たまたま生まれ落ちた場所が悪かったというだけで、ここまで差を付けられてたまるものか。

この投稿は、海洋科学、鉱業、建築・土木をテーマにしたフィクションです。詳しくは作品詳細をご参照下さい。


第四章 ウェストフィリア・深海調査 ~ブルーディアナイト (3)
STORY
リズに対抗意識をもつオリアナは、ファルコン・マイニング社の社長ロバート・ファーラーの愛人となり、高級ホテルのスイートルームでくつろぎながら、幼少時の屈辱的な出来事を思い返す。同じノア・マクダエルの曾孫でありながら、リズばかりがちやほやされて、オリアナには暗い過去がつきまとう。 だが、今度こそ権力を得て、自分もスポットライトを浴びるのだと野心を燃やす。

三月十三日。木曜日。

ペネロペ湾北側の小高い丘の上に位置する『ホテル・ロイヤルクレセント』は、その名の通り、海に面した美しい三日月型の高級リゾートホテルだ。

人工のプライベートビーチにマリーナ、プール、スパを完備し、夏のホリデイシーズンには毎夜の打ち上げ花火に噴水ショー、ジェットスキーのアクロバットや水上サーカスが企画されており、既に客室の八割が予約で埋まっている。

とりわけ最上階のスイートルームには、広々したテラスにオープンリビング、プライベートプール、ジェットバスを構え、これほどラグジュアリーなホテルはトリヴィアにも二つとない。

わけても最上階のプレジデンタル・スイートはマハラジャ風のインテリアで、白地にゴールドをあしらったコーディネートが目に眩しいほどだ。調度はどれも庶民の月収をはるかに超える一級品ばかりで、天蓋付きのキングサイズのベッドには最高級のシルクがふんだんに使われている。

オリアナは夜九時過ぎに訪れると、海が一望できる全面ガラス張りの浴室でフラワーバスを楽しんだ。バスタブにはデンファレの花びらがいっぱいに浮かび、ミルクとアロマオイルの濃厚な芳香が漂う。

入浴を終えると、熟れた身体に薄紫のシフォンワンピースのナイトガウンを羽織り、オープンリビングからテラスに出て夜風に当たった。高級ラタンのガーデンテーブルには夜食のオードブルが用意されており、ワインクーラーからよく冷えたピンクシャンパンのボトルを取り上げると、クリスタルのフルートグラスになみなみと注いだ。

ロバート・ファーラーは隣のサロンで一人掛けソファに腰掛けながら、まだ誰かと電話中だ。午後九時に開発公社の会合から戻り、背広を脱いだのも束の間、ホテルのフロントから内線電話が入り、ファーラーはすぐに取り次ぎを許可した。そして、そのまま隣の部屋に行き、三十分以上も低い声で話し込んでいる。

相手は誰か見当もつかない。他に愛人がいることも、表沙汰にできない付き合いがあることも、薄々知っている。

だから何だというのだろう。

ほんの一年前までマイニング・リサーチ社の一社員に過ぎなかったのが、今では社長室にもプレジデンタル・スイートにも堂々と出入りできる。何となく勘付いている取り巻き連中は黙っていても敬意を払ってくれるし、彼女に個人的な頼み事をする者もいる。マダム・ポンパドゥール*2とまではいかないが、今、ファーラーの一番のお気に入りであることは誰の目にも明らかだ。以前はそういう女を軽蔑していたが、権力者の寵愛を得ることがこれほど快いとは思わず、今では何のうしろめたさもなくなっている。

オリアナは最高級のピンクシャンパンで喉を潤すと、軽くクラッカーをつまみ、テラスの鉄柵にもたれて眼下を眺めた。

今は開発途中だけに沿岸の明かりも乏しいが、数年後には宝石箱のような夜景が完成し、フランシス・メイヤーのパラディオンが華を添えるだろう。

埃臭いネンブロットを離れ、ペネロペ湾の高級コンドミニアムに引っ越しできたのは、まったく喜ばしいことだ。茫漠とした海の星がこれほど華麗に変貌を遂げるとは思いもしなかった。そういう意味では、私財をなげうってもアステリア開発に尽力した大伯父殿に感謝せねばならないだろう。

だが、あの一家が暮らすエルバラードの屋敷に比べたら、規模においても、美しさにおいても、臨海のコンドミニアムなど比ぶべくもない。自動車でも一周するのに何分もかかるような広大な敷地に、二棟からなるモダンな白い大邸宅。水族館のようにきらめく吹き抜けのアトリウム。見上げるほど高い天井に、センスのいい高級調度の数々。四歳の時、父に連れられ初めて訪問した時は、大統領の家かと思ったほどだ。

わけてもエリザベスの居室のこの上なく愛らしいこと。

寝室とバスルームに加え、専用のリビング、書斎、遊び部屋、ウォークインクローゼットを備え、オリアナの部屋を三つ合わせたよりまだ広い。パステルピンクとアイボリーを基調とした内装は、お伽の国のようにロマンティックで、ベッドもソファも、ふわふわの砂糖菓子みたいに柔らかい。おまけにリビングはテラコッタのテラスで庭と繋がっており、ローズフェンスで囲まれたプレイグラウンドにはブランコ、ジャングルジム、滑り台、砂場、人工池があって、そこには本物のアヒルがよちよち歩いているのだ。

家具や玩具だけではない。「服が汚れた」と言えば、すぐに家政婦が飛んできて、彼女の手足を洗い、新しいワンピースに着替えさせた。「喉が渇いた」と言えば、絞りたてのオレンジジュースが銀の盆で運ばれてきてた。「アイスクリームが食べたい」と言えば、お抱え運転手が黒塗りの車に乗せて、学園通りの人気店まで連れて行ってくれた。幼いオリアナでさえ遠慮して八八〇エルクのデラックス・カップは買わないのに、エリザベスは値段などまるで気にせず、「あれも頂戴、これもトッピングして」と好きなように注文して、コーンワッフルにてんこ盛りになったアイスクリームを美味しそうに頬張るのだ。

この差は一体、何なのか。

自分と同学年なのに、方やお姫さまみたいにかしずかれ、身に着けるもの、口にするもの、みな高級品だ。立っているだけで周囲に敬意を払われ、この世に唯一のフランス人形みたいに大事にされている。

それが赤の他人なら、芸能ニュースに登場するセレブリティの子女みたいに、所詮住む世界が違うと割り切ることもできただろう。だが、自分の父もかつてはあの大邸宅に暮らし、MIGの後継ぎの一人として丁重に扱われていたことを知ってから考えも変わった。

それなら自分だってノア・マクダエルの曾孫に違いない。エリザベスと同じプリンセスのような部屋に暮らし、MIGの創業者一族として敬意を払われ、富と名誉に浴する資格があるはずだ。

なのに、なぜ父はエルバラードの邸宅に戻ろうとしないのか。定職にも就かず、友も持たず、世間から身を隠すようにして暮らしているか。

その理由を父に尋ねても、いつものっそりした口調で「お前は器量がいいから、あんな閑散とした屋敷より、もっと上等な家に住めるよ」とはぐらかすだけだ。それだけでなく、祖父母はどこに居るのか、母とどんな風に知り合ったのか、そもそも父は何で生計を立てているのか、まともに教えてくれた試しがない。

それでもさほど気にならなかったのは、父母はもともと入籍しておらず、オリアナが生まれてからも住まいは別々で、数ヶ月に一度、顔を合わす程度の間柄だったからだ。

父のことは好きでも嫌いでもない。

三歳の時、「あなたのお父さんよ」と母に引き合わされ、初めて父親の顔を知った。

一瞬、爬虫類のような眼差しにたじろいだが、「この子は大きくなったら大変な美人になるな」という一言が何にも優る称賛に聞こえ、警戒心もとけた。会う度に、びっくりするほど高価なオモチャや洋服を買ってくれるのも嬉しかった。

父は『投資家』という以外、目立った業績も肩書きもない。ビジネスパートナーがいるわけでもなければ、会社に勤めている風でもなく、何を生業としているのか、傍からは全く窺い知れない。経済的に困窮しているわけでもないのに、町外れの古びたアパートの三階に住み、一間続きのリビングで数台のモニター相手に、日がな一日、パソコンと向かい合っているだけだ。

傍目には素寒貧の落ち武者みたいだが、子供心にも非常に頭のいい人だと分かったし、そこいらの中年男とは比較にならないほど端正な容姿も誇りに感じた。「事情があって一緒に住むことはできないが、お前のことは我が子として大事にする」という言葉通り、生活の面倒はよく見てくれた。

母はエルバラード郊外のマンションに住み、時々、行き先も告げずに外出して、明け方にほろ酔い機嫌で帰ってくる以外は平均的な母親だった。ひどく叱られたこともなければ、無下に扱われたこともない。三度の食事は美味しかったし、毎朝髪をきれいに結ってくれた。

だが、父のことはほとんど口にせず、生活費や養育費だけ受け取って、いつも淡々としていた。かといって、決して惨めな情婦ではなく、自分もボーイフレンドを作ったり、父に無心したお金でネイルサロンを開いたり、自由奔放に生きていた。

そのくせ、妙に教育熱心なところがあり、オリアナにはいろんな習い事をさせ、学校の勉強もよく見てくれた。「お前は器量がいいから、育ちのいい男をつかまえて、うんと幸せになるのよ」が母の口癖だった。

おかげで学校の成績は常にトップクラス、ダンスもスポーツも同級生に負けたことがない。「お前は器量がいいから」の言葉通り、何をやっても秀で、華のように目立った。

だが、目立てば目立つほど、足元には幾つもの影ができるもの。中学生にもなれば、どこから聞きつけたのか、「あれは負け犬の子孫だ、娼婦の子だ」と噂され、無視や嫌がらせもされた。

それがきっかけで、少しずつではあるが父の身上も知った。

父が話さなくても、ニュースサイトのアーカイブを検索すれば、ローガン・マクダエルの溺死やコンチネンタル号の事故も否応なしに目に入る。多額の負債を抱えて倒産したローガン・フィールズ社に対する厳しい批評を目にすれば、自分は存在自体が過ちなのかと罪悪感も覚えた。

それについて一度だけ真顔で訊ねた時、

「人間、自分の意思だけではままならぬこともある。お祖父さんは運が悪かっただけだ。お前は自分の将来だけ考えておればいい。人間、頭を使えば、何だって手に入る。いつか功成り名遂げれば、もう誰にも見下されることはない」

といつになく優しい口調で答えてくれた。

それはそれで納得し、腹の奥に収めたものの、自分だけが生まれた時から貧乏くじを引き、地位も、財産も、世間の尊敬も、一から十まで差を付けられている不公平感まで払拭できるものではない。アステリアの海洋開発が進み、MIGとマクダエル一家の名声が高まるにつれ、理不尽な気持ちもどんどん強まっていった。

特にそれを思い知らされたのが、『エヴァン・エーゼル基金』だ。あのおどおどしたエリザベスがエリート女子大生の社交クラブ『ヴァージニア・ソロリティ』を率いて、ネンブロットの居住区に鉱業病専門の高度医療センターを設立する為の基金を立ち上げ、鉱山会社や鉄鋼・金属系企業を中心に支援を募っているという。

可憐な乙女たちの公共心はたちまち世間の注目を集め、その中心人物が『アル・マクダエルの娘』ということで一層英名も高まった。まるで人気女優か立志伝中の人のようにもてはやされ、埃臭いネンブロットの片隅でコンプレックスにさいなまれている自分とは大違いである。

だが、彼女にどんな高徳があるというのだろう。

偉そうに支援を説きながら、自分は一度も坑道を訪れたことがなく、ネンブロットにすら足を運んだことがない。豪奢な奥屋敷でお姫さまみたいにかしずかれながら、どこかで聞きかじった坑夫の苦労話や鉱害病の恐ろしさを語っている。八歳でネンブロットに移り住み、鉱区の現実を間近に見て育ったオリアナには、エリザベスの支援活動など偽善でしかない。現実の不幸など何一つ知らないくせに、よくも聖女面ができたものだ。

なのに世間は「さすがはアル・マクダエルの娘」と褒めそやし、彼女の偽善を疑おうともしない。あの娘に突出した才能があるわけでもなし、生まれた場所がたまたま金の揺り籠だったというだけで、なぜこれほどまでに差を付けられなければならないのだろう。考えれば考えるほど理不尽な思いが胸に突き上げ、あの無邪気な顔をずたずたに引き裂いてやりたくなる。

そんな時、決まって思い出すのが『プリンセス人形』だ。

エリザベスの八歳の誕生日、タヌキ面の父親は有名な人形職人に依頼して、素晴らしく豪華なプリンセス人形をプレゼントした。人形はロココの女王のようなピンク色のローブ・ア・ラ・フランセーズを身に着け、レースには本物のクリスタルがちりばめられている。ラインストーンのティアラも、パールのネックレスも、本物みたいに美しく、顔はどことなくエリザベスに似て、今にもくるくる踊り出しそうな愛らしさだ。オリアナも目が吸い寄せられ、「見せて」とエリザベスに頼んだが、彼女は怯えたように人形を離さない。

「ね、見るだけ。取ったり、触ったりしないから」

オリアナは努めてやさしく言ったが、

「いや」

エリザベスは今にも泣きそうな顔で首を振り、人形をしっかり抱えて離さない。

「見るだけって言ってるじゃない」

「イヤったら、いや!」

「ねえ、見せてったら!」

何度かやり取りがあった後、とうとうエリザベスが泣き出し、その声を聞きつけた家政婦が家人を呼びに行った。

子供部屋に姿を見せたのは、ダナ・マクダエルだ。

「卑しい真似はおよしなさい! あなたがリズにしてきた事は全部知っているのよ!!」

と叱りつけると、リズの手からやさしく人形を取り上げ、

「これはオリアナにあげなさい。もう一つ、同じものを作らせるわ」

とオリアナの足元に置いた。それからエリザベスを腕に抱き上げ、一瞬、睥睨した顔が本物の母娘(おやこ)みたいにそっくりだった。

とりあえずオリアナは人形を自宅に持ち帰ったが、悔しいやら情けないやら。人形の両足を掴むと、何度も何度も壁に叩き付け、首が取れるまで打ち続けた。そして、ピンクのローブ・ア・ラ・フランセーズをびりびりに引き裂くと、人形を丸裸にし、すえた臭いのするアパートの共同ゴミ箱に投げ入れた。

その半年後には両親そろってネンブロットに移住したので、エリザベスや大伯母らと再び顔を合わすこともなく、嫌な記憶も徐々に薄れていったが、乞食のように扱われた屈辱だけは決して忘れなかった。

そんなマクダエル一家の暗部を知ったのは十五歳の時だ。

父は相変わらず町外れの古びたアパートに住み、日がな一日、パソコンに向かう暮らしを続けていた。

だが、社会のことは隅から隅までよく知っていて、銀行の大型合併を予見したり、有名社長の辞任を言い当てたり、時には人気タレントの離婚まで予言して、オリアナを驚かせた。

彼女も十五歳になり、話し相手として手応えも出てきたのか、父も口にしていい範囲で何でも教えてくれた。

とりわけ彼女を愉しませたのは、立派に取り繕った人間の裏側だ。高潔の士で知られる文化人が高級SMクラブの常連だったり、世間ではおしどり夫婦で知られる芸能人カップルがお互いに同性愛者の恋人を持ち、ドラッグパーティーに入り浸っていたり、清純派で知られるアイドル歌手がマフィアの情婦だったり。表の顔からは想像もつかないような痴態を聞く度に、オリアナは腹を抱えて笑い転げ、取り澄ましたマクダエル一家も似たようなものだと想像するだけで溜飲が下がった。

そんなある日のこと。

オリアナは父のデスクに青いジュエリーの写真を見つけた。丸くカボジョンカットされた貴石はスターサファイアのように輝き、六条の星彩効果が神々しいほどだ。

父に尋ねると、ウェストフィリアのマグナマテル火山で見つかった石だという。今はある人の手元にあり、決して表沙汰にはできないが、もし鉱床が見つかれば、それを手にした者に莫大な富をもたらすという。

さらに衝撃的だったのが、この石にまつわるダナ・マクダエルのとんでもない過去だ。事の経緯を父から聞かされた時、オリアナは腹がよじれるほど大笑いし、父も「あれこそ本物の石女(うまずめ)さ」と蔑むように言った。

「こんな面白い話をどうしてリークしてやらないの。ゴシップ誌にでも売り込めば、天井知らずの値が付くでしょうに」

「愚かなことを言うんじゃないよ。貴石のことを公にするということは、ドミニク・ファーラーを敵に回すということだ。お前にあれほどの大物と渡り合うだけの奸知と度胸があるかね? まあ、焦ることはない。ドミニク・ファーラーも老齢だ。こちらから藪を突かずとも、今に表舞台から姿を消す。あれが鬼籍に入った時が一大転機だ。大物の死ほど幸運をもたらすものはない」

なるほど――とオリアナも納得し、父と一緒にその時を見届けてやろうと思った。

それを機に宝石や鉱物に興味を持ち、大学も鉱物学科に進んで、父の勧めでマイニング・リサーチ社に就職した。

そして、父の予想通り、三年前に次男のロバートが新社長に就任し、ファルコン・マイニング社も失速して、世間の見方も変わった。ロバート・ファーラーの手腕がどうこうというよりは、ニムロデ鉱山自体の問題だ。以前のように高品位の鉱石が採取できない上、坑道の拡張工事も以前ほどスムーズに進まなくなっている。学会ぐるみで様々な隠蔽工作や虚偽を働いてきたことが、かえって技術開発を阻害し、探鉱や採掘に様々な問題を引き起こしているからだ。今更、あれは誤りだったと弁明するわけにもゆかず、おたおたしている間に、アル・マクダエルは採鉱プラットフォームを完成させ、海台クラストの存在を世界に知らしめた。いずれ商業的に成功し、ファルコン・マイニング社の立場をいっそう不利にするのが目に見えている。

そして、父がこの隙を見逃すはずがなく、ウミヘビが眠りから覚めたように行動を開始した。

その手始めがロバート・ファーラーとの面談だ。

オリアナが初めてロバート・ファーラーに会ったのは、昨年十月、水面下で開発公社の設立が取り沙汰されるようになった頃だ。最初、ロバート・ファーラーは乗り気でなかったが、父から様々な事実を聞かされ、気が変わったようだ。

オリアナが社長室に通されるまで、そう時間はかからず、出会った瞬間に次の段取りも決まった。彼女は自然にその行為を受け入れ、ロバート・ファーラーも彼女の熟れるような肉体を大いに愉しんだ。罪悪感などあろうはずがなく、豪奢なベッドで世界有数の権力者と寝るのはまたとない快感だ。

一方、エリザベスはどうだろう。

父親に命じられるまま、ガマガエルみたいな御曹司と結婚し、ざらざらした舌で身体中を舐め回されて、夜ごと枕を泣き濡らしているかと思えば、ちゃっかり恋人などこさえて、春を謳歌しているではないか。噂に引かれてステラネットまで訪ねてみれば、これまた絵に描いたようなハンサムで、あふれんばかりの愛情をエリザベスに注いでいる。

父に聞いた話では、あんななりをしていても、「マルセイユのラクロワ家」の継嗣で、母親はエクス=アン=プロヴァンスの非常に高貴な人だという。いずれ莫大な資産と権利を継承し、マクダエル一家が逆立ちしても手に入らないような爵位も有しているそうだが、もし、それが本当なら、今度こそ本当に王族の仲間入りだ。

そんな馬鹿なことがあってたまるか。

頭の悪い洟垂れ娘が、富と名声ばかりか、愛まで掴もうとしている。

私だって、ノア・マクダエルの曾孫だ。たまたま生まれ落ちた場所が悪かったというだけで、ここまで差を付けられてたまるものか。

オリアナはぎりっと奥歯を噛みしめ、プリンセス人形を思い浮かべた。

生まれ落ちた場所が悪ければ、どれほど努力しても、生涯報われることはない。銀の匙をくわえて生まれてきた娘は、人形すら本物のクリスタルを散りばめたア・ラ・フランセーズを身に付けている。安物のビニール人形を握りしめ、あの着せ替えドレスが買えたらと、おもちゃ屋の前を我慢して通り過ぎる娘の胸の痛みなど考えもしないだろう。幼い娘に高価なプリンセス人形を買い与える親共々だ。

だが、こんな惨めな人生も今日で終わりだ。今の私には権力者の寵愛があり、知謀に長けた父親もいる。いつの間にこれほどの大金を稼いだのか、今では身に付けるもの、口にするもの、全て高級品だ。ペネロペ湾に引っ越してからは有力者の知人も増え、私生活も一気に華やいだ感がある。

この上に、ウェストフィリア探鉱で功を立てれば、地位も格段に昇格し、名実ともにロバート・ファーラーの右腕として仰ぎ見られるに違いない。

オリアナはこれまでにない高揚感を覚えながら、ピンクシャンパンをぐうっと飲み干した。

その時、背後で足音がし、振り向くとロバート・ファーラーが立っていた。

既に五十二歳だが、顔にも胸元にも色気があり、実年齢より四、五歳は若く見える。大勢にかしずかれて育った人だけに、へりくだったところがまるで無く、自分以外の人間を下僕としか思わぬような尊大さも魅力的だ。少女の頃から劣等感に苛まれてきたオリアナには決して真似できない、ダイヤのような自尊心と利己心を持ち合わせている。

「話はお済みですの?」

オリアナが上目遣いに問いかけると、ファーラーは薄紫のシフォンワンピースの下に息づく熟れるような肉体を眺めながら、

「次から次に頼み事だ。わたしを何でも出てくる魔法の箱と思っているのかね」

「ご自身が宝石箱みたいな方ですもの。サファイアとまではいかなくても、光のおこぼれぐらいは期待するでしょう」

ファーラーはそのおこぼれを期待する小賢しい面々を脳裏に浮かべながら鼻先で笑った。

「それよりバスルームは気に入ったかね。君のリクエスト通り、蘭も飾らせた」

「素晴らしいフラワーバスでしたわ。バリ・スタイルのアロマキャンドルも」

「それはよかった。他に欲しいものがあれば、何でもオーダーするといい。君もその美貌にふさわしい贅沢をすべきだよ。貧乏くさい女には幸運も寄りつかない」

ファーラーはオリアナの隣に並ぶと、星をちりばめたような湾岸の眺めに嘆息した。

「いい眺めだ。まだ夜景としては物足りないが、あと数年で見違えるように変わるだろう。それにはやはりパラディオンが必要だ。あれが完成して初めて、魅惑のベイエリアになる」

「フランシス・メイヤーの海上都市ね。そんなに才能のある人なの?」

「デザインはともかく資金と政治力はある。メイヤー&パーマー・グループの御曹司だからな。それにメイヤーの二番目の妻は有名な宝石商の娘だ。特にオパールの流通で絶大な力を持っている。これを機にネンブロットに食い込むのが目的だろう。オパールはトリヴィアの宝石市場でも人気がある。知っておいて損はない」

「青みがかった宝石は誰の目にも魅力的ですもの。赤い石より高貴で神秘的だわ」

「では君にも青い宝石をプレゼントしないとね」

「それより、ブルーディアナイトはいつ見せて下さいますの」

「ブルーディアナイト? 何のことかな」

「知らない振りをなさるのね。私に嘘はつき通せないことぐらい、ご存じでしょうに」

「そうかもしれない。だが自惚れは禁物だ。わたしはそれほど優しい男ではない」

「優しい人など興味はありません。私が好きなのは力のある人――同情も遠慮もない、冷酷なぐらいの方が好き……」

「わたしは君のタイプかね」

「それもご存じのくせに」

オリアナはわざとファーラーに背を向けると、手摺りにもたれ、少し尻を突き出すように前屈みになった。ファーラーは熟れた果実のような肉体を目で愉しみながら、シフォンワンピースの裾をたくし上げ、欲情を刺激されたように彼女の中に入ってくる。

前戯も礼儀もない獣みたいな交わりは今に始まったことではない。見つめ合うこともなければ愛を囁くこともなく、オスとメスが互いのものを擦り合わせて快楽を貪るだけだ。

だから何だというのだろう。

どうせこの男の妻になるわけでもなければ、愛が欲しいわけでもない。今この瞬間、桁違いの贅沢と権力を味わえたらそれでいい。

私にも才覚はある。

いつか必ずあれを手に入れて、あの女の目の前にぶら下げてやるのだ。

*

その頃、リズは自室で携帯電話を眺めながら、オリアナが一向に連絡を寄越さないことに苛立ちを感じている。

昨夜、今朝、そして昼過ぎと、三度も電話をかけ、留守録にメッセージも残しているが、オリアナからは何のレスポンスもない。着信拒否でもされているのかと思ったが、リズが残した音声メッセージはちゃんと聞いているらしく、「再生済み」の通知がリズの携帯電話にも送られてくる。

あの人は子供の頃からそうだ。

お気に入りの髪飾りや人形を貸しても、「今度会った時に必ず返すから」と言うだけで、絶対に返そうとしない。催促しても、「ああ、そうだったわね」としらばっくれるだけで謝りもせず、何ヶ月も経ってから「どうやら無くしたみたい。もう一度、同じ物を買ってもらってよ。お小遣いはたっぷりもらってるんでしょ」と悪びれもしない。

一度、思い余って、父からレイモン叔父に注意してもらったことがあるが、「他人に持って行かれるのが嫌なら、最初からきっぱり断ればいい。おどおどして怒りもしないから、オリアナに好き放題にされるんだ」と逆にこちらが諌められ、父も呆れて「大事なものは目に触れない所にしまっておきなさい」としか慰めようがなかったほどだ。

他にも、お気に入りのアクセサリーをクローゼットの引き出しに隠したり、ブランコをわざと激しく揺さぶったり、「リボンを結んであげる」と言って髪をきつく引っ張ったり、子供向けの結婚占いで「あなたは将来、ガマガエルのお嫁さんになるのよ」とからかったり。遊びとイタズラの区別がつなかいような意地悪を仕掛けては、彼女がべそをかくのを嘲笑うように見つめていた。

なぜそうまで憎まれるのか、理由がさっぱり分からない。

父と伯母は「嫌なら無理に遊ばなくていい」と言ってくれるが、下手に断ったら、次にどんな仕返しをされるかわからず、ひたすら我慢するしかなかった。

それでも八歳の誕生日にもらったプリンセス人形にまで目を付けられた時はさすがに身震いし、必死で抵抗したが、結局、彼女に譲る羽目になった。伯母は「もう一つ同じ物を作らせる」と言ってくれたが、リズはその気になれず、オリアナにあげたままになっている。もしかしたら返してくれるのではないかと淡い期待もあったが、半年後にはオリアナが両親と共にネンブロットに移住してしまったので、それきりだ。彼女の手に渡ったプリンセス人形がどうなったか、想像に難くない。

その後、親同士も疎遠だし、これきり会うこともないだろうと安心していたら、突然、地獄の釜の蓋が開いたみたいに目の前に現れ、一体何が目当てなのか。しかも今度は彼女の恋する人と同じ船に乗り、海洋調査に行くという。船上でも猫みたいにしなだれかかり、あることないこと吹き込んで、信頼関係にヒビを入れようとするのが見え見えだ。

しかし、フーリエやオーシャン・リサーチ社のように、真摯な気持ちで海洋調査に取り組む人の立場を思えば、私事で場を掻き乱したくない。できれば、オリアナと良好な関係を築き、開発公社の幹部とも円滑に話し合いたい。

祈るような気持ちでオリアナからの返事を待つが、午後十一時を過ぎても何の連絡もない。

(どうしよう……四日後には出航なのに……)

失礼を承知で、もう一度ダイヤルすると、今度は応答があった。

「夜分遅くにごめんなさいね。もうお休みだったかしら」

リズが恐縮すると、

「いいえ。たった今、ベッドに入ったところよ」

受話器の向こうから、おかしな息づかいが聞こえてくる。

「三度も電話をいただいたようだけど、何のご用かしら」

「言わなくても、お分かりでしょう。海洋調査のことよ」

「海洋調査の段取りなく滞りなく進んでいるわよ。今日もオーシャン・リサーチ社のスタッフと打ち合わせがあって、皆さん、士気も上々だったわ」

と白々しいことを口にする。しかも電話の向こうから男性の低い笑い声が聞こえ、あまりの破廉恥に怒りがこみ上げてくる。

「はぐらかさないでちょうだい。あなた、最初に調査のオファーをした時に、彼に約束したわね。調査の実況について開発公社の執行部に話してみると。その件はどうなったの? 彼の方から何度も電話やメールを入れてるのに、どうして返事なさらないの?」

「そんなこと、常識で考えれば分かるじゃないの。出来もしないことを『やってくれ』と頼まれても、どうしようもないわ。それとも、あなたの恋人は世間知らずの暗鈍なの?」

「彼だって自分のアイデアが常識外れなことぐらい重々承知よ。それでもやらずにおれないのは、アステリアの社会を真剣に考えてのことなの。どうか協力してあげて。せめて開発公社の責任者と話だけでもさせてもらえないかしら」

「おやまあ、すっかり女房なのね。一途に想いを寄せて、姿形だけでなく、恋愛まで伯母さまにそっくり」

「なんですって?」

「あら、ご存じないの、ダニエル・リースのこと。伯母さまを庇って死んだ健気な王子さま。彼も同じ目に遭わないよう、せいぜい気をつけるのね。でないと、あなたまで石女(うまずめ)になるわよ」

ブチンと通話が切れ、無機質なノイズが響き渡った。

リズは呆然と携帯電話を握りしめていたが、すぐさま父にメールを打った。

《ダニエル・リースって、誰?》

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