世界とは、君の心が映し出す心象

目次

【小説の抜粋】 世界とは認識されるもの

2001年の下書きです。

初めて洋上の採鉱プラットフォームを目にして衝撃を受け、アル・マクダエルと自分の差、そして自分の卑小さを思い知る場面です。

最終稿では、若さゆえの無力感 ~いやいやでも働くうちに自分が何ものか思い出すのように、よりマイルドな内容に落ち着きました。

下書きで、ヴァルターがアグレッシブなのも、アル・マクダエルが説教臭いのも、私が若かったからです。

アルに出会った頃、ヴァルターは故郷の仲間の信頼を失い、パイロットの仕事も解雇されて、ずたずたに傷つきます。

世を恨み、人を憎み、怒りでぱんぱんに膨れ上がった状態での独白が次の通りです。

最初のキャラクター設定はずいぶん根暗です。

消えろ! と彼の心は叫ぶ。世界ごと滅んでしまえばいいと

海はいつも美しかった。

何の汚れもないように青く、眩しく輝いて、常世そのものだった。

たとえ荒れて、死の恐怖にさらされても、海が憎いと思ったことは一度もない。あの悲惨な大水害の後でさえ、その水は、どこか常世の聖なる流れに連なっているような気がしたものだ。

なのに、今、目の前に広がる海の醜さはどうだろう。

どす黒い水。どす黒い風。

まさに「見捨てられた海」そのものだ。

行けども行けども果てがない。

まるで世の末まで暗く曇っていそうな海の色。

その海で、負い目を返せとアルは言う。

だが、返すどころか、もっと大きな負を背負いそうで気が滅入る。

何が欲しくて、こんな所まで来たんだか……。

ヴァルターは、デッキの鉄柵にもたれながら深い溜息を吐くと、どこへ行くとも知れぬ潮の流れを見つめた。

あの日、あの時、辞職届があっけなく受理されなければ、彼は今もネクサスの第一線で活躍していたはずだ。最高の機材を操り、誰よりも海の深みを極め、独自の世界を構築していたはずだ。

なのに、なぜ、ここなのか。

理不尽な経緯で陸に干されたかと思えば、今度は見捨てられた海に投げ込まれ、水深5000メートルの深みからレアメタルを掘り出せという。

いったい、何のために、誰のために?

世界の構図が変わったとて、何の意味がある?

それを思うと、彼のプランを嘲り、辞職届を待ってましたとばかりに受け取ったネクサスの上役が、殺してやりたいほど憎かった。

だが、もう全て過ぎ去ったこと──これからを考えよう──そう思っても、心に深く染みついた怨みや憎しみは、そう簡単に拭い去れるものではない。今頃、ステラ・マリスの海で高笑いしているだろうネクサスの上役やライバル達の顔を思い浮かべると、胸の奥からたちまち怒りが噴き出してくるし、彼を嗤った成金継父の事を思うと、体中の血が激しく煮えくり返る。それはまるで亡霊みたいに彼の背後に取り憑いて、どこからともなく嘲笑を浴びせかけるのだ。

消えろ! ──と、彼の心はいつも叫ぶ。

この世界ごと滅んでしまえばいい、と。

濁流が彼の故郷をそっくり呑み込み、破壊し尽くしたように、この海も激しく逆巻き、世界を押し流してしまえばいい。

そうすれば、全て無くなる。

彼も、彼を嗤う者も、思い出したくない過去も、一切。

彼はデッキから身を乗り出すと、腹の底から込み上げたものと一緒に、海に向かって吐き出した。

どす黒い水。どす黒い風。まさに「見捨てられた海」そのものだ ――というのは、言わずと知れた、彼の心象風景。

本当は少しも黒くないのに、本人の心が沈んでいるため、そう見えるんですね。

そんなヴァルターに、年長のアル・マクダエルはどう答えるか。

完成稿とは、まったく異なる、駄々っ子みたいなヴァルター・フォーゲルの姿があります。

世界はいつまでも灰色じゃない

苦いものが口の中いっぱいに広がった瞬間、

「海に唾するな」

鋭い声が聞こえた。

振り向けば、アルが呆れ顔で立っている。

「海に唾するな。お前の生き場所だろう」

アルが穿つように見ると、

「じゃあ、あんたの船に吐いていいのか」

彼は舌を出して見せた。

「吐きたければ、自分の面に向かって吐け。汚れた自分の面を見れば、少しは己の心の醜さが分かるだろう」

アルは手に持っていた錠剤とドリンク剤の茶色い小瓶を差し出すと、

「酔い止めだ。お前にこんなものが要るとは夢にも思わなかったがな」

「要らねえよ」

「いいから、飲むんだ。子供みたいに突っ張るな」

彼がアルの手から錠剤と茶色い小瓶をひったくると、

「お母さんには連絡したのか」

アルは穿つように訊いた。

彼が乱暴にドリンク剤の栓を開け、瓶にかぶりつくと、

「せめて一言、アステリアに居ることだけでも伝えればどうだ。いくらお前が希有な技能を持っていたって、この先、何が起こるか分からないんだ。ましてアステリアはお前の知らない海だ。海の怖さは、お前が一番よく知っているだろう。お母さんだって、自分の知らない間に、息子が遠い海に出掛けて、そのまま帰らないと分かったら、どんなに悲しむかしれないぞ」

「帰るさ!」

彼は声を荒げた。

「いつかは帰るさ。いつまでも、こんな所に居るつもりはない。いつか、ステラ・マリスに帰って、そして……」

「『そして』?」

「……」

「成金継父の後を継ぎ、金儲けに奔走するか? それとも、ネクサスの上役に頭を下げて、倉庫番からやり直すか──。どの道、お前に輝かしい未来があるとはとても思えんな。どんな貧しいオンボロ船にも、羅針盤ぐらいはあるものだ。お前の羅針盤はどこにある?」

口をつぐむと、がむしゃらなエンジン音だけが聞こえてくる。

船はごんごんと音を立てて水の上を進むけれど、それが何処に向かっているかは彼には分からない。

彼は柵から身を乗り出すようにして、船が水を弾く様を見つめていたが、どんなに激しく水を蹴ろうと、羅針盤の無い船は、確かに何処へも行けぬのだ。

彼は苦い思いで顔を上げると、延々と続く灰色の空を目で追った。

雲は黒くたれ込め、気の滅入るような重苦しさで世界を覆っている。

子供の頃、ステラ・マリスで見た空は、天まで突き抜けるかと思うほど、青く澄み切っていた。

なのに、なぜだろう。黒い水が全て押し流してから、あんな空の美しさは感じたことがない。何処にも天上に続くものが見えない。

多分、雲の上には、光が満ち満ちているのだとは思う。

空の青さが消えたのは、空が変わったからではなく、雲が増えたせいだと。

だけど、地上に水がこもり、空気が黒く澱んでいる限り、雲が晴れることはない。

一瞬の風も、泥の上を横切れば、たちまち腐って失速するものだ。

世の中、理不尽な事ばかりが多すぎる。

あの大水害の折、命懸けで堤防を守りに出掛けた父は濁流に呑まれて死に、我先に逃げ出した連中は今ものうのうと太陽の下で暮らしている。

遺族には補償らしい補償も無く、彼と母親は一組の着替えだけを手に、フォンヴィエイユの港町に移り住んだ。

心ない家主は、三日、家賃の納入が遅れただけで部屋の前でがなり立て、それを聞いていた。

下種な隣人は、母の美しい身体を抵当に家賃の肩代わりを申し出た。

母はもう一つ、内職を増やし、必死で彼の学費を捻出しようとしたが、それも力尽きて、とうとう病の床に就いた。

母を診察した医者は何と言ったろう。

「治療費が払えないなら、別の施設に行ってもらわねばなりませんな」。

彼は三週間、学校を休み、付きっきりで母の看病をした。

その間、教師は彼に甘い採点をすることはなく、初めて席次の落ち込んだ彼を級友は指差して笑い者にした。

その後、いやらしい成金の継父は、金で母を買って慰みものにし、泣いて甘えるしか能のない異母姉弟は、新しい母の愛をケーキを舐めるように独占してきた。

そして、その醜さを、母は愛という美しいオブラートで包み、彼にも同じごまかしを強要するのだ。

何もかも最低に汚い。

濁流は、彼の正義を討ち滅ぼし、欲にまみれた人間だけを生かしておいた。地上が澱んだ空気で汚れているのは、連中が今ものうのうと生き延びて、腐った息を吐いているからだ。

それが天に立ち上り、澄み切った青空を塞いだ。

あれは地上に渦巻く汚濁の色なのだ。

彼らが栄える限り、雲が晴れることはない。

彼の心もまた──。

そうして、ふと、水平線の際に視線を落とすと、小さな雲の切れ間を見つけた。まるでそこだけ風穴が空いたように、黄金色の空が見え隠れしている。

覗いているのは太陽だ。落ちてなお鮮烈な光を投げかける、世界の火。

「あそこだけ、雲が切れている」

彼がつぶやくと、

いつかまた嘘みたいに晴れ上がる。世界はいつまでも灰色じゃないお前は『世界』を誤解している。『世界』とは実在するものではない、お前が映し出す心象なのだよ。お前が曇れば世界も曇るし、お前が呪えば世界も滅ぶ。生かすも殺すも、お前次第なのだ。──今、お前は、生と死の狭間に立っている。まさしく茫漠の海に置き去りにされた裸の船そのものだ。航路が見つかれば、新天地に辿り着くこともできるだろう。だが、今のままでは、いずれ滅ぶ。オランダ人の船のように、呪われた海の上をぐるぐる彷徨いながら、な。……が、そんなお前にも救いはあるのだよ。お前が光になればいい。光を待

つのではなく、お前自身が光になって世界を照らせば、この曇った空も海もたちどころに生まれ変わるだろう。その為に、わしはお前をアステリアに連れて来た。何故なら、ここには何も無いからだ」

「馬鹿馬鹿しい。何も無い所で、何が出来る? 何も無いから気が滅入る、何をしていいのか分からなくなる。──俺はあんたみたいに金も力も持ってない。無いものは、どこまでいっても無いんだよ。この世で自分の意志を実現できる人間など限られている。俺みたいな人間がポルダーの再興を訴えたって、誰も相手にしないのと同じで、この世は“持っている人間

”のものなんだ。あんたは何もかも持っているから、人にもそんなお目出度い事が言えるんだよ」

「ならば、何も持てぬまま終わればいい。自分で自分を見限るなら、それもまた人生だ。わしは止めはしない。今すぐ船を下りて、ここから出て行くがいい」

「……」

「ヴァルター。お前は『無』というものの価値がまるで分かっていない。『無』とは、何も無いことを指すのではない。そこから立ち上がる無限の可能性を言うのだよ。この海をご覧。三十年間、わしが初めてアステリアに降り立った時、ここには海と空以外、何も無かった。船を付ける設備はもちろん、雨をしのぐ場所さえ無かった。まさしく絶無だ。見渡す限りの水平線を前にして、誰もが口を揃えて言った。『ここには何も無い、働きかける価値も無い』と。だが、何も無いことはないのだよ。しっかと目を開けて、心を研ぎ澄まして見れば、きっと何かが見つかる。自分だけの何か、自分にしか出来ない何か、世界を変えるような何かがな。そうして無の平原に、一つずつ打ち立ててゆけば、いつかは見違えるような世界が構築される。その完成された姿が、あれだ。──三十年前は、土台に使う木材さえ無かったのだよ」

アルの指差す先に、ローレシア島が見える。立派なプラントが林立する、彼のインダストリアル・パークが。

「わしは水深5000メートルの海底にメナカイトを見つけた。お前は何を見つけるだろうな」

「──明日は、俺も潜るのか」

「そのつもりで来たのだろう?」

アルは酔いのおさまった彼の手から薬の瓶を受け取ると、

「お前の心持ち一つで、全てが良い機会になる。ここには何も無いからこそ、新しい目で物事を見つめ直すこともできるだろう。視点を変えれば、いろんなものが見えてくる。なぜ失敗したのか、なぜ衝突したのか、なぜ成せなかったのか、その時には分からなかった様々な理由が見えてくるはずだ。人間は、穴だらけのバケツと同じなのだよ。最初から完璧な器を持って生まれてくる人間などいない。そして、努力というのは、穴だらけのバケツでがむしゃらに水を汲むことではなく、その穴を一つずつ塞いでいくことを言うのだ。自分の穴を直視するのは悔しいし、苦しいだろうが、今、ここで見つめなければ、穴はいつまでたっても塞がらない。どんなに必死で水を汲み続けても、穴から全部こぼれ落ちて、瓶の水はいつまでたっても満ちることはないだろう。努力が報われないと思うのは、間違った努力に囚われているからだよ。お前がわしらの不備を見抜いたように、今度はその眼力を自分の内面に向けて見ろ。いろんな角度から、じっくり見直してみろ。そうすれば、塞ぐべき穴が見えてくるはずだ。正しい努力は、道を開き、人間を強くする。水没したポルダーも、いつかその手で拾い上げることが出来るだろう」

【心のコラム】 世界とは、君の心が映し出す心象

世界は実在するものではなく、あなたがどう解釈するかにかかっています。

世界を呪えば、世界は滅びるし、生を悦べば、世界も輝く。

政治家や芸能人に対する印象が、人によって全く異なるように、世界もまた同一ではなく、それぞれの解釈に依ります。

絶対的に正しい世界もなければ、永遠に変わらない世界もない。

世界とは、心、そのものです。

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