MORGENROOD -曙光
被災地の様子 ~個人ブログの記録より
被災から数年間は、被災直後の様子を伝える個人ブログがたくさんありました。
私も本作の資料として、いくつかクリップしていますが、その大半は既に削除され、Evernoteに保存しているノートだけが残っています。
個人ブログは、大手メディアでは伝えきれない実状を生々しく記録する貴重な資料でしたが、多くが個人の善意で運営されているため、時間とともに消失してしまうのは仕方のないことかもしれません。
しかし、その為に、被災地の実状が忘れ去られ、あれほどの大災害も遠い過去のものになってしまうのが残念でなりません。
本作でもあるように、大洪水から十数年の歳月が流れようと、元住民にとっては「昨日の出来事」であり、今なお直面する問題だからです。
下記は私がEvernoteに保存していた資料の一部です。
ブログそのものがなくなっているので、運営者とも確認のしようがないのですが、参考に掲載しておきます。
【震災被害】鹿妻の住宅地と、ロードサイド店の被災状況
http://ishinomaki-photo.blogspot.com/2011/03/blog-post_25.html(現在、このリンクは削除されています)
3月25日、震災から2週間が経過しました。
2、3日前まではガレキの山だった内海橋が、通行可能になっていたので、
そこを渡って、渡波・鹿妻方面へと向かってみました。
渡波駅の裏手から、鹿妻方面へと入っていきました。
ぱんぷきん介護センター前の状況です。
鹿妻の住宅地の北側の水田には、
津波に押し流された自動車が、あちこちに散らばって、放置されていました。
鹿妻地区は、鹿妻小学校周辺など、海から1キロほど離れた地域では、
床上浸水で済んだ地域もありますが、
海に近づくにつれ、半壊・全壊の家が目立ちはじめます。
鹿妻地区の、国道398号線沿いには、ローザサイド型の店がたくさんあります。
それらの店も、ほとんどが、はげしく損壊しました。
鹿妻地区随一の書店だったヤマトヤ書店も、復旧の道のりは長そうです。
石巻信金の鹿妻店や、酒のやまやの前は、ガレキの山にふさがれていました。
鹿妻地区の中核店といえる、ヨークベニマルも、隣接してあるホーマックも被災。
鹿妻地区の商業地は、ほとんど壊滅状態といえそうな状況でした….。
続きは私のEvernoteにクリップしています。興味のある方は下記URLにアクセスしてください。
shiderz402さんのブログにも被災後の写真が多数掲載されています。(こちらはウェブに残っています)
shiderz402のブログ : 2011年05月16日
http://blog.livedoor.jp/shiderz402/archives/2011-05-16.html
農地再生と町の再建 ~土地が蘇れば、何十年、何百年と作物を実らせる
壊滅的な被害を受けた干拓地にモダンな臨海都市を建設しようという計画が持ち上がる。復興ボランティアに打ちこむヴァルターとヤンは農地再生こそ真の再建と説く。
再建の誓い ~ 骨一本になっても愛する故郷を想う
元住民の反発に対抗して自治体は再建コンペを企画する。ヴァルターは死んだ父の無念を思い、徹底的に戦うことを誓う。
干拓地の再建をめぐる対立 ~進歩が最善とは限らない
世界的建築家メイヤーが講演にやって来る。無責任なリビルド理論を振りかざすメイヤーに、ヴァルターは進歩が最善とは限らないと反発する。
【小説】 迷走する干拓地の再建 ~自治体の思惑と元住民の願い
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(ページ数 7P)
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【小説】 迷走する干拓地の再建 ~自治体の思惑と元住民の願い
決壊した締切堤防
次の日、ヴァルターとヤンはデンボンメルの植樹を半時間ほど見て回った後、湖岸を北に向かい、父の最後の場所となった締切堤防を訪れた。
あれから六年。
今も何の情報もなく、遺体も見つかっていない。
せめて、どこで、どんな最後を迎えたのか、痛みはなかったか、死は安らかにやってきたか、最期の様子を知りたいと思うが、目撃者もなければ、物的な手掛かりもなく、今も悲しみは計り知れない。
やがて目の前に全長3キロメートル、幅170メートルの締切堤防が迫ると、彼は足を止め、死の影に胸を詰まらせた。
「見たくないなら、見なくていいんだぞ」
だが、彼は首を振り、堤防の端から端まで視線を廻らせた。
洪水の後、大至急で修復されたコンクリートダムは、子供の頃の記憶と寸分違わない。築堤に沿って敷かれた二車線の湾岸道路は、以前と同じように南北を結ぶ交通路の役目を果たし、たくさんの車が南北に行き来している。その片側に作られた自転車道路ではロードバイクにまたがった若者がサイクリングを楽しみ、堤防天端の遊歩道や砂浜にも散歩や凧揚げに興じる人々の姿が戻っている。
だが、よく見ると、以前は水平だった堤体が真ん中辺りで不自然に盛り上がり、周りとは質の異なるコンクリート材に置き換わっている。その大きさを見るにつけ、あの夜の高潮の凄まじさが胸に迫った。
「あの大洪水で十五人が死亡、もしくは行方不明になった。そのうち十一人が土木作業員、遺体が見つかったのは四人だけだ。『たったの十五人』という人もあるが、死者の数に多いも少ないもない。家も田畑も無くした者にとっては死んだも同然だ」
ヤンは憤懣やるかたないように言った。
それから二人は歩道橋を渡り、堤防の内側を走る二車線の湾岸道路を越えて、堤防天端の遊歩道のベンチに腰を下ろした。
こうしていると、あんな大災害があったとは思えないほど静かだ。海は凪ぎ、空は天に突き抜けるほど青く澄みわたっている。
「半年前、デ・フルネの活動を通じて、最後まで堤防に残っていた作業員の話を聞いた。高潮が足元まで迫り、さながら地獄絵図だったそうだ。それでも全員待避の指示が出るまで、誰一人持ち場を離れなかった。全員一丸となって堤防を守ろうとしたんだ。あと五時間、いや四時間でも持ちこたえれば、夜も明けて、雨も収まったのに、不運だったいう人もある。だが、決壊は起こるべくして起こったというべきだ。あの時、お前のお父さんが進言したように補強工事が行われていたら、こんな大惨事にはならなかったかもしれない」
フェールダムの締切堤防は、四世紀前、国家的な治水事業『第一次デルタ計画』の一環として建設された。基底部をケーソンで固定し、堤防の両法面にはアスファルト舗装やハニカム構造のコンクリートブロック材を施して防潮機能を強化した、ネーデルラントでも堅固で美しい堤防の一つだ。
この四世紀の間に何度も補修工事が行われ、舗装のひび割れやブロックのずれなど、小さな損傷は修復されてきたが、肝心な計画高水位や計画堤防高の見直しは一向に進んでいなかったという。計画高水位とは、数百年に一度の大雨などを想定して求められた河川の最高水位であり、これに余裕を持たせて必要な堤防の高さを算出したのが計画堤防高である。
だが、どれだけ精密なデータをかき集め、高度な計算を繰り返しても、数百年先の未来まで絶対安全な数値を求めることはできない。また、気象、河川全体の状況、構造物の品質等によっても安全性は大きく左右される。
その技術検証に取り組んできたのが、父も在籍したフェールダムの治水研究会だ。
治水研究会は何度も自治体に掛け合い、計画高水位や計画堤防高の見直しや抜本的な補強対策を訴えてきたが、予算やその他の都合で毎年先送りされ、洪水の前年にはフェールダム東側の可動式大防潮水門の整備が優先された。その経緯はどこまでも不公平、かつ不透明で、父が何ヶ月も憤っていた所以である。
「治水研究会と自治体の間にどんなやり取りがあったかは知らないが、強い権限をもつ役員に一蹴されたのは確かだ。オレも治水や自治体の関係者を通していろんな話を聞いたが、可動式大防潮水門をめぐって相当揉めたようだ」
「そのことなら、俺もよく記憶している。洪水の前年、父にしては珍しくカッカしていた。子供心にも、その無念が感じ取れるくらいに」
「お父さんのことは本当に気の毒だった。サッカーで世話になった者はみな悲しんでいるよ。あんな善い人が水害で命を落とすなど、神も正義もあったもんじゃないと。我先に逃げ出した人も多かったのに」
「元住民の大半が生き残っているのに、いっこうに復興が進まないのは何故だ?」
「お金の問題もあるし、社会的合意が得られない部分もある。意見が真っ二つに割れてるんだ。昔のままの干拓地を再建したい声と、水没した一帯を埋め立てて新しい臨海都市を築く案と」
「埋め立て?」
「そうだ。この辺りは塩害がひどくて、昔のような豊かな農地を再現するには何十年とかかる。以前はサマーシーズンになると、国内外から何十万という観光客が訪れ、海水浴やカイトサーフィンを楽しんだが、フェールダムの宿泊施設や飲食店は壊滅して再開の目処もつかないし、湖畔のマリーナや小売店も観光客が減少して、どこも悲鳴を上げている。だから、何十年もかけて農地を再生するような、まどろっこしい方法ではなく、一気に町を作り替え、モダンなリゾートを作るのが地元政財界の希望なんだよ。そうすれば観光客も呼び戻せるし、自治体の産業も立て直せる」
「馬鹿馬鹿しい。治水に失敗したエリアに商業施設を建て直して、何の得になるんだ。再び水害で往生するのが目に見えてるじゃないか」
「だから元住民や地元民は強硬に反対してるよ。フェールダムに必要なのは、より強固な堤防と護岸対策であってリゾート施設じゃない。あれは数百年後に一度の災害だからといって、次の大洪水も数百年後とは限らないからな。かといって、自治体に十分な復興予算はないし、今更壊滅した故郷に戻ってくる人もない。それで、いつも話が二転、三転して、いっこうに前に進まないんだ。正直、フェールダムは見捨てられたようなものだ。農地跡ぐらいにしか思われてない。どうせ住民の数より牛の数の方が多かった」
彼は父の眠る海を見つめ、(父さん、さぞかし悔しかっただろう)と唇を噛んだ。あれほど真摯に干拓地の未来を考え、自治体にも粘り強く働きかけてきたにもかかわらず、願いは通じなかった。そして、あの晩、最後まで堤防に残っていたのも父だ。自治体や治水局の役員ではない。
怒りに燃える目で父の死に場所を見つめていると、
「お前、大学を卒業したら帰って来いよ」
ヤンがぽつりと言った。
「お前ならすぐに仕事も見つかるだろう。帰郷すれば、復興ボランティアも一緒にできる。お前なら大歓迎だ」
「そうしたいが、俺の将来は既にプロテウスに繋がれている。復興に尽くしたい気持ちは本物だが、海洋調査の夢も諦めたくはない。仕事は初志貫徹するよ。海洋科学に関してはフランスがトップクラスだから。でないと、どっち付かずで終わってしまう」
「そうだな」
「その代わり、これから度々帰郷するよ。俺に出来ることがあれば何でも言ってくれ」
それから四日間、ファンデルフェールのヤンのアパートで過ごし、復興ボランティアを手伝った。今はまだ荒れ放題だが、仲間が植えた苗木も野菜種もすくすく育っている。何年、何十年の歳月と共に、いつかきっとフェールダムの緑も蘇るだろう。
「創造的であることが、あらゆる苦悩から我々を救ってくれる」という髭の教授の言葉を噛みしめながら、彼は故郷を後にした。
暗く沈んだ水の底にやっと光が差したような気分だった。
義務でも、強制でもなく 命の道と信じて
初めての帰郷は母との関係も変えた。
久々にマルセイユに戻ると、旧港のカフェ『Pour(プール) toujours(トゥルージユ)』で久しぶりに母と顔を合わせた。
フェールダムで見聞きしたことを伝えると、
「見てきてくれて、ありがとう。でも、私はまだあそこに行く勇気がないの。頭では理解できても、まだ納得がいかなくて。なぜ、あの時、喧嘩してでも引き留めなかったのか、毎日後悔ばかりしているわ。この世に生きること以上に価値のあるものがあるかしら。卑怯者と呼ばれても、生きていて欲しかった……」
「それは違うよ、母さん」
彼は身を乗り出した。
「卑怯者と呼ばれることは父さんの望みじゃない。我先に逃げて生き長らえても、苦さだけが残っただろう。そして、俺もそんな父さんを違う目で見ていたはずだ。悪いのは洪水だ。父さんは何も間違ってない」
アンヌ=マリーは目の覚めるような思いで息子の顔を見つめ、
「あなた、成長したわね。あの夜のことを、こんな風に語れるようになったのね」
と新たな涙を浮かべた。
「正直、あなたがフェールダムに行くと聞いて、とても不安だったの。かえって打ちのめされて、ますます世を恨むようになるのではないかと。だけど、あの人の願いが通じたのね。そんな風に言ってもらえたら、あの人も本望でしょう」
その年の夏には母を伴い、再びフェールダムを訪れた。
母もまた瓦礫の前で泣き崩れ、「神様はなんと酷いことをなさるのか」と嘆き悲しんだ。
だが、彼に抱きかかえられるようにして締切堤防を目にすると、「あなたが言ったことは本当だった」と深く頷いた。
「義務でもなく、強制でもなく、これが命の道と信じて堤防に戻ったのよ。あなたの中で永遠に生きるために」
それから母をデンボンメルに連れて行き、その日手に入れた苗木の中で最も立派な一本を父の記念樹として植えた。
今では母より背も高くなり、その身を支えるほどの腕力もある。子供じみた怒りも消え失せ、これからは男として守らねばという自覚も芽生えた。
そして、母もいつまでも篭の鳥ではない。彼が商船学校に上がった頃から子供向けの言語障害支援センターの準備を始め、この春、ようやく開設に漕ぎ着けたところだ。今では「ラクロワ夫人」として周囲の尊敬を集め、公私ともに忙しい毎日を送っている。
彼自身は今もジャン・ラクロワに頭を下げる気はないが、母が生き甲斐を得て、充実した人生を送れるなら、それに越したことはない。
いろんな意味で最悪の時期は脱し、ようやく新しい道が目の前に開けた気分だった。