海洋小説 MORGENROOD -曙光 海とレアメタルの本格SF小説

生命の始まりは微生物 ~海と環境破壊
今日の利益か、数億年後の生命か

第1章 運命と意思 ~フォルトゥナ号(7)

海の本当の価値が分かるのは
あんたの会社が潰れて
人類が滅び去ったその後だ

MORGENROOD -曙光
あらすじ
優秀な潜水艇パイロットでありながら、自暴自棄を起こしてトレーラーに引きこもるヴァルターの元にアルが訪ねて来る。アルの海洋開発に対して、ヴァルターは微生物の億単位の宇宙的価値を説いて、アルを愚弄する。アルは「屁理屈だけは超一流。くだらんプライドだ」と嘲り、「君の負い目は海でしか返せない。それが運命だ」とヴァルターを発奮する。
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「ここか」

フォルトゥナ号を降りると、アルはセスとボディガードを伴い、直ちにエンデュミオンの外れにあるトレーラー村に向かった。

『村」といっても、数十台の薄汚れたトレーラーハウスがひしめく裸地で、管理者もなければ規則もない。すぐ側にはデッドゾーンが広がり、いよいよ生きる手立てが失われたら、そっちに行方をくらます者も少なくないと聞く。

街路樹の枝にぶら下がった裸電球が辺りをぼんやり照らす中、アルは背広のポケットから貸しトレーラーの広告写真を取り出すと、近くでクラブミュージックを聴きながら瓶ビールを回し飲みしている大学生のグループに見せた。それが半年前、宇宙港のサービスカウンターでヴァルター・フォーゲルが契約したトレーラーハウスだ。
すると大学生の一人が小さな給水施設を指差し、「入り口の階段に自転車が立てかけてあるトレーラーだ」と答えた。

指差す方に行ってみると、キオスク型の給水施設の裏手に、全長一〇メートル程の古びたトレーラーハウスが横付けになっている。大学生が言った通り、入り口の階段に上等な二〇インチの折り畳み式自転車が立てかけられ、スチール製のU型ロックとケーブルワイヤーで二重に固定されていた。

「自転車が趣味らしい」

アルはブラインドカーテンの向こうに明かりがついているのを確認すると、セスとボディガードに「すまんが、君たちは外で待っていてくれんかね」と言い付け、軽やかに入り口の階段を上がった。

白い木目のドアを三回ノックし、「ヴァルター・フォーゲル君!」と呼びかけると、ドタンと床の鳴る音がし、窺うようにドアが開いた。

ドアの向こうに立っていたのは、やさぐれた海賊みたいな男だった。背は高く、引き締まった体付きをしているが、擦り切れたジーンズに色落ちした濃紺のTシャツを身につけ、質素倹約というより、ただの貧乏性に見える。自分で散髪しているのか、毛先の揃わぬダークブロンドの髪をぶっきらぼうに掻き上げ、見た目もまるで構わぬ様子だ。

彼はトリヴィアのビジネス誌やTV番組で何度も目にしたアル・マクダエルの顔を認識すると、

「あんた、ここまで来ちまったのか」

と呟いた。

「お邪魔だったかね」

「いいや。拾いの神に会うのも悪くない話さ」

彼はドアを大きく開くと、アルを丁重に迎えた。

*

トレーラーハウスの中は意外に広い。

十五平米ほどのスペースに、収納付きベッド、パソコンデスク、二人掛けソファとテーブル、簡易キッチン、冷蔵庫、バスルームと、生活に必要なものは一通り揃っている。
どんな荒んだ暮らしをしているかと思いきや、まるで清掃済みホテルのように片付き、床には塵一つ落ちてない。目を丸くするアルに、彼は布張りのソファを勧めると、慌ただしくバスルームに行き、顔を洗って、身繕いを始めた。

アルは再び室内を見回すと、パソコンデスクで作動する十七インチのラップトップPCに目を留めた。ディスプレイは暗転しているが、本体側面のオレンジ色のインジケーターランプがせわしなく点滅している。

IT調査員の話によると、彼が使っているのはLeopard(レオパルト)という人気機種だ。氷のように美しいディスプレイが売り物で、グラフィックデザイナーやビデオクリエイターなど、ビジュアル重視のヘビーユーザーに愛好者が多い。

やがてヴァルターが清潔なTシャツとジーンズに着替え、タオルで前髪を拭きながらバスルームから出てくると、「紅茶でも飲むかい?(Would you like a cup of tea ?)」と尋ねた。

アルは欲しくなかったが、この男がどんな風にするのか興味がある。「い(Yes)ただこう( please. )」と答えると、彼は簡易キッチンの吊り戸棚から白いティーカップのセットを取り出し、銀のケトルで湯を沸かし始めた。

「砂糖は?」

「ティースプーンに一杯だ」

「申し訳ないが、レモンもミルクも切らしているんだ。砂糖だけでいいかい?」

「もちろん」

その時、気付いたのだが、彼はどうやらLとRの発音が苦手らしい。lemon(レモン)が「エモン」、sorry(ソーリー)が「ソウィ」に聞こえる。その他にも若干引っかかりがあり、自分でも無意識に身構えるせいか、余計で鼻が詰まったように聞こえる。もっとも会話に支障をきたすほどではないが。

湯が沸くと、彼はカップに汚れがないか裏返して確認し、ご丁寧に湯煎までして、うちの娘より気が利くと思った。

それからティーバッグの箱を開けたが、どうやら最後の一包らしい。一瞬躊躇するように動きを止めたが、ちゃんぽんとアルのカップにティーバッグを浸けると、キッチンペーパーできれいに拭き取ったティースプーンを添えてアルの所に持ってきた。アルが丁重に礼を言うと、彼は真向かいのスツールに腰を下ろした。

身長は一八五センチ、子供の頃からサッカーやサイクリングで鍛えただけあって、均整のとれた筋肉質だが、もう何日も食べてないのか、頬はこけ、目の周りも少し落ちくぼんでいる。今も気力で瞼を開き、鋼のような眼力を湛えているが、その奥底には淋しい翳りがあった。

それでも彼が優れた知力の持ち主であることは、長い前髪の向こうに見え隠れする秀でた額で分かる。眉は一筆で描いたように男らしく、瞳は海のような碧色で、舞台俳優のように端正だ。鼻は顔の真ん中で自我が胡座を掻いたように威張っているが、口元には甘やかな優しさがあり、若い娘がぽーっと見惚れるような男前だった。

一瞬、アルの脳裏に娘の顔が浮かび、全身の血がざーっと音を立てて引いたが、慌ててそれを打ち消すと、改めて彼に向き直った。

「先日、メールで伝えた通りだ。船舶や潜水艇の操縦ができて、海洋調査にも詳しい人材を求めている。君さえよければ、明日にもアステリアに来てもらえないだろうか」

「返事した通りだ。スカウトしてくれるのは有り難いが、あんたの役には立たない」

「なぜ?」

「俺は一年以上、現場を離れてる。最後にプロテウスの操縦をしたのは去年の四月だ。それ以降はまったく海に出てないし、今更勘が戻るとも思えない。何度聞かれても同じだ。俺は二度と海に帰る気はない」

「なぜ帰る気がないんだね」

「メールに書いた通り、俺には説明のしようがない。説明できないことを尋ねられても、俺には答えようがない」

それだけ言うと、固く口を閉ざし、二枚貝のように黙り込んだ。

(こいつは塩でもかけねば口を開かんな)

アルは紅茶を半分ほど飲むと、親身な口調で語りかけた。

「では、明日からどうやって生活するつもりだね?もうすぐ観光ビザも切れるだろう。帰りのチケットも持たず、貯金も底を尽き、ティーバッグを買う金すらなさそうだ。あと数日は持ちこたえても、家賃が払えなければここにも住めなくなる。岩場の陰に寝泊まりしても、週明けには保安官が見回りに来て、そのまましょっぴかれるぞ。若い、輝ける時を、不法滞在者として檻の中で過ごしたいかね?」

「あんた、俺に説教しに来たのか?」

「いいや、一つの道を示しに来たんだ。見たところ、君は死ぬつもりだな。もういつ死んでもいいと思ってる。生きる価値もないから働く気もない。下手に仕事を持てば、生きる希望が湧くからだ。だが、希望を持ったところで、失ったものは帰ってこない。中途半端に生き長らえるくらいなら、いっそ命を絶った方がいい。まあ、そんなところだ」

「あんたには関係のないことだ」

「行き詰まった先が、誰にも迷惑かけずに荒野の果てで野垂れ死にか?人間、そんな恰好よく死ねると本気で思ってるのかね?それでも死ぬつもりなら、今すぐ、ここで死に給え。わしが最期を看取ってやろう。いくら孤独が好きでも、一人で死ぬのは淋しかろう。だから、わしが側に付いてやろうと言っている。そして、君が死んだら、警察とマルセイユの母親に報(しら)せよう。それなら、他に迷惑はかからない。自殺者の最期としては上出来だと思うがね」

「なんで俺があんたの目の前で死ななきゃならないんだ?負け犬じゃあるまいし、自殺などする訳がないだろう。俺にもプライドはある。今はどうしたらいいか分からないだけだ」

「それならいいんだ。――死ぬ気が無いなら、それでいいんだよ。それでは君に日銭をやろう。わしの相談に乗ってくれたら、アドバイス料として十万エルクを支払う。それで、あとひと月は生活できるはずだ。どうだね?」

彼が頷くと、アルは持参したブリーフケースから数枚の海底地形の写真と調査データを取り出し、テーブルに置いた。

「最近、北極海で石油の掘削調査を手がける会社の顧問から事業参加のオファーがあった。それは北極海のロモノソフ海嶺の四箇所で深海調査したデータだ。水深千メートルから千五百メートル、海底の約五百メートルの深さを掘削している。顧問いわく、良質な油田があるというのだが、君はどう思う?」

彼は調査データをじっと見つめていたが、不意に顔をあげると、

「あんた、俺を馬鹿にしてるのか? これはロモノソフ海嶺じゃない。こんな巨大な海山は北極海域のみならずステラマリスにも存在しない。大体、ロモノソフ海嶺にこんな大量の緑色海成粘土鉱物は存在しないし、石油の掘削と中央海嶺玄武岩の化学組成データにどんな関連があるんだ? その海底地形はアステリア、こっちの地質データは中央海嶺、化学組成から見てアイスランドのようなホットスポット近郊だろ。それに、こっちのサンプルコアの写真は珪質軟泥で細粒の深海堆積物だ、北極海の水深千メートルの海底からは出ない」

「よく分かってるじゃないか」

「馬鹿馬鹿しい。俺の能力がどの程度か知りたければ、正面から聞けばいいだろう。人を試すような真似をして、恥ずかしいと思わないのか?」

「それはすまなかった。非礼は謝ろう。だが、正面から『あなたの能力はどの程度のものですか』と聞かれて、正直に答える人間がどれほどいると思う?君は自分に出来ることと出来ないことを正直にメールで伝えてきたがね」

すると、彼は意外そうにアルを見やり、

「じゃあ、俺もあんたに一つ質問していいかい?」

と切り返した。

「どうぞ。何でも聞くよ」

「あんた、今までに何人死なせた?」

「どういう意味だね」

「アステリアの海洋開発だ。この三十年の間にも、たくさん死んでるはずだ」

アルはしばし詰まったが、「八名だ」と正直に答えた。

「MIGが関わった工事では八名と記憶している。アステリア全体を含めれば、数倍になるだろう」

「そうだろうね。あんたに駆り出された労働者の多くは『海での作業は初めて』という素人のはずだ。まさかステラマリスから熟練工を何万人も連れて来るわけにいかないからな。もちろん、アステリアにもステラマリスで研鑽を積んだエキスパートが少なからず居るだろうが、大半はネンブロットやトリヴィアの職業斡旋所をうろついているような一時雇いの労働者のはずだ。あんたら事業家はそういうズブの素人を掻き集めて、ろくに訓練も受けさせず、港湾土木や潜水作業、海上施設で組み立て作業などをさせてきた。そこでの事故が記録に残らないのは、作業員名簿にも載らないような臨時雇いの労働者が相手だからだ。死のうが、傷つこうが、数には入れないってことさ。図星だろ?」

「亡くなった者には申し訳なく思っている」

「その割に、アステリアの海洋基本法の安全要綱がまったく改訂されていないのはどういうわけだ?あんたからオファーがあった日、俺もあんたの会社とアステリアについて調べさせてもらったよ。区政センターのオフィシャルサイトで公開されている資料を見たら、安全要綱が改訂されたのは七年前だ。つい先日も護岸工事中に鉄骨の枠組みが倒壊し、作業員二名が海に投げ出されて、一名が負傷する事故があったばかりだ。安全ロープも付けずに落水するなんて、監督が行き届いてない証しだろう。作業枠の組み方にも問題があったんじゃないか。その二年前も荒天で曳航ロープが切断し、台船が転覆する事故が起きている。その前は、夜間の小型作業船の転覆事故。その前は、潜水訓練中に訓練生と救助に向かった指導員が共に死亡。この七年間にもいろんな事故があっただろうに、それらを条例や安全要綱に反映させようという姿勢がない。もし行政や現場管理者に自覚があるなら、その都度、内容を見直して明文化するはずだし、管理者が怠っているなら、事業の長であるあんたが指導して然るべきだ。何も知らずに海に出れば、誰だって不安になる。だからこそ、細かい事でも明文化して、人にやり方を指し示す必要がある。それに一般投稿の写真やビデオも見たが、ライフジャケットも付けずに水上バイクに乗ったり、小型船舶で沖合に出たり、工事中の橋梁に侵入して自撮りしたり、まるで無法地帯だ。あんたはくだらないと思うかもしれないが、こういう小さな気の緩みが死亡事故に繋がるんだよ」

彼はぐいと身を乗り出すと、

「海に落ちたら、ほぼ間違いなく死ぬ。あんた、知ってたか?」

と鼻先をアルに突きつけた。

アルはしばらく黙っていたが、

「なるほど。わしの認識の甘さは、君に批判されて然るべきだな。安全管理の不備については君の指摘を素直に認めよう。すぐにも各部のマネージャーを集め、業務内容やマニュアルの見直しを指示するつもりだ。また、近々アステリアの海洋開発について、企業のリーダーや行政の担当者らと交流会を開く予定でいる。その場で君が指摘したことを議題に挙げ、安全対策の強化を呼びかけよう。なかなか、そういうことを進言してくれる者がないので参考になったよ。さすがだな」

そう言われると、彼もまんざらではなさそうに頬を緩めた。

「だいたい俺はアステリアの海底を掘り返そうという考え自体が気にくわないんだ」

「なぜ? 未曾有の鉱物資源だぞ?」

「それは事業家にとってだろう。海の生き物は違う」

「アステリアの海に生物は無い」

「あるさ。ここに証明されてるじゃないか」

彼はどこかでプリントアウトした資料を荒っぽく繰ると、赤線を引いたページを示し、

「ローレンシア海域でも、赤道直下でも、数種類のプランクトンが発見されている。全海域をくまなく調査すれば、もっとたくさんの生物が見つかるはずだ。それを無視するなんて、おかしいじゃないか」

「たかが微生物だぞ。こういう事はどこの惑星開発でもつきものだし、ステラマリスも同様だ。生態も分からぬ微生物までいちいち保護の対象にしていたら、開発事業など到底成り立たない。保護すべき生物が発見されたら、その時点で対策を考える。それより、今我々が為さねばならないのは、我々自身の世界をいかに改善するかだ。今こうしている間にも、ネンブロットでは多くの鉱山労働者が皮膚病や呼吸器疾患に苦しんでいる。とりわけニムロデ鉱山の深部は被害も深刻だ。だが完全自動化された海底鉱物資源の採掘の手法が確立されれば、労働者を取り巻く環境も大きく変わる。あと一歩で、そうなるんだ。微生物の生命を重んじる君の気持ちも分からないでもないが、人間の苦しみはもっと深刻だ」

「あんたら事業家は『たかが微生物』と言うが、人間だって『たかが微生物』から進化したんだ。海の中で、何億年という時間をかけて。アステリアの海も生きている。ステラマリスの海と同じように生きているんだ。その生命の萌芽を、自分の事業の為に摘み取ってもいいと? あんたに『我々の世界』があるように、アステリアの微生物にも『我々の世界』がある。もっとも、あんたみたいに海の本当の価値を理解しない事業家に、踏みにじられる生命の痛みなど分かりやしないだろうがな」

「ヴァルター。わしは慈善事業家ではない。今、お前と環境問題を論じている場合ではないのだ。確かに微生物にも価値はあろう。だが、わしには自分の事業に連なる何千、何万という人間を養う義務がある。それは海の微生物を保護するより、はるかに重大な責務だ。お前のような根無し草には分からんだろうが、アステリアの海には計り知れない社会的価値がある。ファルコン・マイニング社の一党支配に風穴を開け、鉱業の在り方を変えるほどの。それでもまだ数種類の微生物の為に海底鉱物資源の採掘を中止しろと言うのかね」

「だったら、あんたが見殺しにした微生物は口を揃えてこう言うだろう。『今は目に見えないが、アステリアには十億年の生物学的価値がある』。生命の進化は文明の進歩より緩慢だ。だが確実に変化している。人間が介在しなければ、アステリアも何十億年という歳月をかけて独自の進化を遂げるだろう。あんたら事業家は、実利に結びつかないものは何でも『無駄』『無益』と切り捨てるが、アステリアの本当の価値が分かるのは、あんたの会社が潰れて、人類が滅び去ったその後だ」

彼がしたり顔で言い切ると、アルは初めて作戦タイムを取った。次から次に屁理屈ばかり並べて、どこまで意固地な奴なのか。(お前の青臭い哲学などたかが知れとるわ)と頭上から一喝したい気もするが、相手は息子ほど年の離れた若造だ。ムキになるのも大人げない。

アルはすっかり冷めた紅茶を飲み干すと、

「なるほど。君が非常に優秀で、見識の高い人間だということはよく解った。わしが君の直属の上司なら、一も二もなく、年を食っただけのパイロットの方を切っただろう。まあ、君とわしとどちらが正しいかは十億年後に判る話だ。それまでお互い長生きできればいいが。とりあえず、コンサルト料は支払うとしよう。小切手で十万エルクだ。どこの銀行でも換金してくれる。うちに来てくれたら、この三倍は保障するが、その気がないなら残念だ。誰か他を当たるとしよう」

アルは背広のポケットから小切手のシートを取り出すと、万年筆で約束の金額を書き込み、テーブルの上に置いた。

彼はしばらくそっぽを向いていたが、ちらとテーブルを見やると、十万エルクの小切手にそろそろと手を伸ばした。

その刹那、アルは小切手を掴み取り、

「お前も犬と一緒だな。たいした信念もないくせに、屁理屈だけは超一流。頭を撫でられ、餌を与えられたら、尻尾フリフリ付いてくる。お前も本音は海に帰りたい、でも新しい海で役立たずの烙印を押されるのは怖い。水深6000メートルの海溝を潜航し、熱水噴出孔の側で堆積物をサンプリングする技能はあっても、揚鉱管の状態を観察したり、集鉱機のスイッチを入れるのは怖いという訳だ。それでこの先もトレーラー暮らしか。随分くだらんプライドだな」

にわかに彼の顔付きが変わった。

「いったいお前は何の為に海洋学を学び、特殊な技能を身につけたんだ?その場その場で命じられたことをやるだけの飼い犬根性が君の正体か。たった一度の失敗で逃げ出すぐらいなら、最初から再建コンペなど身の程知らずな真似をしなければよかったんだ。今も未練たらしく『水を治めるアーカイブ』など公開して、誰にも必要とされないアイデアにしがみついている。わしならお前が一番やりたいことを明日にも形にしてやるぞ。カネと人を集めてな」

すると、彼は思わず腰を浮かし、

「あんたに何が分かる? 一方的に踏みつけられる悔しさを一度でも経験したことがあるのか?俺にはカネもコネも何もない。ただ自分という人間があるだけだ。それでも必死に積み上げてきた。あんたみたいに、金も力も手にした人間から見れば、俺など惨めな負け犬にしか見えないだろう。それでも一つだけ世界に誇れるものがある。それが『水を治める技術のアーカイブ』だ。あの中には洪水で家も家族も無くして、今も苦しんでいる人々の願いがいっぱいに詰まってる。大勢が故郷再建の望みを託して、無償で知識やアイデアを提供してくれた。たとえ俺が屑みたいな人間でも、その価値は変わらない。あんたは『水を治める技術のアーカイブは幾らで売ってくれる』と訊いたが、たとえ明日飢え死にしても、俺は絶対に売らない。百億積まれてもお断りだ。あんたみたいに生まれながらに何でも持ってる人間に、俺の悔しさなど絶対に分からない」

「わしが『生まれながらに何でも持っている』だと?では、アステリアに来るといい。札束だけで船が造れるか。鋼材さえあれば、採鉱プラットフォームが建設できるのか。カネと権力さえあれば何でも出来ると思い込んでいるなら、それこそ井の中の蛙だ。今お前がわしと同じ地位と資本を手にしたところで、人ひとり動かせまい。お前が本気でアイデアを形にしたいと願うなら、どんな事をしてもやり遂げようとするはずだ。百億の資本が無くとも、砂浜に一本の杭を打つところから始めるだろう。だが、お前は逃げ出した。もっと粘れば何とかなったものを、ヤケクソで宇宙船に飛び乗って、挙げ句の果てが不法滞在で逮捕だ。それでもまだ意固地になって、母親に助けも求めず、荒野で野垂れ死ぬのが格好いいと思い込んでいる。だが、そんなものは心の強さでも何でもない。負け犬が最後の痩せ我慢でワンワン吠えているだけの話だ。だから、わしがお前のアイデアを買おうと言っている。わしならお前の胸の底に沈んだアイデアを形にして、社会に活かすことができる。『水を治める技術のアーカイブ』も、きっとアステリアの役に立つだろう。お前みたいな腰抜けが後生大事に持っていても、一銭の価値にもなりはしない。何があったかは知らないが、出来ないことを言い訳するな。途中で投げ出したのも己なら、皆を失望させたのも己だろう」

彼は唇を噛んで横を向き、目には悔し涙が浮かんでいる。

そりゃ、そうだ――とアルは思う。

人間、真摯なほど悔しいものだ。こんな時に乙に澄ましたり、笑いで誤魔化すような人間をアルは決して信用しない。

「お前は十万で飼うには惜しい男だ。もっといろいろ話してみたい気もする。海が好きなんだろう?だったら、もう一度、生き直すつもりで、その希有な技能をアステリアで活かしてみないか?意地を張ってこんなトレーラー暮らしを続けても、何の得にもなりはしまい。わしがこうしてお前の目の前に現れたのも、いまだに海と臍の緒で繋がれている証しだと思わんか?お前の負い目は海でしか返せない。それが運命だ。歴史に名を残したくないか、ヴァルター?」

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