MENU
上・下巻の試し読みはこちらPDFを読む

それぞれの運命 ~オデュッセウスとナウシカア姫のように

本作は、海洋科学や土木・建築をモチーフにしたサイエンス・フィクションです。
投稿の前半に小説の抜粋。 後半に参考文献や画像・動画を掲載しています。
目次のインデックスをクリックすると、該当箇所にジャンプします。

第二章 採鉱プラットフォーム ~告白(7)
STORY
ヴァルターはリズはいっそう惹かれ合い、いつか互いに好きと思えるようになったら本物のキスを交わそうと約束するが、二人のデート現場は父親のアルをはじめ、プラットフォームのスタッフからも丸見えだった。 接続ミッションを前にプレッシャーをつのらせる現場とは裏腹に、のんきにデートしているヴァルターを総務部長のミセス・マードックが諭し、ヴァルターも心を改める。 一方、リズはオデュッセウスとナウシカア姫の悲恋の物語を読みながら、恋の行方を思い巡らせる。
目次

それぞれの運命 ~接続ミッションに挑む

ダグとガーフの冷やかし ~デートの現場が丸見え

九月二十三日。月曜日。

午前中、ヴァルターはプロテウスの整備と手技の練習に取り組み、午後一時半に食堂に足を運んだ。

既にバーカウンターの料理は大半が引けて、白身魚のフライも、鶏肉のクリーム煮も、保温パンの中でぐったりしている。残り物の野菜やソースを掻き集め、とにもかくにも皿いっぱいに盛ると、窓際の席に腰を下ろした。

接続ミッションをどうするか、まだ正式に返事はしていない。自分でやりたい気持ちに変わりはないが、それが意地なのか、皆の為なのかと問われたら、返事に詰まる。何が何でも自我を押し通すつもりはないが、ちゃらけた大学生に主操縦席を譲るのも癪なら、ここまで来て無人機の見学で終わるのも悔しい。かといって、以前のようにプロテウスを操船する自信もなく、彼の思考は堂々巡りだ。

その時、「よう色男」と頭上で濁声がした。またも二匹のマッコウクジラだ。どこにも行き場がなくて、このプラットフォームが終の棲家となった。彼らの背中に「お前の未来図」という注意書きがでかでかと記されている。

ダグとガーフィールドは向かいの席にどっかと腰を下ろすと、

「理事長の娘に手を出すとはいい度胸だ」

「お前、すでに首にロープが掛かってるぜ」

二人は口の端に笑いを滲ませた。

彼がナプキンを手に取り、知らん振りで口を拭うと、

「上品ぶるなよ。みな、知ってるんだぜ。鼻の下を伸ばしながら嬢ちゃんの手を引いて、マネージャー気取りでプラットフォームを案内してた。新参のくせに、ええ格好するんじゃねえよ。理事長に即行でクビにされなかっただけでも有り難く思え」

「お前、後ろに理事長が居るのも気付かず、ヘリポートで優男みたいに嬢ちゃんの肩を抱いてたな」

彼が唖然として二人の顔を見ると、ダグとガーフは巨体を揺すって笑った。

「見ろよ、この面。なーんも分かっちゃいないぜ」

「ミッションが済んだら、タワーデリックで縛り首だ」

「本当にプラットフォームの構造を理解してるなら、ヘリポートが管制室や応接室から丸見えだってことぐらい、すぐに分かるはずだ。それに気付かないということは、全体を見てない証拠だ」

「娘が行方知れずになれば、誰でも真っ先に管制室に行く。プラットフォームの中が一目瞭然だからな」

「嬢ちゃんもとんだ災難だ。こんな腰抜けに目を付けられて、理事長でなくても『早く逃げて』と言いたくなる」

「誰が腰抜けだと?」

「お前のことだよ、バーカ。主任会議で騒ぐだけ騒いで、結局、何も出来ないんじゃねえか。やっと酒癖の悪いトラブルメーカーが消えたと思ったら、今度は腰抜けのへなちょこ野郎だ。しかも大事な結論を後回しにして、女といちゃついてやがる。みな怒ってるぞ。こっちは重大な任務を抱えて息つく暇もないのに、お前はヘリポートで嬢ちゃんとデートだ」

「それは、あんたらのやっかみだろ。俺は何もやましいことなどしてない。本気で嬢ちゃんを口説くつもりなら、あんな人目につくような所で二人きりになったりしない。それに『大事な結論を後回し』って、あのミーティングからまだ三日しか経ってないじゃないか。こんな大事なことを三日やそこらで決められるわけがないだろう」

「じゃあ、いつ結論が出るんだ。ミッションの二日前か。あいにく、オレ達はそこまで悠長じゃない。やるならやる、やらないならやらないと、さっさと結論を出しな。それでなくても、こっちは切羽詰まってるんだ」

「切羽詰まってるのは、あんたらの管理の仕方が悪いからだろ」

「そうかもしれん。だが、ミッションに関しては誰もが切実だ。お前みたいに自分の沽券と虚勢で動いてるわけじゃない。一体、どれだけの人間が採鉱事業に携わっているか、自分の目で確かめたことがあるのか」

「だからこそ慎重に考えている」

「見ているのは自分の周囲三メートルだけだろ。お前、ここに来てから一度でも機関部や管制室を覗いたことがあるか? ブロディ一等航海士もオリガも、一度もお前からミッションについて質問されたことはないと言っていた。食堂で顔を合わせても、他人の振りで通り過ぎるってな。プロテウスとオペレーションルームだけでミッションが完結するわけじゃなし、お前、ちっとは全体ってものを考えたらどうだ。調査船ではそれで通ったかもしれないが、ここはそれよりもっと大きいプラットフォームだぞ」

さすがに彼が言葉に詰まると、ガーフも口をもぐもぐさせながら、「だから前の職場も解雇されたんだろ」と、とどめを刺した。

「お前がいなくなって、皆、せいせいしてんじゃねえか。知らぬは本人ただ一人、ってな」

「ステラマリスに帰って、海の家でイカでも焼いてろ」

二人が声を揃えて「ガハハ」と笑うと、彼は黙って席を立った。

仕事の心構え ~プロジェクトを完遂する

食堂を出ると、彼は猛然と甲板を歩き、格納庫に向かった。

なんで、あんな奴等の為に、身体を張ってまで危険なミッションに挑まねばならないのか。まるで何も考えてないように罵られて、意欲も連帯感も沸くはずがない。大体、アル・マクダエルは何の為に俺を呼び寄せたのだ? プロテウス無しでも接続できるなら、あんな風にわざわざトレーラーハウスまで訪ねてくる必要もなかっただろうに。

同情。――あるいは哀れみか。

悔しいやら、腹が立つやら、がんがんとメッシュスチールの階段を下り、タワーデリックの側を通り抜けようとした時、ドンと誰かの肩にぶつかった。弾みで書類が散らばり、甲高い声でミセス・マードックと分かる。

「すみません、ぼーっとしてました」

彼が慌てて書類を拾うと、ミセス・マードックも腰を屈め、

「私の方こそ前をよく見てなかったわ。ごめんなさい」

と白いヘルメットの鍔を上げた。

「主人に話があって来たのだけど、ムーンプールのオペレーション室に行ったみたい。私、下層レベルは怖くて行けないのよ。波の音を聞いただけで足がすくんで」

「急ぎなら、俺が一緒に行きますよ」

「いいえ、いいのよ。ちょっと立ち寄っただけだから。それより、あなたは接続ミッションはどうするの? 急かすようで悪いけど、少なくとも今週中には意思表示して下さいね。でないと、現場が混乱するから」

「それは分かっています」

「なんだか申し訳ないわね。あなたも十分やる気で来たのに、パイロットが必要だの、必要ないだの、みなの意見がばらばらで」

「正直なところ、どうなんです? 必要なのか、必要ないのか、あなたなら客観視できるでしょう?」

「よかったら、私のデスクで話さない? あそこなら技術部のスタッフは滅多に来ないし、総務部の女の子も聞き耳を立てるような人はないから」 

一緒に総務部に戻り、ヴァルターから食堂でのやり取りを聞くと、ミセス・マードックはふーっと溜め息をつき、「やっかみもあるでしょうけど、彼らの苛立ちも分かるわ」と答えた。

「威張ったように見えるけど、内心では戦々恐々としてるのよ。本採鉱が始まれば、採鉱システムの完成ではなく、利益を上げることが第一義になるものね」

「それは分かります」

「彼らも技術的なプロジェクトをマネジメントする力はあるけど、収支計算、コスト管理、人員の再配置、関連企業との連携など、経営面ではどうしても弱い部分がある。そして、そのことは彼ら自身が一番よく知っている。採鉱事業が本格化して、いっそう数字が求められるようになれば、経営に長けたゼネラル・マネージャーが必要になるでしょう。そうなれば、自分たちが真っ先にお払い箱になることを本気で心配してるのよ。にもかかわらず、あなたは主任会議の直後に美人のお嬢さんとヘリポートでデートでしょう。事情を知らない者が見れば、『何をやってるんだ』と思うわよ。主人も若いオペレーターも、いちいち口に出して言わないだけで、内心では大変なプレッシャーを感じているから」

「……そうですね」

「みなジム・レビンソンの悪口を言うけれど、やはりプロジェクトの要には違いないのよ。採鉱システムの構造から水中作業の工程まで、全部そらで言えるのは、レビンソンとうちの主人ぐらいだもの。そんな人を欠いて平気なはずがない。そんな中、プロテウスを使うの、使わないの、テスト潜航がどうこうと枝葉の部分で振り回されて、末端のスタッフにしてみたら『いい加減にしてくれ』と思うわよ。もちろん、あなた一人のせいではなく、足並みを揃えることができない主任クラスの責任なのだけど」

「でも、あなた方は仕方ないでしょう。突然、プロジェクトリーダーがなくなるという事態に直面したのですし」

「それは理由にならないわよ。小さなグループワークならともかく、これほど大きなプロジェクトになれば、いつ何が起きてもおかしくない。重要な任にある人が突然病に倒れたり、月末には納品されるはずの物資が先方の都合で何週間も先延ばしされたり、関連省庁の担当が変わった途端、あれもダメ、これもダメと突っぱねられたり。こちらがどれほど綿密な計画を立てても、思わぬ出来事に足を引っ張られるのが当たり前。でも、その度に右往左往していては、とてもじゃないけどプロジェクトの管理などできない。レビンソンの事故も想定外には違いないけど、それでも予定通りに完遂するのが主任クラスの責務よ」

「そうですか……」

「主人も毎日神経が張り詰めているのがよく分かるわ。レビンソンがなくなって、突然、自分がトップに立ったから余計でしょう。レビンソンは傲岸だけど、その分、はったりの利くところがあったの。『このオレ様に任せておけば大丈夫』みたいな。それに押されて出来た部分もあったはずよ。でも主人は温厚だから、若い人に向かって『しくじったら、殺すぞ』なんてことは絶対に言わない。その分、自分が背負い込んで、辛い思いをするのも人一倍。何でもプラスマイナス両面あるものよ」

「じゃあ、俺のこともプレッシャーでしょうね」

「そうでもないわよ。主人は最初からオール無人機には懐疑的だし、あなたのようにプロテウスに慣れた人が来てくれて、ほっとしてるのは本当よ。やはり誰かが現場に潜航して、臨機応変に対処できるのと、できないのでは大違いでしょう。私はあなたに行って頂きたいわ。主人の力量を信じてはいるけど、海では何が起きるか分からないから」

すると彼も頷き、

「現場で機械操作するかどうかは分かりませんが、潜航はするようにします。観るだけで終わるかもしれませんが、それでも役に立つなら」

「そうして頂戴。逆風もあるでしょうけど、それが理事長の望みでもあると思うから」

「どうして分かるんです?」

「なんだかんだで、あなたのことを信用なさってるような気がするからよ。そうでなければ、主任会議で『予定通り、プロテウスを使え』とは仰らない。いかにも最終判断はあなたに委ねるような口ぶりだったけど、あれはあなたに『やれ』と言ったも同然よ。そして、その結果も自身で引き受ける覚悟だと思うわ。あなたを連れて来た時点で、理事長も自分の信用を懸けておられるのよ」

「……」

「あなたも一度、頭を真っ新にしてみない? ダグやガーフの言動には怒りを禁じ得ないでしょうけど、それでもやらねばならぬ。どんな状況でも完遂するのがプロだと思うわ。サッカーを御覧なさいな、しょっちゅう仲間割れや契約金で揉めてるけど、勝つ時は勝つでしょう」

「考えてみます」

彼は席を立つと、ミセス・マードックに礼を言い、持ち場に戻りかけた。

その時、「あともう一つ」とミセス・マードックが呼び止めた。

「お嬢さんのこと、中途半端にしちゃ駄目よ。お付き合いするにせよ、しないにせよ、理事長に一言、断りを入れた方がいいと思うわ」

ヴァルターの改心 ~オペレーションの現場を学ぶ

ヴァルターは総務部を出ると、階段口に向かいかけたが、途中で方向を転じて、管制室に足を向けた。

そんなに丸見えだったのか?

確かにヘリポートは屋外ステージのように張り出しているが、そこまで見世物になった覚えはない。

もやもやしながら管制室に入ると、なるほど、二七〇度展望可能なガラス窓からヘリポートがよく見える。たとえヘリが駐まっていても、あそこに腰を下ろして喋っていたら丸分かりだ。

(俺は何をやってるんだ)

ここに来て、初めて目が覚めた。

そうして室内を見回すと、通常の船舶とは一風変わった作りが目に入る。上部には何台ものモニターが並び、甲板はもちろん、機関室、タワーデリック、ムーンプール、選鉱プラント、船着き場など、各部署に取り付けられた監視カメラの映像を瞬時に呼び出すことができる。

また操舵システムは航行よりも定点保持の機能に重点が置かれ、揚鉱管、破砕機、集鉱機などの位置を測りながら、常にプラットフォームを適切なポジションに保つ解析機能が充実している。

ダグとガーフィールドの物言いは不愉快だが、彼らの言い分にも一理ある。ミッションが格納庫とオペレーション・ルームだけで完結するはずがなく、作業の間、プラットフォーム全体がどのように制御されるか把握することも重要だ。

主操縦席のマルチコントロールシステムに見入っていると、「君もタワーデリックのテストを見に来たのか」とブロディ一等航海士に声をかけられた。

「今からタワーデリックを動かすんですか?」

「そうだ。半時間ほどだが、マードックが動作を確認したいそうだ。見学するなら、あっちの席が一番見やすい」

ブロディ一等航海士は右舷側の窓際を指した。

程なくタワーデリックで動きがあり、パイプラックから送り出された長さ二十五メートルの揚鉱管がハンドリング装置のアームによって高さ六〇メートルまで垂直に持ち上げられ、次々に連結しながら海中に降下する様子を目にすることができた。接続ミッションでは大小一三〇本の揚鉱管が自動で連結され、水深三〇〇〇メートルまで一気に降ろされる。

「ミッションの間、プラットフォームの定位置はどのように割り出すんです? 揚鉱管と水中無人機の降下、プロテウスの潜航、三つの作業が同時進行しますね」

「各機のシグナルは管制室でも受信し、その都度、人的に調整することになる。プラットフォームのポジショニングは自動化され、一度セッティングしてしまえば、プロペラの向きや回転数もコンピュータ制御されるが、ミッション中は何が起きるか分からない。各部署と連携を取りながら、重機の位置に応じて、細かく動きを調整することになる。君は大型船舶の免許も持ってるんだったね。興味があるなら、マルチコントローラーを見るといい。将来的には全部署の一元管理を目指しているが、それも本採鉱の出来次第だ。何でも一元化すれば最善というわけでもない。従来通り、各部署で直に制御した方がいいものもある」

ブロディ一等航海士にいろいろ教わりながら、あとで機関部にも回ってみようと思った。

エイドリアンの葛藤 ~遠隔地に生まれた不仕合わせ

九月二十五日。水曜日。

接続ミッションを三週間後に控え、プラットフォームのみならず、エンタープライズ社、製錬所、運輸業者、末端の関連部署まで、いっそう慌ただしさを増している。

リズは浜に打ち上げられた人魚のように、遠い海の彼方に思いを馳せながら、物流センターのアルバイトに励む日々だ。一点の間違いも許されぬ緊張感は、しばし胸の痛みを忘れさせてくれた。

あれから彼はどうなったのか、接続ミッションにはプロテウスも投入されるのか、父に聞きたいことは山のようにあるが、今はあえて口にしない。彼に関する話題は、どんな些細なことも、激しく彼女の心を揺さぶるだろうし、結論の定まらぬ今、父も話したがらないだろうからだ。

その夜は気分転換の為、セス・ブライト一家がワインと夫人の手作りの煮込み料理をもって訪れ、リズもオードブルとデザートを用意して彼らを迎えた。

食事が終わると、父とブライト夫妻はウッドテラスでワインを傾け、エイドリアンはリズの部屋のライティングデスクを借りてレポートに取り組んでいる。

アステリアに来てもゼミや講義はオンラインで聴講し、通学生と同じように課題もこなさなければならない。インターンシップを利用して、企業や社会団体で活動している学生には多少の融通も利くが、最終学年のプレッシャーは同じだ。ライティングデスクに向かって、一心不乱に学業に取り組んでいるエイドリアンの姿を見ていると、有り余るほどの力を持ちながら、遠隔地に生まれ育ったが為に同年代の秀才に差を付けられ、やけつくような焦りと劣等感を感じながら、必死に差を埋めようとする気魄が伝わってくる。エルバラードに引っ越してから服装や髪型が派手になったのも、首都圏のハイグレードな学生に対する見栄や競争心ゆえだろう。その気持ちを汲んでか、セスもイーダ夫人もあまり厳しいことは言わない。

リズはエイドリアンに食後のコーヒーとケーキを差し入れると、ガーデンテラスに出て、夕べから読み始めた本のページを繰った。

ギリシャの長編叙情詩『オデュッセイア』。

アステリア・エンタープライズ社のロゴがオデュッセイアの船をモチーフにしていると聞き、父の書斎から持ち出した。

英雄オデュッセウスはイタケーの王にして、苦難の人だ。トロイア戦争を勝利に導いた知将であり、妻ペネロペへの貞操を貫いた誠実な夫でもある。

トロイア戦争の後、故郷に帰る途中で、オデュッセウスは様々な冒険に遭遇する。一つ目の巨人キュクロープスや、美しい歌声で船乗りを惑わせる怪鳥セイレーン。眠りを誘うロートスの果実や追い風となるゼピュロスの革袋。

波瀾万丈の物語にリズもぐいぐい引き込まれたが、スケリア島の王女ナウシカア姫のエピソードでページを繰る指先がはたと止まった。

一つ目巨人の洞窟から命からがら逃げ出したオデュッセウスは、海神ポセイドンの怒りに触れ、筏を嵐で吹き飛ばされてしまう。裸同然でスケリア島の海岸に漂着したところ、ナウシカア姫に助けられ、父王アルキノオスの王宮に招かれる。父王は勇敢で知恵もあるオデュッセウスをいたく気に入り、娘の婿に望むが、故郷を忘れないオデュッセウスはナウシカア姫に別れを告げ、スケリア島を去って行くのだ。

ナウシカア姫は故郷に帰るオデュッセウスの為に船を用意し、涙を堪えて送り出すが、私には到底そんな真似はできそうにない。きっと父王にすがりつき、どうかあの方をここに留め置き下さいと懇願するだろう。それでも行くというなら、魔女のように嵐を起こして、彼の船を足止めするに違いない……。

リズは本を閉じると、思いがけない自身の激しさにおののいた。あの日から気持ちは鎮まるどころか、ますます大きく膨らみ、胸いっぱいに占めている。明けても暮れても彼のことばかり考え、息も苦しいほどだ。雲の上を跳ねるようにして、楽しく暮らしていた私は何処へ行ったのか。そして今、この瞬間も、自分とナウシカア姫を重ね見、泣き叫びたいような気持ちになる。

ふと後ろで物音がし、びっくりして振り返ると、エイドリアンが憮然とした表情で立っていた。

「レポートは終わったの?」

リズはとっさに繕ったが、エイドリアンは彼女が手にしている『オデュッセイア』を一瞥すると、

「ミッションが終わったら、トリヴィアに帰るんでしょう」

と探るように言った。リズが答えずにいると、

「僕と無理に付き合えとは言いません。ただ、あなたが元居た場所に戻って欲しいだけです。それがあなたの為でもあり、理事長の為でもあるからです。早めに距離を置けば、痛手も少ないですよ」

エイドリアンはナウシカア姫の運命を仄めかすように言った。

「あなたの言う通りかもしれない。でも、人間って、幸福だけが生きる目的ではないはずよ。オデュッセウスのように、いろんな苦難や不思議を体験して、心を磨くことも、幸福と同じくらい大切なはず。私だって生きたいの。心が本当に『生きた』と思えるような人生を。たとえ苦しみ、傷ついても、後悔はないわ」

「あなたは波瀾万丈に憧れているだけだ。物に不足したこともなければ、他人に蔑まれたこともない。苦難や悲哀を、何やら高尚でロマンチックなものみたいに思い描いて、夢に浸ってる。でも、実際、そんな不幸が我が身に降りかかれば、あなたは泣き叫ぶだけで何も出来ないはずです」

「随分な言い方をするのね」

「本当のことじゃないですか。あなたは昔からそうだ。愛にも物にも恵まれすぎて、その反動で、みずぼらしいものが美しく見える。ロック歌手のブライアン・スチュワートもそうです。あんな濁声シンガーのどこに才能があるのか、世間がけなせばけなすほど、あなたは彼を庇って『ブライアンは天才よ』などと言い出す。でも、実際、麻薬中毒のとんでもないクズだったでしょう」

「麻薬に溺れたのは、落ち目になってからよ」

「落ち目も絶頂期も同じですよ。そういう性質は終生変わりません」

「本人を知りもしないのに決め付けるのね」

「ともかく、あなたに男性を見る目がないのは確かだ。何でもかんでも親切と受け止めて、まるで疑うことを知らない」

「失礼ね。私にも嘘を嘘と見抜く力はあるわ」

「見る目のある人が、どうしてあんなのと一緒に居るんです?あの人が手癖の悪い、ろくでなしということぐらい、僕にも分かります。ろくでもないから解雇されて、こんな辺鄙な所に来たんでしょう」

「それは言い過ぎよ」

「あなたも理事長もどうかしてる。いくら採鉱システムが大事だからといって、あんな得体の知れない人を突然連れてくるなんて。どうせ二年経ったら、故郷に帰る人じゃないですか」

エイドリアンが冷たく言い放った時、階下から二人の名を呼ぶ父の声が聞こえた。

「どうなさったの?」

リズとエイドリアンが手摺りから身を乗り出すと、

「プロテウスが出るぞ」

父が揚々とした声で言った。

「エイドリアンもそのつもりで準備するように」

「あの人が操縦するんですか」

エイドリアンが怪訝な顔をすると、 

「先ほどダグから連絡があって、たった今、本人にも意思確認した。どこまで本人が機械操作するかは定かでないが、潜航はするらしい」

「分かりました」

エイドリアンが憮然と返事すると、リズは彼に向き直った。

「あなたの言う通り、ろくでもない人かどうか、これではっきりするわ。最後に泣くのは私かもしれないし、まったく予期せぬ結末が待ち受けているかもしれない。でも、一つだけ言わせてちょうだい。プロテウスに関しては、あの人は本物よ。操縦席に私情を持ち込むあなたとは違う。アル・マクダエルの娘として言うわ。中途半端な気持ちで乗り込んで、接続にしくじったら、たとえあなたでも承知しないわよ」

【参照】 オデュッセウスの冒険とナウシカア姫の物語

一般に『オデュッセウスの冒険』として知られる一連の物語は、トロイア戦争の英雄、オデュッセウスが、トロイアから本国イタケへ帰るまでの漂浪の話です。

オデュッセウスが20年も海を彷徨っている間、賢妻ペネロペは男たちの求婚を片っ端から拒んで、操を守り、ついには夫オデュッセウスと再会を果たします。

一方、漂浪するオデュッセウスは、海のニンフ「カリュプソ」と懇ろになったり、魔女キルケの歓待を受けたり、それなりに横道にそれたりします。

中でも印象的なのは、アルキヌス王の愛娘、ナウシカア姫との悲恋でしょう。

海のニンフ、カリュプソはオデュッセウスに恋をし、不老不死を与えてやるから、いつまでも一緒に暮らして欲しいと懇願しますが、オデュッセウスは故郷に残した妻子のことを思い、カリュプソの願いを拒みます。

そして、ついにはゼウスの命令に従い、オデュッセウスに立派な筏を作らせ、彼を送り出します。

オデュッセウスの筏は、しばらく順風に進んでいましたが、ついには筏も壊れ、パイアキア人の住む島に漂着します。

彼が打ち上げられたのは、パイアキア人の国のシチリアというところでした。

そんな折り、アルキヌス王の愛娘、ナウシカア姫と彼女のお供が、ぼろぼろになったオデュッセウスと遭遇します。

筏が壊れて何もかも失ったオデュッセウスは裸同然でしたので、若い乙女らは驚いて逃げ出しますが、ナウシカア姫だけは恐れず、彼に衣類と食べ物を与えます。

その立派な出で立ちに、ナウシカア姫は心を動かされ、父王の催す饗宴に招待します。

王はオデュッセウスを大変気に入り、ナウシカア姫を妻に娶って、この国に仕える気はないかと促しますが、やはりオデュッセウスは故郷に残した妻子のことを思い、この申し出を断ります。

オデュッセウスを慕うナウシカア姫は、自ら筏を作り、泣く泣くオデュッセウスを送り出したのでした――。

参考文献 『ギリシア・ローマ神話(岩波文庫)』

ピーター・ラストマンの描く『オデュッセウスとナウシカア姫の出会い』。

ある文学評論で、「オデュッセウスは漂浪したのではない。真っ直ぐ妻の元に帰りたくなかったんだ。男なら、この気持ちが分かるだろ?」と言っていたのが今も印象に残っています。

そう言われてみれば、確かにその通りで、「どうせなら寄り道したい」という秘めた願望が嵐を起こし、潮の流れを変えたという気もします。

またカリュプソやナウシカア姫など、次々に美女に言い寄られても、結局は、妻子の待つ故郷に帰って行く展開も味わい深いです。

ふらふらと漂浪を繰り返し、なかなか腰が据わらないのはヴァルターも同じです。

船乗りというのは、漂浪の過酷さが骨身に染みるまで、船から下りようとしないのかもしれません。

ギリシア・ローマ神話-付 インド・北欧神話 (岩波文庫)
ギリシア・ローマ神話-付 インド・北欧神話 (岩波文庫)
西欧の文化芸術に親しもうとする人にとってギリシア・ローマ神話の知識は不可欠である.この分野の学問的研究は長足の進歩をとげたが,しかし神々と人間の豊かで興味つきぬ世界を描いたブルフィンチ(一七九六―一八六七)のこの書物はすこしも価値を減じていない.『伝説の時代』の中から神話篇の全部を収めた.昭和の時代から続くロングセラーであり、定番。
<< 前のエピソード次のエピソード >>
目次
閉じる