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処世の知恵と真理の違い 『人は魂で生き、理性で現世を渡る』

本作は、海洋科学や土木・建築をモチーフにしたサイエンス・フィクションです。
投稿の前半に小説の抜粋。 後半に参考文献や画像・動画を掲載しています。
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第一章 運命と意思 ~オランダ人船長・漂流(3)
STORY
父グンターを失い、フォンヴィエイユの港町で、母子二人、身を寄せ合うようにして暮らしていたが、とうとう生活が立ち行かなくなり、アンヌ=マリーは病に倒れる。 そんな母子に手を差し伸べたのは、アンヌの元婚約者で、マルセイユの裕福な実業家、ジャン・ラクロワ氏だった。 最初は躊躇していたが、ヴァルターの治療に莫大な費用がかかることもあり、アンヌ=マリーは再婚を受け入れ、ラクロワ氏の大邸宅で一緒に暮らし始める。 しかし、やり手の実業家であるジャン・ラクロワと、善徳の人だった父グンターの哲学はあまりに大きく違った。 暮らしが豊かになるほど、父グンターの教えが懐かしくなる。

マルセイユの丘の上にあるジャン・ラクロワ邸に移り住んだのは、新学期が始まる九月中旬のことだ。

エクス=アン=プロヴァンスの古城も驚きだが、ジャン・ラクロワの邸宅も想像をはるかに超える豪邸だった――というより、田舎者の彼の目にはそう見えた。これでも周辺に立ち並ぶ大邸宅に比べたらずいぶん慎ましい方らしい。

彼には一階の南側の居室があてがわれた。ジャンの上の娘が使っていた部屋だが、家具もカーテンも一新し、男の子らしいインテリアに改装されている。居室といっても、寝室、書斎、リビング、バスルーム、ウォークインクローゼットが備わり、リビングの続きには専用のガーデンテラスもある。離れにはガラス張りのプール、ジェットバス、トレーニングルームもあり、車庫にはぴかぴかの高級車が四台も並んでいる。飛行場にはプライベートジェットもあり、行きたい場所があれば、何所でもひとっ飛びらしい。

学校は『コレージュ』と呼ばれる中等教育前期の第三学年のクラスに編入し、これから猛勉強して、国家資格である中等教育修了資格証書(Brevet)を取得しなければならない。この一年を頑張れば、その後のリセ(中等教育後期)で挽回できるし、進路が固まれば、早期に専門教育を受けることもできる。その重要性はヴァルターも理解し、週二回の家庭教師とスピーチセラピー、定期的なクリニック受診も受け入れた。勉強は大変だが、港町の公立学校と異なり、品行方正な上流階級の子弟ばかりだ。口の悪いクラスメートもなければ、校庭の隅でタバコをふかす生徒もなく、高度なITシステムを備えた教室で集中して課題に取り組める。サッカーも少しずつだが皆に交じってボールを蹴るぐらいには回復し、わざとパスを無視したり、肘鉄を食らわすような子も無かった。

ラクロワ邸の暮らしも快適そのものだ。タオルもパジャマも毎日洗い立てのものが用意され、学校から帰ってくると、ベッドもバスルームもホテルのように整えられている。不足があれば呼び鈴を押すだけでよく、廊下で使用人とすれ違えば、恭しく頭を下げてくれた。

平日の朝食は一階の小サロンで母と一緒に取った。テーブルに着くと、絞りたてのフレッシュジュースがなみなみとグラスに注がれ、ウインナー、スクランブルエッグ、数種のフロマージュ、ベーグルなどが次々に運ばれてくる。自分で食器を洗う必要はなく、欲しい物があれば家政婦に言えばよかった。

ちなみにラクロワ氏は、自身のリビングで、ワールド・ワイド・ニュースを見ながら各事業所のレポートに目を通し、一時間以上かけてクロワッサンとカフェオレの朝食を取るのが習慣らしい。朝はグラノーラとグリーン・スムージーで軽く済ませる前妻とは合わなかった所以だ。

通学は黒塗りの高級車が学舎の正面玄関まで送迎してくれる。それも自動運転車に子供一人が乗せられるのではなく、ボディガードを兼ねた運転手が付き添うのが上流階級の証しだ。学校といえどセキュリティは厳しく、銃を携えた警備員が敷地内を巡回している。これだけ警戒しても、通学途中に強盗に襲撃されることがあり、生徒の中にはセキュリティチップを体内に埋め込んでいる子もあるそうだ。

夕食はメインのダイニングでラクロワ氏を交えてとった。伝統的なフランス料理からエスニック料理まで、メニューは様々だ。時には母の手作りのエルテンスープエンドウマメのスープやクロケットが並ぶこともある。

ラクロワ氏の話はそれなりに面白かった。政治経済に限らず、スポーツでも文化でも一見識もっていて、聞けば何でも教えてくれた。口調も丁寧で、相手が子供だからといって見下したり、誤魔化すこともない。時には価値観が引っ繰り返るような業界の裏話も聞かされたが、それも社会の現実と思えば興味深かった。

だが、父のように一から十まで共感することはない。その価値観はどこまでも実用的で、合理的だ。

何でも使用人に頼むのは気が引けると言えば、

「何を躊躇うことがあるんだね。使用人はそれを生業としている。君がそれを肩代わりすることは、彼らから仕事を奪うことになるんだよ。使用人は奴隷じゃない。れっきとした職業だ。彼らは生きる為に君の服を洗い、バスルームを掃除する。何もかも納得の上で労働契約しているんだ。躊躇はかえって彼らに失礼だよ」

それも分かるが、彼が知りたいのは生業うんぬんではなく、人としてどうかという点だ。ラクロワ氏のように社会的に成功し、分刻みのスケジュールで暮らす大人が使用人を雇うのは理解できるが、彼はまだ子供だ。父は「十歳になったら、自分の使った食器ぐらい自分で洗わないと駄目だ」と皿洗いをさせたし、「土曜の朝は家族で掃除」と決まっていて、彼も自室と二階のバスルームが担当だった。それもずいぶん面倒だったが、バスタブを磨くうち、工夫や忍耐、思いやりも身についた。使用人に身の回りの世話をしてもらうのは簡単だが、どこか人としての感覚がずれていくような気がしてならない。

そのなれの果てが、エクス=アン=プロヴァンスの阿呆面の従兄だ。「その分勉強に打ち込んで、社会に役立つ人間になれば、大勢に富を還元できる」とラクロワ氏は言うが、そうなる前に自分の価値観が歪んでしまいそうで怖い。

激変したのは暮らしだけではない。社会的立場も同様だ。

今では買い物といえば高級デパートで、専属の役員が付いて、あれやこれやと最上級の商品を見せてくれる。父とスポーツショップに出掛けた時、「これ、いいね」と手に取ってみたものの、値札を見るとびっくりするほど高価で、そーっと商品棚に戻していたのが冗談みたいだ。『ヴァルター・ラクロワ』になってから財布を開いた試しは一度としてなく、レジではラクロワ氏のメインオフィスの名称を言えばよかった。

サッカー観戦もVIP席で、時には有名選手が挨拶に訪れることもある。かつてシュテファン・マイアー選手を間近に見て、口をぽかんとさせていた田舎者も、今ではスポンサーの御曹司として有名選手の方からおべっかを使うほどだ。

そうかと思えば、週末はプライベートジェットでアイスランドやノルウェーに連れて行ってくれる。泊まりは五つ星ホテルのスイートルームで、レストランでは値段を気にせず何を注文してもよかった。

だが、裕福であればあるほど彼は違和感を覚え、上辺だけの人生を生きているような気持ちになる。ラクロワ氏が父とは違った明達の士であるのも理解できるが、その言葉は少しも心に響かない。

「道理のわからぬ者に理屈を言って聞かせようなどと思わぬことだ。彼らはやがて君を敵とみなすようになる。それより本音は胸の奥に隠し、実になる部分だけで付き合うことだ。この世で賢人と言われる人はみなそうしている」

「世の中というのは、一割の利口者がそうではない九割から金や時間を奪って儲ける場所だ。それが嫌なら、楽しむ側より楽しませる側に立つことだ」

「良いことも正しいことも、ほどほどにすることだ。徹すると、善行も毒になる」

理屈としては解るが、永遠の真理とも思えない。それはあくまで処世に過ぎず、仁慈や気高さとは別ではないか。

それに対して、父の教えは春の日差しのように胸にしみた。

「学校でも、サッカークラブでも、納得いかないことはたくさんあるだろう。人の悪意に触れて愕然とすることもあるはずだ。でも、そんな時は、心の中でこう唱えるんだ。『父よ、彼らをお許し下さい。彼らは自分が何をしているのか、わかっていないのです』――これは十字架にかけられたイエス・キリストが彼を侮辱する人々に対して言った言葉だ。君をいじめる子供たちも、今は自分たちがしていることの意味を分からずにやっている。もしかしたら、一生理解せずに終わるかもしれない。それでも赦すんだ。相手を赦すことが君の心も救う。だから君も辛く悔しく感じた時は、この言葉を胸に唱えてごらん。真の心の強さがどういうものか、きっと分かるから」

もし、サッカークラブの子供たちが父とラクロワ氏の言葉を聞いたら、子供たちは父の周りに集まるだろう。

一見、損で遠回りに思えても、父の教えは身体の真ん中でしっかり心を支えてくれる。たとえ世知においてはラクロワ氏が正しいとしても、どうして父の教えから離れて生きていけるだろう。それこそ永久不変の真理に感じるのに。

そんな中、カールスルーエから訃報が届いた。

父の死後、ずっと病に伏せっていた祖母が息を引き取ったのだ。

ヴァルターとアンヌ=マリーも葬儀に参列したが、棺に納められた祖母の顔は記憶のものと全く違っていた。頬はこけ、目は落ちくぼみ、いつも明るい笑顔でリンゴの焼き菓子を作ってくれたオーマ(お祖母ちゃん)の面影はどこにも無かった。

フォーゲル家の墓所には同時に二つの墓が建った。一つは祖母、もう一つは父のものだ。

祖父母は息子の死を受け入れがたい気持ちから墓碑は作らなかったが、祖母の死に際し、祖父は息子の分も建立することにした。墓碑を並べれば、祖母も淋しくないだろうとの思いからだ。

祖母の墓碑には司書を表す『本』のモチーフが刻まれ、息子の墓碑にはローエングリンの『白鳥』が刻まれた。

墓所には深い穴が掘られ、黒い棺がそろそろと地中に下ろされる。参列者の手で土がかけられ、棺が完全に埋まると、祖母の墓碑が厳かに土の上に置かれた。

だが、父の墓碑の下には何もない。棺も、骨も、髪の一筋さえも。

その事実が新たな涙を誘い、祖父も他の親族も声を上げて泣いた。

だが、彼だけは茫然自失と父の墓前に立ち尽くし、父のいない世界の虚しさを噛みしめる。自分一人が方舟で逃れて、どんな幸福があるというのだろう。もはや自分を理解してくれる人もなければ、教え導いてくれる存在もないのに。

その夜、母と祖父は居間でずいぶん長い間話し込んでいた。

彼は二階の父の部屋のベッドに横たわり、階下で母がすすり泣くのをぼんやり聞いている。

その悲痛な響きから、父は本当に死んだのだと悟った。

目次

【コラム】 処世の知恵と真理の違い

世の中、いろんな○○論が溢れています。

情熱をもって生きろと説く人がいる一方、ゆっくり生きればいいと説く人もあり、どちらが正しいのか、分からなくなりますよね。

それとは別に、この世には絶対不可侵の規律が存在します。

殺すな、盗むな、嘘をつくな、etc。

こうしたことは、文化や宗教の違いにかかわらず、大抵共通しています。(細部にまで目を向ければ、それが正当化される世界もありますが)。

後者を真理とするなら、○○論に相当するものは、処世の知恵といえるでしょう。

真理は変わりませんが、処世の知恵は、その時々に応じて変わります。

あえて言うなら、処世の知恵は、自分が損しない為の戦略といったところでしょうか。

真理は万人に救いの手を差し伸べることを良しとしますが、現実社会で、善人にも悪人にも、同じように施していたら、身が持ちませんよね。

現世を生きるには、二つの認識が必要で、真理を重んじつつ、処世の知恵を駆使するのが理想だと思います。

相反する○○論が存在したとしても、迷う必要はありません。

どちらも本当で、どちらも現実。

なぜなら、○○論は、現世の鏡のように、その時々に応じて形を変えるからです。

どちらが正しいか正義の天秤で量ろうとするから迷うのであって、その時々に応じて、都合のいいように取り入れたらいいだけのこと。

処世の知恵は、真理と異なり、その時々に応じて沈んだり、もてはやされたりする、浮き草みたいなものですから、そんな教えに絶対的な価値観や正義を求める方が間違いなのです。

ある意味、魂は真理に、理性は処世の知恵に習うのが理想かもしれません。

人は魂で生き、理性で現世を渡るからです。

原罪とは神の教えから離れること

キャンプの子供たちののエピソードはキリスト教の『原罪』をモチーフにしています。

原罪といえば、「知恵の実を食べたアダムとイブ」のエピソードが有名ですが、イブをそそのかしたのは、「知恵の実を食べてごらん。神のように賢くなれるよ」というヘビの言葉。

神のように賢くなれる=人間が真理から離れ、自分の頭で考えて行動するようになる という意味です。

一見、いいことのように思われますが、「真理から離れる」というのが災いの元であり、いつも人間の判断が正しいわけではない、ということを示唆しているわけですね。

上記に喩えれば、真理と処世の知恵の違いです。

処世の知恵に長けても、真理から離れれば、魂も枯れていくのです。

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