海洋小説 MORGENROOD -曙光 One Heart, One Ocean

海は生きとし生けるもの すべての故郷  

【小説】 海は生きとし生けるもの すべての故郷

物語

父グンターの必死の努力も空しく、フェールダムの締切堤防は決壊し、幾多の作業員と共に命も失われる。母のアンヌ=マリーは、息子のヴァルターを連れて、アンヌの故国フランスに近いフォンヴィエイユの港町に移り住む。悲しみに暮れるヴァルターの心を癒やしたのは、地中海の美しい眺めと、母が優しく歌うシャンソンの名曲『La Mer』だった。

フォンヴィエイユと海洋博物館

コート・ダジュール空港では、アンヌ・マリーの唯一の友人が出迎えてくれた。フランス国境に近いフォンヴィエイユまで、友人の運転する高級スポーツカーで一走りだ。白いパンツスーツに身を包み、オープンカーの運転席でシフォンのスカーフをなびかせながら軽快にハンドルを切る姿は、まるで銀幕スターのように華やかだ。

友人もまた裕福な実業家の娘で、高校時代からネパール、チリ、マダガスカルなど、世界の秘境を渡り歩き、学内でもひときわ目立つ存在だった。大学卒業後はモナコの中心地モンテカルロに居を構え、親族が経営するツアー会社の企画を手伝いながら、比較文化学に優れた紀行ライターとして名を馳せている。子供を産んで、すっかり所帯持ちとなったアンヌ=マリーとは対照的に、今も気ままな独身生活を謳歌し、西に東に飛び回っている友人とは価値観もライフスタイルも異なるが、家名に頼らず、自ら人生を切り開く点で今も共感する部分が多い。

事情を知ると、友人はフォンヴィエイユに手頃なアパートを見つけ、オーベルジュ*35の仕事も紹介してくれた。これといった資格も技能も持たず、フランス語の家庭教師ぐらいしか経験のないアンヌ=マリーに出来る仕事は限られている。たとえ下働きでも、オーベルジュのオーナーが感じのいい人で待遇も上々だったこと、アパートから歩いて通える距離であることから契約を交わした。

仕事は客室の清掃がメインだが、部屋数は四つしかなく、いずれも高価な調度や美術品で飾られたラグジュアリータイプだ。客筋もよく、驚くほどチップもはずんでくれる。雑な掃除夫より、美術品の扱いに慣れたアンヌ=マリーの方が重宝され、数ヶ月後には地位の高い顧客の話し相手や簡単なフロント業務も任されるようになった。オーナーの配慮で、時折、厨房の残り物を持ち帰らせてもらえるのも有り難い。

一方、ヴァルターは港近くの公立中学校に通い、勉強を再開した。母親と日常会話を交わす程度にフランス語は出来るが、ネイティブの子供に比べたら、やはり落差は大きい。夜も遅くまで勉強を見てやるが、まだ精神的に不安定なこともあり、ほとんど頭に入ってないようだ。それでも落第はさせられず、泣きながらでもフランス語を習得し、必修科目を修了させねばならない。他の子に比べたら二重三重の苦しみだが、蘭仏英独、四カ国語できれば、可能性もぐんと広がる。いつか必ず語学力がこの子のパスポートになると信じて、アンヌ=マリーも疲れた身体に鞭打ちながら息子とテキストを読み進める。

アパートは五十平米の2LDKで、大きな車道に面しているが、三階の窓からは美しい地中海が見渡せる。市場では新鮮な魚介類が安価で手に入り、伝統の手法に則ったブイヤベースやグラタン・ド・フルーツ・ド・マーシーフード・グラタンは息子を喜ばせた。

モナコ・グランプリのシーズンが過ぎ、町中にいつもの静けさが戻ってくると、気分転換にモナコ・ヴィレの海洋博物館に連れて行った。

Musee oceanographique Monaco は、西暦1990年、モナコ大公で海洋学者でもあるアルベール一世の命により設立された。地中海に突き出た岩山の先端に、海の青と溶け合うように作られた白亜の建物には、アルベール一世が生涯かけて取り組んだ海洋学研究の集積ともいうべきコレクションが収められている。今では水族館や3Dシアター、インテリジェントホールなども併設され、子供向けの教育イベントや海洋学シンポジウムなど多彩な活動を展開し、観光スポットとしても人気がある。

父親の死後、笑顔もなく、死んだ魚のようにぐったりしていたヴァルターも海洋博物館は非常に気に入ったらしく、アルベール一世が愛用した調査器具や帆船の模型、スチール写真を食い入るように見つめている。ふれ合い広場では可愛いカメやヒトデを手に取って、やっと淡い笑みを浮かべた。

青々と輝く大海原を見つめながら、アンヌ=マリーは息子を力付けるように囁く。

海は生きとし生けるもの、すべての故郷よ。生命は海から生まれ、空に、陸に、巣立っていったの。陸に上がった人間が今もこうして海を懐かしむのは、海に暮らした何億年もの記憶を今も留めているからかもしれないわね

その後、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』を読み聞かせ、フランスで最も愛された赤いニット帽の海洋学者、ジャック=イヴ・クストーの著書『沈黙の世界』にもチャレンジした。クストーは海洋調査船カリプソ号を建造して世界中の海を渡り、優れた著作やドキュメンタリー映画などを数多く制作した。今のヴァルターには難しい箇所もたくさんあるが、海洋科学で世界の最先端をゆくフランスならではのエスプリがいっぱい詰まっている。ネーデルラントでもドイツでも、ここまで多彩な海の話はなかなかお目にかかれないだけに、息子には新鮮なようだ。

ページを繰りながら「いつか海の底に行ってみたい」とヴァルターが呟く。「海の底には父さんがいる。冷たい海の底で、俺が探しに来るのを待っている」

「お父さまは世界中のどこにでもいらっしゃるわ。海の魚、星の瞬き、野に咲く花の一つ一つにお父さまの愛がある。あなたが信じる限り、お父さまも永遠に生き続ける」

海はあなたの心を慰めてくれる

淋しい日は二人で海岸に出かけ、浜に打ち上げられた二匹の魚のように身を寄せ、思い出を語り合った。寄せては返す波の音を聞きながら、アンヌ=マリーはシャンソンの名曲『La Me(ラ・メール)』を口ずさむ。

海はあなたの心を揺りかごのようにゆさぶり、愛の歌で慰めてくれる……。

一方、アンヌ=マリーの仕事は倍増し、毎日のスケジュールも不規則になった。週二回の早番では朝五時半に家を出る為、朝食も息子一人で用意しなければならない。夜も帰宅が午後十一時を過ぎることがあり、ヴァルターも気になって、ゆっくり眠れないようだ。

それでも自分でパンケーキを温め、サンドイッチを作って、健気に学校に出かけていく。夜も自分で白身魚のバター焼きやグリーンサラダをこしらえ、母の分まで頑張って生活を立てた。

学校でもクラスメートに鼻に詰まったような発音を馬鹿にされ、辛い思いもしているようだが、家ではほとんど泣き言も言わない。黙々と食べ、宿題をこなし、ぼーっとTVを見る、その繰り返しだ。

時には、夜中にわっと叫んで飛び起きたり、「父さん、父さん」と泣きじゃくる声が壁越しに聞こえてくる。その度に、アンヌ=マリーも床から這い出て、息子の背中を擦ったり、ハーブティーを飲ませたりするが、時には自分も疲れ果て、起き出せないこともある。そんな時は自らも涙を流し、愛する人を亡くした淋しさと心細さに胸を掻きむしった。

たまに様子を見に来るモンテカルロの友人は、「いい加減、意地を張るのはやめて、エクス=アン=プロヴァンスの親族に助けを求めたらどうなの。自分の悲しみも癒えないのに、半病人みたいな息子を立派に育てられるわけがないじゃないの」と口を酸っぱくする。

だが、アンヌ=マリーには、どうしてもエクス=アン=プロヴァンスに近づきたくない理由があった。一つは、いまだに「みなみのうお座の純金プレート」に執着し、息子をだしにしても奪い取ろうとするのが目に見えていること。もう一つは、持って生まれた地位と財力に胡座をかき、怠惰で、傲慢で、慈悲のかけらも無い一族の姿を息子に見せたくないからだ。

カールスルーエに行くことも考えるが、義母は最愛の息子の死から体調を崩し、先月も狭心症の発作を起こして病院に運び込まれたばかりだ。体力自慢の義父もすでに七十三歳の年金生活者で、自分たちの暮らしを支えるのに精一杯である。

先の見えぬまま五月になり、有名なカーレースを見に世界中から観光客が押し寄せると、オーベルジュの仕事も繁忙を極めた。

ある日、二階のゲストルームでベッドメイキングをしていたアンヌ=マリーは突然意識を失い、気がつけば救急車の寝台に揺られていた。医師は一ヶ月の静養を言い渡し、仕事も新たに採用された若い女性に取って代わられた。夏の観光シーズン、欠員が出ては困るからだ。

モンテカルロの友人がアパートを訪ね、向こう三ヶ月の家賃を肩代わりし、食べ物や医薬品を届けてくれたが、いつまでも好意に甘えるわけにいかない。どうすればいいのか思い倦ねるうち、気力も体力もどんどん失われ、今度はアンヌ=マリー自身が半病人のようになった。

その傍らで、ヴァルターは気丈に母を看病し、三度の食事を作り、なんとか暮らしを支えようとするが、既に学業も手に付かず、日に日に状況は悪化するばかりだ。

七月になると、アンヌ=マリーもベッドから起き出して、再び職探しを始めたが、条件が悪かったり、職場が遠かったり、これといった仕事はなかなか見つからない。そして七月半ば、無理をおして面接に出かけたのはいいが、夏の強い日差しと疲労から再び町中で意識を失い、病院に運ばれた。

見るに見かねたモンテカルロの友人がエクス=アン=プロヴァンスの両親に連絡を入れ、迎えの車がやって来たのは、それから三日後のことだった。

【資料】 モナコ海洋博物館とアルベール1世

海洋科学といえば、日本もよく頑張っていますが、フランスのお家芸ですね。

こちらはアルベール一世の海洋博物館です。場所はモナコですが。

公式サイトはこちら → https://www.oceano.mc

専門家向けの研究施設から一般向けのイベントやアトラクションまで、知る、学ぶ、遊ぶ、様々な工夫がなされています。

シャンソン 『La Mer』

フランスの国民唱歌とも言うべき『La Mer(ラ・メール)』は、シャンソン歌手、シャルル・トレネの代表曲です。

海を想う気持ちが歌詞にもメロディにも溢れ、何度聞いても胸が震えます。

特に「海は揺りかごのように、あなたの心を慰めてくれる」というフレーズがいいですね。

La Merもいろんなバージョンがありますが、特に印象的なのが、映画『Mr. ビーン カンヌで大迷惑?! 』のラストシーン。

この場面だけを見るとギャグですが、全編を通して見ると感動します。

皆がハッピーな気分になる、ハートウォーミングな良作です。

こちらは珍しい日本語訳の歌唱。菅美沙緒氏による訳詞です。歌の内容を把握したい人におすすめ。

【コラム】 私たちが海を恋しく思うわけ

私たちが森や山など、自然に心を慰められるのは、自分がどこで生まれ、何によって生かされているか、遺伝子が記憶しているからでしょう。

どんな生物も帰る場所が必要で、帰る所があるから、遠くに行くことができます。

人間も、すぐそこに森があり、山があるからこそ、自由に海を渡って行けるのかもしれません。

海洋小説「MORGENROOD -曙光」の主人公も、常に海と共にあります。

迷う時も、やり直す時も、海が心の支えです。

ただ見つめるだけで、海に心が慰められるのは、昔そこに住んでいたからでしょう。

海は揺りかごのように、疲れた人の心を揺さぶり、温めてくれます。

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Another Story

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