『人こそ資本』 ~自分を捨てることは一切の可能性を捨てること

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『人こそ資本』 拾いの神と潜水艇パイロット

ニムロイド合金と真空直接電解法 ~技術で目に物を言わせる

アルがMIGインダストリアル社を継いだのは一七五年のことだ。父のヨシュアが七十歳で病に倒れたのを機に、アルが三十五歳で社長に就任、五歳年上の姉ダナがMIG執行委員会の会長に就任した。だが、アルに跡取りとしての帝王学を叩き込んだのは、父よりも祖父ノア・マクダエルである。

この「厳めしいお祖父さん」は、MIG会長兼インダストリアル社社長として西に東に飛び回る多忙な父に代わり、やれ読書だ、数学だと、孫二人の英才教育に傾注した。

祖父はアララト山の仙人みたいに面痩せ、膝が痛むと杖を突くようになってからは、ますます浮き世離れして見えた。若い頃は大変な美男子だったが、ファルコン・マイニング社と火花を散らすうち、甘やかなマスクは鉄火のように厳しくなり、ふさふさした金髪は四十半ばで真っ白になった。子供たちには優しかったが、嘘をついたり、掃除をさぼったり、勉強を手抜きすると「お仕置き部屋」に入れられ、難しい本を何冊も読まされた。その中にはラテン語の本もあり、部屋を出る時、名句の一つも暗唱しないと、次の日から算数の課題が一つ増えるのだった。

それでもこの「厳めしいお祖父さん」が一族の尊敬を集め、周囲にも一目置かれていたのには大きな理由がある。

ニムロディウム製錬技術の歴史を変えた『真空直接電解法』の確立だ。

宇宙文明の基礎を成す特殊鋼であり、恒星間航行エンジンや宇宙構造物に不可欠なニムロイド合金は、鉄や銅といったコモンメタルに、ニムロディウム、コバルト、ニッケル、ニオブ、モリブデンといったレアメタルを微量に添加することによって作られる。その匙加減はメーカーにとって門外不出の企業機密であり、マクダエル特殊鋼も多くの技術特許を有している。

しかしながら、手法を確立したところで、肝心のニムロディウムが入手できなければ何の意味もない。そして、ニムロディウムの安定供給の鍵を握るのは、政財界に根を張るファルコン・マイニング社である。また、その系列会社であるファルコン・スチール社とは、ニムロイド合金の特許技術をめぐって係争した因縁の間柄でもあり、こちらの納期が迫ろうが、決算に支障をきたそうが、お構いなしに原価を吊り上げ、鉄スクラップの供給を止めてくる。そればかりか産業省にまで手を伸ばし、電気炉の増設や技術特許の認可まで阻止する執念深さだ。

だが、祖父の怒りに火を付けたのは、ある日、社長室にかかってきた一本の電話だった。

電話の主は、祖父が中心となって推し進める非鉄金属組合の解体を要求し、家族の安全を脅かすような文句を口にした。

祖父はついに堪忍袋の緒が切れ、《技術で目に物を言わせる》決意をした。

それが真空直接電解法だ。

通常、ニムロディウムは自然界において単体として存在せず、酸素と強固に結びついた酸化物として存在する。酸化ニムロディウムを含む鉱物は、みなみのうお座星域の惑星や衛星、隕石からも検出されるが、その含有率は一パーセントにも満たず、三〇パーセント以上ものニムロディウムを含む高品位のニムロイド鉱石はニムロデ鉱山でしか見つかっていない。

また、ニムロイド鉱石の中間生産物から高純度のニムロディウムを精錬するのは非常に難しく、幾種類もの電気炉や精錬炉を必要とする上、精錬過程で大量の有害物質や放射性廃棄物を排出することから、商業ベースで大量生産できるのはファルコン・スチール社に限られていた。

そこで祖父は、不純物の多い中間生産物からも効率的にニムロディウムを精錬できる技術の開発に取り組んだ。それが真空直接電解法だ。

この精錬システムは、ニムロイド鉱石の中間生産物を電解し、直接的にニムロディウムを抽出するもので、全工程にかかる手間と時間を大幅に短縮し、従来の製造コストの半分以下で九九・九九九九パーセント以上の高純度ニムロディウムを精製することができる。しかも放射性廃棄物を一切排出せず、低品位な鉱石にも市場価値が生まれたことから、業界は諸手を挙げて歓迎した。しかも祖父はその技術を広く開放し、設備投資が困難な中堅メーカーでも精錬システムを導入できるよう計らった。

これにより、ファルコン・マイニング社やファルコン・スチール社に依存していた業界に風穴が空き、脱ファルコン・マイニング社の機運が一気に高まった。

また非常に高価だったニムロディウムが手頃な価格で入手できるようになったことから、航空、建設、電子機器、医療など、様々な分野にいっそうの技術革新をもたらした。

この成功を機に、マクダエル特殊鋼は『マクダエル・インダストリアル社』に社号を改め、MIGを再編し、名実共に新たな第一歩を踏み出したのである。

【資料】 精錬と製錬の違いについて

精錬(refining)と製錬(smelting)

一般人にとって、一番難しいのは、『精錬』と『製錬』の違いではないでしょうか。

精錬(refining)と製錬(smelting)

精錬とは、不純物の多い金属から純度の高い金属を取り出す過程のことである。
鉱石から金属を取り出す工程を製錬といい、精錬とは別の概念としている。

製錬(smelting)とは鉱石を還元することによって金属を取り出す過程のことである。
製錬によって取り出された金属は純度が低い場合が多く、純度を高めるために精錬が必要な場合がある。

refining は、金属だけでなく不純物を取り除く工程一般を指し、日本語の精製に相当する。

銅の精錬は電気分解法を用いて行われる。これを電解精錬または電解精銅という。

金属精錬は水系溶媒の使用の有無や電気化学的に抽出するかどうかで以下のようにわけることができる。
・乾式精錬(pyrometallurgy): 金属を加熱処理などにより金属を得る精錬。水系の溶液を使わない精錬一般を指す。鉄のコークスによる還元が代表例である。
・湿式精錬(hydrometallurgy): 金属を水系溶液に浸漬するなどして抽出する精錬。
・電気精錬(electrometallurgy): 金属を電気化学的な方法で抽出する精錬。銅の電解精錬やアルミニウムの溶融塩電解が代表例である。
製錬、精錬と冶金(やきん)(森の里ホームズ)

大雑把に言えば、「銅鉱石から、銅製品を作る全行程」を製錬、「製錬の過程において、さらに純度の高い銅を精製すること」を精錬といい、精錬の方がより高度で複雑な技術を必要とします。金属のもつ特性をフルに生かすには、純度99.999%のような非常に高い純度が求められるからです。

下記の解説が分かりやすいです。
銅ができるまで
パンパシフィック・カッパー(株) 銅ができるまで

精錬の代表格 チタンの精製

精錬については、『チタンの精製』が非常に難度が高いことで知られています。

一般に、チタン鉱石は酸素と強固に結びついた酸化チタンとして存在し、酸素を分離して、高純度のチタンを抽出するには、「塩化」「蒸留」「還元・真空分解」と三段階の工程が必要になります。またそのプロセスには、大量の電気を必要とし、10日以上の日数を必要とする為、現在も安価で手軽な精錬方法の研究開発が進められています。

チタンの精製について
マグネシウムを使って純チタンを抽出する
チタンの製錬プロセス

(動画・現代の錬金術 チタンで還元反応・真空分解のプロセスが分かりやすく紹介されています。)

チタンは軽量で、耐食性や発色に優れることから、建設・航空・宇宙・精密機器・医療など幅広い分野で利用されていますが、精製には高度な技術を必要とする為、日本でも、チタン精製を手がけている会社は『大阪チタニウムテクノロジーズ』『東邦チタニウム株式会社』の二つしかありません。(精製されたスポンジチタンやイチタンインゴット等を材料として、高機能なチタン製品を加工するメーカーは複数存在します。チタン製品製造の会社・企業一覧(全国)を参照)

スポンジチタンとチタン事業
東邦チタニウム株式会社 スポンジチタン

PDF資料は下記が参考になります。
チタンの製錬・精錬・リサイクル ~材料技術史から見るこれからの技術展開 チタンおよびチタン合金 (岡部 徹・まてりあミニ特集より)
「来材料チタンが有するポテンシャル」「チタンの現在の製造プロセス」「新製錬法の開発」など、図解で分かりやすく説明されています。

最新選鉱技術事情 鉱種別代表的プロセス編(6) ―タングステン、ニオブ、チタン― (JOGMEC・石油天然ガス・金属鉱物資源機構)
特殊鋼添加剤として用途の広いタングステン、ニオブ、チタンについて、性能、精製法、生産の現状などが分かりやすくリポートされています。

本作に登場する『真空直接電解法』『ニムロイド合金』は創作です。ニムロディウムやニムロイド合金の話は、チタンをモチーフにしており、その原料となるニムロイド鉱石の採掘・選鉱・流通・販売を寡占しているのがファルコン・マイニング社、マイニング社の権力をバックに、ニムロイド製品の生産で優位に立っているのがファルコン・スチール社、高度な精錬や製造技術でこれを追撃するのがMIGインダストリアル社(特殊鋼メーカー)という設定です。

自分を捨てることは、一切の可能性を捨てること

アルが物心ついた時、祖父はレジェンドだった。

書店には祖父の偉業を称える書物が並び、何十年経った今も真空直接電解法の開発史がTVドキュメンタリー番組で取り上げられる。

全権を長男ヨシュアに委譲し、第一線を退いてからは、公の場にもほとんど顔を出さず、アララト山の仙人みたいに自宅に籠もっていたが、父の話では、個人的な報復を恐れ、陰の相談役に徹することを選んだという。

実際、祖父は質実剛健を絵に描いたような人物だったが、真空直接電解法の成功後はトリヴィアの首都《エルバラード》を離れ、郊外の高級住宅街(ゲーテツド・コミユニティ)に二棟からなる大邸宅を購入した。緑に囲まれた広大な敷地には、トリヴィア屈指の資産家や有名人らが居を構え、万全のセキュリティ・システムが敷かれている。世間から隔絶されたコミュニティでは、夜な夜な快楽に耽る御大尽も少なくないが、祖父は贅沢や特権意識を嫌い、「お前は将来、MIGの将来を背負って立つ人間だ。人の上に立つ者は常に謙虚に学ばねばならない」とアルにも品位や礼節を求めた。

Noblesse(ノブレス) oblige(オブリツジ).(高貴な者はそれにふさわしい社会的責任と義務を有する)

それが祖父の教えの真髄だ。

祖父の高潔な精神と生き様は、アルと姉のダナに強い影響を与えた。

ビジネス会話の隠語としてラテン語を教えてくれたのも祖父なら、合金設計の技術を面白く語って聞かせてくれたのも祖父だ。愚かなことを口にすれば、実妹だろうが、次男の嫁だろうが厳しく叱責し、家族に煙たがられることもあったが、アルは一本芯の通った祖父が好きだった。祖父の話を聞いていると、人間の意思はこの世のどんな権力や財力にも勝るような気がするのだった。

祖父はしばしば言っていた。

「自分が明日死ぬなど、誰も露ほども考えない」

その言葉通りに祖父は死んだ。八十一歳だった。

アルが十二歳になって間もなく、なかなか朝食に姿を現さないので、心配して見に行くと、祖父は自室のバスルームで口を半開きにして倒れていた。夕べ祖父と話した時は、今日もチェスで一戦交える約束だったのに。

そんな祖父の教えの中で最も心に残っているのが「捨てるな」という言葉だ。

祖父は人間の可能性について論じるのが好きだった。極限まで追い詰められた人間の、劇的な力の発露を信じていた。どんな凡庸な人間も、断崖絶壁に立たされれば、海を割るほどの知力を得るというのが祖父の持論だった。

「人間には無限の可能性がある。自分を捨てることは、一切の可能性を捨てることなんだよ」

事業の要は「モノ」「カネ」「ヒト」。モノとカネには限りがあるが、ヒトには無限の可能性がある。工場の組み立てラインを管理するのもヒトなら、画期的な商品を編み出すのもヒトだ。現場に優秀な人材がなければ、百億の予算も世界有数の設備も用を成さない。

人こそ資本。

それはそのままアルの経営哲学になった。

人それぞれ長所も短所もあるが、アルは深海に眠る鉱物みたいな人間が好きだった。数十億年の星のエネルギーをぎゅっと凝縮したような、意思の強い兵(つわもの)だ。

これぞと思う人材を得る為なら、フォルトゥナ号を駆って、どんな遠くでも会いに行った。

そこに可能性を感じたら、一度は切り捨てられた人材でも拾い上げ、回生のチャンスを与えた。

そうしてアルに見出された者たちが次々に再起の機会を得、予想以上の成果を上げたことから、いつしかアルは「拾いの神」とあだ名されるようになった。

フォルトゥナ号が降り立つ時、必ず誰かの運命が変わるのである。

解雇された潜水艇パイロット ~ヴァルター・フォーゲル

そして今回、フォルトゥナ号が向かうのは、トリヴィア最大の学研都市《エンデュミオン》だ。

エンデュミオンはエルバラードから二〇〇キロメートル離れた南西部に位置する。長年『ギガント』と呼ばれる超大型コンテナ船の離着陸場として使われてきた平地だが、三十年前から、トリヴィア政府、民間企業、教育研究機関が合同出資して都市開発を推し進め、今では様々な学校や研究施設が建ち並ぶトリヴィア屈指の学研都市に成長した。

MIGも二十七年前に金属材料研究所を設立し、選りすぐりのエキスパートを集めて既製品の改良や新素材の開発に当たらせている。

だが今、アルが向かっているのは金属材料研究所ではなく、エンデュミオンの外れにあるトレーラー村だ。そこにはアルバイトと奨学金でどうにか生計を立てている下層の学生や、短期滞在の派遣労働者らが安物のトレーラーハウスに住み着き、小さなコミュニティを形成している。元々、資材置き場に使われていた空き地で、エンデュミオンの都市区分にも含まれず、住民法も適応されないことから、一時は不法滞在者やホームレスの溜まり場になっていた。

数年前から保安官が巡回し、取り締まりを強化するようになってから状況も改善したが、底辺の溜まり場であることに変わりはない。しかも、一歩エリアの外に出れば、そこから先はデッドゾーンと呼ばれる裸地で、地熱ジェネレーターも機能せず、うっかり迷い込めば、数分から数十分で死に到る。だが、遺体となっても回収されることはない。なぜなら、政府が生命を保障するのは都市圏に限定されており、自発的でも、偶発的でも、圏外に出た者については責任を負わないことを法的にも明言しているからだ。

そんな掃き溜めみたいな場所に、アルがわざわざ足を運ぶ気になったのは、興味深い男が半年前から住み着いているからだ。

男の名は、ヴァルター・フォーゲル。

今では宇宙飛行士より希有な深海潜水艇のパイロットだ。

この八月で三十歳になったばかりだが、フランスの海洋技術センターで研鑽を積み、これまでに一二〇回の潜航経験がある。仕事ぶりも熱心で、深海調査では新種の生物や地学的発見に何度も貢献してきた。また潜水艇の技能だけでなく、蘭語、仏語、英語、独語の四カ国語に堪能で、海洋調査船では通訳としても重宝されていたようだ。

ところが年明け、人員整理で解雇され、メールも電話も全く通じず、家族からは捜索願が出されている。アルも法的に際どい手段を使って彼の居場所を突き止めたものの、その態度は素っ気なく、いずれ手持ちの金も底を尽き、不法滞在で逮捕されるのが目に見えている。

にもかかわらず、アルが会う気になったのは、この三十年間、心血注いで打ち込んできた海台クラストの採鉱システムが、あと一歩のところで頓挫しかけている為である。

セス・ブライト ~20年来のパートナーシップ

アルはリクライニングシートに深く座り直すと、手元のコンソールを操作し、乗務員にグラス一杯のミネラルウォーターを頼んだ。

ここ数日続いている異様な身体のだるさが、単なる疲労ではないことをアルは知っている。

初めて診断が下りたのは十年前。毎年受けている人間ドックで血液像の異常を指摘されたのがきっかけだ。初期の宇宙開発に携わった者が、何十年と経ってから造血機能の異常をきたし、ある日突然、急激な転帰を辿る――という噂は前から耳にしていたが、まさか自身に降りかかるとは夢にも思わなかった。今は少しでも造血機能を維持するため、増血剤の内服や人工コルチゾールの注射を続けているが、アルの寿命があとどれくらい持つのか、血液学の権威である主治医にも予測することはできない。せめて二年、いや三年、現場を指揮する余力が残されているなら、採鉱システムを盤石のものとし、ファルコン・マイニング社の土手っ腹に風穴を開けてやるのだが、こればかりは天の計らい、人間の意思でどうこうできるものではない。

所詮、運命には勝てぬのか、それとも、最後には人間の意思が運命をも凌駕するのか、アルには未だ分かりかねるが、ただ一つ確かなのは、『Fortes(フォルテス) fortuna(フォルトゥーナ) adjuvat(アドユヴァト)(運は勇敢な者たちを助ける)』ということだ。

程なくコンパートメントのドアが横にスライドし、乗務員ではなく、セス・ブライトが顔を覗かせた。

セスは、アステリアの海洋開発を支援するために設立したアステリア・エンタープライズ社の専務取締役で、長年アルの右腕を務めてきた。年齢はアルより八歳年下で、五十の坂を少し越えたところだが、すらりとした長身と映画俳優のような顔立ちのせいか、実年齢よりずっと年若く見える。今も紳士服のコマーシャルから抜け出たような紺のビジネススーツをそつなく着こなし、軽く流した亜麻色の髪と涼やかな薄茶色の瞳が知的な雰囲気を醸しだして、辺境の小さな社屋の一室で書類相手に生きているのが勿体ないほどの器量である。

セスは、海老とアボカドのサンドイッチとプロテイン入りカップスープ、グラス一杯のミネラルウォーターをアルにすすめると、向かいのシートに腰を下ろした。

「君はいつも絶妙のタイミングで欲しいものを持って来るな。何かコツでもあるのかね」

アルが大げさなくらいに感嘆してみせると、セスは映画俳優のような顔をほころばせ、「もう二十八年もご一緒しているのですよ」と感慨深く言った。

そうか、二十八年か――。

セスと北米の大学の図書館で初めて出合った時、アルはまだ黒髪のふさふさした威勢のいい若造で、セスはマリンスポーツに明け暮れる十九歳の大学生だった。それが二十八年の歳月を経て、アルは一流経済誌の表紙を何度も飾るほどの経営者に成長し、セスは名前こそ知られていないが、アステリアでは実質上のナンバーツーとして、資金調達、供給、法務など、後方支援を一手に引き受けている。

セスもステラマリスにいれば、それなりに裕福で、多様な選択肢があっただろうに、突然、アステリアのような未開の星に来て、二十八年間もアルの後ろで事業を支えてくれた。その真の動機について、セスは一度も口にしたことがなく、アルも正面から尋ねたことはない。互いの家を行き来するほど親しい間柄にも関わらず、肝胆相照らすような会話は皆無だ。
だが、一緒に会社を切り盛りするには、その方が都合がいい。何事もビジネスと割り切り、頭の芯まで澄み渡るようなセスの怜悧さが、アルにはかえって心地よかった。それは自分と価値観を違えた相手でも、ひとたび主と心に決めたら、己を滅却しても忠実に仕える参謀の才覚であった。

アルはサンドイッチを平らげると、背広の胸ポケットからピルケースを取り出し、二種類の錠剤をミネラルウォーターで内服した。アルの本当の病状を知っているのは、セスと姉のダナだけだ。MIGの重役にも詳細は知らせていない。

十年前に診断が下った時は絶望で目の前が真っ暗になったが、いろんな症例を調べたところ、二十年以上生き長らえた人も少なからずあり、ならば希望を繋ごうと腹を括った。
一方、不測の事態に備えて経営体制も万全にし、何時その日が来ても現場が混乱せぬよう、二の手三の手を打っている。ある意味、自分の死を強く意識すればこそ、十年、二十年先を読み、MIGの経営体制を盤石にできたともいえる。

そう考えれば、この病は死に神であると同時に生き神だ。

この世に幸運も不運もなく、運命はただ試すだけである。

運命の試練か、慢心への戒めか ~プロジェクト・リーダーの死

そして、運命というなら、採鉱システムのプロジェクト・リーダーの死も同様だ。

七月末日、三回目のテスト採鉱に成功し、十月十五日の本採鉱に向けて、いっそう自信を深めた夜、海上の採鉱プラットフォームから忽然と姿を消した。いつものように朝が訪れ、ミーティングの時間になっても、プロジェクト・リーダーが一向に姿を現さない為、同僚が居室を訪ねたところ、部屋の中はそのまんま、採鉱プラットフォームの隅々まで探し回ったが、どこにも居(お)らず、朝に姿を見かけた者もない。島から八〇キロメートル離れた水深3000メートルの外洋で、六十過ぎた男が夜中に泳いで抜け出せるはずもなく、最後に作業甲板で姿を見かけた作業員の証言から「夜中に泥酔して海に落ちた」と結論づけられた。
本採鉱まで、二ヶ月余り。

まるで最後の最後に運命の歯車が狂ったとしか言いようのない中、アルは直ちに決断を迫られた。

一つは本稼働を延期する。

もう一つは、プロジェクト・リーダー抜きで揚鉱管(ライザーパイプ)の接続ミッションを決行するかだ。

揚鉱管の接続は、海台クラストの広がる水深3000メートル下で潜水艇と有索無人機を用いて行われる。深海底の集鉱機、水中リフトポンプ、そして海上の選鉱システムを一つに繋ぐ最終工程で、非常に高度な水中技術が必要だ。

もちろん、採鉱システムは、悪天候、機械トラブル、人為的ミスなど、あらゆる危機を想定して万全の備えをしており、プロジェクト・リーダーが失われたぐらいで機能不全に陥るほど脆弱ではない。

それでも十月十五日のシナリオは、プロジェクト・リーダーを中心に組み上げてきた。一つの狂いが全体に波及し、予期せぬ問題を引き起こさないとも限らない。

接続ミッションの遅延は、製錬所や運輸業者の段取りを狂わせるだけでなく、半製品を加工する工場や中継ぎを行う商社、しいては宇宙航空、自動車、建設、精密機器など各種メーカーにまで波及し、MIGの信用を損なう恐れもある。

自分でも『完璧』と思えるシナリオだったのに、こんな所で狂わされるとは。これも運命の試練なのか、慢心への戒めか。

あれこれ思い巡らせながら窓の外を眺めていると、セスがさりげなく訊いた。

「十月十五日の接続ミッションは予定通り決行するのですか」

アルは窓の外を向いたまま「さあね」と答えた。

返事は素っ気ないが、セスには(腹の中で既に答えは決まっている)と分かる。

十月十五日はノア・マクダエルの誕生日であり、真空直接電解法の新炉が稼働した日でもある。どうせ打ち上げ花火を上げるなら、記念すべき日に壮快に決めたい気持ちはセスも同じだ。海底鉱物資源の採鉱システムが完成し、アステリアの海でもニムロディウムの採掘が可能になれば、再び市場の様相が変わる。それは鉱業のあり方を根本から覆し、社会の構図も変えるだろう。

その為にも、十月十五日には予定通り揚鉱管を接続し、本採鉱に繋げたい。海台クラストから回収されたニムロディウムが市場に出回るようになれば、今度こそ『ネンブロットの蛇』と呼ばれる男に引導を渡し、ファルコン・マイニング社の一党支配に風穴を開けることができるだろう。

アルは深く座り直すと、再び窓の向こうを見やった。

眼下には銀のパノラマが広がり、どこまでが工場で、どこからが住まいか見当もつかない。完全自動化された工場は不夜城のように煌めき、人々が深い眠りに就いた後も、部品を組み立て、検品し、世界中の店舗や倉庫に製品を送り出していく。

人間の欲望はどこまで際限がないのか、自ら市場競争に身を置きながらも世俗には懐疑的だ。そして、海底鉱物資源を知らなければ、アルもまた朝に夕に利益を追いかけ、ありきたりの世襲社長で終わっていたかもしれない。

まこと人生と呼ぶにふさわしい生き道を与えてくれたのは、アステリアの海だ。

その為にも、どうしても潜水艇のパイロットが欲しい。

水深3000メートルの海底で揚鉱管を繋ぐために。

【コラム】 拾いの神は捨てられた後にやって来る

捨てる神あれば、拾う神あり

誰にとっても、採用 / 不採用、入賞 / 落選、交際OK / ごめんなさい、等々。

選ばれない苦しみは計り知れないものがあります。

特に若い時分は、世の浮き沈み(あるいは運勢の上昇・下降)というものを長いスパンで経験することがないので、失恋しては落ち込み、不採用通知を受け取っては人生に失望し、「俺はもうダメだ」と白旗を揚げて、自分の中に閉じこもってしまうでしょう。

でも、世の中、「捨てる神あれば、拾う神あり」で、聖書にも「誰かが要らないと捨てた石が家の土台になる」という言葉があるように、そんなあなたを必要としている人間もいるんですよ、何処かには。

廃品回収のプロに言わせたら、ゴミ捨て場なんて宝の山だし、スポーツでも、戦力外通告された人が、コーチを変われば、奇跡の復活を遂げることもあります。

でも、拾いの神に見つけてもらうには、まず第一に、捨てられないといけません。

誰かにポイと捨てられ、地に叩き付けられて、初めて拾いの神の目に留まるわけですね。

なぜなら、拾いの神は、拾うのが仕事だから。

ところが、多くの人は、自分を捨てた神の裾にすがって、いつまでもしがみつくんですよ。

「どうしてですか。頑張りますから、もう一度、使って下さい」と。

捨てる神の裾にぶら下がって、完全に地に落ちないうちは、拾いの神も拾いようがないのに。

野球に喩えれば、「僕は絶対に巨人軍でプレーしたいんです! 巨人以外はダメなんです!」と無理にでも巨人軍に籍を置いているようなものです。阪神タイガースに行けば、六甲おろしが、あなたを歓迎してくれるというのに。

もちろん、拾ってくれるなら、誰でもいいわけではありません。

同じ拾われるなら、極上の神様に拾ってもらわないと。

その為には、ゴミ捨て場でもよく目立つように、自分をピカピカに磨いておかないといけない。

努力というのは、次の出会いの為にするものであって、自分を捨てた神を振り向かせる為にするものではないです。

世の中には、切れた方がいい縁もたくさんあります。

人や職場に捨てられる時は、実は大きなチャンスだったりします。

拾いの神と称される、アル・マクダエルに絡めて。

能力は現在の力、可能性は未来の力

今、目に見える実績や能力よりも、可能性の方がはるかに大きな力を持ちます。

何故なら、実績は過去の力、能力は現在の力、可能性は未来の力だからです。

人と仕事のマッチングは、未来への投資のようなもの。

上手く噛み合えば、実力以上の効果がありますが、そうでなければ、人も、職場も、疲弊するばかりです。

予算や設備をどれほど整えても、適性を備えた人材が集まらなければ、100人のエリートを雇っても、効果は出ないんですね。

仕事運とは、高収入の会社に就職することではなく、実力以上に自分を生かせる職場と縁が出来ることかもしれません。

事業の要はヒト・モノ・カネ

上記のボツ原稿です。

下書きにおいては、人と仕事(職場)のマッチングに関する記述が含まれます。

彼はまた「運命の女神」を意味する愛機『フォルトゥナ』を自在に駆り、一度は切り捨てられた人材をその手で拾い上げる「拾いの神」でもあった。

事業の要はヒト・モノ・カネ。

カネとモノには限りがあるが、ヒトには無限の可能性がある。

特にMIGのように優れた技術力によって邁進してきた企業にとって、技術開発に携わる人材の確保は社運を左右する大事だ成長と革新の鍵を握っているのは「ヒト」であり、アイデアこそ資本に優先するからである。

だが人材確保は量を採り、質を選べば良いというものではない。

肝心なのはマッチングだ。

人間も魚と同じで、どんなに活きの良い魚も合わない水に放り込めば窒息するし、死にかけた魚も合う水に戻してやればたちまち息を吹き返す。

人を生かすも殺すも、水次第――もちろん個々の素質による所も大きいが、本当に人を育てる気があるなら、人の上に立つ者は、個々の志向、適性、技量をしっかり見極め、その能力を最大限に生かせるよう努めるべきである 。

なぜなら、個を生かすことが、最終的には全体の発展に繋がるからだ。

だが時には、様々な利害や偏見から眠れる才能を潰してしまうことがある少し配置を変えたり、別の課題を与えるだけで、内に眠れるものを一気に開花させられるかもしれないのに、その可能性に気づくことなく切り捨ててしまうそして彼らは一様に「落ちこぼれ」のレッテルを貼られ、再起の機会さえ与えられずに表舞台から消えて行くのだ。

だがアルに言わせれば、「落ちこぼれ」も大きく二分された。

一つは、意思と情熱の欠如、基礎的な能力不足、方向性の誤り、人間性の問題から自ずと脱落した「退嬰的落ちこぼれ」。

もう一つは、自己の理念や哲学を追求するがゆえに枠からはみ出た「進取的落ちこぼれ」である。

人それぞれ長所も短所もあるが、アルは「進取的落ちこぼれ」になれるだけのエネルギーの持ち主が好きだったとことん自分を貫ける人間にこそ期待がもてた世界を変える知恵と技術は、錐のように一点に向かう集中力と持続力の賜物だからだ。

そんなバイタリティと可能性をもった人材を得る為なら、アルはどんな遠くへでも出かけて行った愛機『フォルトゥナ』を自在に駆り、人が要らぬと捨てたものをその手で拾い上げた

そうして彼に見出された人材が次々に再起の機会を得、予想以上の成果を上げたことから、彼はいつしか「拾いの神」と呼ばれ、『フォルトゥナが降り立つ時、必ず誰かの運命が変わる』と言われるまでになったのである。

ちなみに、この原稿の後半はボツにしています。

アルが説明しなくても、話を追えば分かるから。

アルに拾われたヴァルターがその後、どうなったか。

それが答えです。

『人こそ資本』 ~自分を捨てることは、一切の可能性を捨てること

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Notes of Life

『嘘は人間を弱くする』SNSの時代、嘘はすぐにバレるし、身元を特定されるのも早いです。 元同僚。元彼氏。元従業員。 アカウントの数だけ、人の口も存在します。 どれほど表面を取り繕っても、嘘はすぐにバレます。 正直で損するより、嘘がばれた時のコストの方がはるかに高くつきます。

この記事を書いた人

MOKOのアバター MOKO 著者

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚のSF小説を手がけています。看護師として医療機関に勤務後、東欧に移住。石田朋子。
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Notes of Life

正しい意見は人を安心させるが、魂までは救いません。 正しいことしか言えない人は、実は何も分かってないのでしょう。 私たちは人間の負の面を知り、寄り添うことによって、初めて人間として完成します。 光がこの世の全てではないのです。
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