艶出しのコーティング加工が施され、黒曜石の台座に収まっている。鉱物の表面はごつごつした黒色で、ジャガイモみたいな形状だが、内側は年輪のように何層にも堆積物が重なり、中心には黄土色のような小さな核が見える。

これはマンガン団塊ではないか。

それも後生大事にコーティング加工までして、どうやって手に入れたのか。前代未聞の採鉱プラットフォームといい、自費のプロテウスといい、筋金入りの海底鉱物資源マニアなのか?

その横には、パール加工された可愛いシェル型のプレートが飾られている。プレートにはブルーとクリスタルのアクリルビーズが敷き詰められ、イルカ、ジンベエザメ、カクレクマノミ、シマダイ、タコ、巻き貝など、ガラス細工の海の生き物が泳いでいる。

そう言えば、一緒に海岸を散歩した時、最近ガラス細工に凝っていて、物流センターの近くの雑貨屋で少しずつ買い集め、自分だけの小さな海を作っていると話していた。

わけても愛らしいのは、直径三センチほどの青いハリセンボンと赤いハリセンボンだ。二匹はプレートの端っこで別々に泳いでいたが、彼は青いハリセンボンをプレートの真ん中に寄せると、その隣に赤いハリセンボンを並べた。もしハリセンボンに手があったら、こんな風に仲よく手を繋いで、海の果てまで泳いでいくだろうね。

そうして窓の向こうを見やると、弓形浜の向こうに海が眩いほど輝いている。リビングの引き戸からデッキテラスに出てみると、十月半ばになるのに初夏のような温かさだ。ここだけ見事な黄色い砂浜なのが、いかにも高級住宅街らしい。

砂で作ったウミガメ ~臆病なウミガメは甲羅から顔を出すのが精一杯

それにしても広い。

海が広いのは当たり前だが、あっちはノルウェー、向かいはイギリスと、どこかしら島や大陸に行き着くステラマリスとは大違いだ。その深海底も計り知れず、一度、ティターン海台以外の大洋底も潜ってみたいと思う。

海に誘われるように波打ち際まで歩き、ふと後ろを振り返れば、マクダエル父娘がひっそり暮らすコテージが建っている。それは世界的に知られる経営者と美しい娘の住まいとは思えないほど静謐な佇まいだ。

初めて出会った時は腹の立つことばかりで、どうせ金勘定が生き甲斐みたいな強突く張りと決め込んできたが、決してそうでないのは採鉱プラットフォームを見れば分かる。そして、その令嬢が浮ついた二世の遊び人ではないことも。

何故、アル・マクダエルがこれほどまでに海底鉱物資源に入れ込み、美しい令嬢は一人で外も歩けないほど脅かされているのか、彼には想像もつかないが、一つだけ確かなのは、彼らもまた孤独で、何かと必死に闘っている――という事だ。

彼は靴を脱いで裸足になると、ジーンズの裾を折って砂の上に膝を突いた。湿った砂を掻き集め、高く盛り上げながら、ウミガメの甲羅を形作っていく。

今、彼女について、あれこれ考えたくない気持ちは同じだ。もしかしたら、一生、彼女の好意には応えられないかもしれない。でも、あの晩、ウミガメのことを話したいと思った気持ちは本物だ。彼女が共感してくれたのが嬉しかったことも。

ウミガメの甲羅が完成すると、次に両手、次に両足を作った。不器用なウミガメは、もぞもぞと砂を掻きながら、海に帰ろうとしている。まるで父娘に別れを告げるように。

だが、本当にそれでいいのか。

再びコテージを見上げると、三階の彼女の居室が目に入った。

いつもあのベランダから海を見ながら、何を想っているのか。彼女の優しい温もりを思うと、いつものように「お互いさま」と割り切れない自分がいる。

初めてというなら、自分も同じだ。もしかしたら、彼女以上に恐れているかもしれない。

だが、そうやって逃げ回ったところで、何の解決にもならないことも、自分自身が一番よく知っている。マードックの言う通り、もっと人と向き合った方がいいことも。

だが、臆病なウミガメは甲羅から顔を出すのが精一杯。

愛だの恋だの言われても、何をどう返せばいいのか分からない。

どうか自分に魅力が無いなど思わないで。

悪いのはウミガメであって、君じゃない。

いつかまた機会があれば、あの晩みたいに話せるかもしれないね――。

彼はウミガメの手足を崩すと、彼女の窓に向けて作り直した。顔を作り、甲羅を整え、立派なウミガメが完成すると、膝の砂を払い、コテージに戻った。

そろそろ迎えの車が来る頃だ。

今一度、砂浜を振り返り、ウミガメがこちらを向いているのを確認すると、清掃中のマルティナに声をかけ、夕べ来た小径を駆け上がっていった。

二匹の魚とアレルシャ(絆)

午後六時過ぎ、リズが父と一緒に海辺の別荘に帰り着くと、玄関は真っ暗で、廊下にも居室にも明かりはなかった。

朝食の時、父から夕べの出来事を聞かされ、心を激しく揺さぶられたまま物流センターに出掛けた。一日中、彼の事が頭から離れず、仄かな期待を抱いて帰路についたが、彼は予定通り別荘を発ったと父から聞かされ、希望の灯も消えた。

夕闇の中、父と無言でB1幹線を走りながら、流れ去る街の明かりをぼんやり見ていると、

「辛いと思うなら、トリヴィアに帰ればいいじゃないか」

と父が言った。

「このまま会わなければ、胸の痛みも小さくて済む。どのみち、あんな気難しい男が相手では、一生顔色を窺いながら生きていくことになる。優しさと感じやすさは紙一重、相手の空模様に振り回されるのが嫌なら、牛みたいにどーんと図太い男と付き合えばいい」

「牛は嫌」

「年を取ったら、牛みたいな男がいいと思うようになる」

リズはぷいと横を向き、いつまでも側に居て欲しいのは、ウミガメの話をしてくれる人だと思った。気難しくても構わない。真心のこもった言葉が聞きたい。

海の別荘に帰り着き、薄暗いリビングに明かりを灯すと、いつもの部屋が迎えてくれる。でも、今日一日を心から語り合う相手もなく、今夜も一人ぼっちで床に入って、朝も淋しく目覚めるだけだ。

言い知れぬ空しさを感じながら窓辺に寄った時、波打ち際に不思議な砂の塊を見つけ、リズは「あっ」と小さく叫んだ。

「パパ! あんな所にウミガメが居るわ! 誰が作ったのかしら。ねえ、誰だと思う?」

「さあね、誰だろうね」

「それに、あのウミガメ、こっちを向いているわ。あれはどういう意味かしら。またここに帰ってくるということ?」

「知らんよ、そんなことは。作った本人に聞けばいいじゃないか」

アルが言い終わらぬうちに、リズはぱたぱたと表に飛び出し、波打ち際に駆け寄った。

夕闇が辺りを包む中、リズはウミガメの隣に腰を下ろし、時々、丸い甲羅を撫でたり、顔を覗き込んだりしながら、星の瞬き始めた海の彼方を焦がれるように見つめている。

アルはその様を遠目に見ながら、(もったいぶった奴だ)と溜め息をつく。こんな手の込んだ真似をして、ますます娘が離れがたくなるではないか。

アルはしばらく娘の後ろ姿を見守っていたが、そのうち阿保らしくなり、キッチンに行って、マルティナが用意したシチュー鍋をコンロにかけた。

どうやら、やきもきするだけ野暮天だ。

二匹の魚は既にアルレシャ(ひも)で結ばれ、同じ海の上をくるくる回っているように見えた。

リズとヴァルターの恋
ウミガメの産卵 ~見守るしかない親の愛と子供の人生
リズにウミガメの産卵について語って聞かせる海岸デートと、リズの告白のエピソードを描いています。

【資料】 嵐の洋上プラットフォームと船の着岸

本物の嵐が到来すると、洋上のプラットフォームは動画のような状態になります。
とても船など出せませんし、ヘリコプターで飛ぶのも無理です。

『Top 5 MASSIVE Waves VS Oil Rigs - heavy seas!』(巨大波 VS 石油リグ ~非情な海)

こちらは悪天候の中、航行する補給船の様子を撮影した動画。
洋上施設は、陸からの補給が絶たれると、たちまち絶海の孤島と化すので、物資を補給するのも命がけです。

『Work on Supply Boat During Heavy Weather』(悪天候の中、航行する補給船)

補給船と船着き場の様子は下記の場面にも描いています。

海に落ちる、恋に落ちる ~孤独な二つの魂が出会う時

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第二章『ウミガメ』のシリーズ
  1. 実験用プールと水中無人機の調整 ~ROV(有索無人機)について
  2. セイリング ~あの世にも、この世にも、帰りたい場所はなく
  3. ウミガメの産卵 ~見守るしかない親の愛と子供の人生
  4. 深海で潜水艇にトラブルが起きたら ~問題は爆発ではなく酸欠
  5. 臆病なウミガメは甲羅から顔を出すのが精一杯 ~嵐の夜の急病人と海辺の別荘
  6. 淋しさなんて、慣れるもの? ~水深4000メートルの愛
  7. 父が死んだのは運が悪かっただけ? ~生死を分けた数分の差                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     
  8. 相手に媚びるやり方では本物の愛情は得られない
  9. 引くも勇気、諦めるのも強さ ~個人の葛藤よりミッションの完遂
  10. 本当の心の強さとは ~無理に鋼になろうとするな
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