もし海に恋人がいるなら、それは輝く太陽だ ~本当の私を見つめて

この投稿は、海洋科学、鉱業、建築・土木をテーマにしたフィクションです。詳しくは作品詳細をご参照下さい。


第二章 採鉱プラットフォーム ~くちづけ(2)
STORY
リズは今日こそヴァルターに会えると期待していたが、夕食会はお流れに。代わりに高級ボートクラブ『サフィール』のパーティーに父のお供で出席する。 周りは彼女を褒めそやすが『アル・マクダエル』の看板に頭を下げているに過ぎない。美しい夕焼けを見ながら、「誰か本当の私を見つめて」と海に願う。 そこにヴァルターが自転車で乗り付けて……。

会員制ヨットクラブ『サフィール』は、アイランド・マリーナの北側、ローレンシア島の西海岸でも特に綺麗に整備されたヨットハーバー内にある。係留されているクルーザーヨットやモーターボートも、アイランド・マリーナのものとは桁違いで、中にはどうやってインポートしたのかと首を傾げたくなるようなメガヨットもある。

サフィールは海に突き出た浮体式構造物の上に作られ、三方を海に囲まれている。メインの建物は黒とコバルトブルーを基調にしたシックなインテリアで、一階には海の見えるレストラン、オープンカフェ、十名から五十名が収容可能な可動間仕切り式のバンケットルーム、二階にはプール、フィットネス、サウナ、マッサージルームがある。当然、年会費や使用料もべらぼうに高く、会員の大半は高級住宅街(ゲーテツド・コミユニティ)の住人だ。トリヴィアの都心に比べれば人目に付きにくいこともあり、近頃は娯楽を兼ねてクルーザーヨットで商談するのが流行になりつつある。

父がこういう場所に顔を出すのは情報収集が目的だ。プールもサウナも利用せず、顔見知りの経営者にちょいと声をかけて様子を探ったり、オープンカフェで懇談する顔ぶれを見て、新たな動きを察知したりする。そして、父に声をかけられた人は、つい喋りすぎたことを必ず後悔するのだ。

男性コンシェルジュの案内でバンケットルームに足を運ぶと、既に会場は盛況で、壁際のフードコーナーには海鮮オードブルやグリルやデザートがずらりと並ぶ。

リズは父の後ろに付いて一人一人と丁重に挨拶を交わすが、似たような社交辞令の繰り返しだ。誰もが敬意を払ってくれるが、相手はリズに頭を下げているのではなく、『アル・マクダエル』の看板に平伏しているに過ぎない。

やがて父は、顔馴染みの重工業メーカーの社長夫妻と折り入って話があるからとガーデンテラスに向かい、リズは一人で壁際の席に座った。

軽くオードブルをつまみ、海鮮料理を味わった後、ダージリンティーを飲みながら一息ついていると、同じ年頃の青年に声を掛けられた。一目で『Ziggy Homme』と分かるチョークストライプのスーツを身に着け、栗色の髪をエリート・ビジネスマン風のベリーショートに整えている。バーカウンターで一緒にカクテルを飲みましょうと誘われ、あまり気乗りしなかったが、断る理由もないので同席した。男性は馴れた感じで『サイドカー』を注文し、彼女にはオレンジ風味のカクテル『グランマルニエ・コスモポリタン』をご馳走してくれた。

男性も最近アステリアに来たばかりで、サフィールのパーティーに顔を出したのも「情報のアンテナを磨く」のが目的らしい。

だが、よくよく話を聞いてみると、前年度下半期の決算で三期連続の減収減益となった自動車メーカーの跡取り息子ではないか。今後、アステリアにも営業拠点を開き、他社に先駆けて長距離型のクルーザーヨットの販売を手がけるつもりですと意気揚々と語るが、今でさえ主幹事業である自家用車の競争力が低迷しているのに、未知数の新規事業に手を出して、それで穴埋めができると思っているのだろうか。今、彼の会社に必要なのは経営戦略や開発力の見直しであり、こんな所で情報のアンテナを磨いている暇などないはずだ。

カクテルを飲み終わると、男性は「近いうちにクルーザーでご一緒しませんか」と誘ったが、リズは丁重に断り、「父と約束がありますので」と席を外した。

今、乗りたい船は世界に一つしかない。

誰よりも海を知る人の、朝風みたいな帆船だ。

鳥のように水面を渡り、夢の島へと連れて行ってくれる――。

遠くからガーデンテラスの様子を窺うと、父は四人がけのテーブルで重工業メーカーの社長夫妻と、もう一人、見馴れぬ中年女性と話し込んでいる。管理職らしいシャープな印象から察するに、この女性も顔なじみの事業家か区政の関係者だろう。四人の真摯な表情から、これは長引くと判断する。

リズはこっそり敷地を抜け出すと、海岸沿いの遊歩道をどんどん南に向かって歩いた。

サフィールのヨットハーバーからアイランドマリーナまで四キロ。赤茶色のカラーアスファルトが敷かれた遊歩道には自転車専用道路が併設されており、ロードバイクにまたがった若い男性や、ローラースケートを楽しむ少女グループとすれ違う。

少女らの歓声を遠くに聞きながら、我知らず南に向かうのは、そこに気になる人の住まいがあるからか。会ってどうなる訳でもないけれど、今、こうして一人で居ることが、たとえようもなく淋しい。

誰かの面影を求めて半時間も歩いた頃、履き慣れないストラップサンダルのせいで両の踵が赤く腫れ、とうとう一歩も動けなくなった。

仕方なくサンダルを脱いだが、まさか裸足で歩くわけにもいかず、両手にサンダルを提げたまま途方に暮れていると、いつになく夕陽が美しいのに気が付いた。

大きく傾いた陽が辺りを黄金色に染め、海の向こうまで明るく照らしている。夕風が微かに水面を揺らし、まるで互いに呼び合うかのようだ。

リズは誘われるように遊歩道の木の柵に歩み寄ると、海と太陽が溶けゆく彼方を見つめた。

もし海に恋人がいるなら、それは輝く太陽だ。昼間は女神のように燦然と世界を照らし、夜は甘えるように海の懐に帰っていく。たとえ黒雲が二人を隔てようと、心は一つ。片時も離れることなく、昼と夜を分け合い、永遠に番う。

リズは型通りのお世辞や空疎な笑いを思い浮かべ、瞳を潤ませた。その立ち位置は華やかで、全てに恵まれているように見えるが、本当に欲しいものは何一つ手に入らない。綺麗に着飾っても、愛の眼差しで見つめてくれる人はなく、淋しさは日に日に募るばかりだ。

私を見つめて――。

『アル・マクダエルの娘』ではなく、私という一人の人間を受け止め、愛して欲しい。朝目覚める度に、誰かの姿を求めて淋しい想いをするのは、もう嫌……。

まなじりに浮かんだ涙を指先で拭い、仕方なくその場から離れようとした時、背後でチリンチリンと自転車のベルが聞こえた。

何かと思って振り返ると、一番会いたい人がそこにいた。

カジュアルチェックのシャツにジーンズという軽装で、二〇インチの折りたたみ式マウンテンバイクにまたがり、海のような瞳で彼女を見つめている。サドルから真っ直ぐに伸びた脚が素晴らしく綺麗で、まるで自転車の王子さまみたいだ。

夢のような邂逅に、リズが言葉もなく立ち尽くしていると、

「今日はずいぶん華やかだね。こんな所でパーティー?」

彼がからかうように言った。

「パーティーだったのよ。行きたくて行ったわけじゃないわ。あなたがうちに来ないから、行かざるを得なくなったの」

「それはそれは」

「あなたこそ、こんな所で何をしているの」

「見りゃ分かるだろ」

「そりゃあ、見れば分かるわ。でも、どこに行ったとか、どれくらい自転車に乗っていたとか、いろいろ説明のしようがあるじゃない」

「じゃあ、ずっと乗ってた」

「『ずっと』って、どれくらい?」

「朝起きてから、ずっと」

「もしかして、一日中、自転車に乗ってたの?」

「そうだよ」

リズは目をぱちくりした。

「いつも自転車に乗って休日を過ごすの?」

「自転車の時もあれば散歩の時もある。自転車に乗ってぼーっとしたり、海岸を歩いてぼーっとしたり、TVを見ながらぼーっとしたり。ぼーっとするのが俺の至福の時なんだ」

「つまり『ぼーっとする』のがあなたの趣味なのね」

「俺は退屈な男なんだよ」

すると、リズは鈴が鳴るようにコロコロ笑い、彼もつられるように顔をほころばせた。

「そんなに可笑しいかな?」

「可笑しいわ。だって、そんなこと言う人、初めてよ」

リズはひとしきり笑うと、シフォンドレスの裾をひらめかせ、「またあなたに会ったから、海に突き落とされないうちに帰るわ。なんだか本当にバカみたい」と指先で目尻を拭った。安堵と、驚きと、いろんな思いがクシャクシャになって、全身の力が抜けそうになる。

「じゃあ、パパの所まで送ってやるよ。足をケガしてるんだろう?」

彼がリズの足元を見やると、リズは恥ずかしそうに爪先を擦り合わせた。

「靴擦れよ。馴れないサンダルを履いたから、水ぶくれができたの。でも、送るって、どうやって送るの?」

彼は自転車の荷台を指差した。まるで魚の焼き網みたいな小さな荷台に、リズが目を丸くすると、「学生時代にいつも女の子を乗せてたから、馴れてるんだ」と彼は答えた。

「いっつも?」

「放課後になると自転車置き場にゾロゾロ付いてきて、家まで送れとうるさいんだ。自分で歩けばいいのに」

「ああ、そういうこと。じゃあ、お願いしようかしら」

リズが片手にサンダルを持ち、そっと荷台に腰を下ろすと、「ちゃんと手を回せよ」と彼が言った。

「『手を回す』って?」

「ここだよ」

彼は自分の腰回りを指差した。

「えええええっ」

「『えええええっ』じゃないよ。振り落とされたいのか」

リズはおずおずと手を伸ばし、彼の腰の辺りにそっと手を置いた。服の上からでもがっしりした体つきが感じられ、吊り革みたいにジーンズのベルトに掴まっていると、

「君、意識しすぎだよ。他の女の子はもっと大胆に抱きついてくるぞ、こっちが赤面するぐらいにな!」  

彼は彼女の手をぐいと引き寄せると、自分の腰に回した。

「言っとくけど、下心でやってるんじゃないぞ」

「……分かってるわ」

「じゃあ、ちゃんと掴まってろよ」

待ったなしで自転車が走り出し、リズは「きゃっ」と叫んで彼にしがみついた。

一漕ぎする度に身体が上下に揺れ、振り落とされないようにするのが精一杯だ。

それでも一〇〇メートル、二〇〇メートルと進むうち、振動にも馴れ、風が心地よく感じられた。通りの向こうでは海が夕陽を照り返し、水面に光がきらきら跳ねている。

ほっと一息つき、少し彼の背中にもたれると、

「君、本当に『お姫さま』なんだな」

彼がぽつりと言った。

「お姫さまなんて、そんな……」

「いいや、正真正銘のお姫さまだ。敷き布団を二十枚、やわらかい羽布団を二十枚重ねても、その下敷きになったエンドウ豆が痛くて眠れないタイプだ。君によく似た人を知っている。花が咲いても、雪が降っても、『なんて美しいの!』と目を潤ませて、いまだに大天使ガブリエルが白百合を手に受胎告知に来ると信じてる。蜘蛛とミミズが大の苦手で、生まれてこの方、ジャガイモの皮を剥いたこともない。――そうだろ?」

リズは急に気恥ずかしくなり、彼の腰から手を引いた。

だが、彼は彼女の手を取って、再び深く腰に回すと、

「俺の母が君みたいな感じだよ。やっぱり名家のお姫さまで、庶民の暮らしに馴染んでも高貴さは失わなかった。気取っている訳ではなく、そういう環境に生まれ育ったんだ。どんな人も出自までは変えられない」

「きっと美しい方なのでしょうね。あなたの横顔を見れば分かるわ」

「君もこれから色んな事にチャレンジすればいいよ。母が父と結婚した時、母はオーブンの使い方も、バスの乗り方も知らなかった。結婚して間もない頃、母が皮むき器(ピーラー)を片手に『これ、どうやって使えばいいの』と真顔で聞いた時、さすがの父も宇宙の彼方に吹っ飛んだらしい。でも、何でも出来るようになった」

「それでお父さまはどうなさったの?」

「自分で一から教えたそうだ」

「それでよく喧嘩にならなかったわね!」

「むしろ大事にしてたよ。洗濯機の使い方から野菜の炒め方方まで、手取り足取り教えてた。お城の暮らしを捨てて、身一つで父の所に飛び込んできたんだ。命に代えても幸せにする覚悟だった」

「私にはお母さまの気持ちがよく分かるわ。どれほど豊かでも、何も知らないお姫さまのまま終わりたくなかったのよ。どんな家に暮らそうと、きっと、とても幸せだったはずよ。好きな人の世界の一部になって、一緒に食べたり、散歩したり……。私なら一生離れない」

リズはきゅっと彼のTシャツを掴み、彼はドキッとして後ろを振り向いた。リズはこつんと彼の背中に頭をもたせかけ、夢でも見るように海を眺めている。

やがてヨットハーバーが見えてくると、「あの建物よ」とリズが声をかけた。

「『サフィール』というの。会員制のヨットクラブよ。リゾートホテルみたいに綺麗でしょう」

「どこにでも金持ちは居るんだな」

「でも退屈な世界よ。表面ばかり繕って、裏では人を欺いて」

「だが、それで通せるのも一つの才能だ。誰だって、他人の機嫌取りなどしたくないし、本音で生きたい。だが、処世の知恵でそうしてる。それも一つの生き方だよ。俺は嫌で逃げたけど」

リズは新鮮な気持ちで彼の背中を見つめた。今までそんな風に言ってくれる人はなかった。顔が笑えば心も笑っていると思い込み、気にも留めない人が大半なのに。

そうしてサフィールの敷地の手前まで来ると、リズは彼に合図し、「どうもありがとう。あなたのおかげで助かったわ」と自転車を降りた。

「よかったら、ガーデンテラスで一緒にお茶でもいかが? パパも喜ぶわ」

「いや、遠慮しとくよ。俺はただの従業員だし、個人的に君のパパと親しいように誤解されると、何かとややこしいんでね」

「そう……」

「でも、君の心遣いは嬉しいよ。卒業祝いの車のことも」

リズが目を丸くすると、

「昼間、君のパパに聞いたんだ。君が俺の立場を心配して励ましたがっていると。ディナーの誘いも、その為だったんだろう」

どこで筋書きが変わったのか、彼はすっかり父のシナリオを信じ込んでいるようだ。

「売ることないじゃないか。卒業祝いに買ってもらったんだろう? いつかまた乗りたくなる日が来るかもしれない。それまで大切に取って置けばいい」

「あなたは怒らないの……?」

「どうして」

「パパが言ってたの。こんな事、あなたに知れたら、一生口も聞いてもらえないって……」

「大袈裟だな。居丈高に言われたら、そう感じたかもしれないが、真心だということくらい俺にも分かる。君も皆の役に立ちたいんだろう。そのことに感謝しこそすれ、恨んだりしない。車は売らなくていい。世の中には二千万、三千万の車を売って食べている人もいる。高級車を持つこと自体が罪悪なわけじゃない。それにカスタムメイドなんだろう? だったら、なおさら大事にしないと。君を喜ばせようと、真心込めて作った人ががっかりするよ。それより、今自分に出来ることを一所懸命に頑張ればいいじゃないか。君の真摯な姿を見れば、君がパパの威光を笠に着て、ぶらぶら遊び歩いているなど誰も思わない。俺の方は自分でちゃんとするから、心配しなくていい」

リズの瞳から思わず涙がこぼれると、彼はあの時と同じ大きな手を差し出した。

「仲直りしよう。君のことを誤解してたよ。いきなり海に突き落としたりして悪かった」

リズはおずおずと手を伸ばし、彼の温かな手に触れた。まるで心まで抱きしめられるような、肉付きのいい手だった。

「じゃあね、Auf Wiedersehe, Fräulein.(さようなら、お嬢さん)。俺も父親の気持ちがちょっとだけ分かったよ」

彼は自転車にまたがったまま、くるりと反転すると、風のように走り去っていった。

リズはその後ろ姿を見送りながら、「父親の気持ちが分かった」という彼の言葉を、眩しい気持ちで胸に繰り返した。

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