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繰り返される悪夢と心的外傷 ~ビジネスという名の再婚

本作は、海洋科学や土木・建築をモチーフにしたサイエンス・フィクションです。
投稿の前半に小説の抜粋。 後半に参考文献や画像・動画を掲載しています。
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第一章 運命と意思 ~オランダ人船長・漂流(2)
STORY
夫亡き後、母アンヌは深い心の傷を抱えた息子を立ち直らせようとするが、教育にも治療にもお金がかかり、暮らしもままならない。かつての婚約者で裕福な実業家でもあるジャン・ラクロワが再婚を申し出て、アンヌは息子の心的外傷の治療の為に受け入れる。
目次

母の再婚 ~君は金と保護が必要、わたしは姻戚が欲しい

実業家 ジャン・ラクロワ ~教育も幸福も金で買う時代

ヴァルターが初めてジャン・ラクロワに会ったのは八月半ばのことだ。母の学生時代の友人として紹介され、東の棟の客間で一緒にアフタヌーンティーを楽しんだ。

ジャン・ラクロワは母より九歳年上の四十六歳で、父と四歳しか違わないのに、お爺さんのように老けて見える。硬質な栗毛を七三に分け、四角い体躯に上等なブランドスーツを身に付けているが、首は太く、お腹もずんぐりして、白黒のスポーツウェアが似合った父とは大違いだ。

だが、この中年紳士がエクス=アン=プロヴァンスの一族とは異なる常識人であるのは一目で分かる。やや堅苦しい感じだが、眉は豊かで、声にも張りがあり、言葉にも仕草にも円熟した男の余裕が漂っている。彼のことも変に子供扱いせず、自身の事業やフランス社会について対等に話してくれた。

母曰く、ラクロワ氏は大学時代からレジャー船舶の輸入販売やメンテナンス業を手がけ、卒業後はアパレル、観光、小売業など、様々な事業を展開し、マルセイユでも五指に入る実業家だという。有力者の知人も多く、その交友関係は北米、中東、アフリカ、アジアと広範囲に及ぶ。

それを証すように、週末の夜には地中海ナイトクルーズに招待してくれた。

白亜のクルーザーはどこのベルサイユ宮殿かと見まごうほどで、フェールダム塩湖をのんびり周遊していた屋形船とは客層もスケールも違う。レストランは『鏡の間』を彷彿とするようなロココ調で、高価なクリスタルや陶器の置物が惜しげもなく飾られ、フォーマルに装った紳士淑女が何百ユーロもするワインや海の幸に舌鼓を打っている。

ジャン・ラクロワの姿を見ると誰もが敬意を払い、船長までが個人的に出迎えてくれた。「操縦室を見たい」と言うと、すぐにチーフパーサーが船内を案内してくれ、「サッカーが好き」と言うと、乗り合わせていたプロ選手を紹介してくれた。なんとナショナルチームのセンターフォワードだ。TVでしか見たことのない顔が目の前にあり、長年の親友みたいに接してくれる。

これはいったいどんな魔法なのか。世界を統べる黄金の指輪を手に入れたみたいだ。

*

ヴァルターが船内を案内されている間、ジャン・ラクロワはアンヌ=マリーをラウンジに誘い、フルートグラスにピンクシャンパンをなみなみと注いだ。

初めて出会った時からそうだが、いつも強引に誘い、一方的に取り決める。品も教養もあり、決して野卑な人物ではないが、心から安らげる相手ではない。愛せるものなら、出会ったその日に心惹かれていただろう。それは十年経っても、二十年経っても、変わらないと思った。

「二十歳になった君が初めてシャンパンを口にした日のことを今も覚えているよ。『最初のお酒はピンクシャンパンがいい』と言うから、シャンパーニュから最高級の銘柄を取り寄せた。そして今夜も君のためだ。あの頃から、お互いずいぶん変わった。わたしには小学校に通う娘が二人。君には中学生の息子が一人。そして、お互い、また独りに戻った」

「独りではありません」

アンヌ=マリーは毅然と答えた。

「あなたを傷つけたことは謝ります。でも、今日ここに来たのは、友人と敬えばこそです」

アンヌ=マリーが鞄一つでエクス=アン=プロヴァンスを出た後、ジャン・ラクロワはしばらく独りでいたが、九年前、突然、アパレル業界のアメリカ人女性と結婚して世間を驚かせた。祖父はアメリカの有名ブランドの創業者で、自らもキャンペーンガールを務めたり、ハイティーン向けのスポーツウェアをプロデュースしたり、大変な野心家だ。近年はコンサバティブをテーマにした新感覚のスローファッション・ブランドを立ち上げ、若者から高齢女性まで幅広い支持を得ている。

ジャンが結婚した時、「朝食にクロワッサンとカフェオレをたしなむ男が、なんであんなハンバーガーみたいな女と」と周りは首を傾げたが、案の定、結婚生活は五年足らずで破綻した。しばらくマルセイユとアメリカで別居生活を続けていたが、昨年、ようやく協議離婚が成立し、名実ともに独身に戻ったばかりである。

だが、ジャン・ラクロワは奇妙に口元を歪め、「君は何か勘違いしているんじゃないかね」と言った。

「わたしはそれほどセンチメンタルではない。まして自棄で結婚するほど愚かでもない。その時にはその時の事情がある。それは君も同じだろう。もっとも、君の場合は望んで独りになった訳ではあるまいが」

「……」

「友人として、本気で君の身の上を心配しているんだよ。このままエクス=アン=プロヴァンスの屋敷に居るつもりかね。それとも半病人みたいな息子を抱えて、もう一度、マルセイユの下町で給仕をするか。どちらも良い考えとは思えぬが」

「どんな暮らしをしようと私の人生です。自分で選んだ生き方に貴いも卑しいもありません」

「そして、愛する人の忘れ形見を港の倉庫番で終わらせたいかね」

アンヌ=マリーははっと顔を上げた。

「どれほど地頭がよくても、高等教育を受けるチャンスに恵まれなければ、行き着く先はみな同じだ。あの子もいずれ貧しさに打ちのめされ、人生を諦める」

「大事なことは私が教えます」

「もちろんだとも。君なら育ちの悪い番犬も皇帝付きの軍用犬に調教できる。あの子もみっちり仕込めば雑貨屋の主人ぐらいにはなるだろう。だが現実を見たまえ。給仕に通わせられる学校などたかが知れている。同級生にドラッグを売るような連中と机を並べて、一流のビジネスマンやエンジニアになれると思うのか。高校を出る頃には酒と煙草の味を覚えて、港でたむろするのが目に見えている。そのうち小遣い欲しさに麻薬や人身売買の手助けもするようになるだろう。大学にも行かず、定職にも就かず、昼間から酒をくらって、港をうろつく野良犬の仲間入りだ」

「……」

「君が十代の頃より状況は悪くなっている。どれほど素地が良くても、場所を間違えれば一生台無しだ。教育も幸運も金で買う時代だよ、アンヌ=マリー」

「お金で買えない教育もあるわ」

「知ってるよ。君の息子を見れば分かる。十四歳にしては道理をわきまえているし、頭もいい。君に似たんだな」

「父親に似たのよ」

「アンヌ。わたしは君を恨んだことは一度もない。相手の男もだ。あの頃、君はまるで赤ん坊だった。大学を出たばかりで、色恋も知らず、旅先で出会った土木技師を白鳥の騎士と見間違えても不思議はない。君の幸福を思えばこそ、わたしも黙っていた。だが、結果はどうだ。家財もなくし、頼る人もなく、息子は心的外傷で顔付きまでおかしくなっている。君はあの子があんな状態になっても、医者にも診せず、愛と根性で治せると思っていたのかね。もう旅は終わったんだ。現実を見なさい。このままでは君もあの子も一生底辺だ」

アンヌ=マリーの瞳に悔し涙が浮かぶと、

「わたしが援助しよう」

ジャン・ラクロワが静かな口調で言った。

「君が望むなら、金に糸目はつけない。最高の教育、最高の治療、最高の住環境。パソコンでも自転車でも、何でも最高のものを与えてやろうじゃないか」

「――どういう意味ですの」

「わたしと再婚しろ」

「なんですって?」

「これはビジネスだ。君は金と保護が必要、わたしはエクス=アン=プロヴァンスの姻戚が欲しい。最初からそれが目的の出会いだった。何を驚くことがある」

「あなたがそんな卑しい考えで求婚なさるとは思いもしませんでした」

「君にどう罵られようと構わない。だが、君に給仕や売り子以上の仕事が見つけられるのかね。教育を受けるにも、心を治すにも、金がかかる。綺麗事で食べていけるなら、誰も路上で野垂れ死んだりしない。息子を廃人にしたくなければ、わたしの申し出を受けろ。それが一番賢明だ」

「あの子は決してあの人以外を『父さん』とは呼ばない。上辺だけ父親と呼ばれて平気なの?」

「どのみち、そういう世界じゃないか。夫婦が権利を争い、親兄弟が財産を奪い合う。呼び名や属性にどんな意味があるのかね。あの子も特権階級の旨味を知れば、土の匂いのする父親の教えなどすぐに忘れる。金で買えない教育もあるが、この世の幸福の大半は金で買える」

ジャン・ラクロワが傲然と言い放つと、アンヌ=マリーは激しい怒りを覚え、問答無用で席を立ちかけたが、その時、ヴァルターが一枚のポートレートを手に嬉々とした表情で戻って来た。

「母さん、ベルクール選手にサインをもらったよ」

「ベルクールって……センターフォワードのガエル・ベルクール?」

「うん。この船に乗ってるんだ。ガールフレンドのアネットという人も一緒だった。ほら、船長さんと一緒に記念撮影も」

「会いたい人があれば、いつでも言ってくれていいよ」

ジャン・ラクロワはにこやかに言った。

「君はまだ子供だ。子供が幸福になるには、いろんな楽しみが必要だからね」

繰り返される悪夢 ~大洪水の心的外傷

一週間後、 アンヌ=マリーはジャン・ラクロワの言葉が上辺だけでないことを知った。

マルセイユでも一、二を争う名門私立学校から案内状が届いたのだ。それに併せて、高台にあるメンタル・クリニックの予約券も添えられている。学校はともかく、一度、受診が必要なのは確かだ。ヴァルターは嫌がったが、「夜、少しでもぐっすり眠れるように」と説得し、一度限りの約束で受診した。

クリニックは真新しい住宅街のど真ん中にあった。外観も内装も高級オフィスのように洗練され、心を病んだ人が通う医療施設にはとても見えない。ドクターも上品な中年の女医で、半時間ほどカウンセリングすると、数種類の錠剤を処方した。

「よくなるのでしょうか?」

アンヌ=マリーが強い不安を示すと、女医は声を潜めて「時間がかかります」と答えた。

「あの子の場合、未だにTVの映像が生々しく瞼に浮かぶそうです。決壊した堤防や水没した干拓地の光景です。父親が高波に呑まれる夢も繰り返し見ると言ってました。父親の後ろ姿を必死に引き留めようとするけれど、その声は届かず、あっという間に波に呑まれて、藻掻き苦しむのです。そうかと思えば、父親がライン川の向こうから手を振りながら戻ってきて、『心配かけたね、ヴァルター。もう大丈夫だよ』と抱きしめてくれる。『やっぱり父さんが死んだなんて嘘だ、俺のところに戻ってきてくれた』と幸せいっぱいに父親の胸に顔を埋めるけれど、朝が来たら何もかも幻のように掻き消え、その度に自分も死にたくなるそうです。それ以外にも、サッカー、自転車、音楽など、父親を連想するものを目にしただけで、所構わず涙があふれ、級友にからかわれたことも一度や二度ではないと。でも、お母さんに心配かけまいと、家でも学校でも張り詰めたように暮らしているのでしょう。顔半分が歪んだように見えるのも、そうした緊張の表れです。天災や交通事故、目の前で人が殺されるなど、ショッキングな体験が引き金となり、鬱、自傷、悪夢など、何年、何十年と苦しむ人も少なくありません。これといった治療法はなく、記憶を消し去る事もできませんが、根気よくケアすれば苦痛を和らげることはできます。ただ、一朝一夕に改善することは期待なさらないでください」

診察後、受付で請求書を見たアンヌ=マリーは飛び上がりそうになった。ほんの三十分で、この金額。一ヶ月の光熱費よりも高いではないか。

戸惑いながら財布に手をかけた時、「すでに診察料は頂いております」。

誰が払ったかは言わずもがなだ。

アンヌ=マリーは息子の背中を抱いてクリニックを出ると、近所の薬局で処方薬とハーブティーを買い求め、少し気分転換に遊歩道を歩いた。

頭上には太陽が照りつけ、青空が目に眩しいほどだが、ヴァルターはじっと口を閉ざしたまま、にこりともしない。クリニックでいろいろ喋りすぎたせいで、心に反動が来たのだろう。「カフェに行って、マカロンでもいただきましょうか」と促しても、黙って頭を振るだけだ。

そうして通りの端まで来ると、グラウンドでサッカーをしている少年たちの姿が目に入った。

フェンス越しにじっと見つめるヴァルターの横顔を覗き込み、「あなたも体調がよければサッカーをしていいのよ。どこか受け入れてくれそうなクラブを探してみましょうか?」と声をかけるが、彼は答えない。

そのうち誰かの蹴ったボールがここまで転がり、一人の少年が拾いにやって来た。ヴァルターと同い年くらいの体格のいい子だ。少年がよく鍛えた足で蹴り返すと、ボールは虹のような弧を描いてセンターまで飛んでいった。

「あなたも以前は、あれくらい軽く飛ばせた」

アンヌ=マリーは、アルコレ橋のナポレオンみたいにフィールドを駆け回っていた息子の雄姿を思い返した。

「少し練習すれば、すぐに勘が戻るんじゃないかしら」

だが、彼は痛いほど金網を握りしめ、幼子のように涙をこぼすだけだ。以前は肉付きもよく、ピューマのようにしなやかな体つきをしていたのに、今は痩せて見る影も無い。このままでは高校はおろか、中学校を卒業することさえままならないのではないか。子犬のように声を押し殺して泣く息子の姿を見るうち、アンヌ=マリーの脳裏にジャン・ラクロワの言葉が響いた。

「わたしが援助しよう。これはビジネスだ」

再婚という名のビジネス ~君は金と保護が必要、わたしは姻戚が欲しい

二日後、アンヌ=マリーは診察の礼を兼ねてジャン・ラクロワの住まいを訪れた。

ジャンは「マルセイユのラクロワ」と呼ばれる大財閥の一員で、彼の親族はいずれも金融、政治、文化教育など、様々な分野で高い地位に就いている。

現代の王族といわれ、その呼び名も様々だ。「血塗られたラクロワ」「プレジデントメーカー」「世界の支配者」。これらの噂について尋ねられても、彼らは黙って笑みを浮かべるだけ、否定も肯定もせず、世間の好きに言わせているところが、かえって不気味でもある。

わけても有名なのは、世界最大のメガバンク《クレディ・ジェネラル》との密接な関係だろう。ラクロワの血筋であるオーナー一族はパリに拠点を置き、支配域をみなみのうお座まで広げている。ニムロディウムの発見後、宇宙開発を先導した国際資本グループ『トリアド・ユニオン』が、実質、彼らの持ち物であるのは有名な話だ。

世界各地で大型合併や金融再編、政権交代や内紛が起こる度、『マルセイユのラクロワ』の名が囁かれ、その影響力が取り沙汰されてきた。その実体がどこにあるのか、クレディ・ジェネラルの幹部でさえ知り得ぬ世界であり、暗部を覗き見た者は親族でさえ消されるという、まことしやかな噂もある。

ジャンは出自を誇ることはないが、直系にかなり近い血筋だそうだ。一部の親族らと共にマルセイユの丘陵の奥深くに居を構え、独自のゲーテッド・コミュニティを形成している。そこでは一般車両の乗り入れも厳しく制限され、誰がどんな暮らしをしているのか、外から窺い知ることはできない。

その中でも、ジャンは一風変わった存在だ。一族の大半が親の資産と家業を受け継ぎ、当たり前のように先代の椅子に座るのに対し、ジャンは大学時代に自らビジネスを立ち上げ、己の才覚で現在の地位と名声を勝ち取った。また一族が徹底して秘密主義、身内主義であるのに対し、ジャンは一族から距離を置き、外部との交流を大切にしている。上客を招待する時も、これみよがしにマルセイユのゲーテッド・コミュニティに呼び出したりせず、自らが所有するクルージングヨットやリゾートホテルで華やかにもてなすのが彼のスタイルだった。

アンヌ=マリーを乗せた黒塗りの送迎車がゲーテッド・コミュニティの正門に到着すると、車はいったんカーポートに入り、そこでセキュリティ・チェックを受けた。車はジャン・ラクロワの私有である為、認証キーの照合だけで通過したが、運送トラックや作業用車の場合、ガードマンがボンネット、トランク、車内の収納ボックスまで開いて、銃器や爆発物、録音装置などの有無を確かめるらしい。

ゲートを通過すると、森林に囲まれた一本道をさらに数百メートルを走り、いくつかの屋敷の前を通り過ぎる。それもまた背の高いブロック塀に守られ、至る所で監視カメラが目を光らせている。

途中、三叉路を左に曲がり、雑木林を抜けると、そこがジャン・ラクロワの邸宅だ。本邸は白を基調としたキュービック・スタイルで、インテリアも現代的なデザイナーズ家具で統一されている。

そのくせ、廊下の突き当たりに中国の美人画が飾ってあったり、年代もののペルシャ壺が置いてあったり、アメリカンフットボールのスーパースターの直筆サイン入りポートレートが立てかけてあったり、ハンバーガー女性とのちぐはぐな暮らしが忍ばれる。

現在、ジャンは独り暮らしで、八歳と六歳になる娘は母親と一緒にニューヨークに住んでいる。前妻とも特にわだかまりはなく、今でも互いの事業をサポートしたり、年に数回は娘を交えて顔を合わせる仲だ。

アンヌ=マリーは一階の主応接室に通され、家政婦が運んできた紅茶を飲みながら帰宅途中のジャンを待った。ジャンはマルセイユの中心街にメインオフィスを構えているが、仕事の大半はホームオフィスでこなし、町中のオフィスは主に応接に利用している。今日もモロッコから訪れた金融関係者と面談中で、予定より少し長引くとのことだ。

紅茶を飲み終わり、ふと格子型の飾り棚を見やった時、デルフト焼きの飾り皿が置かれているのに気づいた。デルフト焼きはオランダの伝統的な工芸品で、ラピスラズリを溶かしたような青色が美しい。描かれているのは、オランダの代表的な画家ヨハネス・フェルメールの『真珠の首飾りの少女別名「青いターバンの少女」』だ。肩越しに、少しこちらを振り向いた表情がどこかアンヌ=マリーに似ている。

なぜこんな所にデルフト焼きが――と奇異に感じた時、戸口に人の気配を感じ、アンヌ=マリーは弾かれたように席を立った。

いつの間に帰ってきたのか、ジャンが戸口に立っている。

彼女と目が合うと、ジャンは大きく構え、「それで決心はついたかね」と横柄な口調で言った。

「ドクターとは電話で話した。予想以上に悪いと言っていた。洪水以来、まともに眠ったためしがないそうだ。気付いていたかね?」

「……」

「まあ、気付いても、治す余裕もないだろう。君も一度、自分の顔をじっくり鏡で見てみるといい。まるで絵皿に若さを吸い取られたが如くだ」

ジャンはつかつかと中に入ってくると、アンヌ=マリーの向かいにどっかと腰を下ろした。

その威圧感は、十四年前と全く変わらない。

二十歳のダンスパーティーでラストダンスを踊った時、これが未来の夫と覚り、自分でもそのように言い聞かせてきた。母も、叔母も、従姉妹らも、みな富貴な人と結婚し、愛より社会的な後ろ盾を優先してきた。一族にとって結婚とは財産と権力の物々交換に他ならず、ロマンスなど無用の感傷とはなから割り切っている。そんな中、自分だけ自由が許されるとも思えず、それが定めと諦めてきた。

だが、大学を卒業し、いよいよこの人の妻になると思うと、鎖に繋がれたアンドロメダのような気分になり、食事の誘いも、贈り物も、電話すらも拒絶するようになっていた。

周りはそれをマリッジブルーと解釈し、ジャンにもそのように取りなしてきたが、一時の憂鬱などであるはずがない。本音も言えず、逃げることも叶わず、悲しみに沈んでいた時、たまたま似たようなマリッジブルーを経験した遠戚の女性と話す機会があり、フィンステンベルクの別荘に招いてくれた。アンヌ=マリーは逃げるようにネーデルラントに赴き、マルセイユとは異なる田園風景に目を見張った。

ネーデルラントの春は美しかった。

色とりどりのチューリップが咲き誇り、束の間、淋しさを忘れさせてくれた。

それでも心は晴れず、小鳥が恋を歌っても、風が木々を奏でても、私の人生に春が訪れることは永遠にないのだと目に涙を浮かべて川向こうを見やった時、運河に落ちた幼子のボールを懸命に拾い上げようとする作業員の姿が目に入った。この世にはなんと優しい人もあるのかと、心洗われるような思いで見つめ、その人と目が合った時には恋に落ちていた。

思い違いなどではない。何度生まれ変わっても結ばれたいと願うだろう。魂があの人を選んだのだ。

それは目の前の人も同じだ。あの人に出会っても、出会わなくても、この人に恋心を抱くことは永久にない。

「それで君の返事は?」

ジャンがぶっきらぼうに訊いた。

「二、三日で答えが出るとお思いですか?」 

「他に答えがあるなら迷いもするだろう。だが、君に選択肢はないはずだ」

アンヌ=マリーはぎゅっと唇を噛みしめ、ここで腹を括るか、母子二人、浜に打ち上げられた魚のように飢えて死ぬかだと思った。

「あなたが本当に援助者として私とあの子の人生に関わるつもりなら、その証しを立てて下さい。一つは、私とあの子のために住まいを用意すること。二つ目は、フォーゲル姓を通すこと」

「わたしを舐めるんじゃない。金と好意だけ引き出して、あとは自分たちの好きにさせろと? 最初に言ったはずだ。これはビジネスだと。私は金で君の姻戚を買い、君もそれなりのものを差し出す。形だけの妻にしても、世間の流儀に則ってもらわねば困る」

「……ここで一緒に暮らせと?」

「わたしは公私ともに客人が多い。もてなすのは君の重要な仕事だ。第一、家の務めを果たさぬ者が『奥さま(マダム)』と仰ぎ見られると思うのか? それなら囲いの女のように金だけくれてやった方がましだ」

アンヌ=マリーは思わず立ち上がり、

「お話はなかった事にして下さい。こんな屈辱を受けるぐらいなら、あの子と二人、乞食にでもなった方がまし」

「なれるものなら、なってみろ。最愛の者が飢えと絶望でぼろぼろになっていく姿を目の当たりにできるならな」

「……」

「何も身を売れと強要しているわけじゃない。ここで暮らすなら、君の為に居室も寝室も別に用意する。二階に二世帯が余裕で暮らせるほどのスペースがあるのは知っているだろう」

「本当に守って下さるのね」

「わたしの住まいは運河沿いの貧乏長屋とは違う」

*

その夜、アンヌ=マリーはヴァルターにこう告げた。

「ラクロワさんがね、あなたさえよければ、丘の上の家で一緒に暮らさないかと仰ってるの。学費も、治療費も、全部援助して下さるって。もう何も心配しなくていい。着る物も食べる物も十分に与えられる。丘の上の私立学校に行けば、港町の学校みたいに苛められることもない。みな優秀で行儀のいい子弟ばかり、最高の環境で、あなたも落ち着いて学ぶことができるわ。以前のように、フィールドを駆け回ることも」

「父さんはどうなるの?」

「どんな時も一緒よ。忘れたりしないわ」

ヴァルターはじっと口をつぐんでいたが、「お金持ちの家で暮らした方が母さんは楽なんだね」と呟いた。

「ヴァルター……」

「母さんが幸せなら、俺は従うよ。背伸びしたって、母さんを養えるわけじゃない。共倒れになるより、母さんだけでも幸せになった方がいい」

【コラム】 今この子に「生きろ」と言うことは、「死ね」と同じくらい残酷に思える。

「死にたい」の反対後は「生きろ」ではなく、「そんなあなたの側に居たい」だと私は思います。

「そんなあなたが好き」という言葉もありますね。

大洪水で父親を亡くしたヴァルターは、移住のストレスもあり、すっかりやつれて、悪夢にさいなまれるようになります。

母のアンヌ=マリーは、なんとか息子を力付けようとしますが、サッカーも、学業も、父に結びつく思い出は息子の心を苦しめるだけ。かっては少年サッカーのスターだった息子も、同じ年頃の少年らが元気よくサッカーに興じる姿を見て、幼子のように涙をこぼすだけです。

だが、彼は痛いほど金網を握りしめ、幼子のように涙をこぼすだけだ。
以前は肉付きもよく、ピューマのようにしなやかな体つきをしていたのに、今は痩せて見る影も無い。
このままでは高校はおろか、中学校を卒業することさえままならないのではないか。
子犬のように声を押し殺して泣く息子の姿にアンヌ=マリーも胸を刺し貫かれ、今、この子に「生きろ」と言うことは、「死ね」と同じくらい残酷にも思えた。

※ このパートのボツ原稿

傷ついた子供に「頑張って生きるのよ」と言葉で励ますのは簡単ですが、絶望しきった人間に、生きる力など、そうそう湧いてくるものではありません。
まして死んだ親への愛着に対し、慰める術もないというのが現実ではないでしょうか。

打ちひしがれた息子の姿を見て、アンヌ=マリーは、今、息子に「生きろ」と言うことは、「死ね」と同じくらい残酷に感じ、ただただ側に寄り添うことを選びます。

あれこれ立ち直りを急がせるより、心の傷が癒えるのを、ゆっくり、共に待つ姿勢が大切だからです。

心が弱った人にとっては、幾千の励ましより、目に見えるアクションより、ただ黙って側に寄り添うことが最大の支えです。

逆に、支援者が「何かしなければ」と急ぐのは、「何もしない(できない)」自分への負い目や罪悪感の裏返しかもしれません。

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