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母との別れ ~翼が傷ついたまま遠くに飛ぶことはできない

本作は、海洋科学や土木・建築をモチーフにしたサイエンス・フィクションです。
投稿の前半に小説の抜粋。 後半に参考文献や画像・動画を掲載しています。
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第一章 運命と意思 ~オランダ人船長・亡魂(2)
STORY
目次

母との別れ ~翼が傷ついたまま遠くに飛ぶことはできない

一人暮らしの祖父と最後のクリスマス

彼は真っ直ぐプルザネには戻らず、カールスルーエに立ち寄った。

町にはクリスマスのイルミネーションが輝き、道行く人も楽しそうだが、祖父の家には何の飾り付けもなく、廃家のように静まり返っている。

ハンブルクの親戚に聞いた話では、週に三回、介護センターからヘルパーが訪れ、身の回りのことを手伝っているという。家の中には監視カメラも設置され、何かあれば救急隊や福祉士が駆けつける段取りだが、それだけでは心許ない。シルバーハウスに入所するようすすめているが、祖父も頑として聞き入れず、妻と息子の墓所から決して離れようとしなかった。

彼は町の雑貨屋でもみの木を模したキャンドルや金の縁取りのある赤いテーブルクロスを購入すると、手早く居間を飾った。だが、祖父はじっと肘掛けソファに腰掛け、ぼんやりTVを眺めるだけだ。

そうかと思えば、突然、ソファから立ち上がり、「グンター、宿題はやったのか」と大声を出す。「お祖父さん、俺だよ、ヴァルターだよ」と言い聞かせても、分かっているのか、いないのか、視線は宙をさ迷ったままだ。

それでも、どうにかライン川の河畔に散歩に連れ出し、子供時代の思い出話などもしてみるが、ほとんど会話にならず、老いの残酷さを思い知らされる。こんなことなら、再建コンペなどに入れ込まず、まめに見舞いに訪れるべきだった。

散歩が済むと、身長一九〇センチの巨体をベッドに寝かせて、ようやく一息ついた。

それから二階に上がり、まだ父の温もりが残るベッドに腰を下ろした途端、激しい虚無感に襲われ、両手で顔を覆った。

一体、自分は何をしたのか。

コンペに参加したことも、皆を庇って示談書にサインしたことも、何もかも間違いだったのだろうか。

フェールダムに帰ることが唯一の救いだったのに、住まいばかりか信望まで失われ、もはや身の置き所もない。皆に口汚く罵られ、どこかに消えたいような気持ちで目頭を押さえた時、突然、ドアが開き、自室で寝ていたはずの祖父が戸口に顔を見せた。

祖父は部屋に入ってくると、彼の隣に腰を下ろし、

「どうしたんだね、何か辛いことでもあったのか」

と以前と変わらぬ優しい口調で尋ねた。

「お祖父さん……」

彼が顔を上げると、祖父は彼の肩を強く抱きしめ、

「グンターに相談しなさい。もうすぐ学校から帰ってくるはずだ」

と力強く言った。

彼は呆然と祖父の顔を見たが、祖父は一人で頷き、口の中でぶつぶつ呟くだけだ。激しく打ちのめされ、大声で叫びたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて気を取り直すと、今度は祖父の背中を抱いた。

「一緒に居間に下りよう。今夜は俺が食事を作るから、お祖父さんはゆっくりTVでも見ていて。俺はスーパーに行ってくるよ」

彼は祖父を居間の肘掛けソファに座らせると、右手にTVのリモコンを持たせて買い物に出掛けた。

一時間ほどして戻ってくると、居間は空っぽで、クリスマスの歌番組が大音量で鳴っている。

祖父は何処へ行ったのかと探し回ると、真っ暗な物置にぼーっと立っていた。足元には三ヶ月前に期限の切れた牛乳パックが転がり、それを何かでこじ開けようとした形跡がある。

彼は再び祖父を居間に連れて行くと、キッチンのメッセージボードに大きく張り出された介護センターの連絡先に電話を入れた。担当者が言うには、ここ数週間で急激に症状が悪化しており、年明けにもハンブルクの親族の了解を取って、緊急の対応を検討しているそうだ。

できればずっと付き添いたいが、彼もプルザネに戻らねばならない。そして、プルザネに戻れば、また何週間、何ヶ月と洋上で過ごす生活が待っている。マルセイユに行けば海の見える快適なケアハウスがあり、母も喜んで力になるだろうが、ハンブルクやミュンヘンに行くことさえ頑なに拒み続けた祖父だ。聞き入れるとは到底思えない。

そして、とうとう大晦日になり、プルザネに戻る日がやって来ると、彼は介護センターにまとまった金額を振り込み、デイケアやリハビリマッサージなど幾つかのオプションサービスを申し込んだ。

それから居間の肘掛けソファにぼんやり座っている祖父の足下に膝をつくと、皺だらけの手を握りしめ、

「お祖父さん、俺もそろそろ行くよ。具合が悪くなったら、このアームベルトのボタンを押して、介護センターの人に来てもらって。年明けには快適な施設に移れるから、それまで頑張るんだよ。TVのリモコンはここ。淋しくないように、バラエティショーでも付けておくよ。それから食べ物は電子レンジで温めるものだけにしてる。ガスコンロは使わないで。ガスは止めてるから、大丈夫だと思うけど」

だが、祖父はぼんやりTV画面を見つめたまま、身動き一つしない。彼は最後の心の支えも折れそうになるのを必死に堪えながら、祖父の膝に毛布をかけ、ムートンスリッパの足先を整えた。

その時、「お前は本当にいい子だな」と祖父が呟いた。

「ずーっと、長いこと放ったらかしにしてきたが、これほど大事に思ってくれるとは」

「もちろんだよ。孫じゃないか」

「お前はいい子だ、本当に可愛い……ところで、ヴァルターは幾つになったんだ」

彼の目に涙があふれ、今にも頽れそうになった。

「……十三歳だよ。サッカーに、勉強に、一所懸命がんばってる……」

「そうか。あれもお前によく似て、本当にいい子だ。将来が楽しみだな」

彼は嗚咽を堪えて祖父の皺だらけの手を握りしめると、父と同じ温もりを胸に刻みつけた。

それから小さく別れの言葉を告げて、その場を離れた。

祖父は振り返りもせず、じっとTVを観ていたが、彼がノブに手をかけた途端、「ドアは開けておいてくれ」と大声で叫んだ。

彼は玄関から入り込む冷気を考慮してドアを軽く閉ざすと、祖父の無事を心から祈りながらカールスルーエを後にした。

突然の解雇 ~時代の流れと思って諦めてくれ

年明けて、二〇〇年一月三日。

彼は八ヶ月ぶりに海洋技術センターに顔を出すと、真っ直ぐプロテウスの格納庫に向かった。

だが、途中で女性事務員に呼び止められ、人事部に行くよう告げられた。

復職の手続きかと思い、別棟のオフィスに足を運ぶと、その場で解雇を言い渡された。

「君の能力や人柄に問題があるわけじゃない。研究者も運航スタッフも君の働きぶりには大変満足しているし、事情が許すなら引き続きお願いしたいところだ。だがねぇ、潜航調査も年々依頼が減少して、自律型水中ロボットを使った無人探査に置き換わっているし、プロテウスの維持費も人件費も財政を圧迫する一方だ。優秀な君を切るのは忍びないが、四十代、五十代のベテランを解雇するより、若い君の方が立ち直りも早いだろう。まあ、これも時代の流れと思って諦めてくれ」

それだけ――。

たったそれだけの理由で、曲がりなりにも六年間、こつこつ積み上げてきたものを御破算にしてしまうのか。

彼は茫然自失と禿げ頭の人事部長を見つめたが、黙って解雇通知の書類を受け取ると、その場でサインした。最後に一目、プロテウスを見たい気持ちもあったが、皆で示し合わせたように自分だけ追い出されたことを思うと、格納庫に向かう気にもなれない。彼は手早くロッカーの私物をまとめると、海洋技術センターを後にした。

解雇となれば、社宅も二週間以内に退出しなければならず、他に行く当てもない。かといってマルセイユに戻る気もなく、いったんカールスルーエに身を寄せ、祖父の世話をしながら次の仕事を探すことにした。

衣類や小物は宅配便でカールスルーエに送り、わずかな着替えと日用品をアーミーバッグに詰めると、折りたたみ式の軽量マウンテンバイクを携えてバス停に向かった。

プルザネからレンヌまで長距離バス、レンヌからパリまで特急列車で移動し、駅ターミナルのカウンターバーで軽食をとりながらタブレット端末で次の交通手段を探していると、母からメッセージが届いた。

「あなた、いったい、どこで何をしているの? ヤンに電話したらプルザネに戻ったというし、海洋技術センターに連絡したら、もうここでは働いてないというし。何度も何度も電話したのに、ずうっと電源が切れっぱなしで、いったい、どういうことなの」

「今、パリにいる」とだけ返事すると、

「カールスルーエのお祖父さまが亡くなったのよ」

驚愕の事実を聞かされた。

「先ほどハンブルクの叔父さまから連絡があったの。今朝早く、息を引き取られたそうよ」

「そんな……」

母の話では、午前四時にバイタルチェックのアラームが鳴り、すぐに救急隊が駆けつけたが、意識も呼吸も戻ることはなく、午前五時に搬送先の病院で死亡診断がなされたという。不思議なことに、寝室の窓も、キッチンの出窓も、窓という窓が半開きの状態で、一階の室温は十度近くまで下がり、祖父は玄関廊下に倒れていたそうだ。祖父が「ドアは開けておいてくれ」と言っていたことを思い出し、父が迎えに来たのかと思い巡らせた。

「今、ミュンヘンの親族が駆けつけて、葬儀の準備をなさっているわ。ハンブルクのご家族も明日の朝には到着するそう。あなたも急ぎなさい。私もすぐに飛行機を手配するから」

彼は残りの料理をかっこむと、空港バスの乗り場に急いだ。

こんなことならプルザネに戻らず、ずっと祖父の側に付いていればよかった。まさか孤独のうちに死なせるなど、悔やんでも悔やみきれない――。

葬儀は二日後、十数名の親族と、地殻研究所や火山学会の関係者らが見守る中、しめやかに執り行われた。

新年の雪が降りしきる中、祖父の棺が土中深く納められ、彼の心も暗闇に沈む。

祖父の墓碑には生涯のテーマだった火山のモチーフが刻まれ、妻の墓碑の隣に置かれた。その隣には父の墓碑。もうこれで親身に支えてくれる人はなくなった。仕事も、住まいも、心の拠り所さえ無くした喪失感が雪風のように胸を凍らせる。

葬儀が終わるとミュンヘンの親族は引き上げ、後にはハンブルクの叔父と娘夫婦が残った。娘夫婦といっても六十代、孫世代も方々に散って、縁戚関係は以前より希薄だ。ハンブルクの叔父が亡くなれば、フォーゲル姓を継ぐのは彼一人になるが、彼も戸籍上はラクロワ家の人間であり、実質、失われる日は目前である。

彼らは居間に集まって今後の対応を話し合った。

三年前からこの地域一帯で再開発計画が持ち上がっており、祖父が売却に同意すれば、ここも取り壊されて新しい住宅公団の敷地に組み込まれる予定だった。祖父には孫のヴァルターに相続させたい願いがあり、ずいぶん返事を渋っていたが、昨年春に考えが変わり、売却に同意したという。ハンブルクの叔父に「あの子はフェールダムに戻って運河沿いの小さな家を建て直すのが夢なんだ。無理にカールスルーエの家を相続させるより、売却して、まとまった金を渡した方が助けになるんじゃないか」と勧められたのが決め手になったらしい。

開発事業者との取り決めで、万一、祖父が死亡した場合、家の権利はいったん市の管理下に置かれ、再開発計画が確定した後、祖父の指定した代理人の間で最終の意思確認が行われる。祖父はヴァルターとのアンヌ=マリーの二人を代理人に指名し、その書類も提出済みだ。

「ともあれ、ここは市の管理下に置かれるから、用事で立ち入るにも管理人の許可が必要になる。もしかしたら再開発計画が変更になることもあるから、市から正式な通知があるまで待って欲しい」

彼らは十一月一日の万聖節に再会することを約束し、それぞれの帰路に就いた。

どれほど強い翼を持っていても、傷ついたまま遠くに飛ぶことはできない

黄昏の日がライン川の岸辺を照らす中、彼と母は今一度、墓所を訪れ、祖父と祖母、そして父の三つの墓碑と向かい合った。

一度は止んだ雪が再びちらつき、幾度となく頬を濡らすが、それが寒さのせいか、悲しみのせいかは分からない。空っぽの父の墓と同じく、自分の中も洞然として、雪の中に無言で立ち尽くすだけだ。

彼は父の墓前に膝をつくと、「父さん」と呼びかけた。

もはや自分に道を示してくれる人もなければ、心を慰めてくれる人もない。陽が沈めば、明日も同じ陽が昇ると無邪気に信じていたが、そんな朝が来ることは永久にない。

せめて帰る場所があれば、やり直す気力も湧いただろうが、もはや故郷にすら彼の居場所はなく、仕事もなく、世界中から見捨てられたみたいに水底に転がっている。

こんな時、父が生きていたら、どれほど救いになったことか。だが、父は死に、祖父も死んだ。天にも地にも道はなく、惨めに打ちひしがれる己だけがいる。社会的にも過ち、故郷の人々を失望させて、まだどんな生きる価値があるというのだろう。

「もう一度」なんか要らない。

永久に目を閉じて、この生から降りてしまいたい。

彼が地に突っ伏すと、母は慌てて彼の背中を抱き、

「いったい、どうしたの? フェールダムで何かあったの?『上手にプレゼンテーションできて、二位だった』とあんなに誇らしげに語っていたのに。ヤンと喧嘩でもしたの?」

「……」

「潜水艇の仕事もしないのなら、一緒にマルセイユに帰りましょう。しばらく何も考えずに、気持ちを落ち着けるの。美味しいものをお腹いっぱい食べて、ゆっくり身体を休めれば、意欲も湧いてくるわ。海の仕事も世界中にあるのよ」

彼は一瞬、母の言葉に頷きかけたが、

「ジャンもいつまでも根に持つ人ではないわ。あなたも形だけでも謝って、あの家に置いてもらうの。そうすれば、きっと新しい道が見つかる……」

その瞬間、彼は弾かれたように顔を上げた。

「あれは俺の家じゃない。あんな奴に頭を下げるぐらいなら、死んだ方がましだよ」

「こんな時まで意地を張らないで。今あなたに必要なのは、安心して休める場所よ。どれほど強い翼を持っていても、傷ついたまま遠くに飛ぶことはできないわ。マルセイユにも故郷にも戻らず、一体どこに行くつもりなの?」

だが、彼は立ち上がり、母の腕を掴むと、門前で待つタクシーに連れて行った。

「母さんは車に乗れ。俺はバス停まで歩いて行く」

「お願いだから無茶しないで。あなたを見ていると、まるで我と我が身を火で焼こうとしているみたい。そんな自暴自棄で何ができるの。少しでいいから、私の側で羽を休めて。これ以上、遠くに行かないで」

「母さん、俺は生きる為に遠くに行くんだよ」

彼は母の身体を後部座席に押し込むと、運転手に発進させた。車が遠ざかると、彼は顔を拭い、墓所を後にした。

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